贖える罪と抗えない罰(1)

 長い夕暮れが終わり、ついにヤーナムは月夜を迎えた。
 忌わしい獣狩りの夜が、やって来たのだ。
 しかし今夜の狩りは、常と異なるものに成りつつある。夕刻から既に死人が現れ、女の悲鳴と獣臭い呻き声ばかりがヤーナムに響いている。月が昇り、獣達はよりいっそう活発に動き出すが、果たしてどうなるのか。
 不安が胸を過ぎる中――オドン教会に、また新たな住人が姿を見せた。

 ずたずたに破れた汚らしいズボンを履いただけの、上半身を裸にした男だった。浅黒い肌は痩せ気味で、骨の筋が浮かび上がっている。頭部は薄汚れた包帯でぐるぐると巻き付けられ、目元は隠されがちであったが、髭の禿げた顎の輪郭と口元は見る事が出来ていた。
 いかにも不衛生な見てくれをし、貧困街の者すらもっとましな身なりをしている。だが、がぞっと震えたのは、外見のせいだけではなかった。

「安全な場所があると聞いたんだ……俺も、休ませてもらうよ」

 細く長い両腕は、べったりと、黒く汚れていた。それはまるで、時間が経ち錆びてしまった血液のような色をしていたのだ。



 陽が落ち夜を迎えても、オドン教会は変わらなかった。狩人の呼びかけにより避難してきた住人は皆、必要以上の交流をしようとせず、各々が一定の距離を保ち同じ空間で過ごしている。が親しくなった者と言えば、聖堂街で娼婦をしているという真っ赤なドレスを着た美しい女性アリアンナと、オドン教会の住人である暗い赤ローブを着た小柄な盲目の老人ぐらいなものだ。そもそも、他の者には会話をする、あるいは親睦を深めるという意志がまるでなく、互いに無関心だ。
 ヤーナムに夜明けが訪れるのは、まだ当分は先の事だろう。この重い沈黙には慣れたが、先の長さを考えると、酷く憂鬱にさせた。

「夜明けは、遠いですね」
「ヒヒッ……じっと待っていれば、じきに来るよ」

 の隣で、赤いローブの盲人が身体を揺らした。ヒヒ、という掠れた笑い声に最初はも警戒を露わにしていたが、ヤーナムの陰険な風土には相応しくない穏やかでまっさらな人柄だと知ってからはすっかり話し相手である。少しばかり卑下する癖のついた笑い声や喋り方をしているだけで、それを除いてみれば驚くほど優しい人物なのだ。ヤーナムの民に、こんな人も居たのかと、思ってしまうくらいに。

「……ところで、その……新しく来た人の事なんですが……」
「うん?」
「ずっと、外にいますよね……」

 の目は、自然とオドン教会の外へと向かった。
 教会と外界を繋ぐ、扉の無い入り口の先には、誰の姿もない。けれど、きっとそこにいるのだろう、あの男は。

 血の医療を施す聖職者がことごとく獣に成り果てた、医療教会。未だその内情を秘密にする組織はついに崩壊し、自らの目的のため狩りをするあの狩人は、医療教会の警句によって阻まれたその先へと進んだ。身をやつしたあの男は、そこからやって来たのだという。
 だがあの男は、オドン教会の中へはけして入ろうとしなかった。獣避けの香がたっぷりと焚かれた安全地帯に踏み込まず、ずうっと外にいるのだ。月夜を迎え、獣狩りはいっそう激しくなるというのに。

「まあ、あの人がそうしたいなら、そうすればいいとは思うよ……俺は、威張り散らしたいわけではないから」
「それは、そうなんですが……正直、不気味です」
「森にいたと、狩人さんは言っていたしね」

 そう、それなのである。
 医療教会だけが知る警句を合言葉にしてまで、何人も踏み入れないよう固く閉ざした門の向こう、禁じられた森の中に、あの男は居たのだという。巨大な湖に面した断崖の上の、風車小屋のその屋根の片隅に。
 何故、閉じられた門の先に居られたのだろう。そもそもヤーナムから行く事など出来ないだろうし、ましてあの身なりだ。人間に、獣達を退ける術はほとんどない。あの男は、何故、警句の先に居たのだろう。

 いくつもの疑念が、の中に湧く。しかし、オドン教会に避難している者は皆、興味を持たないし、この老人も深く聞き出そうとはしていない。疑問を持つ私の方がおかしいのだろうか。だが、それをぶつける勇気などないし、出来れば関わり合いになりたくない。悶々とした不気味な思いを抱きつつも、あの男と言葉を交わそうとはさすがに思えなかった。




 ――オドン教会に、狩人がやって来た。
 枯れ羽を模った黒い帽子と、黒いロングコートの装いの、黒ずくめの狩人。常と異なる異常な夕刻に出会った、異邦人の狩人だ。
 を、オドン教会にまで避難させてきた人物でもある。

「狩人さん、狩りは順調かしら」
「ああ……森の深部を探索しているところだ。区切りのいいところで、こっちの様子を見に来た」

 狩人は教会の内部を見渡すと、そこで不思議そうに首を傾げた。

「……? あの男は、何処に居る?」
「頭に包帯を巻いた人? 外に居るわよ」
「……外に? ずっと?」
「ええ、ずうっと」

 目深に被った帽子から、怪訝な瞳が覗く。は一度口を閉じ、そっと狩人の手を取ると、その場を離れ石造りの螺旋階段へと向かう。階段を下り、蔵書が散らばった書庫へ移動すると、改めて狩人に向き直った。

「ねえ、狩人さん。あの人、大丈夫かしら」
「どういう意味だ」
「説明、出来ないんだけど……何だか不気味というか、ずうっと背中がざわざわするの」

 赤いローブの盲目の老人の件で、外見で人となりを判断するのは早計だと学んだが……だとしても、この感覚はその比ではない。本能的な部分からせり上がるような、名状しがたい恐怖だ。

「話しかける勇気は、さすがにないんだけどね……」

 狩人は少しの間考え込むと、やがて「分かった」と頷いた。

「森の探索に戻る前に、俺も話し掛けてみよう」

 全く物怖じした様子が見えない辺り、さすが獣を殺す狩人である。
 書庫からオドン教会へ戻ると、彼は早速教会の外へと進み、少しの間あの男と話し込んでいた。そして戻った時、彼の表情には微かな険しさが浮かんでいるように感じた。

「よく、分からない男だった」
「そう……」
「ただ、あれは……」

 途中まで言いかけた言葉を、狩人は飲み込んだ。大丈夫かと見上げると、黒革の手袋をはめた手が頬をそっと撫でていった。

「いや、何でも無い。俺が連れて来たようなものだから、貴公にこう言うのは正しくないのだろうが、あまり関わらず距離を取ったままでいい」
「そうね……それが良いんだわ、きっと。……ねえ、狩人さん」
「何だ」
「また……その、来てくれる、かしら」

 我ながら子どもじみた問いかけだと、すぐさまの胸に羞恥心が押し寄せる。やっぱり何でもないわ、と言おうとした時、目の前に立つ狩人が一歩、近づいてきた。そうして見上げた時、狩人は口元を覆う布を指でずり下ろすと、顔を下げた。
 精悍な輪郭を描く顔立ちが、視界を埋める。薄く開いた唇は、静かにの唇へと重なった。
 病に侵され獣となったものを殺す人だと、一瞬忘れてしまうほど優しい温かさに、の目が自然と緩む。

「必ず、また」

 そう約束しただろう、と囁いた声に、はうっすらと微笑んだ。
 狩人はずり下ろした黒い布を戻し、再び口元を覆うと、狩りへ戻っていった。

 結局、あの男について、何か判明する事は無かったようだ。彼が言うように、関わらず距離を取り、気にしないよう過ごしていればいいのだろう。そうするべきだと、自身にも言い聞かせたが――焦燥のような、無視しがたい感情がどうしても消え去ってくれない。オドン教会に集まった住人達は皆、外にいるあの男の事も、もちろんの事も、僅か一片も気にかけてはいない。今回に限っては、その関心の無さを持ちたかったものだ。
 の足は、教会の外へ向かっていた。


 頭を出し、辺りを窺う。獣の呻き声が風の音に混じり遠く聞こえたが、焚きしめられた香のおかげか、入り口の周囲にそれらしいものは見当たらない。あの男の姿も無かった。
 何処か遠出でもしているのだろうか、あんな恰好で、よくそんな事が出来るものだ――。

「――ん? あんた、避難してきた人かい」

 ――と思ったら、放置された馬車の物陰に座っていた。
 視界の下から突然飛び込む、包帯をぐるぐると巻いた頭部に、は悲鳴を出していた。

「おっと、すまない。驚かせるつもりはないんだ」

 男は二つの手のひらをさっと上げ、危ない事はしないよと言うように前へ出した。は心臓の辺りの衣服を鷲掴みながら、恐る恐ると男を見つめる。髭の生えた口元は、笑みを浮かべていた。

「中の方が安全だろう。どうしたんだい、お嬢さん」
「あ、その……えっと、貴方は中に入らないのかな、と」

 どちらかといえば場を誤魔化すための言葉だった。真に、この男を気遣ったわけではない。
 それが伝わったのかどうかは定かでないが、男は笑みをこぼし、剥き出しの肩を揺らした。

「クク、俺みたいのが入ったら、他の人の気分を悪くしてしまうだろ? だから、ここで良いんだ」
「そう、ですか……」
「――それにね、俺には、ここの方がちょうどいいんだよ」

 口元に浮かぶ笑みが、ニイイイ、と不気味に深まった。
 の細い背に悪寒が走り、不気味なざわつきが全身を巡った。

「ここは居心地がいいよ……。ここにいる連中は皆、お互いに離れて近付こうとしないからな。ヤーナムらしい、実にいい場所だ……」

 そうは思わないかい、と呟いた男が、かくりと頭を傾げる。
 は曖昧に声をこぼすと、じりじりと後退し、逃げ込むようにオドン教会へ戻った。
 深淵から何かが這い出るような、仄暗く、耳にこびりつく声だった。全身が粟立ち、悪寒が止まらない。笑ってはいたが、けして底は見えなかった。ましてあの言葉に含まれた意図や、声に乗せられ向けられていたものが何だったのか、には理解など全く出来ない。

 不気味――そんな言葉一つで、済ませてはいけない。

(もう、関わってはならない)

 関わってしまったら、薄暗く陰った場所に引きずり込まれてしまう――そんな未知の恐怖が、の中に芽生えていた。
 それ以降、は身をやつした男のもとへ二度と向かわなかった。





 それから時間が過ぎ、狩人が再びオドン教会へやって来た。
 警句によって守られた森の、その深部へついに辿り着いたらしいが、足止めを食らっているという事を彼は漏らした。
 もはやこの狩人が向かっている場所も、彼が殺しているだろう獣も、には想像のしようがないものである事は確かで、そして助言出来る事は何もない。
 だが、多少の手助けくらいは、まだしてあげられる。

「狩人さん、こっちに。私の血を、分けてあげる」

 血を入れる行為は、ヤーナムでは常套的に行われている事だ。医療教会が病的に推したそれは、結果として聖職者をことごとく獣に変えたが、既にどの一般家庭にも普及してしまっている。当然、オドン教会にも血の医療に関わるものはあった。
 自らが使うのは未だ不慣れであるが、今は亡き両親の姿を見て使い方自体は熟知している。透明な硝子管に自らの血液を流し入れ、それを狩人へ預けた。

「……無理は、していないか」

 まだ温かく色鮮やかな血が満たすそれを、狩人は躊躇うように手のひらで包んでいる。
 彼は、知っている。旧市街の悲劇と、その生き残りであるが蛇蝎のごとく血の医療を嫌っている事を。

「馬鹿ね、私がしたいから、しているだけよ。貴方が気にする事じゃない」

 は小さく笑うと、狩人の手に両手を重ね、上からそっと握り込ませる。

「少しは、助けになるかもしれないじゃない。だから、気にしないで、持って行って」

 医療教会の施しの象徴である“聖女”たちとは違えども、余計な血は入れていないから、汚くはないはずだ。
 もはや彼に出来る事は、こうして血を提供し、僅かながらの手助けをする事だけなのだ。これで、彼が狩りを生き延び、夜明けを迎えるのなら――にとっても、それは名誉なのだ。

「貴方の行き先が何なのか、私には分からないから――せめてこうやって、貴方の手伝いをさせて」

 狩人は少しの間、沈黙していたけれど、その指先から躊躇いを振り払い、しっかりと硝子管を握りしめる。大切なものを扱うように、恭しく、懐へ入れた。
 それから、彼はに腕を伸ばし、その身体を抱きしめた。獣を殺す腕とは思えないほど、優しく、力強く、を包み込んだ。

「もう、大袈裟ね。使ってくれたらいいのよ、気軽に」
「ああ、そうだな」

 腕の力が増し、狩人の抱擁はより密になった。何か別の感情があるように思え、は彼の腕の中でそっと身動ぎをする。

「狩人さん?」
「――必ず、迎えに来る。このオドン教会へ。だから、どうか、無事でいてくれ」

 覚悟が込められたような、いつになく真剣な言葉に、は目を丸くする。そうして、面持ちを緩めると、血と獣の匂いを微かに放つ装束ごとしっかりと彼の背を抱きしめた。

「もう真夜中だもの。夜明けは、きっとそこよ」
「……ああ、そうだな」

 狩人は最後に、へ口付けると、再び狩りへ戻った。
 その背を、は見えなくなるまで見送った。
 あの夕暮れの時、獣狩りの群衆に追われていた彼の腕を引き匿った事で、狩人との関わりがもう一度生まれた。何らかの病を癒すためにヤーナムを訪れ、血の医療により記憶を失った異邦人は、今や多くの獣たちを殺す一端の狩人だ。その背と、眼差しには、古狩人の風格すら垣間見える。
 もはや彼は、一般市民では知り得ない、また到達する事のない場所へ、進んでいる。恩着せがましく血を差し出す事でしか、もう協力は出来ない。
 少し寂しいが、それで良い。彼が夜明けを迎えるのなら――それで。

(その隣に私がいるかどうか、もう、本当はよく分からないのだけれど)

 彼と共に夜明けを迎え、このヤーナムを去る――そう信じて待つ獣狩りの夜は、悪くはない気分だ。
 今夜の狩りを乗り切れば、浄化と称し焼き払われた炎の記憶とも、決着がつくだろう。火薬の匂いを纏う、灰色の老練な古狩人とも、きっと。



「――あんた、狩人と親しいんだな」



 満ち足りた境地にあるへ、あの声が聞こえた。
 深淵から這い出るような、仄暗い、不気味な笑い声。
 全身をぞっと震わせ、反射的に振り返った。

 ボロボロに裂けた汚れたズボンを履き、上半身は裸の、身をやつした男が佇んでいた。頭部を全て覆うように巻き付けた汚れた包帯の向こうから、纏わりつくような視線が浴びせられている。
 オドン教会から、少し離れてしまったようだ。戻りたいが、教会の入口は、男の向こうにある。

「まあ、でなければ、血を施したりはしないか」

 男の視線が、つい、と下がる。包帯を巻いた腕を見つめていると気付き、咄嗟に手のひらを重ね後ろに隠した。

「ずいぶん、狩人に入れ込むんだね」
「……あの人がいなければ、夜明けは迎えられないもの。例え、好んでいる相手ではなくとも、協力くらいは――」
「――嘘の匂いは、すぐに分かる」

 男は、クク、と剥き出しの骨ばった肩を揺らした。

「嘘を付く必要はないだろう。あんた、あの心優しい狩人に惚れているんだねえ」

 は、ぎゅっと眉を顰める。

「……ずいぶん、不作法な人なのね。女の心を知った顔で語るなんて」
「ああ、すまない。まともに人と話すのは、久しぶりだからね……まあ分かるよ、乞食の俺にも避難所を教えてくれるくらいだから。惚れるのも、仕方ないんだろうね」

 その声に浮かぶ笑みは、けして感謝などではない。言うなればそれは、嘲りだ。あの優しい狩人への、侮蔑。
 の頬が、不快さと苛立ちにより歪む。だが、男は傷ついた様子も、態度を改める様子も見せない。くつくつと、不気味に笑っている。

 ――その時、感情が抜け落ちるように、突然男の声が静かになった。

「……不思議だなあ、あんた。ありふれた住人にしか見えないのに、他とは違う。他とは違う、良い匂いがする」

 ――特にその、腕から漂う匂い。
 ねばついた男の眼差しが、ねっとりと、の腕に絡み付いた。狩人へ血を施した際に器具を使い、しとしとと溢れる血で湿った包帯を巻いた腕に。

「――甘い、たまらない匂いだ」

 はその瞬間、凍り付いていた足を必死に動かし、その場から駆け出した。
 だが、男は俊敏に距離を詰め、の腕を掴む。思ってもいない凄まじい力が掛かり、は逆らえず地面に引き倒された。したたかに打ち付けた頬から痛みが駆け抜け、目の前がチカチカと点滅する。

「あ、ぐ……!」

 凄まじい力が、上から掛けられる。押さえ付けられた身体は、ギリギリと嫌な音を立て、僅かな身動ぎも出来ない。
 とても人間のそれとは思えないほどの膂力だ。骨の浮き出た痩せた肌をし、両腕もさほど太くはない。屈強そうにはとても見えないというのに。

「――ああ、あんた」

 鼓膜にへばりつくような低い声で、男が囁く。苦しさに呻きながら、はどうにか首を動かし、頭上を見上げた。

「俺にも、俺にも優しくしてくれよ。なあ、娘さん。狩人に血を施すのなら、俺にも」

 冷酷に輝く白い月を背にする男は、暗い影を纏っている。微かに浮かぶ口元には笑みが浮かび、おぞましい嘆願を紡いでいる。
 目の前にいるものは、本当に、人間なのだろうか。
 恐ろしい予感が、の脳裏に何故か過ぎった。

「少し、分けてくれるだけでいいんだよ。手のひらに、一口分だけ」

 凍えるように身体を震わせながら、は首を振る。小さく、ニ、三回。その瞬間、男の口元から笑みが消失し、やつれた身体から重い空気が溢れ出た。

「……狩人の方が、まともな存在だとでも?」

 男の指が、めり込みそうなほど、の肩を掴んだ。たまらず眉を顰め、唇を噛んだ。

「あんたの惚れた狩人は、まともな存在だとでも、思っているのかい? はは、ははは! 可笑しいだろ、あいつらこそ、あいつこそ!」

 侮蔑を含んだ笑い声が、歪に響き渡った。ひとしき肩を揺らした後、男はぐりっと頭を傾げ、を見下ろすと。

「――人の皮を被った獣に施すのなら、“俺”にも分けてくれよ。あんたのその、甘い匂いのする血を」

 白い月光を受ける、男のやつれた輪郭が、ざわりと震えた。
 痩せた身体が盛り上がり、大きく膨れてゆく。細長い両腕と両脚も同じように太くなり、ぼろぼろに破れたズボンは布切れに変わり果てた。そして、頭部を覆い尽くした包帯は引き裂かれ、はらはらと落ちるその向こうに、形を変えていった。

 目の前に映し出された、現実のものとは思えない、おぞましい光景。
 は言葉を失くし、茫然と見つめるほかなかった。

(……ああ、そっか。だから、教会の中に入ろうとしなかったんだ)

 男は、入らなかったのではない。
 入る事が、出来なかったのだ――。

 かつて“男であったもの”が、獰猛な唸り声を上げ、牙を剥き出す。太く隆起した片腕を、ゆっくりと高く持ち上がると、白く輝く満月を穿つように凶爪が真っ直ぐと立てられる。
 その爪から、逃げる事は叶わない。そして、何故か、こんな瞬間に理解したのだ。

(貴方は、こんなものと、戦っているのね……――)

 黒ずくめの愛しい人を思い浮かべ、は柔らかく微笑んだまま、振り下ろされた爪を見ていた。






「ああ、狩人さん……あんたが助けてくれたあの娘さんが、さんが、亡くなったんだ……殺されたんだ……。どうして……獣だろうか? それとも、外から誰か来て……? ああ、分からない、分からないよ……でも、俺の、俺のせいで……」



2019.08.09