僕にとって嘘だったのに

人間だけの陣営の中、異彩を放つのは仙人たちではない。
人の営みを学ぶよう言いつけられた百々目鬼、この陣営に入れば自らの罪を軽くされると言われた牛鬼。本来であれば敵軍の妖魔に当たる彼らこそ、違和感でもある。
妖魔の存在と思惑を思うと、少々信頼性に欠けて、戦いにおいて参加する事は認めているが普段の生活の中では……人々から遠ざけられがちだ。それを、百々目鬼と牛鬼は気にしている様子はない。むしろ、双方ともに協調性には欠けている人格なので、そっちの方がありがたいとさえ思っていた。

そんな彼らが、反妖蛇軍に加わり、幾らか歳月は過ぎていた。
妖魔軍での生活と振る舞いが極端に認められない、そしてまるっきり新しい習性と制約が掛けられた束縛だらけの生活は、馴染みのないものばかりで一層彼らを無関心にさせたけれど。
時間が経てば、いやでも知っていく事になる人間たちの暮らし方。百々目鬼と牛鬼は、今はそれなりに習って過ごしている。それなりに、という程度なので相変わらずの奔放な振る舞いは多々あって、人々からはやはり遠巻きにされている。

仲間意識や支え合い精神など欠片ほどもない妖魔であるが、同じ出身という事もあって、百々目鬼と牛鬼は比べればやはり共に過ごす事も少なくない。
だがそれは、どちらかと言えば自らが望んでそうしているわけではなく、偶然にもはち合った等が妥当な表現である。
今も、立ち並ぶ天幕を陣営の外れより眺めている百々目鬼と牛鬼であるが、その間に会話らしい会話はない。それは普段から一緒だ。だが、この日は珍しく、牛鬼が百々目鬼に語りかけた。

「ブヒヒ、そういやァ百々目鬼よ。お前最近、人間の女がよく近くに居るな」

猪の顔に、鬼ともいえる巨大な体躯。下卑た笑みを含んだ声は、嘲るような口調だった。牛鬼が口を開けば、殺すだの何だのと非常に倫理概念からかけ離れた言葉しか出なというのに、この日に限ってまっとうな問いかけをしてきた。
百々目鬼は珍しいと思いながらも、相変わらずの無関心な声で「それがどうした」と呟く。

「別に、我が望んでいるわけではない。あれが勝手にうろついているだけだ」
「ふゥん……それだけかァ?」

ニヤニヤと、牛鬼の顔は明らかに笑っている。嘲笑や、あるいは興味本位の類だろう。百々目鬼は顔を横に向けてはいたが、それが容易に分かって僅かながらの苛立ちを覚える。
この猪の妖魔が言っている《人間の女》が誰か想像はついたが、あれは勝手について回っているだけなので、勘ぐられても不愉快だ。
「それだけだ」告げた百々目鬼の声は、戦場の時のように冷たかった。
けれど聞き慣れている牛鬼には効果はなく、一層笑みを浮かべる始末である。

「……牛鬼、何が言いたい」
「いンやー? あの女がお前の玩具だったとしたら、俺も分けて貰っても良いなあと思っただけだ。ブヒヒ」

……ああ、そういう事か。牛鬼の言葉の意味を、百々目鬼は理解した。

「女が欲しいのなら、幾らでも居るだろう……この陣営の女武者だけでなく、人間どもの暮らす村にも」
「外に出ンのも面倒じゃねえか。近場で済ませようと思ったら、丁度お前のとこに居るからこりゃ良いと思ったが」

牛鬼は、絶えず下卑た笑みを浮かべていた。
百々目鬼は、一本角の鉄兜の向こうで、小さく息を吐く。
双方妖魔といえど、声から察する通りに性別的には雄、男である。制約ばかりがかけられるこの生活では、不満や苛立ちも大いにあるし、そういった欲求も増すのは致し方ない。人間の持つ概念はほとんど無いといって良い妖魔、欲しいものは全て力ずくで手に入れてきた。相手の感情を推し量るなんて事はない、自らが欲しいと思ったなら目に付いた女が例え夫や子を持っていようがその辺に組み敷いて強引に欲求を満たす事は日常茶飯事だ。
第一に、妖魔という生き物がこの世界でまともな振る舞いをした事は無かっただろう。
百々目鬼にも、覚えはある。
だが違ったのは、今はその頃のこき使われる妖魔の駒では無い事か。
妖魔にも感情があるように、学べば知恵も人間に近い概念も抱く事はある。
百々目鬼が「……下らぬ」と牛鬼に返したのは、それらが起因しているし。
牛鬼とてその行動に移さないのは、人の生活の中で人々の振る舞いを無意識に覚えていたからだ。

とはいえ、思えば確かに。
女という生き物を最後に抱いたのは、何時だろうか。

同族の妖魔の女も、人間の女も、ここ最近全く抱いていない。欲求が無かったわけではないが、思い出す辺り興味は特に無かったのだろう。
だが、言われてみれば、確かに欲しいといえば欲しいような気持ちにもなってくる。妖魔といえど、その快楽の味を知れば人間と同じく求めるものだ。
百々目鬼もそうは思ったものの、牛鬼の横顔が酷く鬱陶しい事の方が癪に障っていた。猪の顔のだけあって、その目はまさに獣そのもの。単細胞な頭では、どうせ今はどの女をその辺の地面に組み敷いてくれようか、強引に犯してくれようか、そんな事しか考えていないだろう。
別に、止めるつもりはない。そもそも人間と妖魔の概念は異なり、妖魔は本能や欲望に対し忠実。それだけの事。

だが。
あの獣じみたい目の中に、《あの女》も候補に含まれているのだろうか。

別に何の感情も抱いていないはずの女――あの女官が過ぎり、ついて出た言葉は女を擁護するようなものだった。

「欲しいのであれば、この陣営の女に手を出せば良い……我の周囲をうろつくあの女も。だがどの女も軒並み、武術の心得がある。
殺されても構わんのなら、好きなようにするが良い」

淡々と、普段通りの声で。
高まった欲求に水をかけて削ぐようなそれを、牛鬼は聞き舌打ちをした。

「チッ……つまらねえ事言いやがって」
「つまらなくて今は結構だ……それで、牛鬼。女でも襲いに行くのか」
「どっかの誰かが真面目ぶって言うから、興が削げた。寝てる」

ドス、ドス、と重い足音を立て、巨体を揺らして、牛鬼は自分の天幕へと戻っていった。
百々目鬼はその背を見つめ、何故か安堵した。もしも直ぐにでも女を抱きに行くような素振りを見せたのなら……自分は、あの女官を監視せねばなるまい、と。
それが果たしてどういった意味を持った感情であったのか、自分に対しても無頓着な百々目鬼が分かるわけがない。


その後、百々目鬼は陣営の広場に向かった。特に意味はない、国境の防衛戦なり小競り合いなり戦があれば参戦しようと思い、情報を得に行った。それだけに過ぎない。
だがその時、普段の通りに洗濯物を抱えて走り回るあの女――を見つけて。
またも、百々目鬼は不可思議に思うほどに、一瞬の安堵を覚えた。安堵する理由など無いというのに。大勢の人間のうちの、たった一人がどう有ろうが全く無関係で気になろうはずもないというのに。

……何故だ?

異形の将が一人首を傾げていると、恐らく早々に片づけてきたのであろう、空っぽの篭を携えたが百々目鬼を見つけて小さく微笑んだ。
相変わらず、無防備な。百々目鬼は冷酷に思っていたが、最近ではその生温い笑みに嫌悪感を抱く事もなくなっていたのを、彼はこの時ようやく気付いた。そうして、彼女が女官衣装を揺らして歩み寄り、礼をする光景を見据え、何処か優越感のようなものもあった。
兜の中から見下ろした、の頭の天辺が上がり、その顔が正面に捉えられる。

「百々目鬼様、何かお変わりが?」
「……いや、特には無い。構うな、戦の有無を聞きに来ただけだ」
「左様でございますか。何かございますれば、どうぞ何なりと」

女官らしく恭しく、けれど異形の百々目鬼を前にしても正しく礼を尽くす彼女は、肝が据わっている部類に属されると思う。
にこやかに微笑むは、艶のある黒髪をさらりと白い首筋で揺らした。

……牛鬼の言うように、は確かに自分をやたら構う。
曰く、もっと陣営に馴染んで欲しい、だったか。

それを強制はしないが、その想いは少なからず滲み出て読みとれていた。百々目鬼の、人とは異なる価値観と振る舞いを、彼女は文句を言わない。それが彼女の女官という職務なのだろうが。
別に、それがどうという事ではない。ただ、自分に近しい女は確かにこの女だ、とそう客観的に思っただけだ。

百々目鬼は口を閉ざしたまま、を見下ろす。じっと、動かず、それこそ射抜くような眼差しで。
は当然戸惑って、「百々目鬼様……?」と首を傾げる。

……白い肌、その肌の柔らかさと妖魔には無い温かさは、以前自分で触れて知っている。軟弱な細い手首、あれのように恐らくその肩も、腕も、腰も、足も、百々目鬼が力を込めれば呆気なく折れ、砕け、千切れてしまうのだろう。その細さや弱さは所詮女であるが、多くの武将に混じっても怯える様子のない背は真っ直ぐとし、声はのびやか、そして足運びは武芸を嗜む者特有の隙の少なさ。しなやかに引き締まり、けれど大部分は女らしく柔らかい曲線を描く輪郭をしている。衣服の上からでも容易に読みとれる、その身体付きと胸部の豊かさ。

……よくよく見ていなかったが、今目の前にいる女は。
かつての百々目鬼であれば、組み敷いて汚していたであろう女だった。
その声を悲鳴で震わせ。頬を恐怖でひきつらせ。細い身体は乱暴に扱い傷だらけにし。顔も身体も濡らして最期には殺し、哀れな四肢を放り投げて野ざらしに。

そうしないのは、この地での暮らしが短くはないからか。あるいはの存在を抱いて捨てる雌という認識が無いからか。
ただはっきりとしているのは。

この女を牛鬼にやり、壊されるのが勿体ない。それだけだ。

第一に、あの巨体の猪が、まともな女の扱い方を知るわけがない。自らの快楽を満たすのであれば、いかような手段も取る。そういう者だ。呆気なくを壊されるのは、非常に不本意である。
ただ、に抱くのは、人間でいうところの愛情や哀れみではない。もっとも近しい単語で言えば……愛着。玩具への、馴染み深い愛着。百々目鬼にはそれがもっともしっくりときた。

「……我は、お前を特別視しているのか」
「え?」
「……いや、何でもない。忘れろ」

―――― 結局それも、本当であるのか不確かだが。

百々目鬼が一言告げて完結すると、は終始不思議そうではあったものの、慣れたように「はい」と頷いて微笑んだ。
その生温い笑みが、やはり妙に心地が良かった。

捕まえるのも、壊すのも、犯し尽くすのも簡単だろう。命令すれば幾らでも呼び出せるし、夜の伴をさせるのも容易だ。
ただ、今はまだ、壊さなくても良い。壊す必要はない。

―――― 壊しては、ならない。

牛鬼の言葉が、やけに脳裏に残る。彼女の背後に奴の姿が無いか、その日からしばらく百々目鬼は気にしてしまった。



変わったのはきっと、夢主への感情。
百々目鬼自身は、きっと人間の陣営に居ようと大して変わりはしないと思う管理人。いつまでも、ゲス野郎であれ。
愛情であれ愛着であれ独占であれ、百々目鬼の多少未熟で歪んだ感情が、彼を変えたように見せている。

妖魔にも感情があれば、それによる変化もあるはず。
そんな妄想。
そして、素で破廉恥な事を思ってる百々目鬼が、大好きです ( こっちが本音 )

2013.01.07