言えない、言いたい、言って欲しい

武将でありすぎた時間が、圧倒的に多い。璃空は自らに、そんな叱咤をした。戦いに赴くこと、また国のため君主のため剣を振るうことは誇りであった。これから先もそれは変わらない。変えることはない。
だが、武将としての心構えと、女としての立ち振る舞いを比べると……あまりに偏ってしまっていると、思い知らされる。そして、恥ずかしくもなる。
処理を終えた書簡を広げたまま、璃空は小さく溜め息をついた。普段から表情の変化はないと言われる彼女だが、この時ばかりは曇らせ見るからに気落ちしていた。整頓された自室には、彼女の溜め息と静寂が漂う。
それに反応したのは、別の書簡を持ちに来たである。特徴的な朱色の雑じる紅鳶色の髪を手でかき、礼をし中へ踏み入れる。

「璃空様、ですが」

璃空は、ハッと肩を揺らす。飛び跳ねると言っても良いほどで、普段の璃空を思えば不思議な仕草である。は首を傾げたが、彼女の隣に立つと、「書簡の追加です」と悪戯っぽく言った。璃空は「ありがとうございます」と返したが、声の節々でぎこちなさが浮かび、何より動きにもキレがない。しばし眺めていた彼だが、璃空の座る椅子の背凭れへ片手をつくと、しなやかに伸びた背を屈める。璃空の顔の横へと自身の顔を並べると、ふわりと触れる程度に距離を縮めた。
それはにとってはなんて事のない仕草だが、璃空には大問題だった。
間近に感じる、人の存在。まして、相手は……なのだ。

殿、ち、近いです」
「ええ、まあ、良いじゃないですか。恋人同士なんですから」

恋人、という部分を特に強調し、は笑った。その振動が、触れ合った肩から伝わる。
璃空の静かに取り澄ましていた表情も、朱色が走り困惑に揺れる。愛おしげに細められたの目を、見ることは出来なかった。その何気なさも、らしいと言えばらしいが、璃空は上手く返すことが出来ない。
普段はもっと、別の人物であればもっと、このように惑わされないのに。
「それで、どうされましたか」と笑みを含む彼の声が、耳元で響いてきて、一層彼女は戸惑う羽目になる。

「い、いえ、別に……」
「そうですか? 何か悩んでるようにも見えましたが」
「あ、えと……」

冗談交じりではなく、何かを見透かしたような、確信の秘めた眼差しが片隅に見えた。
璃空はたまらずバッと立ち上がった。背を屈め肩を寄せていたも「うおッ」と小さく奇声を漏らして背をのけぞらせる。

「あ、後で。後で、お話しますから」

璃空はそれだけ言うと、書簡を持ったまま部屋を飛び出す。後ろからが呼んでいるようだったが、振り返らずに立ち去った。持って来てくれたというのに、この対応もずいぶんなものだが、璃空とて何も思っていないわけではない。むしろ、今まさに後悔の念に駆られていた。
相手は恋人だというのに、何を戸惑う必要があるのか。
そうは思っていても、いざその恋人が側に来ると、普段のように話せなくなる。そんな年齢でもないはずだけれど、頭と身体は別物のようだった。
何せ、璃空にとっては……

( 女らしいことなど、今まで何一つ無かった )

異性と友情ではなく愛情で関係を結ぶことも、それ以前に異性に懸想することも、無かった。戦いに赴き剣を振るうことは数え切れないのに、それに関して全く浮かばない。それほど、今までの半生を振り返ると、戦いばかりだったのだろう。
一般概念ならばもう、子の一人はいる年齢だ……不思議がられたことはあったが、今まで気にも留めていなかった。戦場で生き、戦場で死のう。そんな風にも思っていたくらいだ。
だが、今や傍らには想い人。変わったこともある……なんて、言っていられないのが璃空の心中である。
恋人に戸惑う……つまりは、今までそういった色恋事など無縁で、何をすれば良いのか分からない。は、接し方こそ甘くなったが、それ以外では何ら変わらず、いやむしろただ親しい関係だったあの頃と変わっていない。そういったものなのだろうか、とも思ったが、時おり触れてくる彼の指先は璃空を震わす。手を握り合ってもそれ以上にはならず、何とも清いままだ。そういうものならばそれで良いが、しかし……触れてくるの温もりは、嫌ではない。その時間を引き延ばしたいと本当は思っているが、何せ恋愛初心者。先刻のアレになってしまうのである。
何とも、情けない。璃空は、肩を落とす。
しかし、そもそも……は何と思っているだろうか。女らしくもない、殿方が好みそうなしおらしさもない、武芸を除けば何も残ることのなさそうな自分を。

「つまらないと、思われていたら、少しだけ悲しいですね……」

その呟きは、誰もいない回廊の静寂に吸い込まれた。





「―――さん、璃空様に一体何をされたのですか」

執務の間の休憩時間のことだ。が椅子に座り上体を振り返らせた先には、鬼神が佇んでいた。
思わず、飲みかけの茶を全て噴き出し、向かいにいた同僚に吹き掛けていた。「ぎゃァァァ熱ゥゥゥ!」とその不幸な同僚はひっくり返り床で悶えていたが、そんなことはには今関係ない。
このみなぎる殺気を隠さず滲ませる、珪斗から如何に逃げ切るかを画策することが、最優先事項である。
人中の呂布も吃驚するであろう禍々しい怒気は、もはや目に見えるほどで、これが真面目で付き合いの長い友人とは思うまい。

一斉に、その場に居合わせた人々は姿を消し、残されたのは「殺ってやるぜ」と血走った目で笑う珪斗と、全身の毛穴から冷や汗を滝の如く流すだけであった。異様に速い行動に、驚くと同時に恨めしくも思う。

そんなことを考えている暇さえ無く、珪斗は椅子に腰かけたままのへと歩み寄ると、ニタリと形容しても良い禍々しい笑みを浮かべて口を開いた。
あの真面目で何処か気弱な節のある珪斗が、殺人鬼一歩手前にまで変貌する理由は、探さなくとも分かる。確実に、彼が敬愛し盲目的なまでに忠誠心を抱く、上官が関わっているのだろう。
ということは、にも必然的に繋がっていく。

「……で、俺が何だって?」

空の茶器を片手に持ったまま、両腕を上げ降参の姿勢。
が、珪斗は一層笑みを深める。不気味過ぎた。

「何だって、と言いたいのはこっちだ。お前璃空様に何を言った」
「いや何って……こわ!お前、後ろ手に槍持つな!
「さっさと言え」

口調が変わっている。グレーゾーンからブラックゾーンへと秒速で進んでいる。の身に迫る危険も、秒速で近付いているということでもある。
しかしながら、には覚えがない。少なくとも自分の口から、彼の言う璃空に対し不快にさせる言葉を投げた記憶はない。大体、わざわざ恋人を傷付けに向かうものが何処にいるだろう。

「悪い、本当に話が読めない」
「しらばっくれて……璃空様の表情を見れば分かる」

―――ピクリと、は眉を動かした。

「あのように沈んだ表情をされて……関係ないとは言わせないぞ」

考えるより先に、は椅子を倒す勢いで立ち上がった。珪斗の目が僅かに丸くなり、怪訝にを見つめる。
は、紅鳶色の髪と同じ色の瞳を細めて、珪斗へと問う。

「璃空様は、何処に」



―――― その頃の璃空はと言うと、ひっそりと静けさ漂う回廊を一人歩いていた。
太陽が真上へ昇る時刻は休憩している者も多いためか、ほとんどが各々自室なり休憩室なりで寛いでいるのだろう。人の声はなく、回廊の隣に広がる整えられた庭園にも目が向かう。彼女が今居る場所も、鍛錬場など特に賑わうものが少ない、書庫なり倉庫なりある区域だということも上げられる。
その静けさは、心地好いと同時に、溜め息の音を強くさせてぽっかりと空いた空虚感を生み、璃空を複雑に絡めた。

静けさは、嫌いではないのに。

何かとても、物足りなく思えた。
それが寂しさだとはすぐに解したが、上手く受け入れることが出来ない。私は武将だ、兵を率いて戦へ赴く者だ、そのような生ぬるい感情は持ち合わせていない。そう思い浮かべて……やはり私は女らしさの欠片もないと、璃空は再び頭を重く下げる。
こんな風に考えるから、きっと殿も、何もしないのだろう。
小さくこぼした笑みは、切なく滲んだ。

「……言えたら、良いのに」

もっと、の側にいて、甘く想いを満たして欲しい。
……なんて、そのようなことは璃空には無理だ。何せ恋愛初心者、距離を測りかねているくらいなのだから。

とはいえ、はいずれ深く突っ込んでくる。副官職には釣り合わぬ軽さと性格の楽観さを持っているが、ああ見えて食えぬ部分もあり、そして時おり鋭く人の心を見る。尋ねられれば嬉しいが、それにどう返せばいいものか。素直に言って気持ち悪がられたら、笑われたらどうしよう。
思いは一巡し、再び最初の地点へ戻って来て、璃空の眉は下がるばかりだった。

「でも、ちゃんと、言わなければならないことですよね……」

璃空は、庭園へ身体を向けると、手摺へ歩み寄り両手をそっとつく。
しかし、不思議なことがあるものだ……こんな風に異性を、強く思うなんて。そういえば、最初に声をかけてくれたのは彼だった。そして、想いを打ち明けてくれたのも、彼だった。その想いにどう答えれば良いか分からなかった時も、辛抱強く待ちながらも絶えず笑っていたのも、彼だった。
何もかも、が全て最初にして、璃空の背を押してきた。
……たまには、私からも、応えないと。
キュッと、手のひらを握り、顔を上げた。


「だから、言ってんだろ、俺は璃空様に妙なことは言ってない!」
「まだそれを言うか、いい加減腹くくれ!!」


ふふ、ついには幻聴まで……


……ん?


「珪斗、テメ、同僚に向かって槍を振り回すな! 危ないっつの、ここは戦場か!」
「うっせえ、テメエが言えば俺も物騒なことはしない!」


……幻聴かと思いきや、本当にの声であった。
庭園を挟んだ向こう側の回廊で、必死な形相で逃げると……竜胆を振りかざす副官の珪斗の姿があった。たまたますれ違った文官や兵が、巻き込まれている。悲鳴が幾つも飛び交うが、それを裂くように珪斗が槍を振る。それをが避け、大きく飛び退き距離を取る。
……何だ、あれは。
璃空は、素っ頓狂に目を丸くした。あの二人がああやっていることも珍しくはないが ( それもどうかと思うのだけれど )、珪斗のあの鬼のような表情は初めて見た。結構な月日を過ごしたが、果たしてあの顔を今まで見たことはあっただろうか。呂布びっくりの凶悪さである。
恐らくそう思っているのは、璃空だけではないのだろう。逃げるはもちろん、不幸な文官らも真っ青に凍り付いている。

しかも、何だか、こちらへ向かって来ているような……。

と、ハッとなり思った時は、すでに遅い。
不幸な文官らを巻き添えにしながら言い合う珪斗とは、庭園を挟んだ真向かいにいたはずなのに、いつの間にか角を曲がりに曲がって、璃空の佇む回廊にいた。彼女の喉から僅かに悲鳴じみた声が漏れる。それは、喧騒に巻き込まれることに対してではなく、今しがたの悩みの中心にいる人物がすぐ側に来ているということだ。そのまま立ち去れば良いものを、それよりも早くに鬼神と化した珪斗が彼女に気付いて、その表情を崩し、それを見たがさらにつられて視線を辿り気付く。
驚いたような眼差しだったが、安堵すら含んでいるように見えた。声には決してならなかったが、その眼差しが「璃空様」と呼んだ気がした。
鬼神と化した珪斗の槍の連撃を、は器用に避け、強く床を踏みつけると璃空へ向かい駆け寄る。
その姿に、悩む心の重みが僅かに解けて、ああやはり自分は彼が……と、そっと身体の向きを直した。との距離が縮まっていくが……。

彼は鬼から逃げる速度のまま、璃空の腰へ全力のエルボーをかました。

予想外の展開と衝撃に、璃空の口から潰れた悲鳴が漏れる。多少鍛えられているとは言え、男の腕をモロに食らってしまっては、幾ら彼女でもうめき声は出る。一体何を、と見上げた瞬間、璃空の腰を捕らえたの腕は、ぐいっと上がる。そうすると、璃空の細い身体も、ふわりと宙へ持ち上げられた。
速度を落とすことなく、肩へと米俵を運ぶ要領で璃空を担ぎ上げた彼の一連の動作は、傍から見れば流れるようであっただろうが、当の璃空がその事態を認識するまでは時間を要した。軽く思考を5周したであろう。

何故、持ち上げられて?

あまりにも突拍子ないその展開に、璃空はされるがままポカーンとしていた。の背中に腕を垂らし、胸の前に足を垂らし、前後ろが逆転した体勢ではあったが、それを咎める余裕もない。ただ、ガックンガックンと揺さぶられ上下する視界に、珪斗が凄まじく凶悪な表情で追いかけてくる光景が映って、確かに恐怖するものがあると他人事のように思っていた。
しかし璃空がのんきな中、その珪斗は、一層感情を激しくさせていた。

、貴ッ様ァァァァァアアアア!!」

ビリビリ、と全身が嫌な振動で震える。
振り返りたくはないは、死に物狂いで駆けた。
担がれるまま璃空は、素っ頓狂に事態を見ていた。
何に怒っていたのか分からないほど怒り心頭の珪斗は、とにかくを追いかけた。

その命の危機さえ感じる壮絶な追いかけっこに出くわした者たちは、皆恐怖し口を閉ざした。その後、残ったのは珪斗の危険な伝説だけであった。





――――― さて、命をかけた、追いかけっこを続けること数十分 ( 頑張り過ぎ )

「チッ……見失いましたか」

敗者は、鬼 ( 珪斗 ) となった。
槍を鉄バットのように肩へ担いだ珪斗は、辺りを睨みながらも小さく息を吐く。未だギラギラと危険に輝く瞳はを探していたが、静けさと僅かな薄暗さの覆うその区域には、人の気配はない。城内でも端に位置する、武器庫や保管庫の区域なのだから、まあそうだろう。
それでもが飛び込んでいったのはこの場所だが、と彼は探ろうかと思ったが、身体の疲労が理性を取り戻したため、彼は踵を返して戻ることにした。
全く、あの人は……とブツブツ呟きながら、立ち去る鬼神。
その近辺の一つの武器庫で、息を潜める二つの人影。
恐怖の足音が遠ざかっていく気配を感じ、はようやく大きく息を吐いた。変に強張った肩が、どっと落ちる。

「ッはー……アイツ本当におっかないですね。勘弁して欲しい」

は苦く笑って、璃空へ同意を求めるように視線をやったが。彼女からしてみれば、この状況こそ勘弁して欲しいものであった。
弓矢の予備を保管した木箱が幾つも積み重ねられ何列にも及ぶ、その隙間。列と列の間に身体を滑りいれて小さくうずくまる……の足の上に横抱きに抱えられ隙間無く密着した璃空の身体。その狭さが必然的に距離などというものを与える余地を無くすため、仕方ないといえば仕方ないが……。

こんな風に、触れ合ったことはない。

悩んでいたことが図らずも叶ってしまったが、いざその場面になると困惑するなんて。少女じみていると思われるのが嫌で、やはり彼には気付かれないで欲しいと思った。
武器庫の、乾いた空気と鉄っぽい匂いに意識を向けようと試みるも、の身体が僅かに動くだけでもすぐに引き戻されてしまい、熱くなった頬を伏せるしか結局出来ない。
外見は屈強さから程遠いけれど、やはり戦場に立つ副官であり男性なのだ、女には到底及ばない逞しさと胸の広さに改めて理解してしまう。
心臓が不規則に跳ね、静寂も内側で響く自分の鼓動で破られるような気がした。

「すいませんね、突然。珪斗が追いかけてこなけりゃ、良かったんですが」

耳元で響いて、璃空の肩が揺れる。縮めるようにすくめたまま、そうっとを見上げ「何かあったのですか」と尋ねる。普段通りに努めたつもりだったが、声は震えてしまった。
小さく笑って、は返した。「珪斗の奴が、素直に言えば良かっただけなんですが、どうも気に入らなかったらしくて」 の頬が、苦く笑みを浮かべていた。

「貴方が寂しそうにしていると、ずいぶん心配していて」
「あ……」
「璃空様は何処にって聞いたら、『貴方が言うまで教えません』とか言い出すんですよ。いや何でわざわざお前に、て堂々巡りで言い合ってたらついには槍振り回し出すし」

何なんだアイツは、と文句を言いながらも、の目はしっかりと璃空を見下ろしていた。その苦笑いを浮かべる眼差しが、妙に璃空の胸を締め付ける。

「……自分で解決しないで他人に言っていたら、世話ないでしょう。まして自分の恋人で、その恋人の様子はよーく知っているんだから」

璃空は、小さく口を開く。ああ、彼はもう気付いているのか。なら、その苦笑いの意味も分かる。伏せ目がちな彼女に、申し訳なさが押し寄せる。
そうするとは、「そういう顔をさせることを、俺はやっぱりしていましたか」と呟く。笑みは含んでいたが、寂しそうに力が無い。
璃空の首はブンブンと横へ振られるが、の笑みは変わらなかった。それが胸に、突き刺さる。

「わ、私が……」

ギュウ、と行き場をなくした手が握り締められる。

「つ、つまらない女だから、殿は……な、何もしないのだと」
「へ……」
「以前と、何ら変わらない接し方なものですから、その……」

笑われたくなくて、つい小さな声になった。意地もあって、何て可愛くない女なのかと璃空は深くにも眉が切なく下がる。恥を忍んで、ポツリポツリと胸の中にある重石を、一つ一つ取り出すように呟く。途切れ途切れで、きっと上手くは伝えられなかっただろうが、それでもはじっと聞いて、一言も遮らずにいてくれた。
恐れた嘲笑は一切なく、真剣な姿勢は、璃空を緊張からゆるりと解す。言いきった後、想像してもいなかったいた心底驚いた声が、の口から漏れた。

「……えーと、つまり、俺が何もしないのを気にしていたんですか」
「う……は、はい……」
「前から?」
「うう……」
「――― 何かしても、良かったんですか?」

う……ん?

璃空は、はたと目を丸くする。何かしても、良かったんですか? その一言を数回巡らせた後、怪訝に再びを見上げる。
おそらく璃空以上に、素っ頓狂な表情をしてる彼は、口を半分開けポカンとして璃空を見つめている。何故彼がそんな顔をするのだろうと、横抱きにされている身体の上体をへそうっと向き直らせる。
何か、思わぬところで意思の食い違いが、あるような。

「あの……殿……?」
「……ちょっと、待って下さい。今、猛省しているんで」

は、不意に表情を歪めると、唸り声を上げながら頭を垂れる。クセのついた紅鳶色の髪が、さらりと流れ、璃空の視界を横切る。そして、のうな垂れた額が、肩へと触れる。
その温もりの感触に、また心臓が跳ねた。
しばしの空白を取った後、は苦く呟く。

「――― 最初、覚えてますか」
「え?」
「俺が貴方に、好きだと言った時のこと」

耳元で響く声の振動に赤面したが、思い出されるその光景に、璃空も思わず苦く眉をひそめた。
……忘れもしない、あのから想いを告げられた時。
普段あるはずの気軽な空気はなく、笑みを浮かべていたが眼差しは真剣なように見えて、真正面に佇んだ璃空は身構えた。そして彼は、何度か深呼吸した後、「身分違いも甚だしいですが、ずっと好きでした」と告げた。
璃空も、まさか面と向かって好意を告げられるとは思っていなかったし、この時以前からであるが戦でしか価値の見出せない女と思いこんでいたため、困惑と羞恥でどうにかなりそうだった。彼に好意を抱いてはいたがそれは果たして、恋愛か友情かなどこの状態で判別は出来るわけがない。そのため、恥ずかしいあまり思わず、真っ先に璃空が口にした言葉は。

「冗談なら、他所へ当たって下さい」

告白の返答どころじゃない。普通の会話にしても、大いに不合格。の空気が一瞬で凍りつき、璃空も自らが口にした言葉に凍りついた。
普通ならば、そこで激昂するか、あるいは恋も一瞬で冷めるというものだろうが、の場合は逆に火がついたようで「もっとちゃんとした返答貰うまで、しつこく言い続けますから」と笑った。その後の宣言通りに、彼は璃空をことごとく赤面させる台詞で苛め抜き ( 別にそういう訳じゃない ) 、何かの勝負かと周りに勘違いされつつ、璃空が応えたことで終結した。
そして、今現在の関係に至ったが……。

は、頭を細い肩に乗せたまま、小さく笑った。

「ほら、俺が結構押しまくった部分もありますし、まして俺は副官でしょう? 将軍には近いようで遠い場所にいるもんですから、ついつい距離を測ってしまって。
それに、璃空様に突然ベタベタして、嫌われたら嫌じゃないですか」

言葉こそはすんなりと響いていたが、節々から後悔の文字が浮かびそうな声音の低さで、それが彼の心情を表している。
しかし、璃空は安堵すると同時に、嬉恥ずかしさに戸惑った。
彼なりに、想っていてくれていた。自分に決して落ち度があったわけではなく、彼なりの。
それだけで、胸に圧し掛かっていた重石が消えていき、璃空の表情にようやく自然な笑みが戻る。

「私は、ご存知の通りに、こういった付き合いには疎いです。ですが……」

の頭に、ことりと首をもたれる。ピクリ、と彼の肩が揺れた。

殿のお気持ちは、その、嬉しかったですし、同じだったので、今こうやっております。ですから、どうか気遣いは無用です」

普段とは異なる、柔らかい響き。それに璃空自身は気付かなかったが、は思わず奇妙な声を漏らす。

「……それ、反則ですよ」
「えっ?」
「あーいや何でもないです」

の溜め息に、つい璃空は不安になる。が、空気を一転させるようには顔を上げて「よし!」と何かを意気込んだ。

「じゃあ、璃空様。恋人らしさってここで一つ、思い切って変えませんか」
「変える、ですか……?」

不思議がると、は屈託の無い笑みを返した。

「呼び捨て、敬語なしにしましょう」
「え……!」
「二人だけの時ですよ。お立場だってありますから。俺もそうしますので、璃空様も」
「で、ですが、い、いきなりそんな……」

親しさは、確かに上がる。が、何度も言うように恋愛初心者で異性との付き合いもてんで無かった璃空には、その何気なさすら万の敵に挑むようなものである。自分の膝の上に乗せ固まる彼女の様子を、は楽しそうに見下ろしている。それだけでなく、期待も込められた眼差しで、璃空は再び困惑する。

「予行練習に、ささ、どうぞどうぞ」
「今ですか……?!」

珍しく声も荒く響いて、璃空はパッと口を覆うが、「遠慮なくどうぞ」とまるで宴の時のように気軽に薦めてくる。こういう時、彼は押しが強くなるのだから困る。実際、想いを告げられた時もそうであったように。決して嫌なわけではないが……。
いきなり言うだなんて、恥ずかしいではないか。
璃空は、目を泳がせる。口に手を重ねたまま固まり、静寂がやって来る。
――― ふと、は璃空の手をやんわりと握った。不意の動きに璃空は驚いたが、そうっと口から外されていき、の長い指が包むように曲がる。指と指の間が、彼の骨ばった感触と指先で埋まる。璃空の白い肌とは違い、少し焼けた健康的な肌の色が妙に男性らしさを感じさせる。
単純に手を握られただけのはずなのに、何故こうも落ち着かなくなってしまうのだろう。
一層目を泳がせる璃空の頭に、の笑みを含んだ声が落ちる。

「言いだしっぺなんで、俺からしましょうかね」
「え、いえ、そんな……」

しかもこの状況下で。相変わらず耳元ではの声が鳴っているこの状況下で。
何に困惑しているのかも分からなくなってしまうほど、戸惑った璃空は「何も今じゃなくても」と、思わずの胸を押す。重い木箱で囲まれ身動きなど取れないことは、分かっていたけれど。
――― すると、それを阻むように、の腕の力が増す。
ハッと吐き出した璃空の吐息が、の胸へと吸い込まれた。

「――― 今じゃないと、駄目なんだよ」

何かをこらえるような、複雑な笑みを含んでいた。おどけていた声音が、急に静まり返り、低く囁かれる。
ゾク、と璃空の背が震えた。

「少なくとも、俺は」
、殿……」
「無理だろう、普通。あんな可愛いこと言われたら、距離図るどころじゃない」

可愛い、と不意に言われ、璃空は笑われたのだろうかと不安になる。だが、すぐにそれを解かす言葉が耳へ届く。

「……俺の方が、余裕無くなる。今までの接し方なんて、もう無理」

璃空は目を見開いて、と視線を交わす。その時、が今どのような表情をしているのか、ようやく気付いた。そして、少女じみた後悔する。
今まで見ていたものは、大体がヘラッとした気の抜けた笑みか、悪戯っぽい眼差しか、年齢に合わぬ幼いものくらいだった。だが、それら全ての記憶をひっくり返す、年相応の男性の顔つきがそこにあった。冗談もなく真摯な瞳は細められ、僅かに浮かべた笑みが色っぽさを湛え口元に描かれる。璃空の視界に広がった彼が、いやに顔を熱くさせた。
あのも、このような表情をするのかと驚くと同時に、一層胸が跳ねる。
ギュ、と抱きすくめられ、額と額が微かに重なる。甘えるような、それでいて熱くなり始めた空気を煽るような、そのような仕草である。
髪が揺れてすれる、くすぐったい感触に肩をすくめる。

「それとも、敬語なしは、嫌か?」

――――― ずるい聞き方だ。
口元に浮かべた笑みが、知っているだろうにあえて尋ねてきている、そんな意地の悪さを嗅ぎ取った。けれど、眉を下げはしたが嫌悪しないのも、すっかり彼に気を許しとろけている証明である。璃空は掠れて消えそうな声で「ずるいです」と足掻いてみる。はふっと甘く微笑み、「貴方相手なら、ずるくもなる」と返した。

「今までの変な気遣いは無用なら、これくらい我慢していた俺にも丁度いい」

吐息で、髪が揺らされる。視界に広がっている精悍な顔立ちに、意識が傾いていく。
片隅といえど宮廷内。不謹慎な行いのようにも思えるのに、それを口にするのは何故か無粋なように感じた。

自分自身で自覚していた以上に、私はこの男性に惹かれていたらしい。

剣を握り締めてきた手を、勇気を振り絞るようにギュウと手を握り締める。口を開いては閉じ、開いては閉じ、とためらう彼女の前で、が低い声で手繰り寄せる。

「無理やり言わせようとは思っていないさ。ただせめて、俺と貴方だけの時は敬称なく呼ばせて欲しい」
ど……」
「何処までが許される距離か、まだ分からないけど」

はそう言うと、璃空をきつく抱きしめ、彼女の肩に顎を乗せる。

「――――― この距離は、怒らないでくれよ」

全身を包み込まれ、思わず強張ったが、の鼓動が聞こえたような気がした。同じくらいに速く、そして忙しない音を。
おずおずと頷いてみると、耳元での満足そうな溜め息が聞こえてくる。もはや恥ずかしいという感情すら、意味を成さないようだ。
撫で下ろされる広い肩を片隅にいれて、彼も同じなのかと安堵し、そして嬉しくも思う。飾りのように動かなかった腕を、そっと動かし、の腰に恐る恐ると回してみる。
その瞬間、ビクリと彼が揺れる。何もそんなに驚かなくても、と眉を寄せるが、すぐに抱きしめられる力が増して、そんな言葉もかき消される。苦しいぐらいであったが、その息苦しさが幸福を誘い、戦に赴いてきた身体が穏やかに満たされる。

「あーもー、本当可愛い」
「ッ! そ、そういうのは、い、言わなくても結構です」
「『似合わないから』とか言うなよ」

肩口に埋められた重みが、引く。それにつられ、璃空も顔を上げる。

「心底、俺は惚れてんだから ―――――璃空」

吸い込んだ空気は、埃っぽい上に、武器庫特有の鉄の匂いだというのに。
その笑みと声で気にならなくなるなんて、よほど彼の存在に侵食されている。
真っ赤な顔ではにかんだ璃空のこめかみに……の唇が触れた。愛おしそうに、柔らかく。





――――― と璃空が、甘い空気を漂わせている頃。
鍛錬場に響き渡る、不穏な素振りの音に、誰もが口を閉ざす。ゴクリ、とあちこちから生唾を飲み込む音が漏れているが、全てが素振りに飲み込まれる。
自らの武芸を高める場所とはいえ、あまりに不釣合いなその素振りの姿。細身とも言える青年が、禍々しい空気を背負い辺りを不吉に焦がしている。近付いただけで、傷を負いそうだ。しかもその素振りの姿が、おかしい。長い柄の槍の、下部ギリギリのところを両手で握り締め、左右にブゥンブゥンと振り回している。場外バッティングでもする気じゃなかろうかというその光景は、不似合いであったが、誰もそれを注意することが出来ずにいる。
ただひたすら振り回す彼から離れ、聞こえないようひそめた声で耳打ちしあう。

「お、おい、珪斗様、どうしたんだよ」
「知りません、来た時から、すでにあんな感じで……」
「璃空様か様を呼んで来たほうが」
「いやそれが全然姿が見えなくて……ッてこわ! 珪斗様、怖い!

地獄耳とはまさにそれだろう。狩人のようにギラリと不穏に煌いた目が、声を潜め怯える無害の兵に狙いを定める。

とにもかくにも、不器用な彼らに幸あれ。



そんな行き先不安の二人が、大好きです。
ぶきっちょと斜め思考の彼らの恋を、一生応援したい。

ただし珪斗の心痛も、一生続く。 ( 報われねえ )

私の中で珪斗は、璃空至上主義でヤクザにもなると思っている節があります。譲れないところ。( 譲って欲しいとも思わない )
キャラが迷子はいつものことですが、どうか許して下さい……!
それでも私は、珪斗を愛してます。ええ、愛してますとも。

2011.04.26