無垢な小悪魔、優しい猛獣

城内で命がけの追いかけっこが繰り広げられてから、数日後。
机に広げられた書簡の山の前に、溜め息を吐く璃空の姿があった。事務処理をする手も滞りがちな上、珪斗が呼びかけても上の空で、ぼんやりと何もない空中を眺めている始末だった。

「―――璃空様」

普段より幾分固い珪斗の声に、ようやく璃空の意識が現実に戻ってくる。

「どうなさったのですが…と伺うのも、如何なものかと思いますが。執務中ですので、お手は止められませんように」

苦笑しながら言う珪斗に、小柄な璃空が更に小さく縮こまる。

「また、が何かしたのですか? それとも、何か余計なことを言われたとか」

口調は至って穏やかだが、目は笑っていない。と言うか、思い切り据わっている。

「いえ、殿は、何も!」

先日の鬼神っぷりを見ている(おまけに追いかけられている)璃空としては、の身に危険が及ぶのは避けたいところで。自然と、否定する声も大きくなってしまう。

「…問題があるのは、私の方です…」

悩んでいた理由を思い出し、しゅんと項垂れてしまった璃空の姿に、珪斗の中で何かのスイッチが入った。今すぐ竜胆片手に殴り込みをかけそうになる自分を抑え、にっこりと璃空に笑って見せる。

「何があったかは、伺いませんが…。もっと、自信をお持ちになってください。璃空様なら、大丈夫です」

その言葉に、璃空が弱々しく微笑む。これ以上深入りするのは彼女のためにならないと判断し、珪斗は滞っていた事務処理を進めるべく机の上を整えることにした。

その後は順調に仕事が進み、「早く、殿にお届けしなくては…」と半ば挙動不審に、璃空が部屋を出て行く。その背中を、微笑んで見送りはしたものの―――
とりあえず、竜胆の手入れは念入りにしておこう。そう決意を新たにする、珪斗であった。




―――場所は変わって、城内の書庫。
人気もなく、ひっそりと静まり返ったその場所に、決死の覚悟で敵――もとい、恋人を待つ璃空の姿があった。
先日から残ったままの課題(呼び捨て及び敬語なし)を解決しようと覚悟を決めたものの、間を置くと決意も鈍りそうだったため、皆が休憩している時間を見計らって、を呼び出す文を送ったのだが。

強く手を握りしめ、しっかりと足を踏ん張って立つその姿は、果し合いを前にしているようにしか見えなかった。

「璃空様、お待たせしました…って。何やってるんだ?」

他の人間がいる可能性も考慮し、口調に気を遣って書庫に入ってきただったが、臨戦態勢で仁王立ちしている璃空の姿に、思わず素が出てしまう。

「す、すみません。つい…」

慌てて身体の力を抜き、と向き合う。いつものように笑みを浮かべたつもりだったが、どこかぎこちなくなってしまったのだろう。の眉が、僅かに顰められた。

「どうしたんだ? 何かあったとか…」

心配そうに言うに、微笑みながら首を横に振って見せる。

「…先日の件、なんですが」

それだけで、なんのことか察したらしい。の表情が曇ったことが、璃空の決意をほんの少しだけ、揺るがせた。

「無理に言わなくてもいいって。璃空に無理させたいわけじゃ、ないんだから」

彼なら、きっとそう言うと思っていた。自分を想ってそう言ってくれるだろう、と。
―――しかし、それは璃空の欲するところではない。

「無理なんかじゃ、ないです。呼びたいんです、私が。貴方の、名前を」

が、自分を求めてくれていることが嬉しい。そして、自分もの存在を求めていると、知ってほしいから。
他人から見れば、呼び捨てにするなど他愛のないことかもしれない。だが、璃空にとって、「を呼び捨てにする」ということは、大きな意味を持っていた。
言葉にはしなかったものの、璃空の様子から何かを感じ取ったのか、それ以上が何か言うことはなく。ただ、再び彼女が口を開くのを、待った。

それから、しばらくの沈黙の後。
数回深呼吸を繰り返した後、ぎゅっと手を握りしめて顔を上げた璃空は、必死そのものの表情を浮かべていた。そして、震える唇がゆっくりと開かれ、今にも掻き消えてしまいそうなほど小さく、か細い声が書庫の中に響く。

「…

遠慮がちに紡がれた自分の名に、の目が丸くなったのは、ほんの一瞬。愛しげに自分を見つめる眼差しに、ようやく璃空の肩から力が抜けた。
ゆっくりと璃空の下へ歩み寄ったは、やや俯いてしまった彼女の頭をそっと撫でた。その動きに合わせるように、躊躇いがちに璃空の顔が上げられる。
顔が赤くなっているだろうことは予想していたが、過度の緊張で瞳が潤んでしまっている璃空の姿に、微苦笑が浮かぶ。

「そんな泣きそうな顔されると、俺が苛めているみたいじゃないか」
「な、泣いてなんかいません! …恥ずかしい、だけです…」

真っ赤になってしまった顔を見られたくなくて俯けば、それを許さないとでも言いたげに伸ばされた腕の中に閉じ込められてしまう。

「すごく、嬉しい。ありがとな、璃空」

強く抱きしめられ、額を摺り寄せるように顔を首筋に埋められながら、璃空もまた安堵したような表情で微笑んでいた。
やっと、の名前を呼べたこと。そのことに、が喜んでくれたこと。それだけで、こんなにも自分が満たされるとは。
これまでの人生で味わったことのない感情が押し寄せるのを、璃空は一身で受け止めていた。

―――しかし、そんな甘いひと時は、長く続かなかった。

「もう一回、俺のこと呼んで?」

そう言ったの顔には、満面の笑みが浮かんでいた。悪戯を思いついた子供のような、楽しくて仕方ないと言いたげな、笑みが。
先程の一回だけで気力の大半を使い果たした璃空にとっては、悪魔の使いの笑みにも見えるのだが、そこは胸の中に押し止める。

「言ってる内に慣れてくるから、この勢いでもう一回。な?」

尚も言い募るからは、しっかりと抱きしめられているせいで逃れることはできない。
一回名前を呼ぶだけであんなに気力を使ったというのに、これ以上呼んだらどうにかなってしまいそうで。頬を真っ赤に染めたままぶんぶんと首を振る璃空の姿に、僅かに苦笑したのも束の間――

「俺を呼んで」

それまでの嬉しさを前面に押し出した、幼くも見える表情から一転して、の表情が年相応の男性のそれへと変わる。
細められた瞳に見つめられ、まるで肉食獣に狙われた小動物のように硬直する璃空の耳元に唇を寄せ、普段より低く響く声で、更に囁く。

「呼んでくれ、璃空」

その声が身体の奥深くを貫いたような錯覚に陥り、璃空の肩がびくりと震える。
それ以上が言葉で乞うことはなかったが、強く抱きしめたままの腕が、耳元で響く吐息が、「もっと呼べ」と雄弁に語っている。
逃げることもできず、かと言って口に出すのも恥ずかしくて、じたばたともがく璃空の動きを封じ込めることなど、にとっては容易いこと。逆に、もがけばもがくほど腕の力が強くなり、より身体が密着することになってしまう。
慌てふためく自分の姿を楽しんでいるとしか思えないに、文句のひとつも言いたくなるが、言ったところで負けるのは璃空だというのは明白だから。口から出そうになる恨み言を飲み込み、璃空はもがくのを止め、その身をに預けた。

( 本当に、この人はずるいです )

自分を甘やかすだけでなく、逆に甘えるような素振りもしておきながら、突然「男」の部分を見せる。そして、淀みなく翻弄してくるのだ。
その豹変ぶりは、とにかくずるい。そうは思うけれど――
そのことに嫌悪を感じることは、全くない。むしろ、今まで感じたことのない感情に翻弄されることを、どこか心待ちにしている自分がいるのだから。

とは言え、翻弄されるばかりというのも、面白くない。璃空は覚悟を決めると、小さく息を吸い込んだ。

「貴方が、好きですよ。

璃空がそう囁いた途端、の動きがぴたりと止まった。

?」

心配になって、もう一度名を呼ぶ。そこで、自分の首筋に顔を埋めたままのの身体が、小さく震えているのに気付いた。

「あ、あの…」
「あーもー、不意打ち過ぎる。俺にどうしろってんだ?我慢の限界なんて、とっくの昔に超えてるぞ」

おろおろとする璃空を置き去りに、は聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いている。心の声が完全に漏れてしまっているが、そんなことに気付く余裕もないようだ。

「あの、。は、離していただけると…」
「それは嫌」

さすがに恥ずかしさに耐えきれなくなった璃空の言葉を、勢いよく顔を上げながら却下する。その頬がうっすらと朱に染まってるのを見て、思わず璃空が笑みを漏らすと、の表情がばつの悪そうなものになってしまう。

「…笑うなよ。こんなことされて、余裕なんかあるわけないって」

拗ねたようなその口ぶりに、更に璃空の笑みが深くなる。

「笑うなって…ッ」

言いかけた声が、そのまま途切れてしまった理由。それは―――

「可愛いんですね、も」

額に感じた柔らかな唇の感触に硬直したの前で、璃空がふわりと微笑む。

「お返し、ですよ」

普段璃空が見せる、穏やかな笑顔であることには違いない。しかし、常と異なる艶めかしさを滲ませたそれは、の自制心を試していた―――のかもしれない。



ヤッフゥゥゥーーーー!

私が書いた【言えない、言いたい、言って欲しい】の続編を、あずみ様が書いて下さいました。神やで、神がおるで……!

もうこの二人は、イチャイチャしてればいいよ。
そう思うと同時に、珪斗の脅威が脳裏を過ぎ去る、この頃。
いつもいつも、ありがとうございます、あずみ様……!

2011.04.29