ささやかな秘め事は、指先分

うららかな陽射しの注ぐ、城下町。大国《魏》の君主たる曹操の膝元であるため、絢爛な造りの建築物や城門が立ち並び、大通りは店と人々で賑わう。商人なども露天に店を出し、商売に励む。陽が真上に差し掛かる頃は、一層人々も活発に行き交うものだった。
だが同時に、大きな国というものは無法者の姿も決して少なくはない。
そしてこの日は、城下町で少々厄介なことが勃発していた。


大通りの和やかな賑わいは、不穏なざわつきへと変化し、徐々に拡散して一層強める。陽射しを受ける桃の花から、落ちていく花びらだけが空気を読まず穏やかであった。
大通りに面した、とある雑貨店の前には囲むように人だかりが出来ている。固唾を飲み、事態を不安げに見守る人々の眼差しが向かう先の延長上にいる、典韋もまた同じようにうろたえていた一人だった。
身内が見れば、「あの典韋が」と思うところであるだろう。古の豪傑《悪来》の再臨とまでいわしめた武勇ある将軍で、魏王・曹操の側近でもあり、信頼も厚い。一般人にはない恵まれた筋骨隆々とした体格を持っていて、外見だけですでに人を遠のかせるほどのその彼が、この瞬間は滑稽なほどうろたえているのだ。それどころか、後ろの兵達の方が「典韋様、お気を確かに!」「大丈夫ですから!」と慰めているくらいだ。
そんな言葉も、典韋の動揺を鎮めることは出来ない。

動揺に暮れる典韋の先には、雑貨店の前で物騒な剣を持ちながら喚き散らす男がいる。いい身なりとは言いがたく、人相も僅かばかりやさぐれている。
「動くな、全員動くな!」と状況に錯乱しているようでもあるが、多分もっともこの場で錯乱しているのは典韋の方だ。
男のもう片方の腕には、蒼い女官衣装をまとった華奢ながら豊かな肉体を持つ女をがっしりと押さえて時おり剣先を向けられているのだ。

典韋がうろたえる要因は、むしろその女だった。
曹操自ら気に入って、女官兼緊急時護衛兵なんてけったいな役職に任命された、。あのいかつい典韋を、うろたえさせた女である。
別に人相がおっかないとか、とんでもなく性格が悪いとか、そんなことはなく、むしろ経歴にも関わらずとても家庭的な温かい人柄で、職務にも狂喜し励む実直さもある。要するに、典韋にとっては異性の意味を含んで好感を持っている人物なのだ。大慌てなのも、無理ないのだが……。
その当の本人は、典韋と正反対に非常に冷静で、落ち着いていた。いつもの飾らない笑顔をこっそり浮かべて「大丈夫ですから」と言っている。

「だ、大丈夫じゃねえだろ!」
「典韋様、しっかり!」

もはや、混沌とした昼下がりである。


――――― この事態を説明すると、数時間前に遡る。
一日毎に交替で行われる、城下町と周辺の警邏 ( けいら )。見回りであるが、この日の持ち回りとなった典韋は、慣れたように数人の兵と共に城下町へ向かうことにした。だが、この日は普段とは少々異なっていた。というのも、さあ出発しようかと城門のところにやって来た時、またどういうわけかあの蝶々……じゃなかった、張コウが奇妙なステップ踏みながら現れた。悪い奴ではないと分かっているが、独特すぎて少々口の引きつる典韋ではあったものの、その彼の隣に立つの姿を真っ先に視界に入れ心臓が飛び跳ねた。 ( 張コウは一瞬にして除外 ) 申し訳なさそうにしているその表情も、やけに目を留めてくる。隣にいる人物が人物なだけあって、強めるのかもしれない。
何故か張コウはを大層気に入っていて、自分の専属女官でありお化粧係であるなどと自称しては、言いふらして回っている。( もちろんそんなこと認めた覚えのない曹操と夏候惇、張遼が全力で否定している ) それもあって、二人で何処かに向かうのかと思ったのだが、張コウは典韋を呼び止めると唐突に「もお連れ下さい」などと言った。戦場でも表情を崩さない典韋が、ある意味ド肝抜かされた瞬間である。何故、と尋ねる前に張コウは滑らかな口調で言った。

に、お使いを頼んだのです。私のお気に入りの化粧品の買え置きと、新作の紅の調達を」

そんなもん自分で買いに行け。
と言いたくなったが、それを口にすると面倒な言葉を返されそうなため黙る。

「ですから将軍、是非をお連れ下さい」
「な、何でわしが」
「……おや、お嫌だったのですか?」

典韋は、ハッと隣のを見る。ただでさえ申し訳なさそうにしていた彼女が、みるみるしょんぼりとしていくではないか。別に彼女にそんな顔をさせるつもりではなく、と言葉を探す傍らで張コウが「ああ、なんて酷い! 美しさに欠けます!」などと大振りな仕草で言っている。お前ちょっと黙ってろ、と思ったのは言うまでもない。

「べ、別にわしは嫌とは言ってねえ。な、、だからそんな顔すんな、な?」

頭4つは余裕で飛びぬけている背丈を、折り曲げながら言う典韋の背後では、兵達が顔を見合わせて「典韋様は、さんが……?」などと囁いているが本人は気付かない。

「すみません、あの、私が『城下町ってそういえばあまり行ったことがないです』なんて言ってしまったばっかりに……。警邏にお出になる典韋様に、ご迷惑を……」

ほとんど聞き取れないような小さな声だった。「わ、分かった、分かったから。張コウの思いつきだろ、分かったからよ」となだめる。まあ失敬な、と声が聞こえるが、無視。
まあともかく数分後、元気な張コウから見送られ、警邏に向かう典韋らとそれに混じるは城門をくぐって行った。その肩が妙に下がっていたけれど、恐らく気のせいではない。


「……本当に、すみませんでした」

トボトボと、後ろをついていくは消えてしまいたかった。警邏という、重要な職務について化粧品のお使いなど、申し訳なさ倍増である。いや、決して張コウのことを否定するわけではない、が、どうもあの方はとてもマイペースで自分のリズムを乱すことは決してない。女官となって数ヶ月……身の回りの人物たちを理解し始めたために、典韋にはとにかく謝るしかない。
彼は、粗忽なように見えて不器用ながら人を気遣う性分だ。今も、「別におめえが悪いんじゃねえんだから、な」と言っている。

「すみません……」
「大丈夫ですよ、典韋様は怒ってないですから」
さんも、一緒に行きましょ。それで、張コウ様のお使いも済ませましょうよ」

を囲むように、兵たちがそう言って背中を押す。典韋の方へ、グイグイと。
……何だか別の意味も含まれているような、そんな奇妙な感覚を覚えた。が、邪魔にならないようにと身を縮めて、その隣へと恐る恐る並ぶ。典韋は、一瞬だけ肩を揺らしたが、言葉を探しつつ、ぎこちなく口を開いた。

「あー、そんな顔すんな。別に、わしは嫌とは言ってねえんだから」
「そうなんですけれど、でも……」
「良いってんだ、気にすんな」

典韋は自分なりに笑ってみたが、上手くいったかどうか分からなかった。が、見上げてくるの頬には、はにかんだような笑みが浮かんでいたため安堵する。
……それはそうと、先ほどから妙に気になることがある。警邏につく兵たちが、後ろから妙に温かい視線を寄越してくるのだが。「典韋様、さすがです!」とか「俺達には構わず!」とか、よく分からない気遣いをしてくる。一体何なのだろうか。

……しかし。

( 困った、何を話しゃ良いんだ )

まさかの、事態である。別にが悪いだとかそういう意味ではなく、予想外のことで。
これが、何ら関わりのない女であれば。そう親しくはないものであれば。こうも慌てることはない。
……豪傑が情けないと言われるやもしれないが、それほど彼にとっては―――――。

「で、あー、張コウから頼まれたのがあるのは、どの店だ」
「え、そんな、典韋様は警邏のお仕事があるのですから! 買い物くらい、私一人で」

パタパタと手を振ったの後ろで、兵たちが急に「一緒で大丈夫ですから!」と声を上げる。お前達は一体どうしたのかと典韋が驚いていても、気にせずプッシュしている。

「でも……」
「警邏の途中で、そのお使いのお店に行けば良いですから」
「せっかく城下町に来られたんですから、ね! ね、典韋様?!」

バッと向いた兵達の目が。
いやにキラキラしていたのは気のせいだろうか。
「お、お、おう」とその気迫に押され、思わず声が出たが、そうすると一層は申し訳なさそうにしたけれど、はにかんで「ありがとうございます」と、その優しい声で言った。
……赤面しそうになったが、街中でそれは恥ずかしすぎるため、必死にこらえた。

「それに私、兵としての役目もございますし! 警邏のお手伝いにむしろなるかもしれませんしね」

の言葉は、典韋に届いていなかった。



――――― そして、大きな城門をくぐり、踏み込んだ城下町。
は、完全におのぼりさんになりそうだった。城の内装や造りにも感動したのに、城下町もこのような美しさとは。
人で賑わう大通り、露天と店先から飛び交う活気ある声、笑い声響く空気に舞う桃の花。
女官として奉公にやって来る時も、城から見つめた時も、確かに美しいと思っていたが、実際に肌で感じるものとは異なる。こうやって歩いて見る城下町は、地方の生まれの自分には眩し過ぎるくらいであった。
一瞬、何故自分がここにやって来たのか忘れそうになり、慌てて意識を戻した。張コウの、魏の国の将軍のおつかいにやって来たのだ、そのお店を探さないと。

「珍しいものでも、あったか?」

典韋の問いかけに、は彼を見上げて笑った。

「何だかもう、城下町の風景だけで見惚れちゃって。田舎者には、胸が一杯になります」

典韋はぎこちないながらも笑みを返し、歩き始める。もそれに習い、半歩後ろを歩く。
すれ違う人々が、頭を下げたり、礼をしたりする。商人などは、「どうぞ見てって下さい」と笑みを深める。それは、やはり彼が国を守る将軍とし認知され、そして高みに立っているという裏づけの他ない。荒れくれ者そうな外見であっても、人々はしっかり理解し敬意を表している。

「やっぱり、典韋様は凄い方なんですね」
「あ? 何でぇ急に」
「こうやって、皆から尊敬されて」

が言うと、典韋は気恥ずかしそうに後ろ頭を掻き、「別に、そういうのじゃねえよ」とぶっきらぼうに言った。

「俺は別に何もしてねえし、曹操様を守ることが当然だって思ってる。こう、むず痒くてそういうのは性に合わねえや」

素っ気無い言い方だが、その節々からは典韋らしい飾りっけのなさが感じ取れる。変に繕わない言葉は、もしかしたら荒っぽいと取られることもあるかもしれないが、むしろそれこそ典韋によく似合う。
きっとそういう方だから、慕われるんだわ。
その側に並び立てることを誇りに思いながらも、は僅かな寂しさも感じた。

「――――― あ! あれです、張コウ様が言っていたお店!」

視界に映った、屋根つきの平台が入り口に並ぶ、雑貨店。他の店などと異なり、優雅な建造物で、異彩をも放っている。
張コウから持たされた地図を再確認し、再度店を見る。うん、あれで間違いない。
は典韋の隣に並び、礼をする。

「ご同行させて頂いて、ありがとうございました」
「お、お、おう」

典韋は片手を軽く上げた。うかがっていた兵達がまたもニョッと顔を出し、「……待っていましょうか?」と呟く。だが、さすがにそれは職務の妨げになるため、はゆるりと首を振る。

「大丈夫です、お化粧品を買うだけですし。典韋様たちは、警邏のお仕事がございますから。気にしないで下さい」

典韋は、しばし口を閉ざしたが。まるで意を決したように、大きく息を吸い込んだ。

「その、何だ、俺たちはこの辺にいるから」
「はい」
「な、何かあったら呼べ」

ああ、もっと上手く言えれば良いのに。これではまるで、命令のようだ。
人知れず典韋は壁を殴りたくなったが、見上げているは嬉しそうに目を細める。「はい」とその柔らかい声音で返事をされたものだから、典韋は足早に去った。それを見送った後、も店へと向かう。
やっぱりあの人は、不器用に優しいと思った。地位も低い女官である自分にも、ああ言ってくれるのだから。
さて、おつかいを早く済ませて戻らないと。は意気揚々と店に踏み入れたのだが、その陳列されている化粧品の数々に目を奪われてしまう。道場の女離れした生活もあって、こういったいかにも女性用品というのは憧れである。それなりに化粧もしてみたりはするが……さっぱりと終わらせるのがほとんどだ。……あの日々もあって、すっかり神聖化されている思考に、は苦く笑う。
私も、こんな風に使いこなして綺麗に出来れば良いのに。
そう思った矢先、何故か典韋が浮かんでしまい、慌てて振り払う。
ともかく、おつかいである。何が何だか分からないため、張コウのメモを片手に店主と思しき中年女性を捕まえて揃えてもらった。すっかりお得意様になっているようで張コウの名が出た瞬間、オマケまでつけてくれるという優遇ぶり。
そして、店主のセールストークとおすすめ美容法なんか聞いていたら、ついつい話し込んでしまった。

――――― その時、背後で人の気配がした。
きっと客なのだろうと、と店主は振り返った。だが、入り口に佇んでいたのは、この内装も美しい雑貨店には少々不釣合いな、男性だった。もちろんこれは失礼な偏見だとは「私は、これで失礼します」と頭を下げる。店主も礼をすると、その男性へと歩み寄った。
色んな客層があるんだなーと、のんびり思っていたのだが、男性の隣を通り過ぎる間際、悪寒のようなものがザッと走った。それは、恐らく道場暮らしで培った感覚が、訴える危機なのだろう。ハッと、男性を見やり、力なく下げられている手へと視線を下ろす。そこに握り締められている《もの》を見つけ、は息を飲んだ。
店主があと数歩で近付こうとした、それを遮り、は腕を伸ばす。

「――――― 待って、危ない!」

店主は驚いた声を漏らし、足を止めた。
その瞬間、男性は握り締めていた《もの》を振り上げた。もう片方の腕をに伸ばすと、思い切り引き寄せて抱き込む。

「じょ、嬢ちゃん?!」

むっと鼻につく臭いがし、は眉をひそめるが。
喉もとに、冷たい感触が触れる。背筋の悪寒が増したが、は冷静に事態を飲み込む。
男性が持っていたのは、簡素な剣だった。何処かから盗んできたのだろう。そう高価なものではなかったが、人の命を奪うには十分な冷酷な刃を持っていて、それがに突きつけられていた。

「この店の、金目のものを全部出せ!」

まさかの、白昼堂々の物盗りである。
そして、本来は店主であるはずだった人質役は、になってしまったのだった。



――――― 一方、その頃の典韋はというと。

「おめえらはさっきから、何なんだ?!」
「す、すみません!」

あれこれと変な気を回す、兵達を叱り付けていた。まあ、あそこまで分かりやすく背を押す真似されては、気付かないわけがない。
ただでさえ強面の典韋、凄みをつけると一層恐ろしくなり、兵達は萎縮する。

「だって、さんと一緒の方が良いかと思って……」
「せっかく、外に来たから……」

だから何故、と思った典韋だったが、「ん?」と止まる。

「わしが、と一緒の方が良い?」
「え、はい。だって、将軍は……」

言いかけた若い青年の兵を、別の兵が慌てて止めた。「馬鹿、本人に言ったら意味ないだろ! こんな往来で言うことじゃないし、気付いていないフリしてやるのが男だろう」

……話が、見えない。典韋を置き去りにされて進んでいるらしい彼らの会話に、ついていけない。

と一緒?

いや別に、嫌ではなく、むしろ好ましいくらいであるが、ここで何故それが出るのか。
なんて本人はよく理解していないが、典韋のその感情がに対する異性の意味での好意であり、それはしっかり兵達に筒抜けであるということなのだが、この武術一本の男に気付けというのは難しい話である。

「ともかく、おめえら訳分からんことしてないで、ちゃんと見回りの仕事を―――――」

その時、典韋らの背後で悲鳴が弾けた。
年配な、女性の声だった。それをきっかけにし、空気が様相を変え不穏にざわつき始める。
会話を打ち切り、「行くぞ」と典韋は身を翻して駆け足で向かう。その後ろを、兵達も急ぎ着いていく。
囲むように、一つの店の前で人だかりがすでに出来上がっていて、典韋はそれを押しのけるように進んだ。最前列を越えた時、店の前で男が物騒な剣を振り回しているのを見つける。身なりはそう良くはない、この都市でも見受けられない服装からして、近隣の山村かあるいは他国からの流浪者だろう。大きな都市は豊かであるが、同時にそれに目をつける無法者も少なくないのだ。だから典韋らが警邏に出るわけだが、しかし彼はカチンッと硬直した。男にではない、その男の腕に捕らえられている、人物にだ。

「――――― ?!」

つい先ほど別れた、女官。いっそ別の人物であれば、典韋は持ち前の強面と腕っ節の強さでパパッと片付けていたのだが。
彼女の喉元に剣の切っ先を突きつけられると、動くに動けない。傷がついたら、どうするのだ。

うろたえ始めた典韋に気付き、は申し訳なさそうに眉を下げ、ただ短く。

「ご面倒を起こして、すみません」

それだけ言った。

「いやおめえ、すみませんじゃなくて……! な、何で、そんな」
「典韋様、大丈夫ですから!」

店の前で剣を振り回す、無法者と思しき男。
それに捕らわれた、人質の女官。
うろたえる警邏担当の、将軍。
かくして役者と舞台の揃った騒動勃発の昼下がりは、混沌と化す。


――――― そして、冒頭に戻るわけであった。


「ぜ、全員、動くな、動くんじゃねえ!」

錯乱しているのか、慌しく剣を振り回すこの男。捕まえたの喉もとに剣先を突きつけたりするが、むしろそれだけで肌が切れそうだった。
そのたびに、様子をうかがい集まった人々からは困惑の声がザワザワと漏れて、時おり男をなだめる声も飛び交った。が、かれこれ数十分と、この硬直状態である。
その間、幾つか分かったのだが、この男はどうやら白昼堂々と物取りにやって来たようで、も居合わせた雑貨店に踏み入れた。当初は恐らく、店主を人質にしようと思ったのだろうが、が割って入ったがため人質バトンタッチになった。魏の者ではなく、他国から流れてきた者らしく、貧しさからこのようなことをしてしまったのだろう。
は男に捕らえられながら、割と冷静に事態を見つめていた。道場暮らしで、喧騒には慣れてしまったからかもしれない。なにせ、道場破りを狙う者たち、はたまた町のならず者の相手など、頼み込まれたことが多くなかったのだ。
しかし、申し訳ない限りだ……幾ら警邏の職務とはいえ、君主に仕える者が面倒を起こしてしまうなんて。

典韋様、ごめんなさい。

胸中呟く言葉は、そればかりである。

「典韋様、あの」
「い、いいから、動くな!」

……しかし、うろたえ過ぎじゃないだろうか。
普段の典韋も、不器用ではあるが、戦いともなればさすが曹操より重宝されている豪傑だけあるのだが……その迫力がない。どうしてしまったのだろうか、とは思っているが、その彼女のせいで迫力に欠けていたりする。
いつもならば、そりゃあ典韋だって「オラァ!」と頭突きをかますところだ。しかし、しかしだ、人質がちょっと気になる女性であれば、足踏みをするだろう、誰だって。怪我をされたら困るし、かといってこの状況が続くのも安心出来ない。まるで少年のような葛藤を繰り返す典韋を、が理解してくれたらどれほど楽だろう。
そんな心情の察し合いなど、それこそこの物取りの男が理解すべきであるが。

「嬢ちゃんを離して!」
「ぜ、全員動くな、金目のものを持ってこい!」

興奮し、冷静さを欠いていることは目に見えて取れる。だがその異様な気迫に、のかばった女店主は委縮する。
困り果て、典韋へ助けを求めるも、その典韋もどうしようと考え込んでいた。僅かに動いてみただけで、異様な反応をし、剣を握った手はの喉で危うく揺れる。はっきり言って、怖すぎる。捕まえることは容易だが、に掠って傷でもついたらどうする。
脳裏によぎる、張コウがやかましくふれ回るのだろうが……。

( 困った、わしぁ一体…… )

頭突き一つで終わりそうだが、しかし。
典韋がそう考えていると、最も冷静なは、男を横目で見つつ、隙を窺っていた。

「典韋様、私は大丈夫ですから」
「だから、おめえ……!」

「う、動くな!」

剣が、振りかぶられる。一斉に悲鳴が上がり、典韋はハッと足を踏み出した。
だが、は、「大丈夫です」と綺麗に微笑んで見せる。危機など微塵も感じていない、穏やかな笑みだった。それは場違いでもあり、けれど美しくもあった。

そして。

「私は、女官ですけれども―――――」

の細い手が、男の腕を強くガシリと掴む。 その細さに反した力に、男は怯み動きを止める。
穏やかな瞳に鋭い眼光が走り、素早く身体を捻る。そして次の瞬間には。

「護衛兵でも、ございますから」

――― 男が軽々と宙へ舞い、地面に放り投げられた。
ドンッと鈍い音が響き仰向けに叩きつけられたところへ、の白い足の脛が無防備な胸へと落ち、身体を座らせ圧し掛かる。男の手から剣を離すと、その腕を捻りながらグッと脇へ固定する。
あまりの鮮やかな手さばきに、ざわついた観衆は静まり返り、そして先ほどとは打って変わり歓声が上がった。
「嬢ちゃんすげえ!」と拍手する者たちが多い中、典韋はというと終始固まったままであった。手馴れた動きに呆気に捕らわれていたこともあるが、急に思い出してしまったからでもある。

最近は、忘れていたけれど。
そういえば彼女は、百人組み手の女だった。( 不本意な覚えられ方 )

は、とりあえず典韋の部下である兵たちへ男の身柄を渡すように退く。ふう、と息を吐いた時、歓声が自分に向いていることにようやく気付き、恥ずかしさに肩を狭めた。
そして、慌てて歩み寄ってくる典韋を見上げる。ご面倒起こしてすみません、と謝るつもりだったのだが、それを遮って典韋がやや強い声音で言った。

「ば、馬鹿野郎!」

はびっくりして、目を丸くし肩を跳ねさせた。
見れば、典韋の表情は強張っていて、怒りとも見受けられるほどだ。ああ、やはり迷惑をかけてしまったことを怒っているのだ。それはそうだ、化粧品の買い物に着いてきた女官ごときが面倒を起こした挙句投げ飛ばしたなんて、将軍の面目丸潰れだ。彼の誇りを貶してしまったのだ。
は見る見るしょんぼりと肩を落とし、俯いた。

「申し訳ございません……余計なこと、してしまって。でも私、兵としての役目も仰せつかってましたから」

言い訳じみた言葉を告げれば、「そうじゃねえだろ!」と怒られた。
そういえば、この人物から叱られたのは初めてかもしれない。見た目に寄らず不器用な穏やかな人とばかり思っていたから……そこまで怒るということは、よほど気に喰わなかったのだろう。

「おめえ……だから……あーったく!」

丸剃りした頭を、ガシガシと片手で掻く。はビクッと逐一反応し、申し訳なさげに視線を伏せる。

「あ、あんま無理すんじゃねえ! おめえは女だろが!」
「でも、あの、私……」

観衆の視線が、今度はと典韋へ集まる。ただ物取りの男の「放せ!」と元気に暴れる声だけが相変わらず聞こえた。
どうやったら、彼の怒りを宥められるだろうか……。戻ったら、始末書の一つや二つを書けば少しは改善できるのだろうか。などと、がオロオロとしていると。
典韋が、「だから、」と強く言った。

「あ、危ねえだろ! いくらお前が道場の娘であっても」

は、「え?」と顔を上げる。屈強な胸や首筋を上がり、勇ましい顔を視界に入れれば、怒っている……というより酷くうろたえ複雑な表情になった彼と視線がぶつかる。
今度はが困惑していると、彼はその声量を下げることなく、言い放った。


「――――― おめえに何かあったら、わしはどうすれば良い!」


は、目を見開く。
男を捕らえていた兵たちも見開く。
自然と見てしまっていた観衆も、雑貨店の女店主も、息を飲んだ。
そして、言ってしまった典韋も我に返り、「あ」と自分が何を口走ったのか気付く。

別の意味で、静寂に満ちた城下町大通り。
その中で聞こえたのはやはり、物取りの男の元気な声だったが。

「さすがです、典韋様!」
「男らしい!」

嬉しそうに笑う部下の兵たちの声も、混じっていた。

どういう意味なのか理解し始めたと、口走ってしまった無意識の言葉より感情を確認した典韋は、顔を見合わせたまま真っ赤に染まった。



――――― その後、典韋やのもとへやってくるのは、その噂話ばかりであった。
「大衆の面前で愛を叫んだというのは本当か」など、「物取りを捕らえるところを女を捕らえたとか」など、情報が誇大化し事実無根の恥ずかしい出来事になっていた。半分事実、半分偽りが、こうも生々しく広がるものなのか。
静かに「違う」と否定した二人であったが、この男の言い分にだけは全否定した。

「大衆の面前でを襲ったというのは本当ですか、将軍!」

OH! なんて美しくない! 私のお化粧係に!
大げさに手を額へかざし、要らぬステップつきで、典韋の神経を逆撫でるのはこと上手い、張コウである。
むしろ嫌な広がり方をしていったのは、この人物のせいではないかと、典韋はもちろんこっそりとも思ってしまった。決して口には出せないけれど。

しばしそんな噂話が、事態の中心になった典韋との周囲で流れていたけれど。


「……私は、嫌ではなかったですよ」

あの言葉。
恥ずかしそうに笑ったに、典韋はまたも赤面しそうになった。
不器用な男の、無意識に出た言葉がどのように受け取られたかは……武器しか握ってこなかった太い指へ、重なった白くほんのり赤い指が結果を示していた。



そんな典韋であって欲しい。( 願望 )
私が彼に求めているものは、少々乙女チックであることは否定のしようがないと思う。

2011.11.21