こんにちは、良い夢を

早い話が、寝不足だった。
将軍へ提出する書簡に、黒いミミズと化した解読不能の文字があちらこちらに走っていたのも。
普段絶対にしないはずの、歩きながら壁にぶつかったり躓いたりしたのも。
あろう事か、たびたび意識が吹っ飛んでいたのも。
……全て、数ヶ月前より続いている国境の防衛戦や賊討伐の連戦が原因だ。

( ……誰か俺に、睡眠をくれ。本当に )

睡眠が与えられるのなら、もう多くは言わない。どんな待遇になろうと、二つ返事で答えても良い。
そんな言葉が胸中を埋め尽くされるの顔ときたら。
普段親しげに声を掛けて来る兵や女官たちが、飛び退くほどであった。

望んで将軍の補佐という副官の立場に就いたわけではないが、就いてしまったものは今更覆しようのない事実で、それを恨んだ事は無い。恨みも無いが、顔からやる気が失せてしまっているのも目が据わっているのも、誰も今は怒らないで欲しい。
「賊が最近悪さをしているらしい、お前ちょっとこらしめてきてよ」という、曹操のまるでお使いみたいな命を受けたのが運の尽きだった。
が帰還する端から、各方面より「国境でいざこざが」「また新しい賊が」「民から苦情が」などなど言いつけられて、連れ出され、ついには始まる前から「これが終わったらこっちね」と予約まで起こってしまい、お前らまじでふざけんなよと思ったのは言うまでも無かった。が、国と上司に対し薄情な態度を取るほど、忠誠心がペラペラな事もないので、は文句は言いながらもきちんと役目は果たしてきた。

そんな彼のいじらしく頑張る姿に、多くの将たちが気遣ってきたものだ。
、お前あんま無理すんなよ。な?」と夏候淵が気さくに声を掛けてくれた。だが、そもそもこの人物もその直前大量の事務仕事を手伝えなんて言ってきたのをは覚えており、複雑な面持ちで頷くしかなかった。正直、殺されるかと本当に思った。

ともかく、分かりやすくいえば、この一ヶ月は文字通りの寝る間を惜しんでの、過酷な超労働だった。
きっと地元の彼を知る人物が聞けば、目を剥いて卒倒するだろう。あのが、まさかそんな他人の為に寝る時間さえも割くなんて!と。

――――― だが、そんな日々もようやく終わると思えば、何を言われても受け流せる。
ギリギリの淵で現実に立ち向かったは、報告書を全て将軍へ届け、あらゆる元凶の曹操からもゆっくり休めと告げられたのは先ほどの事。
ようやくまともな睡眠を得られると思うと、フラフラする足も幾らか軽やかに這った。( この時点でかなりマズイ )
とっとと自室に戻ってしまおうかとも思って、彼は宮廷の回廊を進む。今回ばかりはさすがに獣舎には行けそうにないので、兵たちに是非とも頑張って貰おう。身内である巨大虎―――雪斗にも、餌やりを挑戦してもらって……。

そう思ってぼんやり歩いていたの耳へと、不意に弦を爪弾いた音が届いた。

意識が途切れそうな疲労の中へ、ごく自然に滑り込む緩やかなそれを、はぼんやりしたまま探る。そして、直ぐに見つけた。
回廊の外にあつらえた、小さいながらも手入れの行き届いた庭園の中で、花の木に背を預け竪琴の弦を弾く女性の姿があった。木漏れ日も温かく注ぐ昼下がり、柔らかい光を受ける輪郭は細く繊細な空気が纏われているようにも見えた。
ピンッと張った弦を何度も指で弾き、そのつど調整をしてゆく細かな作業を行う様子を、はしばしぼんやり佇み見つめた。恐らく正確には、普段の儚げな美しさに混ざっている、真剣な表情を見ていたのかもしれないが。
ただ、詩歌や楽にはとんと縁遠い彼にとっては眠気を増長させる大変危険な音にしか聞こえないので、直ぐ立ち去ろうと頭を振った。
が、その動きが視界の片隅に見えたのか、彼女は顔を上げてを見た。

様……いかがされましたか?」

亜麻色の艶やかな髪が、木漏れ日に輝いた。光に映える暖かな肌色をする整った顔にかかり、その向こうでに浮かべた笑みは上品で綺麗なものだった。華奢な身に纏う、蒼い衣装よりもずっと。
彼女の細い指先で弾く弦の音色のように、人を穏やかにさせる声に、はぼんやりしたまま小さく笑みを返す。( 本人は返したつもりだが )

「蔡文姫様……すみません、お邪魔してしまいましたかね」
「いえ、構いませんが……もしかして、煩かったでしょうか」

あっと口元に手をやった彼女――蔡文姫は、申し訳無さそうにを見た。どちらかと言えば、の方が邪魔をしてしまったようなものなので、とんでもないと彼は手を振った。
そうすると、蔡文姫は安堵するように細い肩を撫で下ろして、その膝に抱えた竪琴に触れた。

「弦の、調整ですか」
「はい。楽を嗜む者には欠かせない、日課ですので」

蔡文姫は楽しそうにへ告げた。そして、をしばし見つめ「先の戦では、大変なご活躍だったそうですね」と続けた。

「それに、多くの方々から、その、頼られ参戦していたと……」
「ええ、まあ……」

苦く笑ったの顔は、今にも眠りに落ちそうな顔ではあったのだから、蔡文姫がやや案じるように窺うのも無理はない。
としても、今はあらゆる厄介事から遠ざかり惰眠を貪っていたいほどだ。

「調整の時間をお邪魔してはいけませんし、俺は失礼しますね」

礼をし足を後ろへ下げたが、直後「あ……」と小さな彼女の声が漏れる。

様」
「? はい……?」
「あの、良ければ」

蔡文姫は、整った顔をやや伏せがちにして躊躇う仕草を見せる。そして、やはり小さな声で「良ければ、少しお休みになられていっては」と告げた。
は、礼を組んだまま、動きを止める。休む、というと……。

「……蔡文姫様の、お近くで?」
「戦でご活躍された様に、ささやかながら労いの歌など……余計な事であれば、その」

蔡文姫は、後半はゴニョゴニョと珍しく声を濁していた。
それはもちろん、有り難い事ではある。蔡文姫といえば、確か動乱の最中浚われてたものの、彼女の身を憂いた曹操が自ら金品と引き替えに身柄を保護したというほどの才女。もっぱら曹操が疲れた時や眠る前に楽を奏でて貰っているのも有名な話だが、ともあれ一介の副官のにとっては思ってもない申し出なのである。

そういえば、が面と向かって彼女と話す事も珍しかった。
いや、今までもその機会はあったのだけれど、今ほど長く会話をした事は……初めてかもしれない。

ぼんやりする頭でそんな事を思い出して、は後ろ首を掻く。
……もしもが普段の思考能力を持ち合わせていたならば、「いえいえご迷惑になるので」とも言ったのだろうが、今彼の頭の中にはザ・睡眠くらいしか残っておらず。

「……そう仰ってくれるのであれば、甘えて」

よいしょ、と容易く踏み越えてしまった。
回廊から飛び出ると、ふらふらしながらも蔡文姫のもとへ向かう。彼女は少し慌てながらも、「どうぞ」と隣を指し示したので、は遠慮なく腰掛けた。
竪琴を膝に抱えた彼女は、やはり見た通りに細く華奢で、近付いた事でよりその差は顕著に感じた。が、生憎眠さが直ぐに上回っては対して意識はしていなかった。
むしろしていたのは、その彼女の方だったのだろう。

「……あー、でも、最初に謝っておきます」
「な、何故でしょうか」
「たぶん今、蔡文姫様の竪琴を聞いたら……安らかに眠れそうです」

近くで響いたの声は気が抜けていたけれど、横顔に浮かべた笑みと仕草の男性らしさは遠目で見ていた時以上に放たれ、蔡文姫はぎこちなく首を振った。

「いえ、良いのです。様の、お疲れを癒せるのであれば、私も光栄でございますので」

はにかむように笑みを浮かべて彼女は、竪琴の弦を今一度確認した。
もうその声だけで意識が飛びそうになっていたけれど、せめてちゃんと聞いてからでないと失礼だ、とは踏ん張っていた。

ほどなくし、蔡文姫は竪琴を脇に抱え直し、細い手を弦の上へかざした。
繊細な指先が弾き出した竪琴の音色は、静かな空気を伝うように満ちてゆく。詩歌に疎いでも分かるほどの、優雅であるけれど心さえ宥める優しい調べ。口に出して称賛する喧しさは、きっと不釣り合いだ。
温かい木漏れ日や、葉音が、奏でられる音の中に溶けてゆく。恐ろしいまでに、心地よく。

楽には、とんと疎いけれど。
盗み見た蔡文姫の横顔は優しく微笑んでおり、そして指先はたおやかに弦の上で踊る。
豊かな音は、きっと自分の為に奏でてられていると、でも分かった。

( ……あ、でも……不味いな )

踏ん張った分、気を抜いたら直ぐに睡魔が存在を主張し始めた。
せっかく彼女が気を利かせてくれているというのに、楽に対し教養のない自分が恨めしい。
だが、包み込む暖かさと調べに、もう限界値は越えた。

「……すみません」

は呟いて、ぐらりと頭を揺らした。
「え?」と隣で小さく漏れた声も、既に聞こえない。

傾いたの身体は、一度蔡文姫にぶつかった。
彼女は竪琴を奏でていた手を止めて横へ向くも、彼の紅鳶色の髪が視界を覆い、そうしてずり落ちる。長身の身体は、呆気なくそのまま倒れ、必然的に隣にあった蔡文姫の膝上へと頭が乗った。

、様……?」

驚きすぎて、大きな声だって出なかった。膝の上に落ちたの頭の重みと暖かさはしっかりと感じて、なお一層彼女は慌てたけれど。
スウー、と聞こえる寝息に、蔡文姫は首を傾げた。
恐る恐る真上から窺うと、の瞳は閉ざされ、薄く空いた口からは寝息がしっかり聞こえてくる。広い肩は上下し、投げ出された両手はぴくりとも動かないでいる。

……きっとよほど、疲れておられたのでしょうね。

蔡文姫も、此処のところの軍の動向は見聞きしており、その中でのの多忙さも兵や女官たちから聞いていた。だから、せめてその疲れを癒せないかと自らの調べを披露しようと思ったのは、他意はなく善意であった。
庶民の出身ながら、将軍の副官に上り詰めた男……だがこうして見ると、二十代前半ほどの働き盛りの溌剌した男性で、むしろ何処かあどけなさすら浮かんでいるように思う。
異性の無防備な姿を初めて見て、蔡文姫は思わずじっと窺っていた。そして、半ば無意識の内に片手を伸ばす。細い小さな手のひらは、微かに眠るの頭を触れた。が、直ぐに我に返って離し、ドキドキと急に鳴り始めた心臓を抑えるように自らの胸に手のひらを置く。

暖かな木漏れ日が、まるで夏の日の陽射しのようだ。
頬が、ありもしないほどに熱くなる。
けれど不思議と、嫌な気分にはならない。この熱さも、倒れ込んだの姿も。

「……せめて私の調べが、貴方様のお疲れを癒せますよう」

届かないだろうけれど、蔡文姫はへそう囁いた。
普段の穏やかな彼女の声が、この時躊躇いながらも甘く微笑んだ事を、は夢の中で知る事になる。だがその眠る横顔は、一ヶ月ぶりのまともな急速と優しい子守歌で無防備に緩んでいた。

蔡文姫は、再び竪琴に手をかざした。細い指先が紡ぐ美しい音色は、静かな空気を弾ませ響き渡り、二人の間に不思議な温もりを生み出していた。


――――― どうかまた、貴方様が私の調べを聞いて下さりますよう。



蔡文姫って可愛いよねって話。
彼女の音楽を聴きながら、膝枕とか……クッソ羨ましいと思う。
嫉妬で思わず口も悪くなります。

2012.12.9