ゆびさき

――――― 人の営みを学べ。
百々目鬼はそう告げられた時、疑問よりも先に嫌悪を抱いた。
何せ、妖魔といえば次元を侵食し混ざり合ったこの世界が出来てより、長らく人間と争ってきた。同じ妖魔の将兵と同じく、百々目鬼の抱いていた争う理由は、遠呂智の意思もある。が、その遠呂智が姿を暗ませた今、彼自身の感情でいうなれば戦いへの本能だけだった。
彼に限らずとも、妖魔であれば恐らく大部分が無条件の嫌悪を抱くところだ。それは理由、理屈で抱くものではなく、感情の中にごく自然に混ぜられたようなもの。
そんな中で、何故自分が人間を学ばなければならないのか。
百々目鬼の疑問が解消される事は無いまま、彼は妖魔の軍より去り、反遠呂智、いや今は反妖蛇軍――人間の陣営にやって来た。
人間から、何を学べというのか。
戦うものとして来たのであれば、成すこともまたそれだ。

――――― それ以外に、何を求めろと。

かつて群れを同じくしたが、今や敵軍に回った妖魔の兵の骸を見下ろす。慣れた血錆の匂い、生温い風、冷たい脳裏。何もかもが平常通りであり、何ら変わる事のない風景だった。変わったのは百々目鬼の立場だけで、後は何ら―――――。

「……下らぬ」

彼は呟き、帰還命令が出るよりも早くに、一人去った。



――――― とある国境の防衛戦へと、反妖蛇軍が向かってから一週間ほどが経過しただろうか。
戦に向かった名立たる将軍たちと精鋭兵が旅立った拠点は、ぽっかりと穴が開いたような少しの虚空感を抱かせる静けさがあった。何も全員が居なくなったわけではないが、寝具の掃除や食膳の洗いを行う時にはそれをいつも感じさせる。ほんの少しだけ、減った仕事量。普段通りに女官の仕事をするの頭上は、落命する炎の軌跡が描かれる漆黒の空が広がっているのに。
桶に溜めた水の中に手を突っ込み、カチャカチャと食器を丁寧に洗う。そういえば、防衛戦には百々目鬼が今回選抜されて加わっていたか、はそれを不意に思い出す。
彼は相変わらず、人々の輪に混ざる事を好まず、一人で過ごす事が多い。も声を掛けるのだが、数回言葉を交わしてくれるが、興味のなさそうな淡白な声音ばかりが返ってくる。なにせ、嫌っている好んでいる云々の話の前に、「どうでもいい」なのだから。物理的な距離もさる事ながら、心の距離もまた一向に近付く気配が無い。

「はあ……何とか、親しくなってみたいな」

先日は、隣に立つ事を許してくれた。多少は、同じ陣営で過ごす者として距離も縮まったと思ったのだが、そこまで思うのは身分に見合わないだろうか。

「っと、食器洗いは終わりね」

ザバッと水を溜めた桶を、流し場に捨てる。汚れを全て洗い落とした食器 を重ねた、別の桶と一緒に持ち上げて厨房のある建物へと戻る。丁寧に棚へと戻す彼女の耳に、ふと外からざわついた声が複数聞こえてくる。も釣られて再び表へと出向くと、陣営に残っている兵たちの後ろ姿が見えた。

「あの、どうかされました?」
「ああ、これは、姐さん!」
「姐さんは止めて下さい」

何故兵たちは自分の事を、姐さんなどと呼ぶのだろうか。甚だ疑問である。かつていた世界の、国のものに言われるのはまだしも、それが伝染するように別世界の日の本の兵からも言われるのは、結構胸に針がブッ刺される。
( つくづく思うが、道場の娘はろくな事がない )
は半ば凍り付いた笑みを浮かべながら、兵たちの言葉に耳を傾ける。

「いや、その、先日に防衛戦に出かけられた将軍たちが居るじゃないですか。まだ本部隊は帰って来ていないのですが」
「百々目鬼様が、一人で帰って来られて」
「え? 百々目鬼様、今戻ってきて居るんですか」

本当に、行動が分からないお方だなあ。は苦笑いをこぼすが、兵たちは互いに顔を見合わせながら、眉を潜める。

「戦が終わった状態そのまま、って感じだったよな」
「ああ、もう返り血ビッシャビシャ。ちょっと、声を掛ける事も出来ないって……あれじゃあ。実際、俺たちの事なんて気にしてないし。やっぱり、妖魔だとあんな感じなのかなあ」

それからほどなくし、戦に出向いていた将軍たちの本隊が、陣営に帰還した。国境の防衛は、見事守り抜き勝利したという吉報に、陣営内は歓喜に湧いた。これでまた、妖蛇に蹂躙された未来が希望で変わっていく、と。
だが、そんな中で囁かれたのは、やはり百々目鬼が一人去った事だった。
アイツは一応、今は反妖蛇軍の将であるが、胸の内がさっぱり分からない。いつ反旗を翻すか、関係が掴めないとこれでは一体信頼すべきかどうかも危うい。
は、彼らに茶を配ったり新しい衣服を届けたりとしながら、百々目鬼への不信感を募らす会話を聞いていたが、やはりその時もやはり彼本人の姿は無かった。



洗い立ての厚手な布を抱えて、は陣営内を駆け回っていた。彼は、一人で居る事を好む。人の気配の多い、陣営の中心地ではなく、もっと郊外に近い場所に居るはずだ。そう思ったの考えは、当たりだった。

「――――― 百々目鬼様」

何をするでもなく佇んでいる後ろ姿は、赤く濡れている事が遠目でもはっかりと分かる。
あやかしの将の、人ならざる気配。もしあるのならば、今この瞬間なのだろう。灰色の肌と人外の肉体の輪郭を見つめつつ、は歩み寄る。

「百々目鬼さ―――――」

瞬間。
の前に、鋭利な爪の生え揃った片手が、ひたりと突きつけられる。
ぞくり、と背を戦慄かせたが、何とか悲鳴は堪えて奥歯を噛みしめた。
よりもずっと遙かに伸びた体躯が、ゆるりと振り返る。兜の向こうから、一つ目の鈍い眼光が浮かび上がり、の頭上で瞬いた。しばし、奇妙な沈黙が続いた後に、百々目鬼の裂けた口元が動く。

「……お前、か」

の姿を認識した時、ようやく百々目鬼の手がの眼前より離れた。
……敵だと、思われたのだろうか。
ゴクリと唾を飲み込むも、緊張感までは腑へ納める事は出来なかった。背を見ただけでは分からなかったが、彼の灰色の肌には相反し鮮やかな赤が不規則に点在していた。生々しく、鈍い光を反射されており、その様はまるで、幽鬼のようであった。

「何用だ……」

声を掛けられるまで、はぼうっとしていた。慌てて意識を戻すと、用件でもある厚手な布をバッと差し出す。「これ、どうぞ!」頭を下げ、ついでに背を曲げて腕を高々と掲げて。
百々目鬼は、しばし黙ってそれを見下ろしていたが、「構うな」と呟く。低く、冷たさを含んで。

「百々目鬼様、ですが……」
「要らぬ」

有無をいわさぬ、声音だった。恐怖というより、気まずさがの肩を後ろへ押す。それでもは、引いてはならぬと言葉を探した。結局、最良の言葉なんて分からず、口を何度も開いたり閉じたりするしかない。
そんな滑稽なを見下ろして、百々目鬼の裂けた口が微かに開く。
血に濡れた銀灰色の兜の向こうで、彼の感情に欠けた眼差しがを穿つ。

「……ふ、これが我の存在理由よ」
「え……?」
「人の営みを学べと言われようと、我は戦いの駒よ。目的を果たしただけだ」

淡々と、彼は告げる。人ならざる妖魔の、幽鬼のような冷たい空気に、はただ立ち尽くす。

「ただそれだけで、人間は何て顔する……貴様等の考えは、分からぬ」

百々目鬼は、視線を逸らしてから離れようと足を一歩進める。
だが、それをは阻むように、彼の前に再び立ち、長身な妖魔の将を見上げる。そして、腕に抱えた布を彼にバサリと掛ける。
百々目鬼の眼差しが、何をしていると鋭さを増す。が、は構わず、丁寧にその生々しい紅の残滓を拭っていく。

「……おい」
「ご無礼であるとは承知ですが、どうかこうさせて下さい」

これが、私の役目でございますので。
そう言ったは、強い眼差しで百々目鬼の視線を返した。
血が通っているのか不思議な、灰色の冷えた肌や、長い手足、鋭い爪。あらゆる部分が、とは異なる存在であると主張しているが、彼女は丁寧に拭って触れていく。
その感触を、百々目鬼は黙って見つめている。興味のない無感情さは変わらず、が丁寧に血を拭っていく行いも、煩わしいのかどうかさえ不明だ。むしろ、面倒だからそのままにさせている、と受け取っても良いかもしれない。
しばしの間、沈黙が流れる。百々目鬼は佇んだままで、はひたすら彼の身体に付着した血を拭き取っていく。
奇妙な空気がひとしきり流れた後に、百々目鬼が抑揚のない声音で呟く。

「……お前は、何故我に構う」

兜の向こうにある、一つ目の煌めきが鈍く瞬いた。
は一度手を止めると、頭三つ分は飛び抜けた長身な百々目鬼を見上げる。そっとその灰色の頬を拭い、ただ一言返す。

「同じ陣営で暮らす人、ですから」

百々目鬼は、いかにも不可解そうに首を捻った。

「同じ陣営で暮らす、か。下らぬ」

……分かってはいたが、何もそこまでばっさりと言い切らずとも良いと思うのだが。
は、苦く笑う。

「……我は、妖魔だ。貴様等、人間とは異なる」
「そう、ですね。でも、私がしたいだけなので、どうか」
「……」

そう言って、は再び手を動かし、百々目鬼の身体に付いた血を拭う。
その優しい力加減が、酷く百々目鬼を戸惑わせた。妖魔の陣営では、他者が相手を気遣う事も無ければ、相手の為に自らの時間を割く事もない。妖魔は大概、あらゆる面において自身の欲求にのみ忠実である。力で屈服された時のみ、付き従う。
この場合、はそれら全てに反している。

それが、人間というものなのだろうか。それとも、彼女の性質なのだろうか。

振り払えるはずのの手を、百々目鬼は払う事が出来なかった。



妖魔の事情って、どんな何でしょうね。オロチは見事に、U☆RO☆O☆BO☆E!
半分くらいは妄想入ってますが、夢主の行動に戸惑ってればいい、と思います。
私にのみ得があるが、他には一切無い、そんな百々目鬼夢。夢といえるのか、この話。
これから、少しずつ甘い話も書いていきたい。

( お題借用:Lump 様 )

2012.07.1