幸せはいつもの日常から

 日毎、空気は暑くなり、陽射しも強く感じられるようになってきた。もう一か月もすれば、やがて炙られるような猛暑日がやって来る。
 緑鮮やかで、太陽が眩しい季節――夏の訪れ。
 しかし、毛皮を持つ暑さに弱い獣人にとっては、一年で最も過酷な季節である。

 恐らく、いや絶対に、一生この季節を好きになる事はない。シリルは毎度、憂鬱と共に夏を迎え、本格的な酷暑に見舞われる前から暑さにやられてきた。既に今日も、少しでも涼しくなろうとだらしない恰好になってしまっている始末である。

 この季節が好きだと言う人は、一体何が楽しいのだろう――。

「シリル、しっかりして~」
「無理……あつい……」

 床板の上に全身を伸ばし寝そべるシリルの隣で、は可笑しそうに笑っている。

「昔から暑いの嫌がってたものね。大丈夫? こないだ換毛期だったのにね。でろんでろんに伸びて、そのまま溶けちゃいそう」

 はシリルの胸元の毛皮に両手を突っ込み、「うわ、あっつ!」と楽しげに叫んでいる。人間で言うところの、胸を揉まれ弄られているようなものなのだが、暑くてその気も起きない。もう少し涼しければ、押し倒しているのに。

「しっかりして、シリル。特別暑いのはきっと今日だけよ」
「ええ、本当……?」
「いや、私の勘だけど」

 天気に関しては、君の勘はまったく当たらないんだよ。

「何か冷たいものでも淹れて……あ、そうだ! アイス買ってこようかな。川沿いの公園の近くに、アイスクリーム屋さんがあったから!」

 名案! とばかりに、はうきうきと準備を始める。床板に伸びていたシリルは、飛び跳ねるように身を起こした。

「今から?」
「うん。平気だよ、ほら、けっこう涼しい風吹いてるし」
「嘘でしょ、生温い風が吹いてるよ……! 陽射しもきついし……!」

 どうしてこの子は、自分から率先して過酷な環境に向かおうとするのか。
 時に蛮勇の過ぎる前向き思考、恐らく癖だ。ずいぶん前から知っている事だが……。

「準備したら、ちょうどよくなってるよ。たぶん。きっと」
「ない。絶対そんな事ない。待って、僕も行くから。だけじゃあ心配だ」
「ええ~いいわよ。すぐそこだし」
「そう言って飛び出しては何回も行き倒れてきたでしょ」

 もう昔なのに、とは憤慨している。それを何度も抱えて連れ帰ったのはシリルだという事も、忘れないでもらいたい。

「僕が一緒に居たいんだよ。いいでしょ」
「……し、しょうがないわねえ」

 渋々と言った風に、は了承する。だがその横顔と声は嬉しそうに緩んでいるのだから、可愛いと思う。

「よし、準備出来た! 行くわよシリル」
「うん。……あ、それ、新しい日傘? こないだ買ったやつだっけ」
「そう、折れちゃったから。ふふ、可愛いでしょ」

 折ってしまったの間違いだろう。楽しくなって振り回すから。
 そんな出来事はとうに忘れ、は一足早く外に出て日傘を開いている。黒い生地に、縁取りのされた白いレース。立体的なボリュームのあるリボンがあしらわれている。可愛らしいと思うが、それ以上に可愛いのは――。

「うん、似合うよ。可愛い」
「ふふん、そうでしょ」

 そうやって浮かべる勝気な微笑みの、その眩しさときたら。
 今日も僕の新妻は死ぬほど可愛いと、シリルは心の中で大絶賛した。



 しかし、外は、案の定暑い。空気も陽射しもじわりとした熱気に溢れている。の日傘のおかげでだいぶ緩和されているものの、やはり日中の太陽は重いものがある。
 それでも、隣のは楽しそうだった。新しい日傘で気分も上がっているのだろう。

 日陰を選びながら路地を進み、川沿い近くに構えたアイスクリーム屋へ向かう。店先で食べて行こうかと話していた時、が川向こうを指した。

「ね、せっかくだから、あそこで休憩していかない?」

 緑に囲まれた噴水公園。光に反射する噴水の輝きが、遠くからも見て取れた。水と緑の涼しさに誘われ、買ったばかりのアイスクリームと共に踏み入れる。
 公園だけあって、子連れの家族や遊びにやって来たのだろう子どもたちの姿が多い。考える事は皆、大体一緒だ。

「噴水のところ、遊び場にもなっているのね。水遊び、涼しそう」
「そうだね。はい、溶ける前に食べよう」

 公園樹の根本に腰を下ろし、アイスクリームを口に含む。熱のこもった身体に染み渡る冷たさに、あっという間に平らげてしまった。

「外で食べるアイスもいいねえ」
「たまにはね。ごみ捨ててくるから、ちょっと待ってて」

 そう告げたシリルが、空の容器を捨てに行き戻ってくるまで、数分しか経っていない。だというのにはそこに居らず、何処に居るかと思えば噴水の水遊び場だった。十歳前後の少女たちの輪に混じり、ボールを投げ合っている。大方ボールがのもとへ飛んできて、返すついでに一緒になって遊んでいるのだろう。誰とでも仲良くなるのはの良いところだと思うが、目を離した次の瞬間にはもうそこにいない事のだから、彼女の身軽さはまったく考えものだ。

 あっちへ行って、こっちへ行って、何でもやりたがりの子猫のよう。

 は、子どもたちと遊ぶのが上手い。それは、きっと彼女自身が子どもの目線を今も持っているからだろう。病弱な幼少期、やりたくてもやれなかった沢山の事を、大人になった今全力で果たしている。窮屈で、苦しい時間を長く過ごしたがゆえに、優しく、そして何処かいとけない。それが、たまらく眩しいのだ。今も、そう思う。

 シリルは溜め息と共に笑みをこぼし、木陰に腰を下ろし見つめる。ワンピースをはためかせ、水を蹴飛ばし、雫に濡れるのその眩しさ。彼女ほど、日向が似合う人もいない。太陽の光、鮮やかな青空、濃い花の色――は、目が眩むような季節がよく似合う。
 対して、シリルは木陰の静けさの中で、水の音色と緑の香りを感じながら、柔らかな金色の髪をきらめかせる彼女の姿を見守っている。

(昔から、は、そうだったな)

 幼い頃から、彼女には夏の季節がよく似合う。誰よりも病弱だったのに、これほど相応しい存在もないと思うほどに。

(こうしていると、昔を思い出すなあ)

 病弱なくせに、外に出たがる、意地っ張りの女の子。
 それを遠くから眺めていた白ウサギは、外で遊ぶよりも本を読んでいる方が好きな、地味でとりとめのない存在だった。



 幼い頃のの病弱ぶりは、同世代の子どもたちはもちろん、地元の大人たちも知っていた。
 まず身体が弱く、すぐに体調を崩す。頻繁に熱を出し、幾度となく寝込む。何日も外に出られない事なんて、珍しくなかった。長い時間歩く事も出来ないため、同世代の子どもたちのようにかけっこをして遊ぶ事も叶わない。ともかく彼女は、よく身体を壊す少女だったのだ。
 しかも、不運な事に、同世代の子どもたちは獣人が多かった。幼少期から運動量バケモノの、活発過ぎる獣人の子どもは皆、身体の弱いを煙たがった。まあ酷い話だが、毎分動き回っているような獣人の子には、五分も持たずしゃがみ込んでしまうは、つまらないのだ。
 けっして、のせいではない。病弱な女の子に優しくするという考えがまったく無かった、当時のオオカミやトラの悪ガキたちが全面的に悪い。

 そんな中、シリルはというと、外で走り回るよりも本を読んでいる事を好み、物静かに日々を過ごしていた。肉食獣の獣人と草食獣の獣人という事もあってか、彼らに関わる事は無く、遠くから眺めていた。しかし、辛い身体を押して必死に外に出たというのに、冷たく除け者にされ、そのたびに陰で泣きじゃくるの姿はあまりにも可哀想で――シリルは、ほんの少し手助けするくらいの気持ちで、声を掛けていた。
 外で遊べないなら家の中で遊べばいい、と。
 目から鱗といった顔をしたあの時のは、今もはっきりと覚えている。

 それからというもの、図鑑や絵本を見たり、落書きをしたりし共に過ごすようになった。は意外にも、一緒にいて楽しい、過ごしやすい子だった。本を好むシリルを馬鹿にしたりせず、むしろシリルを誉めそやした。知らない事いっぱい知ってるのね、すごいね、と嘘を感じさせない純真な瞳で笑うのだ。子どもながらに、シリルは自らの事を少し誇らしく感じたものだ。

 とはいえの中には、外で遊びたい、気兼ねなく思いきり走りたいという願望が深く根付いていた。
 病気ばっかりになるから身体を強くしないといけないの、と幼いながらに決意する彼女に心から感服したが――しかしそれはシリルの想像の斜め上を突き抜けてゆく決意であった。
 身体が弱く歩く事もままならないというのに、雨の日も風の日も飛び出し、炎天下でも走り出そうとする。そしてごく当然の流れで、数分と持たずぶっ倒れる。しかもそれを何故か止めようとせず、何度も繰り返すのだ。
 そんなを、何度シリルがおぶって連れ戻した事か。
 片時も目が離せず、逐一動向を見るようになったおかげで、彼女の体調の変化、外に飛び出そうとする兆し、そして向かう先など、もはや身内レベルでシリルは察知出来るようになっていた。

 図らずも外を駆け回る事になったシリルを、両親はちゃっかり喜んでいた。部屋にこもりがちだから良い運動になる、と。しかし、の両親は違う。いつも深々と背中を折り曲げ、申し訳なさそうにしていた。寝ていたはずの娘が目を離した瞬間外へ飛び出し、行き倒れ、そのたびに這う這うの体でシリルが抱えて戻っているのだから。

「シリル君、大変だろうから、いいんだよ。の事は」

 迷惑だったら、いいんだよ――の両親は、いつも眼差しで告げていた。確かにの突き抜けた行動力は凄まじく、正直、悪態を何度も胸の中でついた。病弱とは一体何なのか、どうしてこんな積極的に飛び出すんだ、もっと気づかえ、と叫んだ。
 けれど、一緒にいる事は、絶対にやめなかった。

 ――だってこの子は、僕がいないと。
 僕が見ていないと、危なっかしくて、すぐに倒れちゃうから。

 追いかけてはおぶって連れ戻す日常の中で芽生えた、その一種の使命感が、月日と共に好意になり――独占欲を生んだのは、至極当然だった。

 子どもの頃の無茶が功を成したとはまったく思わないが、の病弱ぶりは、成長するにつれて落ち着いていった。
 走れるようにもなり、道の真ん中で倒れる事もなくなった。季節の変わり目には必ず体調を崩すが、これまでの事を考えればとてつもない進歩だ。
 ……身体を強くすると言って、暴風雨の中へ飛び出すような無謀さは、残念な事にまったく変わらなかったが。

 成長しすらりと四肢が伸びたは、ますます明るくなった。勝気で、意地っ張りで、よく笑う、幼い頃から眩しかった部分は、さらに輝くようになった。
 を煙たがった同世代の連中は知らなかっただろうが、彼女は太陽のように眩しくて、美しい子だった。この頃になると周囲もそれに気付き始め、シリルは一抹の不安と暗い嫉妬に駆られたが、心配する必要はなかった。
 当のが、まったく見向きもしなかったのだ。
 あれほどの優越感を抱いたのは、それまでの人生で初めてだった。力自慢の肉食獣の獣人たちが、指をくわえて妬ましそうにしている。力もない、地味で平凡なウサギに対して。

 ――こればかりは、譲らない。誰よりも長く彼女を見てきて、側に寄り添ったのは、僕なのだ。牙や爪で力を誇るお前らになんか、絶対に渡さない。渡してやるものか。

 何の力もない草食のウサギとはいえ、雄としての矜持まで持っていないわけではない。そしてそれは今も変わらず、シリルの中に熱を伴い焦げ付いているのだ。



 ――思わず、過去の記憶に浸ってしまった。
 シリルは意識を戻し、きゃっきゃとはしゃぐを見つめる。昔から数え切れない無茶をやってきただが、なんだかんだ、ああやっている時が一番綺麗でもある……――。

(……ん? あれ? そういえば、、いつの間にか帽子と日傘を投げて……)

 あ、と思ったその時、の足元がふらついた。寸でのところで踏ん張り水の中に倒れる悲劇は免れたが、一緒に遊んでいた少女たちは「おねえさん!」と慌てた風に叫ぶ。
 シリルは長年鍛えられた瞬発力で飛び出し、有無を言わさずを抱え、木陰へ移動した。

「おねえさん、大丈夫?」
「大丈夫よ、立ち眩みだから。ごめんね、びっくりさせちゃって。ちょっと休めばすぐに良くなるわ。だから気にしないで、皆は遊んでいて。混ぜてくれてありがとう」

 シリルの足を枕にし横たわったは、にっこりと笑う。

「ううん、いいよ。……ウサギのおにいさんは、おねえさんの彼氏?」
「ふふ、違うよ。私の旦那です!」

 得意げに告げたの言葉に、少女たちは「きゃあ!」と可愛らしい歓声を上げる。その後、再び噴水の水遊び場へ戻っていった。

 私の旦那……なんと良い響きか。
 表情の変化が分かりにくいと言われるウサギ顔で、本当に良かった。存分に、だらしなく顔を緩められる。

「……シリル、なにニヤニヤ笑ってるの?」

 だが幼い頃からの付き合いであるには、すぐに見抜かれてしまう。シリルは咳払いで誤魔化した。

「それより、気分は? 立ち眩みだけ?」
「大丈夫よ、たいした事はないわ」
「なら良いけど……健康な大人だって、この暑さと陽射しの中全力で遊んだらまいるよ。気を付けてよ」
「楽しくてつい。ごめんなさい」

 一応の謝罪は口にするが、懲りた様子はあまりない。まあこれで大人しくなるのなら、とっ捕まえて連れ帰るあの日々はなかっただろう。

「ちょっと休んで、それから帰ろう。しばらく僕の足を枕にしていいから」
「うん。ありがとう」

 ふう、と吐息をこぼし、は瞼を下ろす。木漏れ日を受け微かにきらめく金色の髪を、撫でるようによける。顔色は、悪くない。シリルは、密やかに安堵した。

「……君は、目を離すとすぐに何処かへ飛んで行くんだから。無茶しないでよ」
「無茶させてくるのは、シリルの方の気がするわ。夜とか」

 シリルは、ぐっと声を詰まらせる。痛いところを正論で突かれてしまった。

「……それは、その、ごめん」
「ふふ……嘘、別に怒ってない。私も良いって言ったんだから、いいの」

 私だって嫌じゃないし、と囁いたは、気恥ずかしそうに見上げてくる。そのほんのりと浮かんだ照れ笑いの向こうに、快楽に染まり乱れる彼女の姿が過ぎった。勝気な、意地っ張りな仕草が嘘みたいに、甘く鳴いて縋りつく、愛らしくもいやらしいその姿は、シリルしか知らない秘密だ。

 ……どうしよう。ちょっと、ムラッとしてきた。

 万年発情期と呼ばれるウサギとはいえ、さすがにここでそれは節操が無さすぎる。必死に、意識をそらした。

「でも、すごくない?」
「ん? 何が?」
「小さい時より、ずっと長く動けるのよ。これって本当にすごい進歩だわ。よくやった、私の身体」

 は冗談混じりに笑った後、ふと声の調子を変えた。

「……昔はね、めちゃくちゃ焦ってたのよね。びっくりするぐらい、思い通りに動けなくて」
「みんなと遊びたかったんでしょ? 知ってるよ」
「違うわよ。シリルのためよ」

 ……僕の、ため。
 シリルは、僅かな驚きを含め、を見下ろす。

「家にいる事が多かったから、同い年の子たちとはあまり接点無かったし。どうにか一緒に遊ぼうとしても、やっぱり迷惑かけちゃうし。これでシリルにまで煙たがられたら、立ち直れないって思ったの」

 だから、多少の無茶をしてでも身体を鍛える事に躍起になっていたのだと、は小さく微笑んだ。

「まあ、外に出て思いっきり遊びたかったっていうのは、あったけど!」

「……これでも、迷惑をかけてる自覚はあったのよ。これでも」

 シリルはじっとを見つめ、そして口元を緩めると、太腿の上に乗った彼女の頭を軽く撫でる。

「ねえ。僕がどうして、雨の日も風の日も、一緒にぐっちゃぐちゃの恰好になって、君をおぶっていたと思う?」
「え? どうしてって……うーん、虚弱過ぎて目が離せなかったから、とか?」
「違うよ。……他の男連中を、君に近寄らせないためだ」

 雨の日も風の日も飛び出す彼女を追いかけ、おぶって連れ帰ったのは――牽制するためだ。お前たちが入る隙間はない、彼女に関わる事は全て自分の役目である、と。
 とうに気付いているかと思ったが、案外伝わっていなかったらしい。は驚いた様子を見せてくる。

「それは……知らなかった」
「そう」
「私、愛されてるわね」
「そうだよ」
「ふふ――ありがとう、大好きよ」

 遠くで、少女たちの笑い声と、水の跳ねる爽やかな音が響いている。ごく小さく囁いたその言葉は、きっと、シリルにのみ届くものだ。
 普段は勝気で、負けず嫌いなのに、何故こうも急に可愛らしい一面を見せてくるのか。
 キスしてやろうか、とシリルが思い始めたところで、は掛け声と共に上体を起こした。

「よし、元気になった! そろそろ帰ろっか」
「……そうだね」
「え、なに、どうしたのよ」
「何でもない」

 不思議そうに首を傾げる彼女の手を取り、立ち上がる。水遊び場の少女たちへ手を振り、公園を出れば、再び焼けるような陽射しが注いだ。日傘を広げ、その下に肩を寄せ入るが……。

「ねえ、大丈夫? 僕、おぶろうか?」
「いいの、自分で歩くわ。心配しなくたって、もう平気よ」
「でも……」
「それに」

 の細い腕が、シリルの腕をぎゅっと取る。しっかりと組んだ彼女は、上機嫌に、悪戯っぽく笑った。

「おぶってもらうのも好きだけど――一緒に歩く方が、もっと好き」

 私、そのために弱い身体を克服したのよ、なんて呟く新妻の可愛らしさときたら。
 シリルは顔を寄せ、の唇に口付けた。



おまけの番外編です。
作中の季節と更新時の季節がいつも合致しないのは作者の仕様。


2021.09.04