溺れてしまえば、分かるだろう

必要最低限の物しか置かれていない寝室を訪れる度、なぜか胸の奥が痛む。
ここの主が飾り立てるようなことを好まないのは充分承知していているが、彼女の身の回りにあるもののほとんどが簡素であることが、にはもどかしかった。
彼女――璃空の心が、日常の生活に向けられていなかったことを、思い知らされるようだったから。
そんなことを思いながらも、の手は休むことなく、寝台に組み敷いた璃空の寝衣を脱がせにかかっていたりするのだが。

「あの、あまり見ないで…」

それまで身に纏っていた薄手の寝衣を奪われ、恥ずかしそうに胸元を隠そうとする細い腕をやんわりと押し止め、柔らかな曲線を描く輪郭を確かめるように、の手が璃空の身体をゆっくりとなぞっていく。
しっとりと手に吸い付くような肌は、雪を思わせるほど白く、艶やかだった。その白さと艶やかさだけを見れば、彼女が戦場に立つ将だと言われても信じ難いだろう。しかし、その肌には、決して少なくない傷が刻み込まれていた。
小さいものや、目を凝らしてようやく分かるものの方が多いとは言え、深手を負ったであろうことが分かる傷跡が目を引く。それを消すことも癒すこともできないが、指で、唇で、そっと慈しむように辿れば、剣を持つには不似合いな華奢な身体がふるりと震えた。


思い出すだけで自分を褒めてやりたくなるような紆余曲折を経て、ようやく想いが通じ合ったのは数か月前のこと。そうなれば、もっと深く相手を知りたいという欲求に勝てるはずもなく(勝つつもりもないが)、これまた涙ぐましい努力(主に璃空の説得)の結果、璃空の全てを手に入れることができた。
他愛ない話をして笑いあうことも、他人に見せることのない幼い表情を見るのも、かつては叶うことがないと思っていた。それが実現し、手の届く距離に愛しい人がいる以上、これ以上望むことなどあるはずもない。
――ない、はずなのだが。

( 不満はないけど、これはちょっと、なぁ )

心の中でぼやきつつ、それでも愛撫の手を止めずにこっそりと様子を窺えば、ぎゅっと目を閉じ、唇を噛みしめている璃空の姿が目に入る。今に始まったことではないけれど、いつまで経っても堪えようとする姿がもどかしくて、は少々手荒い手段に出ることにした。

「ひっ…あ、ああぁッ!」

それまでの緩やかな動きから一転して、突如弱い部分を責め立てられた璃空の唇から、掠れた悲鳴が上がる。しかし、すぐに唇は固く引き結ばれ、その瞳も閉じられたままだった。
それを見たが手を止めることはなく、更に追い打ちをかけていく。

「…や、いやぁ……ッ!」

容赦なく自分を追い詰めていくから逃れようとするが、片腕でしっかりと抱きかかえられているため、身を捩ることすらできない。璃空が解放されたのは、限界まで追い立てられては寸前で動きを止めることを繰り返され、堪えきれずに甲高い嬌声を上げて大きく身体を震わせた後のことだった。
くたりと脱力し短い呼吸を繰り返している璃空の額に口付けると、ようやく瞼が開かれた。潤んだ瞳は未だ焦点が合っておらず、やり過ぎたかと反省する気持ちがある一方、もっと追い詰めたくなる衝動に駆られそうになってしまう。

「声、我慢しなくていいのに」

苦笑混じりに言えば、ふるふると小さく首を振られた。

「誰かに聞かれたら、嫌です…」
「俺しか聞いてないって。…というか、他の奴に聞かせてたまるか」

所在無げに敷布を掴んでいた手を取って、指を絡ませる。躊躇いがちに、しかししっかりと握り返してくる小さな手が、愛おしかった。

「力、抜いてて」

囁きながら涙の滲む眦に口付け、ほっそりとした両脚の間に自分の身体をねじ込む。そして、いざ腰を進めようとした、その時――

「あの、ちょっと、待って。…お願いが」

予想外の言葉に動きを止められたの前に、体を起こした璃空が正座する。寝台の上で、しかも互いに一糸纏わぬ状態にはそぐわない、何か覚悟を決めたような表情で見つめられ、思わずも姿勢を正していた。

「私がいいと言うまで、目を閉じていていただけませんか?」

必死の形相でそう訴えられ、思わず首を縦に振ってしまった。頷いてしまった以上、いつまでもそのままいるわけにいかず、ゆっくりと瞳を閉じる。
しばらくの沈黙の後、何事かをぶつぶつと呟いている璃空の声が聞こえたが、ここで目を開けるわけにもいかない。璃空の気の済むようにさせようと、少しだけ身体の力を抜いた、次の瞬間。

「―――ッッッ!?」

己自身に感じた柔らかな感触に、思い切り目を見開いてしまう。そのまま視線を下ろせば、自分の足元(というか、下半身の辺り)に蹲っている女の姿が飛び込んできた。
いくら薄明りの中とは言え、青みがかった黒髪を見誤るはずもない。そもそも、この場にいるのは自分と璃空だけなのだから、他の人間であるはずはないのだが、そこら辺が頭の中から吹き飛ぶ程度に、は混乱していた。

「ちょ、璃空!? 何やって…ッ」

慌てて声をかければ、不安そうに見上げてきた璃空と視線がぶつかった。しかも、たどたどしく己自身を唇で辿られながらという、とんでもない状態で。

「あの、こうすると、殿方は気持ちいいと、聞いて…」

――そりゃ、大変気持ちいいですけれども。

正直に答えそうになるのを堪え、は足元に蹲ったままの璃空を抱え起こした。
何から問い質していいのやら、どう聞き出したらいいのやら、色々と思考回路が焼き切れそうになる勢いで考えを巡らせたが、結局口にしたのは――

「誰に聞いたんだ、こんなこと」

言っておいて自分でも呆れてしまうほど、単刀直入な問いになってしまった。

自分が「初めて」だと、初めて夜を共にした時に言われている。
璃空自身が言葉に出すことはなかったが、酷く痛みを与えてしまったのは、その表情からも――寝具に残された破瓜の証からも、察することができた。
あれから何度か夜を共に過ごしてきたが、そういった経験はもちろん知識もないというのは、ぎこちなかったり、されるがままの様子を見れば疑う余地もない。だからこそ、誰の入れ知恵なのかが、どうしても気になってしまう。
ここで男の名前が出たら、相手が誰であろうと殴り込みをかけそうだと思いながら、璃空の答えを待った。
しばらくの間迷った末に、彼女がおずおずと口にしたのは――

「…月英様に」

璃空がその名を出した途端、この国でも名高い才媛の姿と同時に、その夫である天才軍師の姿が脳裏に浮かび、の背に冷や汗が流れた。月英が、こんな話を諸葛亮にするはずがないと思っていても(半ば祈るような気持ちで信じるしかない、とも言う)、どうしても悪寒が付きまとうのだ。
の顔が引き攣っているのに気付き、慌てて璃空が言葉を続けた。

「先日城でお会いした時に、『何か悩みでもあるのか』と訊かれたのです。そのまま言うわけにもいかずにいたら、『後で、役に立ちそうなものを届けさせるから』と仰って…」

そう言われてから4日が経った今日、璃空の下に月英からの使いがやってきた。「ひとりで見るように」と念を押され、添えられていた月英の書状にも同様のことが記されており、余程重要なものかと身構えてしまったらしい。
そんな経緯を経て月英から届いた、やけに頑丈に封をされた包みから出てきたものは、一冊の書物だった。表紙に何も記されていないそれは、誰かの手によって認められ、綴じられたばかりの新しいもののようであったと、璃空は言った。

「中を拝見したら、その…。殿方の悦ばれる方法、というのが。色々と…」

流石に恥ずかしくなってきたのか、語尾はほとんど聞き取れないほど口籠っていたが、凡その事情はにも把握できた。

( どれだけ鋭いんだ、あの方は… )

あの諸葛亮が是非にと求めて妻に迎えたことは、誰もが知る所である。ただの女性だとは思っていなかったが、まさかこんなことでそれを実感するとは――
そこまで考えたところで、ふと頭の中を疑問が過った。

「相手が月英様とは言え、他人に気取られるほど悩んでたのか?」

普段の璃空は常に穏やかな笑みを浮かべていて、心の内を他人に悟られるようなことは、ほとんど無かったはずだ。
付き合いの長い人間であれば感情の変化も読み取れるようになるが、いくら相手が鋭いとは言え、悩んでいることを(内容まで含めて)看破されるなど、そうそうあることではない。

「だって…」

じっと自分を見つめるから逃れるように、璃空の視線が寝台の上に落とされる。しばらくの沈黙の後、消え入りそうな声で告げられた言葉は、にとてつもない衝撃をもたらした。

「いつも、貴方にばかりさせてしまって、私は何もできないから…。少しでも、悦んでもらいたくて」

伏し目がちに言う璃空の前で、寝台に突っ伏しそうになるのを、は堪えた。それはもう、全力を振り絞って。
いつもは恥ずかしがって態度に表すことも口に出すこともしないくせに、時折とんでもないことをしたり言い出すのは重々承知しているが、いざそれをされるとどうにも対処できなくなる。かの悪来が振り回している鉄球よりも破壊力があるんじゃないかと、頭のどこか遠くでぼやく自分の声も、なんの足しにもならなかった。

「いや、気にすることないって。充分満足してるから、俺」

なんとか事態を収拾しようと必死に言い募るが、璃空の気持ちを晴らすには至らないらしい。

「でも、申し訳なくて…。他の方は、もっと上手にできるのでしょうか」

見るからにしょんぼりとしている璃空の姿に、更にの動揺が倍増した。顔だけ見ていれば少女を苛めているような気になるわ、全体を視界に入れてしまえば、白い肌やら細身で小柄な身体とは不釣り合いな豊かな胸が飛び込んでくるわで、どうにもならない所まで追い詰められているような心境になってしまう。

「いや、上手下手はあるかもしれないけど、相手が誰でもいいってわけじゃないし」

なんとか璃空の気をそこから逸らそうと、必死に言葉を紡ぐ。それが却って逆効果になっているのだが、そこまで気を回すだけの余裕はなかった。

「それに、ほら。書いてある通りにやっても、なんと言うか、達成感がないと言うか。だから、止めましょう。ね?」

似合わない敬語が混じった上、己がとんでもないことを口走ったことに、慌てふためくが気付けるはずもなく――

「…そうですよね」

小さく呟いた後、ゆっくりと顔を上げた璃空の表情は、清々しいほどの決意に満ちていた。

「何事も、自分で考え、やってみなくては。私、頑張ります」

――止めるつもりが、余計やる気を出させてしまったらしい。
事態を治めるつもりが、却って墓穴を掘ったことに気付いたが、時既に遅し。見た目に反して、こうと決めたら一歩も退かない頑固さを秘めているのは、今まで何度も思い知らされてきた。
それは主に戦場でのことだったが、こんなとこまで頑固じゃなくても良かろうに。がっくりとうなだれそうになる自分と戦いながら、それでもようやく、は冷静さを取り戻すことができた。
突然のことで驚きはしたが、「してほしいか、してほしくないか」と問われれば、「よろしくお願いします」と即答したいのが本心だ。それに、惚れた女が自分に尽くそうとしているのを押し止められるほど、達観しているわけでもない。

( そもそも、聖人君子でも無理だろ、それは )

心の中で独り言ちて、は大きく息を吐き出した。

「分かった。もう止めない」

そう告げれば、ぱぁっと璃空の表情が明るくなる。つられて口元が綻びそうになるのを、咳払いをひとつしてやり過ごすと、そのまま言葉を続けた。

「でも、一度にあれもこれもじゃ、もったいない。どうしてもって言うなら、少しずつにしてもらえるとありがたいんだけど」

璃空に無理をさせるわけにもいかないと、せめてもの譲歩として提示した案は、すぐに受け入れがたいものだったらしい。

「でも…」

言いかけて口を噤んでしまった璃空の表情からは、戸惑っているのが見て取れた。その先を言おうか言うまいか、逡巡しているようにも見える。
その様子から璃空の言わんとするところに気付き、は僅かに眉を顰めた。
以前の彼女なら、言いよどむことなく「戦場に立つ以上、これが今生の別れにならないとも限らない」ぐらいは言っただろう。そこに迷いが生じるようになったことが、果たして璃空にとって良かったのか。その答えは、も持ち合わせていなかった。

「これから、いくらでも時間はあるから。だから、今日はここまで」

沈んでしまった空気を振り払うように、務めて明るく、いつものように笑って見せれば、ようやく璃空の表情も明るいものに変わった。
ようやく落ち着いたことに安堵の溜息を吐いた後、は目の前の小さな身体を腕の中に引き寄せると、そのまま寝台の上に組み敷いた。
突然のことに呆気にとられている璃空を見下ろし、にこりと笑って見せる。その笑みが、他の人間にも見せている気さくなものではなく、明らかに欲を滲ませたものであることを、自身も気付いているだろうか。
そして、視線に射竦められたように固まってしまった璃空の首筋に顔を埋め、は耳元に唇を寄せた。

「ここからは、俺の番」

甘く囁かれた言葉に目を瞬かせたのも、ほんの数秒。すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべ、璃空はその手をの背に回した。



――それから、数日後。
諸葛亮が、書簡を届け来たに、何やら小さな包みを渡していたとか。
中に入っていた小瓶と、添えられていた達筆すぎる説明書きに記された「それ」の効能に、が頭を抱えていたとか。
そんな話があったとか、なかったとか。



女神がおるで……! 女神がおるで……!

小説を戴いた日は、大体こんな感じにテンパってました。うわァァァァァい!!
何故うちの子は、この方が書くとイケメンに変貌するのだろう。その技術を、分けて欲しいです。
本当、ありがとうございます! これからもドンドン書いて下さいませ。

2011.04.29