訳もなく、溢れ出す

書簡の上をサラサラと走る筆は、流麗な文字を描いていく。文字というよりも、もはや一つの作品のようにも見えた。それらには書き手の性格などがうかがえるというが、飄々としたものを持つこの人物に似合う、乱れはないけれど重苦しさのない読みやすさは深く納得出来る。
こんな風に、綺麗な字を書いてみたいものだ。
は、思わずじいっと見つめてしまい、しばし瞬きすら忘れていた。
ただ、もちろんその書簡は、現在も書き進められているため、書き手であるその人物は肩を揺らして笑い声を漏らす。

「お前さん、なーにを一生懸命見ているんだい?」

こもった笑い声に、はようやく「あ」と気付いて顔を上げた。そしてついでに、自分が今茶の用意をしていたことにも気付き、血の気が一瞬で引く。
書簡の広げられた机に座る、その人物……ホウ統の笑うように細められた眼差しを受ける中、は「申し訳ありません!」と慌てて頭を下げる。ホウ統は「いいよいいよ」とおかしそうに笑っていたが、は大失態だったと頭を上げられない。
厚手の白い衣を着込み、頭部を布で覆った身なり、そして褪せた深緑色の手袋をつけていて、一見するとほっこりした印象を受けるが、臥龍と称される軍師である諸葛亮と並ぶ名軍師のホウ統。鳳雛と呼ばれる彼とは、一介の女官であるの差など考えるまでも無い。
けれど、ホウ統は気にもしていないようで、「顔を上げたらどうだい」と笑みを湛えたままだった。特徴的なゆったりした口調と、掴みどころの無い飄々とした声音に、はそろりと顔を上げる。怒った様子のない、ホウ統の笑う瞳が見えた。

「別に悪いわけじゃあないんだよ、さん。あんまり熱心に見ているもんだから、面白くてねえ」
「す、すみません」

は慌てて用意してきた茶と菓子を、机の隅へと置いた。ホウ統は「休憩にしようかねえ」と言うと、温かい茶をそっと持ち上げる。

「そういや、お前さんここの生活には慣れたかい?」
「はい。ホウ統様や、他の皆様方にも良くして頂いて、ご迷惑にならないところにまできました」
「そりゃあ良い。お前さん最初、迷子になっていたからねえ」

はやや顔を俯かせると、「お、覚えてらっしゃいましたか」と小さく漏らす。ホウ統は口元まで覆っていた布をずらし、茶器に口をつける。「慌てぶりが面白かったからね、今も覚えているよ」と言うホウ統に、はますます恥ずかしそうにした。
女官試験に合格し奉公を始めた当初は、城内の複雑な造りとあまりの広さに迷子になることがたびたび発生していた。両親が武将で実家が道場で、その子どもとして生まれた自分は女にあるまじき生活を送り、幼少時代のあだ名は《調教師》であったけれど、庶民。女官なんだか兵なんだか分からない待遇だけれど、庶民。教えられてもそうすぐ覚えられることではない。まるで世界が違うのだから。何度も泣きそうになって向かうべき先ではなく、人を探すなんてすり替わることもあった。
その時に、ホウ統に救われたことがあり、それを機に何かと良くしてくれた。
――――― あれから、数ヶ月……今では何とか城内の配置図を覚えるに至ったが、その時の記憶は本当に恥ずかしい。

「あ、あの、ホウ統様が今書いてらっしゃるのは……?」
「んんー? これかい?」

ホウ統は、茶器を置くと口元を再び布で覆う。書簡を手に持ち、「ただの模写だよ」と事もなく言った。

「模写、ですか?」
「そうさね、孫子の格言」
「これ、全部……!?」

凄いです、とは目を輝かせる。ホウ統は苦笑いのように肩をすくめると、「なあに、大したことじゃあない」と言った。がホウ統を見ると、彼はいつもの声音で続ける。

「覚えることと理解するのとは、ちょいと訳が違うからねえ。お前さんも、日々の鍛錬は欠かさないだろう? それとおんなじで、身体の鍛錬が頭に移動しただけさ」

ホウ統は何でもないように、言った。が、は感嘆のため息を漏らしながら、「それでも凄いですよ」と書簡を見つめた。実家の道場に通う、そういった名門の子や両親から学んでいたとは言え、そこまで深く通じているわけでないに《孫子》という単語は聞く程度。やはりこの方は飄々としているけれど、軍師なのだと改めて感じた。
の表情をうかがったホウ統は、彼女へふと尋ねる。

「お前さん、兵法に興味があるのかい?」
「興味というより、憧れと言いますか……これを理解出来る方は凄いなと思いますが」

は、小さく笑みを浮かべる。

「ホウ統様の字が、とても綺麗だなって。先ほどつい見惚れてしまいました」

ホウ統は、珍しく一瞬止まる。布に覆われ唯一見える目が、驚いたように丸くなるが、次の瞬間には可笑しそうに笑った。

「お前さん、本当に面白い子だねえ」
「え、そ、そうでしょうか」
「くっく……諸葛亮の字の方が綺麗だろうに。あっしの字を褒めるとは面白い」
「ほ、褒め……! いえ、そんな恐れ多い……ええと」
「良いよ良いよ、まあ諸葛亮の字は、綺麗過ぎて逆に息が詰まるだろうしねえ。親しめる字というなら、嬉しいことさね」

冗談のように言ったが、は肯定しようにも出来ない。曖昧に頭を揺らし、ただホウ統が気にしていない様子にホッと安堵した。

「私も、このような字が書けたらいいのに」

の呟きを聞きながら、ホウ統は筆を持つ。墨をつけ、再び走らす。すらりすらりと滑らかに、軽く筆先が書簡の上に文字を描いていく。

「そうかねえ、あっしは想像出来るよ」
「何が、でしょうか……?」
「お前さんの字はきっと、そう卑下する必要のないものだってね」

ホウ統の視線は、書簡に下がったままだったが、その笑みを含む特徴的な声音はへと向けられる。不思議そうに佇む傍らで、筆を走らす音が心地良い静寂を生み出す。決して、息苦しくはない、強張った肩もストンと落ちる空気だ。

「今度見せにおいで。きっと思った通りに、綺麗な字だろうから」

飄々とした笑い声に、はようやく意図することに気付いて恐縮する。が、その顔は真っ赤だったため、ホウ統の笑みは深まるばかりだった。



ホウ統先生が大好きです。
後悔はない。

そしてホウ統先生の字はきっと、読みやすい綺麗さ。
諸葛亮先生は、綺麗過ぎて逆に見づらそうなイメージです。生きる明朝体。

そんな、需要のなさそうな夢です。だが満足だ。

2011.03.19