理由なきジェラシー

孫尚香の身の回りの世話を行う女官たちの、他愛ない噂話だった。
いつものように、煌びやかな装飾絢爛の衣装を着させようとする女官に囲まれて。
いつものように、ふんだんの化粧を施そうと化粧道具を持つ女官に座らせられ。
そして、いつものように、それら全て拒んで普段好んで身にまとうさっぱりとした着物を着る。
ここまでは、なんら変わらない今朝の光景。朝日差し込む窓辺は、甘い花弁の赤い色で縁取られて鮮やかに照らされ、緩やかに掛けられた衣が透き通ってはためく、尚香の自室の光景だ。
馴染みの女官たちともなれば、他愛ない噂話も交わすほどなのだが、今朝のそれは多少異なっていた。

「最近、新人女官たちの話を聞くのですけれどね、若いって良いわって思うのですよ」

そう言ったのは、尚香付きの女官として最も長い女性であり、女官の中でもベテランと呼ばれる人物だ。三十代後半ほどだろうが、宮廷に仕える者として年を重ねるごとに気品が増していき、尚香にとっても気心知れてそして憧れも抱く女性だ。慣れた手つきで、尚香の亜麻色の髪を丁寧に梳いていく。
鏡台の前に座る尚香は、鏡に映る女官を見つめ、「どんな話?」と尋ねる。女性は小さく笑っていた。不思議がっていると、すぐ後ろで控えていた別の女官が代わりに言った。

「新人のあの子たちには、あの方の気さくな優しさや親しみやすさは、きっと憧れなのですわ。姫様」
「ええ?」
「ほら、姫様もよーくご存じでいらっしゃる、あの方」

女官たちは柔らかい頬笑みを浮かべていた。

「殿に毎日、獣舎の世話担当がやりたいと申し上げてはお断りされていらっしゃる、あの方です」

……あ。
尚香はすぐさま、誰か分かった。そんなことをする者といえば、この国で《彼》しかいない。

「副官をされてらっしゃる、様です」

。この国では、変わり者として有名な副官だ。というのも彼は、度々山村を襲う野生虎の群れの親玉である巨大虎を、自らの相棒と言ってそばに置いている。氷の嵐を巻き起こす白虎で、彼によく懐いているが、それ以外の人物に甘えている姿は見たことがない。
副官と言えど、彼の場合は少々特殊で、その巨大虎に乗り戦に駆り出る姿と副官というには惜しい武芸の持ち主であることから決まった上官は持たず、いわばこの国の武将たち全てが上官であり仕えるべき主である。
そして、尚香にとっても、親しい男性だ。

「えと、が……?」
「ふふ、新人女官たちの間で、今憧れの男性らしいのですわ」

さあ、前を向いて下さいませ、と女官に顔の向きを直されて、髪に飾りを施される。
尚香は、ドクリと跳ねた自らの心音が伝わっていないかとヒヤヒヤした。

――――― 憧れ。

その言葉が、妙に尚香を戸惑わせた。
女官たちは、尚香の様子には気付かず、噂話を弾ませる。

様って、ちょっと他の方々と違うじゃないですか? 将軍方の副官をされるだけあって気品も持っていながら、とても親しみが持てると言いますか……こう、変に緊張したりしなくても話が出来る方ですよね。私も恥ずかしながら、そう思っていまして。
地方から奉公に来ている娘もいるのですが、様のああいった礼など気にしない気さくさには、ずいぶんと惹かれているようです」
様は、確かに変わってらっしゃる方ですが、あのように気遣って下さったり、威張り散らさないところには確かに憧れるのかもしれませんね。
新人女官の中では、あの方に恋までしてらっしゃる子までいるとか……ふふ、噂話ですけれどもね」

笑みを含む女官たちの会話を、尚香はぼんやりと聞いていた。噂話であっても、まさか、のそういった話を聞くことになるとは。いや、確かに彼は人に好かれる性格だ……尚香がそれを理解しているはずだ。だが、何故かそれをいざ聞いてしまうと、戸惑っている彼女がいた。
何故、戸惑う必要があるのだろう。周瑜や陸遜などのそういった話は、聞いたことがあるのに。
女官たちの華やぐ話も、尚香には素通りで過ぎていってしまう。無意識のうちに表情も曇っていき、鏡に映る彼女は視線が下がりがちだった。
彼女の髪を整えていた女官は、それにいち早く気付き、静かに「お喋りはそのくらいになさい」とやんわりと賑やかな声を制し、尚香の細い肩にそっと手のひらを重ねる。

様の関わるお話は、お好きじゃありませんでしたか?」
「え?! あ、いえ、そういうことじゃ……」

パッと顔を上げ、半ば反射的にそう漏らすと、鏡に映る女官は妙ににっこりと微笑んでいた。尚香は、「もう!」と唇を尖らせるが、それは恥じらう様子にも取れ、女官はクスクスと笑う。

「さ、終わりましたわ。本日も、姫様の魅力が存分に表れるようさせて頂きました」
「もう、またそういうこと言って。本当は派手な服着させたいとか、後で言わないでよ?」
「あら……先手を打たれてしまいました」

こういった軽口を叩けるのも、彼女だからだ。
尚香は礼を言い立ち上がると、自身の身体を見下ろして確認し、「よし」と手を握る。道具を片づけながら、女官は尚香へ尋ねる。

「本日は、確か孫策様や孫権様とご朝食を取られるのですよね?」
「ええ。これから、権兄様の部屋へ行こうと思うの」
「そうですか、ご一緒に……」
「良いってば! 貴方達だって他に仕事あるんでしょ? 一人で行けるわ」

尚香も、孫呉の姫らしかぬサバサバとした性格だった。そう言って女官たちには別の仕事へと移ってもらうのもいつものことだ。
しばし考え込むと、女官は「かしこまりました」と恭しく頭を下げて、そして小さく呟く。

「そうですわ、様にご同行をお願い致しましょうか」
「え?!」

予期せぬ名前が上がり、尚香はあからさまに動揺する。

「べ、別に良いわよ。だって、忙しいもの」
「そうですか……?」

きょとんとした面持ちをしながらも、女官たちは静かに下がっていった。ただ、やはりあのベテラン女官はニコニコと終始笑っていた。まるで、尚香の胸の内に気付いているような、そんな笑みだった。
自室で一人になった尚香は、椅子に倒れるように腰掛け、天井を見上げた。

「……憧れ、か」

あのが、女官に今人気。ポンッと浮かぶ、彼の顔を、尚香は思わず睨む。精悍な顔立ちに悪戯な笑みを浮かべる赤毛の男性は、かれこれ数年の付き合いであるが、そう言えば彼の浮ついた噂話は聞いたことがない。気にしたことなどなかったが、先ほどの女官の話が妙に繰り返し響く。

新人女官の憧れ。

彼に恋する娘もいる。

……腹が立つ。何故だろう、とてつもなく、腹が立つ。

「……もう、何よ」

自らのその苛立ちに呟くと、立ち上がり部屋の扉の前へ大股で歩み寄る。やや乱暴に開けると、広い回廊へ飛び出し、兄の部屋を目指した。その間も、妙に気が立って落ち着かなかった。すれ違う兵は挨拶をした後「やべえ俺なんかしたか?!」と非常に焦る声が聞こえ、すれ違った甘寧や太史慈も八つ当たりまがいなことをした。子どもっぽいと自分でも思った。これではまるで、の噂を聞くことが嫌だと言っているような……。

( ……嫌? 何で、嫌だなんて思わなきゃならないのよ )

堂々巡りばかり繰り返して、一向に新しい気分にはならない。そうしているうちに、いつのまにか孫権の自室付近を歩いていた。静けさも一層強く感じ、そして同時に尚香の胸の中の苛立ちも強く浮き出る。気にしていてもしようがないのに、と頭を軽くトントンと叩き、彼女は顔を真っすぐに上げた。
が、その目的の部屋の前では、兄である孫権と……今まさに思い浮かべていたの姿があって。尚香の表情が、先ほどよりも不機嫌さを増した。
二人は、尚香の存在に気付くと話を一度止め、振り返って「おはよう」と言った。彼女の表情には、まだ気付かない。

「ああ、おはよう。尚香」
「おはようございます、尚香様」

兄弟であるため気軽な孫権と、その傍らで恭しく臣下の礼を取る。尚香の視線は、に向かっていた。
あの話を聞いた直後だと、彼の一つ一つの仕草や表情が妙に気になる。男性のわりに全体的に細く、しなやかな筋肉や浮き出た首筋や腕の筋は男のものであるが暑苦しい印象はなく、呉の武将である凌統に近いものがある。ただ異なるのは、の方が皮肉めいたものがない、ということだ。穏やかな空気と、緊張の要らない笑みは、尚香が見てきたものだが……これが、女官たちの惹かれるものなのだろうか。
確かに彼は、優しい。庶民出身である彼は、庶民出身の女官や兵のことを最も上手く理解出来る。高貴な家柄である者には、絶対に深くまで理解出来ないところをは知ることが出来る。彼にだけ知ることの出来るものがある。そしてその優しさは、穏やかさに繋がり、親しみにも繋がって……―――――。

……そう思ったら、何故か、表立って見える彼の良い所が腹立たしくなる。

「しょ、尚香、どうした?」

ジトーッと、あまりに尚香がを睨むため、孫権が割って入るように声を挟むが、尚香の視線はそれを突き通っていく。
顔を上げたら突然尚香の不機嫌顔があったとしては、非常に困った事態だ。尚香は睨んでくるし、困惑する孫権が振り返ってくる。身に覚えのないその恨みに、は孫権に無言の首振りで訴えるが、尚香の不機嫌顔は止まらない。
彼女は、ムスッとしたまま二人に歩み寄ると、通り過ぎ、孫権の自室へ踏み入れる。そして、を肩越しに見ると、唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。

「え、えーと、尚香様……? 俺が、何かしましたか、もしかして」

困ったようにが呟くが、その声音には優しさも含まれていて、尚香に痛みをもたらす。彼のこういった何気ない気遣いを知っているのは、自分だけではないのだ。彼の優しさは、自分のものだけではなく、他人にも感じさせるもの、当然だというのに。

( 何よ、むかつく……! )

苛立ちが頂点にまで到達し、尚香はつい大きな声を上げてしまった。

「別に、が女官にモテて良いわねってだけよ!!」

尚香はそれだけを言って、扉を閉めてしまった。取り残されたと孫権には、困惑だけが置いていかれ、早朝の静けさが沈黙になっていた。
結局二人には何のことだか分からなかったが、尚香の機嫌はその日直らず、甘寧などが被害を被ることとなる。原因を作ったらしいはさっぱり分からずじまいではあるものの、孫権や孫策に言われるがまま尚香のご機嫌取りに追われていたとか。
ただ、その話を聞いた尚香付きのベテラン女官だけが、微笑ましそうにニコニコ見つめていたらしい。その理由を聞こうにも、尚香の八つ当たりの餌食となった者たちの悲鳴で消され、謎のまま終わることとなる。



男主は、モテモテだという話になりました。
尚香は嫉妬、でもそれが嫉妬の感情とは気付かない。そんなやきもきするようなピュアな二人にもときめきます。

2011.02.01