僕の心が満たされるまでに

まだ陽も高い刻限だというのに、城の奥まった場所にある書庫の中は薄暗い。
大量に保管されている竹簡やら書物の独特の臭いにも馴染めず、普段ほとんど近寄らない場所ではあるのだが――

( 相変わらず、人の使い方がお上手なことで )

年若い軍師に押し付けられた竹簡の束を抱え直し、凌統は扉に手をかけた。


山賊退治の報告のために執務室を訪ねると、不自然なほどにこやかな笑顔の陸遜に迎えられた。
長年の経験から、彼が何か企んでいることを察した凌統が手短に報告を済ませ、執務室を後にしようとした、その時。

「お手すきでしたら、それを書庫に持って行っていただけませんでしょうか?」

陸遜に呼び止められ、その視線の先を辿ると、竹簡の束が机の一角を占拠している。
あからさまに嫌そうな顔をした凌統が口を開くより早く、陸遜が言葉を続けた。

「璃空殿も、書庫にいらっしゃいますよ。先ほどこちらに見えた時に手伝いをお願いしたら、快く引き受けてくださったので。…お願いできますか?」

これ以上ないほど爽やかな笑顔を見せる陸遜に言葉を返すこともできず、凌統は黙って竹簡の束を抱えたのだった。




「璃空、いるかい?」

奥から聞こえてくる物音を頼りに声をかけると、立ち並ぶ書棚の間から、目当ての人物が顔を出した。

「凌統様?」

こんなところで自分に会うとは思わなかったのだろう、きょとんとした表情でこちらを見ている璃空に、抱えている竹簡の束を見せる。

「俺も、軍師殿の手伝いでね」

肩を竦めながら言う凌統に、ふわりと柔らかく微笑む。
見るものに安堵を与えるような微笑みだが、それを見た凌統の胸は、小さく痛んだ。

初めて璃空に会った時は、「こいつが一軍の将か」と驚き半分疑い半分だった。
一軍を任せられるのは、数多い武将の中のごく一握りに過ぎない。屈強な男が多い中、小柄な璃空の存在は場違いにも思えた。
だが、一度戦場に立てば、まさに鬼神の如き働きを見せる彼女の姿を何度も見ているうちに、その立場に見合うだけの力を持っていることを認めるようになって。それと同時に、なんとももどかしい思いが胸を占めるようになっていった。
常日頃の穏やかな物腰が、偽りのものとも思えない。だが、幾度となく見た戦場に立つ彼女の姿とは、あまりにもかけ離れている。
そして、気になることは、それだけではなくて――

「凌統様?どうかなさいましたか」

呼びかけられ、自分の手が止まっていたことに気付く。

「あ、あぁ…。悪い、ぼーっとしちまった」

抱えたままの竹簡を棚に戻しながら、横目で璃空の様子を窺う。
肩当と小手を外した軽装になっているせいで益々小柄に見える彼女が、忙しそうにちょこまかと動き回る姿は、なんとも言えず愛らしい。

――今、この部屋の中には、ふたりだけしかいない。

千載一遇とも言える好機に、凌統は覚悟を決めた。

「ひとつ、訊きたいことがあるんだけど」

少し離れた書棚の前にいた璃空に歩み寄り、声をかける。本を棚に戻す作業をしながらこちらに顔を向けたのを確認して、小さく息を吸い込んだ。

「あんたの大切なものって、なんだい?」

――ずっと、気になっていたこと。
それは、自らの身を顧みることなく戦う彼女が何を思っているのか、ということだった。

「…どうして、そんなことをお尋ねになるのですか?」

突然そんなことを尋ねられれば、誰でもそう訊き返すだろう。

「気になるから」

間髪入れずに返せば、こちらを見ていた璃空が視線を逸らしてしまう。

「申し上げる必要は、ないかと」

作業の手を止めずに言う璃空に、なおも凌統が食い下がる。

「いいから、教えてよ」

答えを聞くまで引くつもりがないことを悟ったらしく、手にしていた本を棚に収めてから、璃空は凌統に向き直った。

「全部、です」
「全部って?」
「この国も、人も。私の周りにあるもの、全てです」

淀みなく答える璃空には、一切の迷いがなかった。
その一言で、凌統の中にあった疑念が、確実なものとなる。

「じゃあ、あんた自身は?『大切なもの』の中に、入ってる?」

その問いが予想外だったのか、目を瞬かせている璃空に、凌統は言葉を続けた。

「俺は、あんたがいなくなったら悲しいし、辛い。俺だけじゃない、あんたを知っている奴…あんたが『大切』って思ってる奴だってそうだ。だから、あんた自身も大切にした方がいいんじゃないの?」
「…仰っている意味が、分かりません」

真っ直ぐ自分を見つめる凌統から逃れるように背を向け、棚の上に無造作に置かれた竹簡を取ろうとした璃空の身体が、ぐらりと傾いた。

「じゃあ、もっと分かりやすく言おうか」

いつのまにか背後に立っていた凌統に肩を掴まれ、そのまま壁に背を押し付けられる。
反射的に肩を掴む手を外そうとした璃空だったが、いつになく真剣な表情の凌統に見据えられ、その動きを止めた。

「俺は、あんたに死んでほしくないし、無茶もしてほしくない。あんたに、惚れてるから」

――しばしの沈黙の後、ゆっくりと璃空が口を開いた。

「物好きな方ですね」

真顔で返され、凌統の肩ががっくりと落ちる。覚悟はしていたが、実際に言われると、とてつもなくダメージが大きい。

「…告白されて、開口一番にいう言葉じゃないっての」

がしがしと頭を掻きながら顔を上げ、再び璃空と向き合う。
こちらを見上げる瞳には、恐れも、嫌悪も、好意的な感情も――何も映っていない。

「突然こんなこと言われても、寝耳に水だろうけどさ。でも、知っていてもらいたいんだよ。あんたが周りを大切に思ってるように、あんたを大切に思ってる奴がいるってこと」

自分の気持ちを伝えたところで、璃空が変わるとは思えない。
それでも、知っていてほしかった。

「…どうして」

果てしなく続くかと思われた静寂を破ったのは、璃空だった。

「どうして、そんなことを仰るんですか?」

困惑を滲ませた声は、普段の璃空からは想像もできないほど弱々しい。

「さっきも言ったろ?俺は、あんたに惚れてるの。もっとあんたのことを知りたいし、俺のことも知ってもらいたい。…もちろん、あんたも合意の上で、だけどね」

務めて軽く、普段通りの口調で言うと、僅かに璃空の表情が和らいだ。

「あんたが嫌だって言うなら、これ以上近付かない。さっき俺が言ったことも、忘れてもらってかまわない。けど、そうじゃないなら…」

そこで言葉を切ると、掴んだままの肩を引き寄せ、璃空を腕の中に閉じ込める。

「俺に、あんたのことを教えて。あんたの全部、俺に見せてよ」

穏やかな笑顔の裏にあるものも、戦場で見せる烈しさの中に潜むものも。その小さな身体で抱えているものを、全て。
そう言葉で伝えても、璃空には届かないような気がして。その代わりに、小さな身体を抱きしめる腕に、力を込めた。

「俺にこうされるのは、嫌じゃない?」
「…分かりません」

口調こそ戸惑っているものの、璃空の身体に力は入っていない。容易く振り払えるはずの自分の腕から逃れようとする素振りがないことに、凌統は小さく安堵の溜息を吐いた。
――遡ること、数日前。
酔った甘寧が璃空に抱きつこうとして、それは見事な放物線を描いて投げ飛ばされていた光景が脳裏に蘇る。
とりあえずは、第一関門を越えられたらしい。そのことに喜びを感じたのも束の間、更なる欲求には勝てずに、凌統が行動を起こした。

「じゃあ、これは?」

璃空の顎に指をかけて上を向かせると、身を屈めて顔を近付ける。鼻先が触れるか触れないかというところで、そっと様子を窺うと――

「…」

身動ぎひとつしない璃空の瞳が、僅かに揺れた。

「これはちょっと嫌、と」

言いながら軽く頭を撫でてやると、そのまま璃空の背中と膝裏に腕を回し、軽々と抱き上げる。

「きゃ…っ」

小さな悲鳴を上げた璃空を抱えたまま、書庫の隅にあった長椅子に腰を下ろす。膝の上に乗せられ、じたばたと逃れようとする小さな体を封じ込めるように、自分の方に引き寄せた。

「お、重いですよ」
「軽いっての。…ほら、暴れると落ちるぜ?」

背中に回した腕の力を緩めると、バランスを崩した璃空が慌ててしがみついてくる。
くつくつと喉の奥で笑う凌統に、珍しく機嫌を損ねたらしい璃空が、頬を膨らませて詰め寄った。

「…これで、私のことが分かるんですか?」
「相互理解の方法のひとつ、ってね。これは、序の口も序の口だけど」

頭の周りに大量の疑問符を飛ばしている璃空の表情は、今まで見たこともないほど幼いもので。
自分の見たことのない璃空を、これからどれだけ知ることができるか。そう考えただけで年甲斐もなく胸が高鳴っている自分に気付き、凌統は微かに笑った。

「納得いかないって顔してるね。でも、そのうち分かるようになるって」

それでもまだ何か言いたそうな璃空の頭を自分の胸元に引き寄せ、囁く。

「今は、あんたが俺を拒まないだけで充分」

――そのうち、抑えが効かなくなりそうだけど。

心の中でこっそりと呟いて、璃空を抱く腕に力を込める。
僅かに強張っていた小さな身体からゆっくりと力が抜けていくのに、そう時間は必要なかった。



凌統がイケメンな話。
俺書くよりあずみ様に任せた方が良い気がしてきた話でもあります。
その才が、羨ましい……! 大好きだ!

2011.04.29