あなたの正義が純粋すぎて、怖かった

切り立った崖を背にした武器庫の中では、出撃に備える兵達が行き交っていた。
軍師から、敵本陣への奇襲を命じられている。自分達の働き如何で戦況を左右することを兵一人ひとりが自覚しているからこそ、いたずらに急くこともなく、整然と行動することができるのだろう。
何が起ころうと、彼らは課せられた任務を全うするため、その手を止めることはない――はずだった。事実、《それ》がやって来るまで、滞りなく準備は進められていたのだから。

兵達の動きを止めたもの。それは――
崖の上から飛び降り、武器庫中央に着地した人間の姿だった。

周囲を警戒していた兵達も、そんなところから人間が降ってくるとは思わなかったのだろう。 一瞬にして武器庫の中は静まり返り、そこにいる全員の視線が、突然現れた闖入者に向けられる。
空から降ってきたのは、ひとりの女だった。小柄な体格ではあったが、それとは対照的な長剣を携え、しっかりと鎧を纏った姿を彼らが認識するのとほぼ同時、素早く間合いを詰めた女が剣を振るい、数人の兵を吹き飛ばす。

「敵襲、敵襲だ!!」

誰かが叫ぶ間も、彼女――璃空が止まることはない。自分より体格の勝る兵達を、軽々と振り回す長剣で容赦なく地に這わせていく。
淡々と剣を振るう璃空と、恐慌状態に陥る兵達。一種滑稽にも見える光景だった。

とは言え、不意の奇襲に一時は混乱していた敵兵達も、既に統制のとれた動きを見せ始めている。このまま長引けば圧倒的に不利になるのは明白だったが、それでも璃空は冷静に戦況を分析していた。
規模の大きな軍ではないとは言え、奇襲を受けてから短時間で態勢を立て直すことは、一朝一夕の訓練で身に付くようなものではない。兵一人ひとりもさることながら、指揮を執る将もまた、優れているのだろう。
次々と後続の部隊が押し寄せてくるに従って、圧倒的な数の差に少しずつ押され、退路を断たれてしまっても、璃空が取り乱すことはなかったが――

( 流石に、独りでは無理がありましたか )

心の中で呟いた言葉は己のことのはずなのに、どこか他人事のようだった。

部下を伴わず単独行動を取ることは、璃空にとって、さして珍しいことではない。戦場に立つようになってから、その大半を彼女は独りで剣を振るっていた。
無謀とも言える奇襲や、敵陣の真っ只中に飛び込んで大将を討ち取ることを繰り返しているうちに武功を上げ、一軍を預かる将となっても、その戦い方は変わらない。もちろん、将に求められること――戦況を見極め、配下の兵達に命令を下すことを行った上で。
故に、璃空がどのような戦い方をしているかを知っているのは、ごく一部の者に限られていた。帰還するまで彼女が何をしていたのか、誰も知らないまま戦が終わることもある。
敵兵に囲まれ窮地に陥ったとしても、誰ひとり気付くことなく討たれてしまう可能性もあるが、璃空にとってそんなことは何の意味も成さず、ただ自軍に有益であるか否かが行動の判断基準になっていた。

いつしか壁際まで追い詰められた璃空を、敵兵が取り囲む。迂闊に近付き間合いに入ってしまえば、未だ彼女に分があること思い知らされているだけに、じわじわと範囲を狭めていくしかなかったが、それでも彼らの方が優位になってきていることは事実だった。
包囲されてもなお、璃空は諦めてはいなかった。「いかに敵戦力を削るか」ということに関してのみ、ではあるが。
ここで自分が討たれても、自軍に勝利をもたらすことができるのなら、後悔することなど何ひとつない。逆に、捕らえられ交渉の材料とされるぐらいなら、自ら命を絶った方がいい。
そう考えていた璃空だったが、遠くから響く虎の咆哮を聞いた瞬間、脳裏にひとりの青年の姿が過った。この場に来るはずのない、紅鳶色の瞳を持った青年の姿が。それは、ほんの僅かでも、武人である璃空の思考を止めるには充分すぎた。
僅かにできた隙を敵が見逃すはずもなく、一気に間合いを詰めた敵兵が剣を振りかぶる。視界の端でそれを捉えた璃空は、身体を捻って上段から振り下ろされた剣を肩当で弾き、その勢いのまま手にした長剣で切り伏せた。
どう、と音を立てて崩れた相手には目もくれず、敵兵の群れに向き直る。深手を負うのは避けることができたものの、疲労の蓄積した身体には衝撃が大きすぎたらしく、立っているのもやっとの状態の璃空の視界に飛び込んできたのは、自分を取り囲む敵兵の一角が吹き飛ばされる光景だった。
敵兵の群れを突き破り、自分の元へと駆けてくる巨大虎の姿を目にした途端、張り詰めていた糸が切れたかのように、その場に膝を付いてしまう。自分を庇うように敵兵を威嚇する銀色の毛並の向こうで、長身の人影が戦っているのに気付き、璃空の瞳が大きく見開かれた。

( あれ、は… )

霞む視界でも、見間違えるはずはなかった。ただ、別の将の下に付いている彼――が、どうしてここにいるのか。なぜ、自分がここにいると知っているのか。朦朧とする意識の中で考えても答えが出るはずもなく、退却していく敵兵の姿と、それに逆らってこちらに駆けてくる人影を、ただぼんやりと眺めることしかできない。

「璃空様!」

自分の名を叫ぶの声を耳にするのとほぼ同時、璃空の意識は深い闇の中に落ちて行った。




まるで湖底から水面へ上昇するように、緩やかに意識が覚醒していく。それに合わせてゆっくりと目を開けば、見慣れた天幕が視界いっぱいに広がっていた。

( 戻って、きたのですか。私は )

ぼんやりとする頭でも、それだけは分かった。そして、意識を失う寸前、誰の声を聞いたかを思い出すのとほぼ同時――

「気が付かれましたか」

声のした方に顔を向ければ、寝台の傍らに控えていたと目が合った。

( どうして、ここに――? )

副官ともなれば、将の下でしなければならないことも多い。直属の副官である珪斗は、自分の代わりを務めなくてはならないだろうから、この場にいないのも納得できる。しかし、別の将の下にいるがここにいる理由が、璃空には全く分からなかった。

「珪斗に頼まれました。上官の許可ももらっていますので、ご心配なく」

璃空が問うより早く、いつもの気さくな笑みを浮かべたが言う。
珪斗がを信頼していることは知っているから、「頼まれた」ということは間違いなく事実なのだろう。上官の許可をもらっているのなら、がここにいることが何の問題もないというのも、理解できる。しかし、なぜか釈然としないものを、璃空は感じていた。
「不満」ではないけれど、それに近い何か。今まで感じたことのない、もやもやとした感情を振り払うように身体を起こそうとしたが、その途端全身に走る痛みに、顔を顰めてしまう。それに気付いたが手を貸し、ゆっくりと上半身を起こさせると、傍に用意されていた上掛けを手にした。
の手で、手早く肩に掛けられたそれが、やけに念入りに身体を包むように整えられていく。璃空もされるがままになっていたのだが――
視線を下ろすまでもなく、身体のあちらこちらに包帯が巻かれていることが、肌から感じられる。当然、身に纏っていた鎧も衣服も脱がされており、上掛けだけが肌を覆っていることに気付いた途端、なぜか璃空の心臓が跳ね上がった。

「あ、あの…」
「手当をしたのは、俺じゃありませんから。安心してください。」

珍しく狼狽えている璃空に、にっこりとが笑って見せる。見慣れた笑顔に璃空がほっとしていると、並々と得体のしれない液体を湛えた器が差し出された。

「軍師殿特製の薬湯です。『効果は保証するが、味は保証しない』だそうですよ」

おずおずと器を両手で受け取り、ゆっくりと喉に流し込む。強烈な苦みに眉を顰めながら、それでも懸命に飲み下す姿が子供のようで、見ていたの口元が綻んだ。

空になった器を下げ、口直しにと茶を淹れる支度を始めただったが、背後から聞こえた小さな声に、その手を止めた。

「どうして、助けになど来たのですか。ご自分の身を危険に晒してまで」

支度はそのままにゆっくりと振り向けば、いつもの穏やかな笑みではなく、固い表情の璃空と視線がぶつかる。珍しく、その言葉にもどこか咎めるような響きがあった。

「その危険な場所にたったひとりでいたのは、璃空様じゃないですか。貴方こそ、なぜひとりで奇襲をしかけたりされたんですか」

戦の最中、上官の下に璃空の軍から伝令がやって来たところに居合わせ、珪斗からの知らせを聞いた自分が味わった感情が蘇り、の口調が僅かに険しいものになる。


――璃空が、敵軍の武器庫に奇襲をかけている。至急救援を要すると斥候から知らせがあった。――

本陣の防衛に回っている璃空の軍は、動けない。璃空が不在である以上、珪斗が持ち場を離れることもできない。武器庫に一番近い場所に布陣している将へ救援を依頼するしかない珪斗の心情が、痛いほど伝わってきたというのもあったけれど。
璃空を失うかもしれない。ただ、そのことが怖かった。
上官に救援に向かうことを申し出て、一緒に出撃した部隊を置き去りにする勢いで敵軍の武器庫に向かう最中も。敵兵に囲まれた璃空を救出するために戦っている最中も。自分の中にあったのは、押しつぶされそうになるほどの不安と恐怖だった。
ようやく璃空の下に辿り着いたものの、目の前で倒れられた時には心臓が止まるかと思った。慌てて抱きかかえ、弱々しいながらも呼吸をしているのが分かるまで生きた心地がしなかったぐらい、不安だった。
その相手に「どうして助けに来た」と言われて、素直に言葉を受け取れるはずもない。

「敵の目を、あの場所に引き付ける必要があると判断したからです。本陣を守るために、できるだけ人数は少なく。だから、私ひとりで行きました。軍は、珪斗に任せておけば、何の心配もありません」

きっぱりと言い切ったその瞳には、少しも迷いがなかった。
以前珪斗が「自分は、副官として信頼されていないのか」と悩んでいたが、それは全くの杞憂だったようだ。珪斗を信頼しているが故に璃空が無謀な単独行動を取っていることは、伝えられるはずもないが。
生真面目な友人の顔が浮かび、心の中で溜息を吐くには気付かず、璃空は言葉を続けた。

「それに、この国を支える将は、数多くいます。貴方や珪斗のように、一軍を任せることができる副官も少なくない。私ひとりいなくなったところで、この国に損失はありません」

璃空がそう言うや否や、の表情が変わった。足音も荒々しく璃空に近付き、傍らに膝をつくと、両肩を掴んで自分の方に向き直らせる。

「ここに戻って来た時、珪斗がどれだけ取り乱していたか。今、どんな思いで、貴方の代わりを務めているか。それを知っても同じことを言うのなら、俺は、貴方を許さない」

押し殺した声が、肩を掴む手の力強さが。自分を見据える紅鳶色の瞳が、静かに怒りを伝えてくる。初めて見るその表情に、璃空は言葉を返せずにいた。

「珪斗だけじゃない。殿も、将軍方も、兵達も。…俺も。皆、貴方を心配していたんです。国の損失とか、そんなのどうだっていい。貴方に何かあれば、どれだけの人間が悲しむのか。それを考えてください」

まるで子供を諭すかのように、言葉を重ねる。璃空に知っていてほしいことは、ただそれだけだから。
しかし、返ってきた言葉は――

「…前にも、申しましたが。私は、戦場でしか価値のない人間です。いつか、殿が世を平定される時には…戦が無くなる時には、必要とされなくなるでしょう。だから、この身を惜しむつもりはないし、誰かが私ごときに心を砕く必要もないのです」

ただ淡々と言葉を紡ぐ璃空の表情は、まるで面のように冷たく、生気が感じられないものだった。
目の前にいるのに。思わず掴んでしまった両肩からは、温もりが伝わってくるのに。璃空が、そのまま遠くへ消え去ってしまいそうになる感覚を振り払うかのように、己の両手に力を籠めた。

「だから! どうして、そう決めつけるんだ!」

自然と大きくなってしまった声に、璃空の目が大きく見開かれる。その場の勢いとは言え、一度弾みがついてしまった感情を止めることもできず、更に言葉が口を衝いて出た。

「戦がなくなれば、必要とされなくなる? 誰かに面と向かってそう言われてもいないのに、自分で勝手に決めるな!」

言ってしまってから、相手が一軍の将であることを思い出した。前にも同じようなことをしていて、その時はお咎めなしだったとは言え、そう何度も許されるようなことではないと覚悟を決めたものの――

「どうして、そんなことを言うのですか?」

そう訊いてくる璃空からは、立場がどうのという些細なことを気にする様子は、全く感じられない。ただ、の言葉の意味を理解できず、戸惑っているようだった。

「どうしてって、それは…」

そこまで言ったところで、は口を噤んだ。言いかけた言葉を断ち切るため強く唇を引き結び、大きく息を吐き出す。

「止めましょう。今、言うことじゃない。もし、どうしても聞きたいなら…早く傷を癒してください」

掴んだままだった璃空の両肩から手を離し、不思議そうに自分を見上げる視線から逃れるように顔を逸らしてしまう。
璃空の傷が癒えたところで、そう簡単に続きを言えるはずもない。けれど、それを伝えたい自分がいることも、否定できないことで。

( 覚悟はしてたけど、厄介な相手を好きになったもんだ)

内心で苦笑しながら、ふたりの間に落ちた微妙な沈黙を振り払うため、口を開いた。いつも通りの「気さくな副官」に見えるように、軽い口調で尋ねる。

「それにしても、璃空様は『どうして』って仰ることが多いですね」
「普段は、あまり口にしませんよ。ただ…」

そこで言葉を切り、璃空は真っ直ぐを見つめた。先程の、生気が感じられない冷たさはどこにもなく、まるで少女のような幼い表情で、事もなげにこう言った。

「貴方といると、分からないことが多くて。だから、もっと知りたいと思うのです。…おかしいでしょうか?」

璃空の言葉が終わるとほぼ同時、の口から奇妙な声が漏れる。突如狼狽え、視点も定まらなくなったの様子に、璃空は小さく首を傾げ――

「どうしたのですか?」

そう、問うた。その問いにが答えることができるのは、まだまだ先のことになるのかもしれない。



私が書いた【貴方のせいにして、良いですか】の後日談、です。

もう二人はくっついて幸せになっちまえよ!

拝見するたび、そんな風に机を叩き壊したくなる、この愛しさ。止まるな突き進め。

2011.04.29