いにしえの呪いを口ずさむ人(1)

「貴公を助けたという狩人の事を、教えてくれないか」

 の正面に腰掛けた狩人――異邦人だという黒ずくめの男――は、紅茶を飲み干した後、そう問いかけた。

「何か、興味でも沸いた?」
「……そんなところだ」
「そう、でも、面白い話じゃないわ。今夜の獣狩りには関係のない……」
「聞かせて、くれないか」

 の声に、狩人の声が被さった。単なる世間話ではない、もっと別の意味を秘めているような響きが感じられた。少し驚きながらも、はあの夜を脳内に描きながら、ぽつりぽつりと語った。



 昔、ヤーナムの谷の底には、もう一つの市街地があった。
 だが、病が蔓延し、住人の多くは獣に成り果て、医療教会は市街地にあるもの全てを炎で焼き清める事を決めた。
 あの獣狩りの夜、見限られた市街地は炎の海に沈んだのだ。
 幼かった少女のは、浄化を謳った惨劇により父母を失い、街を追われた。炎で焼かれる、あるいは獣に喰われる寸前だったを抱え、赤々と燃える市街地を駆け抜けたのが――灰色の狩装束に身を包んだ、壮年の狩人であった。
 助けてもらった、などと思ってはいなかった。父母のもとへ連れて行ってくれず、子ども一人だけでこのおぞましいヤーナムに投げ出されたのだ。どうやって生きていけというのだろう。
 救われた感謝など――僅か一欠片もあるはずがなかった。
 激しく罵るの叫びに、灰色の狩人は沈黙を貫いた。何も言わず、身動ぎもせず、ただただ静かに甘んじて受けているようだった。叫んで、叩いて、最後は言葉も失い慟哭を繰り返すしかなくなった時――灰色の狩人は、初めてを抱きしめ、この街から逃げろと呟いた。


 ――そして、目覚めた時には、は見知らぬ住居のベッドで横たわっていた。
 テーブルの上には“この家を自由に使うといい”という、厳格な文字で綴ったごく短い手紙と、マホガニー色をした木箱のオルゴールがそっと置かれていた。

 以降、はその住居を自らの家とし、現在まで生き延びてきた。



「――……馬鹿よね。私も、あの人も」

 救い出された事を恨み続ける子どもなんて、道端の石ころのように放っておけば良かったのだ。全て見限られ、浄化の炎で生きたまま焼かれる事を望まれた、あの獣狩りの夜のように。
 けれど最も愚かなのは、感謝を一度たりとも口にせず、狩人を嫌い続けたまま大人になり――今更わだかまっている自身なのだろう。

「……もしも」
「うん?」

 静かに耳を傾けていた狩人から、小さく声が漏れた。

「……もしも、会えるとしたら」
「……え?」
「炎で焼き清められる市街地から、貴公を助けたというその狩人に……もしも、会えるとしたら」

 唐突に告げられたその言葉が、一瞬、理解出来なかった。だが、の心臓は、ドクリドクリと大きく脈打っていた。血と病に犯された街で暮らす内、薄れてしまっていた生の鼓動が蘇るような、奇妙な感覚もそこにあった。

 目の前の狩人は、じっと、を見つめている。枯れ羽を模った黒い帽子の向こうから覗く瞳には、変わらない静けさと、真摯な光が宿っていた。

 ――……まさか。

「まだ、生きているの……?」

 二十年近い、けして短いとは言えない歳月が既に経っている。まだ“あの人”は、この呪われた街に存在しているのか。
 信じがたい思いに、の華奢な身体が震え、困惑に息が喘ぐ。狩人は、静けさを変えず、今一度問いかける。

「――、貴公は、どうしたい」

 どうしたいか。そんなもの――考えるまでもなかった。

 はソファーから立ち上がると、狩人のもとへ転げるように駆け寄り、その膝に縋った。

「――お願い、連れて行って」

 あの人のもとへ――火薬の香りを纏う、灰色の狩人のもとへ。


◆◇◆


 狩人の案内のもと、は住居を離れ、市街地を進んだ。獣避けの香を焚き染めた匂い袋と、先導する狩人のおかげで、獣に襲われる事なく無傷のままオドン地下墓を通り、聖堂街へ辿り着く。
 大きく回り込み迂回するような経路になっているのは、市街地と聖堂街を直接繋ぐ大橋が封鎖されているためらしい。そして聖堂街へ辿り着いても、ここからまたしばらくは歩く必要があると、彼は言った。

「……、大丈夫か」
「えッ? あ、ええ……大丈夫」

 は微笑んでみせたが、それでも眼差しは聖堂街の風景へと向く。
 聖堂街――医療教会の総本山でもある大聖堂が存在し、より密接に医療が隣り合う街。
 幼少期でも、聖堂街へ来た事はごく数える程度だった気がする。ほとんど記憶は薄れているというのに、不安と懐かしさが胸の内でせめぎ合っている。心臓の鼓動がこんなにも強く、激しく鳴るのは、本当に久しい。少し、苦しく感じるほどだ。

「……、少し、休んでいくか」
「いいえ、いいえ……大丈夫、早く行きましょう」

 案じる狩人の腕を掴み、先を促す。歩みが止まってしまわない内に、向かわなければ。この機会はもう二度と訪れる事はないと、焦燥が背を押してくれる間に。




 狩人は、廃教会を出ると、聖堂街の上の方には登らず、下ってゆく道を進んでいった。
 それも恐らくは教会なのだろう、人気のない大きな建物へ入り、地下深くへと伸びる階段を下りる。次第に明かりは薄れ、冷たく籠もった空気が立ち込める。
 狩人が導くこの道は、正規のものではないのだろう。聖堂街からも、あの街には通じていたはずだ。だが、まるで密かに隠されたような道を通るという事は……大きな道は全て塞がれ、記憶ごと封をされつつあるのだと、頭の片隅で思い知った。

 深く、深く、地下へと続く階段は――やがて静かに終わりを迎えた。
 辿り着いたのは、行き止まりの部屋。雑草が生い茂り、朽ちた壷やら木箱やらが隅に積み重なっている。

「……ああ、覚えてる」

 何処かで見た景色。まだ光があり、綺麗に整えられた頃の風景が、朧気に重なる。今やもう、見る影無く荒れ果ててしまっているけれど。

「……ん……?」

 は、無造作に落ちていた洋紙を拾い上げる。

 ――これより棄てられた街。獣狩り不要。引き返せ。

 古い血がこびりついた紙面には、格式ばった厳格な文字が綴られている。何処かで見た、手書きの書体のようだが……。

、大丈夫か」
「あ、え、ええ」

 洋紙をすぐに放り、狩人の手のひらを取る。彼は隙間の開いた、光が漏れる大きな扉の前に立つと、その先へを引き寄せた。



 ――あの灰色の狩人のもとへ、連れて行って欲しい。
 が懇願した時、彼は“あの人”の居場所を明かした後、本当に行きたいのかと改めて問いかけた。それを聞いた瞬間、正直、決意が揺るぎそうになった。にとってその地は、今も焼き付いて離れないおぞましい記憶が満ちているのだ。

 浄化を謳い全て焼き尽くされた、惨劇の舞台。
 もう二度と、戻る事は無いと思っていた、あの場所。

 谷の底にあった、もう一つの市街地――今は旧市街と呼ばれる、獣の街。
 が幼少期に暮らしていた地で、“あの人”はまだ生きているんだなんて、なんという事だろうか。



 何故、見限られた街に今もなお残り続けているのか。それを知るためにも、は自らを奮い立たせ、足を運んだ。そして目の前には、忘れ去る事の出来なかった市街地の風景が、ついに広がった。

「ああ……ッ」

 もう、二十年近くは経っている。けして短くはない時間が流れているはずなのに、視界に飛び込んだ街並みには、今も当時の面影が生々しいほどに残されていた。

 灰と煙が空へ舞い上がり、油と焼け焦げる匂いが蔓延している。建造物の群集は、修繕される事なく野晒しにされ、中には骨組みしか残れなかったほど燃やし尽くされた傷ましい姿のものさえある。
 灰と煙に満ち、煤を浴びたような黒い景観が、夕暮れの赤い光に照らされ、谷の底へと続いていた。

 ……なんという事だ。あの夜のままだ。病に罹った者が増えた谷の市街地へ、医療教会は手を差し伸ばしたりはせず、代わりに炎と油を投げ入れた。生きたまま焼かれる事を望まれ、獣より人の方が遙かにおぞましいと知った、あの夜のままだ。
 本当に、見捨てたのか。
 あの炎で全て焼き清めた後、街は僅かでも再建される事なく、亡骸も何もかも野晒しにされ、冒涜され続けている。これでは、今も治まらぬ炎で責め苦を受けているようなものだ。

 こんな、謂われのない扱いを受けなければならないほど、“私達”は憎まれていたのだろうか……――。

 焼け爛れたかつての市街地の有り様に、言葉が出てこない。はわなわなと激しく震え、たまらず口元を手のひらで覆う。



 狩人はすぐさまの肩を抱き、身体を支える。その腕と胸にしがみつき、力を失いそうになる足を必死に立たせた。

「ごめんなさい……あれっきり、来ていなかったから……」

 炎の中で踊り、叫び狂う、獣と人間。焼け焦げる臭いと、肺を焼くような灼熱の空気。あの炎の熱が鮮烈に甦った。
 大丈夫。もう、あの夜の炎はとっくに消えている。大丈夫。
 何度も言い聞かせ、深呼吸を繰り返し、どうにか震える身体を落ち着かせる。

「……大丈夫、行きましょう」
「……分かった。が、その前に」

 狩人はゆっくりとから離れると、何処からか黒い外套を取り出し、の頭から被せた。の腰の高さ程度の、やや丈の短い外套だった。

「この装束の付属だ。少しはマシだろう」
「ありがとう……」
「それから……」

 狩人はおもむろにへ背を向け、その場に膝をつき屈んだ。

「俺の背に乗ってくれ」
「え?! でも、そんな事をしたら、貴方、武器を握れないんじゃ……」
「それでいいんだ」

 は、目を見開かせ、彼の後頭部を見下ろす。

「そういう、約束なんだ」

 さあ背に、と狩人は今一度促してくる。は困惑を隠せなかったが、向けられた彼の背中からは、妙に強い意志が感じられる。これは背負われるしかないようだ。は恐る恐るとその肩に触れ、そっと被さった。

「お、重かったら、ごめんなさいね」
「問題ない。むしろ……貴公は少し、軽すぎる」

 狩人の腕が、の膝の裏に回る。そして、ふらつく事もなく立ち上がると、焼け焦げた旧市街の風景に向き合った。

「――この街にいる獣には、けして手を出さない」
「え……?」
「それが、俺が取り交わした約定だ。だが心配ない、武器を振らずとも、獣を避けるくらいは雑作もない事だ。けして貴公には傷一つ付けない」
「……ありがとう。面倒、掛けてしまっているわね」

 獣狩りの夜に、なんの戦う術もない女を背負い、身動きを制限されながら進む。よく考えれば、狩人にとっては面倒以外の何物でもなく、その上彼にとっての獣狩りになんの利益も無い。
 は目の前の大きな肩をそっと掴み、額を押し付ける。今更の感謝と謝罪をこぼすが、狩人は。

「――いいや、これは、けして無意味ではない」

 その声音はさながら、使命を果たさんとする決意を帯びているようだった。

「これは、俺にとっても意味のある――そうきっと、意味のある、価値ある選択になる」
「……選択?」
「俺は、貴公が……」

 途中まで言いながら、途中で止めてしまった。そして次に出てきた彼の声は、これまで聞いてきた静けさに戻っていた。

「独り言を言っている場合ではないな。そろそろ向かおう。、顔を伏せ、俺に強くしがみついてくれ」

 は、言われるがまま大きな肩を強く掴み、顔を伏せた。

「たぶん、かなり揺れると思う。だが、絶対に振り落としはしない――信じてくれ」

 そして狩人は、をしっかりと背負い、駆け出した。頭から被った外套が視界を遮っているけれど、獣の気配、そして鳴き声が、はっきりと感じられた。きっと手を伸ばせば触れてしまう距離に、獣が集まり、狩人の行く先を阻もうとしているに違いない。
 だが、獣の悲鳴は、聞こえなかった。彼が言った通り、本当に武器を振るわないつもりなのだろう。

 ――獣を殺さないという、約束。

 獣狩りを幾度も体験し、獣という存在と隣り合わせだったにとって、彼が交わしたというその約束は気が触れたと言わざるを得ない類いのものだ。どうかしている、何故そのような事を。全て焼き尽くされても病の蔓延は食い止められなかった、この惨劇の街で、あの人は何を思っているのだろう。
 その疑問も、この先で、分かるのだろうか。



 執拗に追いかける獣達の追撃を躱し、一心に街中を走り抜けていた狩人の足が、不意に止まった。激しく揺れる振動と、追走する獣の声はなく、いつの間にか沈黙に包まれていた。

「……着いたぞ、

 狩人の肩に埋めていた顔を、そうっと起こす。視界を覆っていた外套をずらし、怖々と周囲を窺う。
 今いる場所は、大きな建造物の側だった。夕暮れの赤い光を遮るほどに、とても立派な造りをしたそれは……確か、聖堂だ。旧市街に暮らしていた住人たちの集会や、医療教会からの大々的な施術、教会からの言葉を伝える際など、多目的に用いられた建物であったはずだ。
 外壁は荒れ、所々に黒い煤がこびりついているものの、随分としっかり残されている。もはや骨組みしか残っていないものも多いというのに。

「――その中には入らない方がいい。獣の巣窟だ」

 狩人はの肩を抱くと、身体の向きを変えさせ「こっちだ」と示す。その指先は、上を指していた。
 聖堂の傍らで、高く聳える塔。
 梯子が掛けられており、塔の天辺にまで昇れるようだが……随分、高い。顎を目一杯上げても、梯子の終わりが不確かだ。この上に行く必要があるのか。

「スカートから履き替えてきて良かったわ……」
「……昇るのか? 俺が上へ行き、下りてきてもらうよう説得するつもりだったが」
「いいえ、昇るわ」

 は、毅然とし、言い切った。
 私の方から、あの人へ会いに行く――そのために、この忌まわしい市街地へ戻ったのだ。

 狩人にも、覚悟は伝わったのだろう。彼は「そうか」とだけ呟き、梯子へ導いた。先に彼が昇り、はその後ろに続く。正直、足どころか全身が竦むようだ。下は見ないよう努めても、強さを増す風は肌で感じられるし、高所にいるのだという自覚が嫌でも芽生える。だが、この梯子を昇りきった先で待っているだろう人物との再会を、なによりの励みにし、長い梯子を一心不乱に昇り続けた。

、もう少しだ」

 梯子の終わりが、ようやく見え始める。先に昇り終えた狩人が、その腕を伸ばしていた。天辺に手を掛けると同時に、狩人の腕がを引き上げた。

「ご苦労様、……大丈夫か?」
「はあ、はあ……ッな、なんとか……」

 強がって言ってみたが、両膝はガクガクと笑っている。支えてくれる狩人の腕が無ければ、今頃、膝から崩れ落ちてしまっている。

「――デュラ殿、今しがた話をした女性だ」

 狩人が、ではない、別の人物へ話しかけた。ドクリと、心臓が大きく跳ね上がる。

「貴公、獣狩りの夜に、女性を連れ歩くとは……。第一に、私のもとへ連れてきて、何になる」
「もう一度、貴方に会うため、旧市街へ戻ったかつての住人だ。貴方も……きっと思い出すはずだ」

 肩を抱く狩人の手が、そっとを押し出す。いつの間にか下がっていた眼差しを、恐る恐ると正面へ向けた。

 長い梯子を昇りきった塔の天辺は、ただただ殺風景だった。雨を防ぐ屋根もなく、四方を囲む柵もなく、灰と煙の臭いに満ちた風が容赦なく吹き付けていた。
 焼け爛れた街の風景が、よく見渡せる。あの夜が、どれほど残虐で、どれほどの規模を焼き払ったのか……生々しく残されたままの傷跡までも、全て。

 煙が立ち上る不気味な夕暮れの空を背にし、その人は佇んでいた。煤けた灰色の狩装束で全身を包み、その頭部にはあの灰色の帽子があった。
 枯れ羽を模った、灰色の帽子。
 炎の記憶の中に残った、あの形の帽子だ。

 油と共に投げ込まれた炎は、瞬く間に街に燃え広がった。浄化を謳った炎は谷の底にある街とそこで暮らす人々を、生きたまま焼いていった。獣になってしまった母は焼け落ちた家屋に飲み込まれ、手を引いていた父は襲いかかってきた獣たちに食い殺された。焼ける空気に包まれながら、おぞましい惨劇に泣きじゃくる幼いを、あの人は抱きかかえ、炎の海に沈む寸前に市街地から救い出した。

 忘れた事は、なかった。
 忌まわしく、心の底から憎悪し、けれど今もなお脳へ焼き付いて離れない、あの人の姿を――忘れた事など、一度たりともなかった。

「……デュラ、さま」

 いつか会いたいと願っていた古狩人デュラは、冷めきった静けさを纏い、の前に現れた。



2020.10.30