見渡す限り何もないのに、

さんは、いつもそうなのですか?」

怪訝とも不思議がるとも言い難い、複雑な表情をした珪斗の言葉。それは、合同錬兵の合間のとある一角に響いた。
璃空は耳に届いた声……というよりはそれに含まれた単語に、つい視線を向けてしまう。そっと肩越しに振り返ると、璃空の副官である珪斗と、その彼と同じく副官職についているがいた。
珪斗はやや肩につく黒髪で、きっちりと鍛錬用衣装を着込み乱れは開始時から休憩までのこの間で全くない。対するは、珪斗よりも幾分か背丈の高く、特徴的な赤い髪を持っていて、もうすでに衣服の胸元はダラリと開いている。真面目な性分の出る珪斗が隣にいるせいか、余計にその差が目に付いた。それもあってか、珪斗の方が数歳年下であっても、の方が幼く見える。仕草なども要因だろう。

は汗を拭いながら、「何が」と尋ねる。珪斗は肩をすくめ、やや小さな声音で言った。

「女官などの手伝いをすることですよ。いつもしていますが、何故ですか」

ややざわついた空気に、珪斗の声は消されたが、璃空にははっきりと聞こえる。思わず、ドキリとした。盗み聞きしているようであったが、意識が彼らから離れない。

「え? 手伝い……ああ、さっきのやつ? 女官が茶配ってる時の」
「ええ……手伝うのが悪いということではないですよ。ただ、貴方はいつも率先して向かうなと、思って」

珪斗の他意のない質問に、は特に間を置かず返した。

「さっきの女官、どうみても新人だろう? しかも、たぶん地方から奉公に来てる。庶民出身で肩身の狭さは俺もよく分かるからなー、頼っても大丈夫だって思える奴が居ないと困るだろう」
「……意外です、そんな風に思っていたのですか」
「ひっでえな、お前の目に映る俺はどんな奴なんだっての」
「何も考えていないとばかり」

と珪斗は、声を揃え笑った。

「ですが、それのせいだろうけど、やたら女官からの評判が良いですよ」
「そう?」
「気付いてるくせに。……好意を寄せる女官がいることも、知っているでしょう。先ほどの、彼女のように」

和やかに耳を傾けていた璃空だが、予期せぬその珪斗の言葉にはドキリと肩を揺らした。

「さっきの、手伝ってやった女官か? あんま言ってやるなよ……可哀想だろ」
「それは、そうですが……」
「知らないフリすんのも立派な対応。それに、俺は別に八方美人してないぞ? こう見えて、結構はっきりとしてるつもりだし」

珪斗の声が「え?」と弾んだように聞こえた。

「アンタが何を考えているかは、大体想像つくけど……俺は一人にのみ尽くして甘える主義なんですー」
「ええー……さんが?」
「『気持ち悪い』って顔すんな、そこ。大体、野郎とこんな会話してる方が気持ち悪いだろう」
「……それもそうですね」

また笑い声が響き、二人の会話は「ところで休憩時間はあとどれくらいだ?」「もう終わりですよ、どれだけ無頓着なんですか」というものに変わった。
璃空も、傾けた耳をそっと戻し、己も錬兵の開始に身を移すことにする。だが、の言葉と、珪斗の言葉が、妙に脳内で繰り返されていた。不満だとか、不安だとか、そういったものではないが、妙に心が忙しなく鼓動を刻む。
己が恋人の、告白めいたことを聞いたからだろうか。
それは璃空を一瞬だけ平常心から遠ざけたが、錬兵が再開され空気が引き締まった時呼び戻される。
長剣を携えて兵たちの前に出ると、隣の珪斗とが璃空に対し礼をした。その時、の片目がパチリと閉じられ、璃空はまたもドキリとさせられた。




――――― のお気楽なお人好しは、今に始まったことではない。
璃空も、そう思っている。それを否定するつもりは毛頭なく、それもまたの善い面であると、恋人とし、上官とし、誇らしくも思う。
が、とはいえ何も思わないというわけでもない。異性に好かれ、また己のように愛おしく慕うその感情を、女として理解しているだけに酷く悩ましい。

錬兵を終えた後は、その間に文官などから届けられていた事務を片す。その璃空の傍らでも、回廊を歩く女官らの声が微かに聞こえる。「さっき、様に道を教えてもらったの」「あの人、人当たりが穏やかよね」などという会話だ。これも、今に始まったことではない。
そう考えながら、璃空は小さく笑った。

「……私が、こんな風に思うことも、珍しいものですね」

……思えば、戦一筋だった、彼女の半生。
女であっても剣を取り、国のために我が身を捧げることは、誇りであった。そして、人生の全てであった。
そこに、国に殉ずる覚悟はあれ、それ以外の他事に心を割くことは無かったように思える。

それが、今ではすっかり、《彼》に毒されたようだ。

毒された、というのも意地の悪い言い方だが、きっと彼ならば笑い飛ばすことだろう。そうでしょう、と。
何だか可笑しくなり、璃空は小さく笑みをこぼす。
副官の珪斗を仲介し親しくなったに、決して抱くことの無い、抱くわけが無いと思っていた女らしい感情を持って、今では人に言えないような曲がり曲がった経緯で恋人となり。
( 人に言えない理由としては、主に璃空の素っ頓狂な返答と、の恐ろしさまで感じる口説き文句の数々のせいであるが )

それでも今は、妙に満たされてしまっている。

「……あら、もうこんな刻限に」

ふと目に付いた、空の色と太陽の傾き。透き通った群青色が、少しずつ夕暮れの気配漂わせ色を変えている。
そうなると、そろそろ聞こえてくる、お馴染みの声……――――――。


「うわーん様ァァァァ!! 獣舎の餌やりが出来ませェェェん!!」
「ちょ、うわ! 泣きながら駆け寄ってくるな!」
「だって、獣舎入る前から凄い唸り声聞こえるんですよ、あれ絶対噛み殺してやるって言ってるんですゥゥゥ!」
「腹減ってるからご飯の匂いに興奮してるだけ……うわ、鼻水飛ばすな、きったない!」


……ほら。

璃空はくすりと笑い、書き終えた書簡を束ねていく。これを軍師のもとへ届けたら、獣舎へ行ってみようか。
ゆったりと立ち上がった璃空の耳には、の「しょうがないなあ」と困ったように笑う声が聞こえていた。




城内の一角にありながら、人が滅多に近寄ることのない場所。それが、《獣舎》であるが、璃空には今やお馴染みのところである。
大陸一、獰猛で危険な生き物とされてきた虎はもちろん、狼などがいて、また獣舎の首領となった銀色の巨大虎が収容されている獣舎は、厩 ( うまや ) と異なり常に緊張がまとわりついている。君主が揃えたは良いけれど扱えるものがいないという至極当然といえば当然の現実にぶち当たって以来ますます人の気配が遠ざかったが、が面倒を見るようになってからというもの戦でも十分な戦果を上げている。ただ、世話をするものがいない。皆恐れて。
璃空も当初はあまり興味の無い場所であったけれど、と親しくなった現在では、すっかり通うまでになった。
もちろん獣たちへの興味もあるが、一番の理由としては……。

人が来ないからこそ、気兼ねなく恋人として接することが出来るから。

恐れて近寄らないせいですっかり伸び放題な竹林をくぐって、頑丈げに木を幾重に組み合わせた獣舎を視界に入れると、彼がべしゃっと地べたに仰向けになっていた。何とも気の抜けた光景で、璃空は側に歩み寄って見下ろす。

「お疲れ様です、

微笑み言ってみれば、もにっこり笑って「お疲れ様」と返す。きっと、獣舎の餌やりを終えたのだろう。せっかく長身で、身体つきも恵まれているのに、地面に無防備で寝転がるのは……何というか。
璃空は「これが戦場なら、大変なことですよ」と悪戯っぽく言ってみるが、は「ここだと、気が抜けるんですよね」と笑っている。らしい、といえばらしいが……と璃空が肩をすくめると。

「璃空の顔を見ると、どうも普段張ってる気が緩まるもんで」

ほんの一瞬だけ、年齢に相応しい男性の鋭い眼差しになったが、ドキリとする間もなく普段の少年みたいな目になる。

「雪斗に会いに?」
「……ッわざと、言ってますか」
「いーや、言ってみただけ」

悪戯っぽく笑う彼の瞳に、つい胸を跳ねさせてしまう。璃空は「もう」と漏らしながら、の横に座る。は、腹筋の力で上体を起こすと、背中などについた土を払い落として、彼女に顔を向ける。

「良いな、こういうの」
「え?」
「ほら、《恋人》って感じで」

冗談ぽく言っているが、その眼差しに煌く穏やかさ。
それは……普段にはない、甘やかさも含んでる。それを知るのは、自分だけだろうか。そうであるなら、恥ずかしくも優越感に似た感情が込み上げてくる。

「ふふ、《恋人》ですよ。私と、は」

何となしに言った言葉だったけれど、その瞬間、が突如として顔を覆い肩を震わす。

「あの……?」
「……いや、やっぱり貴方は油断ならないなと思っただけだ」

油断ならない?!
ずいぶん穏便でない言葉だ。先ほどの自身の言葉はそんなに変だっただろうかと慌てたが、口元を覆ったの目は困ったように笑いながら喜んでいるようだった。彼らしい仕草に、ドキリとし目を奪われる。

「気をつけてないと、すぐ顔がにやけちまう。璃空が、そういう風に言うと、な」
「い、嫌、でしたか?」

は「まさか!」と即答したが、ならば何故事実を夢のようにほのめかすのかと尋ねてみれば、予想していなかった言葉が返ってくる。

「気付いてるか、貴方は兵たちの間でどんな風に見られているか」
「兵たち、ですか……?」
「そう」

は再び、ごろりと仰向けになった。それを見て璃空は、いそいそとそのの頭の方へと擦り寄ると、足のごみを払い組み直す。は口を開きかけたが璃空の行動につい言葉を止めたようで、不思議そうに見上げていた。

「……何してるんだ?」
「あの、膝枕を」
「ああ、膝枕ねーそれは……って、ええ!!

あまりに大きな声で、獣舎から驚いたような獣たちの鳴声が聞こえた。
ここ最近珍しくもないのだが、は挙動不審になり言葉にならない声が漏れている。そんなに変なことを言っただろうか……一度やってみたかったことなのだけれど。

「ちょ、な、何で急に」
「そのように、驚かれなくても……。殿方は、喜んで下さると、女官たちが申しているのを耳に挟んだことがあったものですから。
……あの、お嫌なら―――――」

止めます、と続くはずだったのだが、それはもう俊敏にがダイブしてきたため喉の奥で留まった。

――――― 温かい。

太ももの上にの頭の重みは、妙に心地良かったことに言い出した璃空も戸惑った。
だが、それ以上に。

「嬉しすぎて、マジで、今なら死ねる……ッ誰か殺してくれ……」

ブルブルと、震えている。
喜んでいるのか否か、と思わず不安になる言葉を呟いているが、見れば彼の特徴的な赤毛の髪にも負けないくらいに、顔が真っ赤だった。璃空まで頬を染めてしまうが、しっかり頭を乗せてくるが可愛いと思えた。
どうやら、喜んでもらえたらしい。璃空は安堵すると同時に、少しの恥ずかしさと微笑ましさにはにかんで見せる。

こんなことをするのも、が初めてだ。また、してやろうと思ったのも。

胸の鼓動が、奇妙に速くなる。見下ろしたの顔は未だ赤かったが、恐らく自分もそれに負けていないのだろうなと笑みを深める。

「で、えーと何の話してたんだっけか……あ、そうそう、兵が貴方をどんな風に見ているかだったな」

誤魔化すように咳払いを交えたが、声の節々に照れ隠しが浮き出ている。

「兵たちにとっては、憧れらしい」
「憧れ、ですか」
「天女だとか言われてるぞ、知っていたか?」

それは……初耳だ。というか、そんな話が出ていたという事実に今驚いている。
首を振れば、は「そうだろうな」と小さく笑った。

「貴方は無意識の内に《高嶺の花》の位置づけに居るんだ。それは周りが勝手に思っていることであっても、結構根付くもんでさ……俺の中でも、貴方は《届かない人》だ。今も、多分そう思ってる」

だから、この関係が実は夢であるのではないか、と思うことは少なくない。
そう言ったは笑っていたが、横顔の瞳は僅かに真剣さも浮かべていた。

「ま、例え夢でも、すがり付くんだろうけどな」
は……」
「ん?」
「夢と現実、どちらであって欲しいのですか?」

は、数回瞬きをすると、普段の幼さを突然下げて隠していた男性の鋭さを浮かべる。
それを間近で見て、ぞくりと背が震える。

「そりゃ当然、どっちも」
「全部欲しがると、身を滅ぼすと以前仰いましたのに……」

はふっと微笑み、身体を仰向けに直すと真っ直ぐる見上げてきた。

「他のものを欲しがったことはないから、これくらいは天も許してくれると思いたいな」
らしい、言葉ですね」

さらり、と胸に流れた髪を後ろへ撫で下げ、笑みを返す。

「私は、のその感情を隠さない言葉が、好きですよ。羨ましいくらいに」

璃空がそう言うと、はまなじりを緩める。

「璃空限定、だがな」
「ふふ……嬉しいですね」

鈴が鳴るみたいに、綺麗に笑みをこぼす彼女を見やり、は「よく笑うようになったなあ」とぼんやり思う。

「ただ、残念なことに場所が獣舎の前ってことで、なかなか決まんないんだよなぁ。せっかく格好良いこと言ったのに」

まあ、確かに背景で獣の鳴声の四重奏が聞こえれば雰囲気なんてあったものではないが。
心穏やかさは、十分すぎるほど温かく満たしていく。

しばしの間笑みを交わし、心地良い静寂が涼しい風と共に流れる。
ポツリ、とがふと呟いた。

「あー、なんか」
「はい?」

下ろした先のは、笑みを浮かべたまま瞼を閉ざす。その無防備な表情を自分だけが見れる優越感……過去の自分であれば、知りもしなかっただろう。

「乱世真っ只中だけど、こういう平和は、幸せだなー」


――――― あの頃の己は、予想しただろうか。
誰かを恋い慕い、想いを通わせ、時間を共有することを。
以前であれば叱り付けている言葉が、心地良く響いていくことを。

「――― そうですね、幸せですね」

竹林に囲まれた空を見上げ、璃空もそう呟いて、思う。
きっと、微塵も考えたことはないのだから、驚くに違いない、と。



彼らが幸せであることを、全力で願うゥゥゥゥ!

そんな想いをつぎ込んだら、終始イチャイチャしてる話になりました。彼らはずっと、こうであって欲しい。
最近璃空様に対し並々ならぬ情熱がたぎる管理人です。

2011.07.08