いにしえの呪いを口ずさむ人(2)

 ――二十年。
 全てを焼き清めた、あの獣狩りの夜から、二十年は経過している。

 長い時が過ぎ、幼い少女だったは、今や大人の女となった。を救い出したデュラも、記憶の中にいた彼よりも齢を重ねたように見えるが、その佇まいに老いは全く感じない。老齢による脆弱さなど欠片ほどもなく、むしろ数多の狩りと死地を潜り抜けてきた、歴戦の猛者といった重厚な風格が漂っている。

 生きていた。
 まだ、あの人は、こうして。

 は一切の言葉を失い、呆然としながらデュラを見つめるばかりだった。彼に言ってやりたかった事、伝えたかった事、二十年近くの歳月でたくさんの言葉が積もっていたはずだったのだが……デュラの姿をいざ映したら、何故だか全て消え去ってしまった。
 そんなに対し、デュラは。

「――獣の街に、何の用があったかは知らないが、今夜は獣狩り。早く上へ戻りたまえ」

 一切の記憶にない、そんな風に聞こえる、冷ややかな声を投げ寄越した。
 何か、劇的な再会でも期待していたのだろうか。もう二十年だ、とうに忘れ去られている可能性の方が大きかっただろうに。
 それでも、何処か愕然とし、怯んでしまったが、確かにそこに存在していた。
 すると、傍らに立つ狩人が、の背をそっと押し出した。

「狩人さん」
「何か、告げなければならない言葉が、あるはずだ」

 ドキリと、の心臓が跳ねる。デュラの被るものと同じ形をした、色違いの黒い帽子の向こうから、物静かな眼差しが注がれる。の心ごと、全てを見透かしているような落ち着きだ。
 ……時々、彼の事が、分からなくなる。この場に存在していながら、もっと遠いところから見つめているような、不思議な幻想が時折過ぎるのだ。

「……そうね。ありがとう」

 狩人に励まされ、は消え失せそうだった勇気を今一度、奮い立たせる。そして、いざデュラと向かい合おうとした――その時、狩人の手がの手を握り締めた。
 どうしたのかと見上げるが、彼は何も言わない。押し黙り、沈黙を纏い、を見つめ続けている。そして、おもむろに瞳を伏せると、の手を恭しく持ち上げ――その指先に、口付けを落とした。
 顔の下半分を血避けの黒い布で覆っているため、直接、触れたわけではない。けれど、その柔らかさと、温かさは、不思議な鮮やかさでもって指先に伝わった。

「――貴公の胸に在り続けた願いが、どうか、果たされるように」

 焼け爛れた街に不釣り合いな、穏やかな声と微笑みをこぼし、の手を離した。
 祈りのようでもあり、別れの言葉のようでもあった。
 狩人は静かに踵を返すと、梯子を下り始めた。「塔の下にいるから、思う存分、話すといい」その言葉を残し、狩人の姿はあっという間に消えてしまった。

 煙にまみれた風が、塔の上を過ぎ去る。とデュラだけが取り残された吹き曝しの天辺には、あまりにも重い沈黙が流れていたが、は意を決しデュラと向かい合う。

「……私の事など、もはや記憶にはないかもしれないし、忘れてしまっているかもしれない。でも……それでも、良いんです。私は、ただ、貴方に……」

 震える喉から、言葉を押し出す。

「貴方に――感謝を伝えたかった」

 病に臥した母は、結局獣になった。父は住人であったはずの獣たちに生きたまま喰われた。
 そして残されたのは、生きる術を持たない、泣きじゃくる子どもだ。

 大切な家族を失い、私一人だけ生き残って何になる。
 どうして後を追わせてくれなかった。こんなおぞましい街に、私一人だけなんて、望んでいない。
 嫌い、嫌い、狩人なんて大っ嫌い。
 誰も救わなかったくせに。誰も救えなかったくせに。

 激しく罵倒し、泣き叫び、ついには言葉も失い嗚咽に塗れる少女を、デュラは抱きしめた。何も言わず、全てを受け止め、抱きしめてくれていた。

 そして目覚めた時には、は空き家に寝かされていた。人の気配はなく、無人だった。だが、必要な家具や調度品、食器類などは一通り揃っており、金貨が入った袋も置かれていた。
 そして、テーブルには、マホガニー色のオルゴール箱と、厳格な形をした文字を綴った洋紙がひっそりとあった。
 全てを悟ったのは……もう、ずっと後になってからだ。

 獣狩りの夜のたびに、いつの間にか置かれていた獣避けの香と食料。今日までがこの街で生き延びれたのは、常に誰かの助力があったからなのだ。けして、だけの力ではない。ようやくその真実に気付いたのは、あの焼き払われた獣狩りの夜が過去の記憶となり、身の回りの事を一人でこなせる年齢になってしまってからだった。

 それまで影ながら手助けしてくれていたのは、他ならぬ、この狩人だったのに――。

「……助けてくれた人を蔑むような、あの日の愚かな私を許して下さい。そして、今まで目をかけてもらって、ありがとうございました」

 最大限の礼節を込め、深々と一礼をする。返ってくるのは、変わらぬ沈黙だった。

「狩りの成就を、祈っています。デュラ様」

 いつか告げたかった言葉を、全て出し切った。は背を伸ばし、小さく呼気をこぼす。
 いつの間にかデュラは、背を向けていた。老齢とは思えないほどすっと伸びた背中は、冷ややかな沈黙を纏っている。やはり、彼は何も語らない。最後まで、を見てはくれなかった。

 だが、それでも良いのかもしれない。積年の思いを、ようやく言葉にし、彼へ明かす事が出来たのだから。
 恨んでいたのも事実だが――感謝しているのも、真実だ。

 は視線を下げ、デュラに背を向ける。梯子を下りようと爪先を踏み出した――その時だ。

「――私への祈りは不要だ。私は、とうに狩人ではないのだから」

 吹き付ける風の音に、デュラの低い声が響いた。は足を止め、すぐさま振り返った。

「徒党を組んだ医療教会の連中が、市街地に油と炎を投げ入れた、あの光景。あれを見てから……獣狩りにも、狩人にも、何の意味もないのだと思い知った」

 それまでは、心の何処かで、まだ人々を救える何かであるのだと夢見ていた。
 デュラの低い声は、激情を抑えるように、震えている。

「私は……誰かを救う事も、守る事も出来ぬ、愚か者だった。それだけなのだよ、

 名前を。
 名前を、知っていた。
 何処かで知ったのだろう、私の名前を、憶えていた!

 その事実に、泣き崩れてしまいそうな、酷く危うい歓喜が血潮のように胸に広がった。
 そう、嬉しかったのだ。この人の中に、まだ記憶として私の存在が残っていたという事実が。

「……それでも私は、救われた。今なら分かる、あの夜から、貴方こそが私の救いだった!」

 は駆け出し、デュラの背へぶつかるように縋った。びくともしない身体は、もう若くはないはずなのに、今もなお力強くを押し返した。
 死地を潜り抜けてきた風格……この人は、あの夜から、何かと戦い続けてきたのだろう。恐らく、獣ではない。もしかするとそれは、守るべき人であったのかもしれない。

「貴方、この市街地を、今も守っているのね……。教会にも、同じ住人にも見放された、哀れな“人達”を、ずっと」

 医療教会からは、激しく非難されるだろう。狩りを止め、獣を守るなど、狩人にあるまじき罪深い行為だと。医療教会だけではない、同じ住人すらも、口汚く罵倒を尽くすだろう。狩りを止めるとは、そういう事なのだ。そしてそれは、この狩人こそが、痛いほど理解しているに違いない。

「……感謝など、口にしてはならない。これは私が、最期まで抱くべき罰なのだ」

 ――だが。
 不意に、デュラの低い声が、ふっと笑みをこぼした。

「炎の中で泣きじゃくっていた少女が、これほど度胸のある美しい淑女になっていたとは、想像もしなかったな」

 かたくなに向けられていた背中が動き、へ正面を向けた。枯れ羽を模った灰色の帽子のその下で、薄っすらと微笑んでいるように見えた。目元、口元、頬……あらゆる場所に、齢を重ねた深いしわが刻まれている。だが、老いてなおその存在感は鋭く、を圧倒する。

 その姿を、惨劇の夜が明けてから、どれほど胸の中に抱き続けた事か。

 ――ようやく、見てくれた。私の事を。

 音も無く喜びに震え、睫毛を伏せる。灰色の手袋に包まれた太い指が、の目元を拭った。

「……あの時みたいに、してくれませんか」

 しな垂れるように、デュラの胸へ両手を重ねた。

「あの獣狩りの夜に、してくれたように、抱きしめてくれませんか」

 恥知らずな懇願と、嘲笑ってくれてもいい。幼子とはいえ、とんでもない罵りを吐いた女なのだ。軽蔑されて然るべきだろう。
 それでも、許されるなら。
 今夜だけ、常と異なる異常な獣狩りの今夜だけ、一度きりの祈りを聞き届けて欲しい。

 デュラは、少しの間、押し黙っていた。やはり駄目か……分かってはいたけれど……。離れようとした、その時、頭上で低い声が静かに響いた。

「……汚れると、思うが。この装束は、灰と炎の中を生き延びた、そういう装束でもある」
「……! いいんです。むしろ、そっちの方が」

 その匂いが染み付いているというのなら、それでも、構わないのだ。顔は直接合わせる事なく、けれど密やかに細く繋がり続けた、二十年の歳月。と、この老狩人との間にあるものは、今も灰と炎に塗れているのだから。

 やがてデュラは、再び口を閉ざした。下げられていた両腕が、緩やかに持ち上がり、の背に回った。ゆっくりと抱きしめる仕草は、老齢と思えないほど力強く、そしてとても優しかった。遠い昔に失った、父の腕を思い出すようだった。

「デュラ様……」

 額を、彼の胸に押し当て、瞼を下ろす。息を吸い込めば、あの香りが強く鼻腔を満たした。灰と、火薬の、あの香り。惨たらしい一夜に感じてから、長い間を捕らえ続けた、あの香りが――。


◆◇◆


 ――彼女は、宿望を果たせただろうか。

 高く聳える塔の天辺で、どのような再会が交わされているのか、俺には分からない。時が過ぎるのを感じながら、待つしかないのだ。
 そもそも俺は、余所者。あらゆる意味で、初めから、部外者だった。との関わりについても。

 旧市街の惨劇から救ったデュラに、もう一度会いたい――それが、ヤーナムで生き延びてきたの支えであり、また希望を持つ事のなかった彼女が唯一手放さないでいた願いなのだと、幾度も悪夢を繰り返す内に知った。気付かないままでいるほど、無知ではない。の心になお在ったのは、旧市街を焼き捨てた惨劇、そして古狩人デュラだった。

 臓腑が焼けるような、醜い悋気を抱いた。名前以外の全てを忘れ去った俺が、心から安らぎ、安堵し、求めてきた彼女の中には他の男の面影があるのだ。俺が入る僅かな余地を、奪われるのは耐えられなかったし、彼女を俺以外の男のもとへやるなどもっての外だった。
 だから、隠した。これまでの悪夢では、けして彼女に、デュラの存在を明かさなかった。無論、デュラにも。あの男にこそ、の名は、けして告げなかった。心が折れ、狩人を止めてもなお、かつて自らが救った少女を浅からず想うあの男に、けして教えるまいと決意したほどだ。

 ……だが、必然の死を迎えるばかりのを、救える可能性があるのなら――このかたくなに握り続けた手を、放さなければならないのかもしれない。

 初めて彼女の手を解き、華奢な背を押し出し、記憶へ焼き付いた男のもとへ向かわせた。これで、何か、変わるのだろうか。変わるものが、あるのだろうか。これで初めて、慈悲深さを隠しきれない不器用な彼女が、救われる分岐が生まれるというのなら、最初の約束が果たせなくなっても――。

 なんて、殊勝な事を思い浮かべようとも、この途方もない喪失感は、当分は消えそうにない。悪夢を繰り返す数だけ味わってきた死の痛みよりも、遥かに辛いなんて。

(……夕暮れが沁みるなんて、俺にも、そんな感情がまだ残っていたのか)

 飽きるほど見てきた夕暮れの赤い空に、情緒が震える。醜い悋気を起こし、その末に、結局失った。
 ああ、これではまるで、ただの人間のようだ。
 の存在があってこそ失わずに済んだ人間性が、そのによって苛まれるとは、皮肉が過ぎるけれど。

 あるいはそれこそ、“恋”と呼ぶのだろう。

 そして、デュラに向けられたの想いも――恐らく、“恋”だったのだ。



夕暮れの女を、旧市街へ……

→ 「連れていく」 
   「連れて行かない」

◆◇◆

この選択が、後の悪夢にどのような形響を及ぼすのか。そしてその結末は。
悪夢が続く限り、思考は尽きませんね。


(お題借用:rendezvous 様)


2020.10.30