その矛盾はいつか君を奪う

人間は、脆い。
その上、女に至っては貧弱だ。

妖魔という人外の存在である百々目鬼にとって、目の前のは真にそう思わせた。
ちょっと手首を掴んだだけで、その白い肌には百々目鬼の鋭い爪が刺さって呆気なく血が流れてくる。
なんて脆い身体だと、百々目鬼は呆れさえ感じた。彼にとっての《普段通り》も、人間にとっては《予想外》という事なのだろう。
兜の向こうで、口を閉ざして見下ろす彼を、は手首を庇いつつ笑う。じんわりと滲む血は決して少なくはないのに、眉をひそめているのに、何でもないように振舞って。

「ご、ごめんなさい、百々目鬼様。せっかく手伝って下さってるのに、私ったら」

は控えめに手を下ろして、普段の声音で告げる。が、隠すように下げた手の仕草から、《痛み》はくっきりと浮かんでいる。
痛ければ痛いと言えばいいものを。何を強がっているのか。
百々目鬼が無言で見下ろす中、はせっせと落としてしまった洗濯物を拾い上げる。そうして彼女は笑って、何も無かったように振舞う。
甚だ不思議だと、百々目鬼は思って見ていた。
と百々目鬼は二人で居る事が多く、その姿は陣営でもたびたび見られていた。といっても、九割方が歩み寄っているだけで、百々目鬼から誰かの側に行く事はない。奇跡的に、残り一割の気まぐれが発動して、この日は百々目鬼からに近付いた。
だが、干した敷布を取ろうとし爪先立ちになったを支えようとした、その結果。先のように、普通に手首を握ったら爪がブスリ。
彼の武器は、爪のついた小手。が、彼自身の手にもその殺傷力は少なからずないわけではなく、彼にとっての《普通》も、にとっては《一大事》であった。

……なんて事を、この妖魔の将に理解を求めても難しい。先ほどから「脆い」だの「何を強がってる」など思っているのだから、彼自身の非を息をするように滑らかなオールスルー。
が自分の非のように、謝っている事も要因か。
「少しだけ、失礼しますね」彼女は言って、洗濯物を抱えたまま百々目鬼の側を離れた。それをぼんやりと見送って、彼もまた適当な場所へ移動しようとしたのだが。
この日は、百々目鬼の前に、何処からともなく一人の女性が現れた。

「全くもう、百々目鬼! 悪い子だね!」

緑の木の葉が、ふわりと舞い落ちる。百々目鬼は、首を傾げてその女性を見た。
鮮やかな黄色の布地と、腕や足といった部位の惜しげもなく出された素肌と、忍装束としては非常に大胆な格好をしているその人物は、日の本の武将の豊臣秀吉が妻、ねねである。
確かそうだったような、と百々目鬼は思い出していた。意外や彼は、全員とまではいかずとも半分くらいは人の顔と名を一致させて覚えていた。
だがその彼女が、面と向かって百々目鬼に物申すのは……初めての事であった。
彼は相変わらず、声の調子に抑揚のない低さで「何だ」と呟くと、ねねは対照的にプンプンと怒る。年齢のわりに非常に若々しく溌剌としているのは、こういった仕草なども要因なのだろう。

「何だ、じゃないよ。全くもう、が可哀想じゃない」

普段の百々目鬼であれば、いかにも興味無さそうにさっさとすり抜けるのだが、この日は不思議な事に、ねねの言い分に無意識の内に付き合っていた。
「……かわいそう?」長身な百々目鬼の真正面で、ねねは力強く頷いた。

「そう、可哀想だよ。が」
「……何故」
は、とっても良い子だから言わないけど、百々目鬼には圧倒的に相手への気遣いが足りないよ」

……気遣い?
初めて耳にしたような、響きだった。一層首を傾げる彼の前で、ねねは諭すように続ける。

は、綺麗な子だけど逞しいよ。でも、女の子には変わらないの、手首を傷つけたら可哀想だよ」
「……それは、人間が脆弱なだけだ」
「ほら、それよ!」

ねねのほっそりした指が、ピッと百々目鬼の前に突きつけられる。

が悪い、みたいな言い方は駄目よ。百々目鬼がもっと優しくしていれば、が痛い思いをしなかったんだから」
「我の、せいだと」

ねねは、声音を和らげると「誰かのせいとかじゃなくて、百々目鬼がもっと優しければ良いね、っていう話だよ」と笑った。

「ちょっと見てたけど、を支えてあげようとしたんでしょ? それはとっても良い事だよ。だから、それがもっと上手く伝わるようにならないとね」

にこり、と微笑むねねに、百々目鬼は沈黙のみを返す。
気遣う? 優しくなる? 一体何を言っているのだ、この女は。
百々目鬼の冷淡でもある心が、ムカムカとささくれる。そんな生温い言葉と行動など、一切必要でないと思っている彼にとって、ねねの言い分など意味が全く通じない。
付き合う必要は無かったな、と彼は兜の向こうで一つ目を細めたが、次いで出て来る彼女の言葉に、思わず動きが止まった。

も、嬉しいと思ってくれるよ。絶対」



その日、陣営には不可解な光景が見られた。
災いの前触れを目撃したかのように、将軍たちが口々に声を潜めて「一体何をしているのだろう」と不思議がった。いや、気味悪がったかもしれない。

パチ、パキ。
地面へ胡坐をかき、背を丸めて座り込んている百々目鬼が、自らの手元で何か作業をしている。
よくよく見れば、剣にも劣らぬその鋭利な爪を、躊躇いも無く切っているではないか。長い尖った爪が、一瞬で無くなり、全ての指から一通り爪を短く折ってしまうと、今度は綺麗に丸めていく。
人間の生活には、何らおかしくはない行為であるのに、百々目鬼がああすると何故こうも途方も無い違和感に苛まれるのだろうか。

「……何してんだ?」
「さあ」

表情の読めぬ百々目鬼から、その真意を探るには非常に難しく、その日からしばらく話題となった。
が、その事を爪切りに勤しむ百々目鬼が気にする事は、全くといってよいほど無く、当然ながら無関心であった。



「――――― はあ、ちゃんと上手く、笑えたよね」

自ら手当てした、手首を見つめる。百々目鬼の爪がちょっと当たっただけで、まさか血が出るとはも思っても見なくて、驚いてしまった。今になって思えば、人間と妖魔は異なるのだから、そのような些細な接触であっても、切れて可笑しくないのかもしれないが。
妖魔と、人。
自ら考えておきながら、僅かに眉を下げた。吐き出した溜め息が、意図せず落ち込む。
百々目鬼には、もっと人の輪に加わって欲しいと思いながらも、あまり急いてはならないのかという理性も少なからず働く。

「……なんて、百々目鬼様が気にする訳が無い、か」

今頃、きっとまた陣営の外れで何かを考えて佇んでいるだろう。まして、の事など大方「人間は脆弱だ」などと言っているだろうし。
気にしていても仕方ないか、とは一度息を吐いて気を落ち着かせると、バサッと洗濯物である大きな敷布を物干し竿へ掛ける。はたはた、と揺れる裾を整え、ピッピッと手早く揃える。さてもう一枚、と腰を屈めてカゴから持ち上げると、空いている物干し竿へ顔を向ける。
が、その目の前の掛けた敷布の向こうに、細長な灰色の物体がぬうっと現れた。
悲鳴とも言えぬ悲鳴を漏らして仰け反ったは、一瞬パニックに陥った。が、よくよく見ればつい先ほどまで考えていた百々目鬼本人で、酷く困惑した心臓が緩慢に落ち着いていく。

……いや、驚くのも、失礼だけれど。
百々目鬼の容姿が、突然前触れもなく目の前に飛び込めば、きっと誰も驚くと思うのだから、許して貰いたい。

「え、えっと、百々目鬼様」

洗い立ての敷布を挟んで、は百々目鬼を見た。真っ白な敷布のせいか、灰色にくすんだ仄暗い空気が妙に浮き彫りにされており、変な気迫すら抱かせる。「どうされましたか」と尋ねても、返ってくるのは妙に重い沈黙だ。
普段もさっぱり感情の読めない彼だが、今はその倍ほど分からない。の笑みも苦しくなってくるが、彼と彼女の間の敷布は軽やかに揺れる。

「……手首を」
「えっ?」

不意に放たれた百々目鬼の言葉。は、素っ頓狂に声を漏らしたが、続けて「手首を、見せてみろ」と言われ、彼女は慌てて抱えた敷布を下ろした。女官衣装の裾を捲くり、肘ほどまで出すと、おずおずと百々目鬼へ見せた。
が、即座に「逆の方だ」と言われ、躊躇いながらも変えて差し出す。
包帯の巻かれた、細い手首。大した傷でもなかったのだが、やはり百々目鬼に見せるのは少々引けた。彼が、罪悪感なり抱く訳がないけれど。

……と、思っていると。
の手首が、突然掴まれる。
無防備であった事もあり、は驚いて肩を跳ねさせた。握る力もさる事ながら、触れた百々目鬼の手のひらの大きさや指の長さ、ひんやりした灰色の肌の体温の、異種の気配の凄まじいこと。
やはり、改めて思い知らされびっくりした。

はたはた、はたはた

と百々目鬼の間で揺れる敷布が、不意に流れた沈黙を煽る。
その静けさが、苦さを増した頃、はある事にようやく気付く。

( あ、れ……? )

容赦なく爪の刺さるくらいに、遠慮なく握られている手首。先刻と異なったのは、握り締められた手首から赤い血が流れなかった事だ。
はよくよく見つめて、「あ……」と声を漏らす。
灰色の長い指先に、鋭利な爪がない。いっそ可愛く見えるくらいに、綺麗に切られ、先端も丸められている。
する、とが手首を回してみると、不器用げに百々目鬼の手の力が緩まる。互いの手首を握り合うように位置を変え、何だか、妙に笑みを誘った。
妖魔である彼の手が綺麗に爪を切られて不恰好にも見えるからか、と彼の手の大きさが異なるのが不釣合いなせいか、洗濯物を挟んでする事なのかという疑問のせいか。
の眼差しに気付いていながら、百々目鬼はずっと押し黙っている。が、兜の向こうで浮かべているであろう表情は……想像が出来た、かもしれない。

今日は、不思議な事が起きる日である。

「百々目鬼様」

ふわ、とが微笑む。

「お心遣い……ありがとう、ございます」

ひんやりした百々目鬼の大きな手のひらに、の温もりが増す。
細くて、頼りなくて、呆気なく折れそうで、やはり人間は弱いと思う。だが、灰色の手の上の真っ白な肌と、鮮血とは異なる温もりは……悪くは、無いように思える。

何て事は無い、この日は多少、気まぐれが起きただけだ。
従って、心変わりなどありはしない。所詮、自分は妖魔で、目の前の女は人間である。ただ、それだけの事。

……ねねの生易しい言葉の苛立ちが、消えた事も。
の笑みが、今までの中でとびっきり穏やかに感じた事も。

( ……気まぐれだ、全て )

だからこの手も、早く離さなければ。

気まぐれが続いて、心底不思議な日であったと、思える内に―――――。



百々目鬼が爪切ってたら面白いな、という妄想から。
でも直ぐに伸びそう。ビョーンと。きっと翌日にはもう生えてる。そんな目覚しい爪再生スピードの百々目鬼も、愛してる。

ところで百々目鬼って、背が高いですよね。馬に乗ると全貌が見えたもんじゃない牛鬼に叶うもんはいないですが。
オロチ2で、陣営を走り回ってみると、お店の人々の小さい事小さい事。
……何で彼に、会話イベントを用意してくれなかったのでしょう。百々目鬼の会話イベント、需要あると思うのに……主に私に。


2012.07.12