贖える罪と抗えない罰(2)

 再び訪れたオドン教会に、の姿は無かった。
 いつもは、赤いローブを着た盲目の老人の近くにいるか、あるいは娼婦アリアンナと反対側の片隅に座っているかしていた。だが、何処にも、あの姿はない。いつも顰め面をし、不器用げに笑い、出迎えてくれる彼女は、何処にも居なかった。

 身体を丸め蹲る、盲目の老人の嘆きが、酷く遠い。相も変わらず関心を持たず、顔色の一つも変えない住人達を通り過ぎ、教会の外へと向かう。
 果たしては、そこにいた。
 大聖堂方面に繋がる門へと続く、真っ直ぐと伸びた長い階段の少し離れたところに、彼女はぽつんと横たわっていた。
 衣服どころかその下の華奢な身体までも斜めに切り裂かれ、血と臓物を撒き散らしたおびただしい血溜まりの真ん中で。

「――

 血溜まりを踏みつけると、ばちゃり、と水音が鳴った。聞き慣れたその音が、いやにおぞましい音色に聞こえた。

、何故」

 狩人の工房で仕立てられた武器を握り続けてきた己の手は、震えていた。手袋に包まれた指先で、横たわるの頬を撫でれば、力の抜けきった緩んだ柔らかさが伝わった。その恐ろしさにたまらず吸い込んだ空気は、狂おしい甘さに噎せ返り、ますます心臓の深い場所がえずくようだった。
 声にならない言葉で何度も後悔を咽び、それから、血溜まりから立ち上がる。彼女の側を離れ、無造作に置かれた馬車へと近付く。その陰に座っていた、包帯頭のやつれた男の正面に佇んだ。

「ああ、狩人さん……」
が、死んだ。ヤーナムで唯一、まともな存在だったのに」

 男はやおら立ち上がると、俺を見上げ、まるで嘆き悲しむように首を振った。

「若い娘さん、死んじまったね……可哀そうに。こんな場所にいたばっかりに」

 こんな場所、か。それは、ヤーナムか、それとも、オドン教会の事か。
 頭の後ろがひりついて、眩暈にも似た衝動が込み上げてくる。繰り返す“悪夢”の中、かつてこれほどの激憤を抱いた事は、あっただろうか。

 よくも、いけしゃあしゃあと、憐れむ事が出来るものだ。

「一つ聞きたい」
「何だい……?」
「――何故、お前から、の血の匂いがする?」

 甘く、そして熱い舌触りのの血は、もはや全身で覚えている。あの香を、嗅ぎ間違えるはずがない。
 頭部を覆い隠すように巻き付けた包帯の向こうで、男の視線が動き、俺を見上げる。耐えられたのは、そこまでだった。携えたノコギリ鉈を振り抜き、男の身体を切りつけた。

「ヒッ! な、何をするんだい!」

 怯えたように両腕で頭を庇う男に、もう一度、ギザギザの刃が並ぶノコギリを振った。

「止めて、止めてくれよ、狩人さん……!」

 風車小屋で出会ったこの男は、何処か避難できる場所はないかと尋ねてきた。あの言葉の真意は、自らが避難できる場所ではなく、安心して腹を満たせる場所を探していただけなのだ。
 最初に、もっと疑って掛かれば良かった。あの男は、腐った死体の中で“何か”を貪り食っていたのだ。

 三度目の、ノコギリの刃を振るう。
 男は頭を抱え、身を丸めた。だがそれは、切り裂かれる痛みから逃れようとしたからではなかった。
 薄汚れやつれた身体が、月光とは異なる金色がかった光を放つ。その一瞬の内に、細い身体の輪郭が急速に膨れ上がり、筋張った浅黒い肌が風に揺れるほど長い黒い毛皮に覆われていった。両腕、両足、胴体、そして頭部と、全てを余す事なく黒い獣毛で包まれた巨体は、夜空に向かい獰猛な咆哮を上げた。


 ――どうして……獣だろうか? それとも、外から誰か来て……? 


 ああ、きっと、そうだった。外から、招き入れてしまったのだ。他ならぬ、俺が!

 ごう、と唸る血生臭い夜風を受けながら、目の前の大きな獣を睨む。そこにはもはや、身をやつした男はいない。血の色に等しい真紅の瞳を爛々と輝かせる、本性を露わにした恐ろしい獣が、悠然と二本脚で立っていた。

「――あんた、何処かおかしいのかい? それとも、勘がいいのかな?」

 人間からは遠く離れた、巨大な漆黒の獣になりながら、その口からは人間の言葉が放たれた。
 ヤーナムに蔓延る風土病、“獣の病”に侵されたものは、獣へと成り下がる。もはやかつての自我は失い、獣として野蛮に振る舞う事しか出来なくなる。例外なく、誰もがそうだった。多くの聖職者や、獣を殺す狩人ですら、そうであったように。
 だが、確固たる自我を持ち、流暢に言葉を操る獣は、初めてだった。

 禁域の森にいたこの男は、どういう存在なのか――まあ、どうでも良い事だ。

 人間の男だった獣は、おぞましい声で嗤い、俺へ言った。

「悲しいのかい? 怒っているのかい? 何を今更――狩人など、お前らの方が血塗れだろうが!」

 牙を剥き出し吼え猛る獣が、毛むくじゃらの腕を突き出す。ずっしりとした巨体とは裏腹な、鋭敏な動き。鋭い爪が振り抜かれ、切り裂かれた身体から血が噴き出した。微かによろめいたが、地面を踏みつけ、次の爪撃をかわす。
 月の使者に見出された瞬間から、俺は只人ではなくなった。狩人の夢を見る俺に、もはや死など関係がなく、抉られようが砕かれようが四肢は完全に蘇る。全てが悪夢であったように。
 死の痛みを何十、何百と繰り返した。この程度では、まだ夢へ戻るには早い。

 繰り返される獣の攻撃を避け、獣の懐へ飛び込み、ノコギリ鉈を振る。輸血液を自身に打ち込みながら、何度も、何度も、獣臭い毛皮を引き裂き、その下の肉を抉り取った。

「死ね、死ね、死ねッ!」

 狂乱した獣が、両腕を振り回し、暴れ狂う。忌々しそうな叫びには、憎悪が溢れている。

「――そうやって、も手に掛けたのか。彼女の肉は美味かったか、血は甘かったか。なあ、おぞましい獣め」

 侮蔑を込め、そう告げれば、獣は途端に激しく戦慄いた。月夜に浮かぶ血の色の瞳を歪め、俺に向け何度も爪を振るう。

「狩人など……ッこの人殺しが! 獣だと? 獣だとッ? あんたに何が分かる! 俺だって、俺だってなあ!」

 ひた隠した怒りを露わにし、あるいは慟哭するその様は、哀れとも言えるのだろう。狂乱する赤い瞳は、泣きじゃくるように瞬いている。
 自我を失い、身も心も獣と成り下がるものが圧倒的に多い中、この男は唯一自我を保っている。稀に見る特殊な一例であり、医療教会の言葉を使えば探求すべき存在でもあろう。

 だが――もう、興味などない。

「獣の心など、知った事か」

 愛しい人の血で塗れた牙で、悲哀を叫ぶんじゃあない。

 大きく突き出された獣の腕をかいくぐり、鉈を下段に構える。助走をつけ振り上げると同時に、ノコギリを変形させ、長大な鉈へと仕掛けを変えた。
 多くの獣の血を削ぎ落したギザギザの刃を、獣の脳天へ叩き落す。渾身の力を込め落としたノコギリは、獣の体勢を崩した。大きく仰け反り、両膝からくず折れた獣が、その場に蹲る。
 その隙を、けして見逃さない。右手に握った鉈を腰に戻し、空になった右手を強く握り込む。そうして、無防備な獣の頭に、容赦なく突き込んだ。

 ずぶり、と音を立て、頭部を深く貫いた右手。獣の血と体温の温かさが、黒革の手袋をどろりと濡らし、その下の肌にも感触が伝わる。肉を抉り、頭蓋骨に指先が触れ、頭の中をぐちゃぐちゃに鷲掴む。痙攣するように戦慄く獣の目が、裏側を見るようにひっくり返った。それを無感情に見下ろし、突き入れた右手を引き抜いた。

 途端に、獣の頭部から赤黒い血が噴き出し、肉片が飛び散る。断末魔の如き悲鳴と共に、辺りへ散らばったそれは、俺の全身にも注いだ。

 獣は仰け反り、ゆっくりと倒れ込む。血反吐を吐きながらも、その顎は嗤い、そして悲哀を紡いでいた。

「ふ、はは……知ってるかい? 人は皆、獣、なんだぜ……」

 ――それはお前ら狩人も、例外ではないんだ。

 病に侵されたヤーナムで唯一自我を保っていたのであろう獣は、それを最期の言葉にし、絶命する。息絶える獣を冷酷に見下ろした後、俺はもう一度、のもとへ向かった。

「獣は殺した。本性を隠していた男は、ちゃんと殺した」

 血溜まりに跪き、引き裂かれた彼女の身体を抱き起す。獣を殺した達成感など、何処にもありはしなかった。
 たまらずその亡骸を抱きしめ、冷え切った頬に顔を寄せる。嗚呼、と何度も声をこぼし、初めて“悪夢”に踏み入れた時のように咽び嘆いた。

「――“また”、駄目だった」

 まただ、まただった。
 何故、このヤーナムで最もまともなが、凄惨な死ばかり迎えるのか。
 遠い過去にこの地を離れ、忌まわしい呪いから逃れていながら、再び戻ってきてしまった業だろうか。例え彼女は知らずとも、その甘く熱い血に気付かずとも、逃げ出した咎を受けているようだ。

 ある時は、発狂死して。
 ある時は、人食い豚に喰われ。
 ある時は、身内のように慕ったギルバードに喰われ。
 そして、今回は、禁域の森にいた身をやつした男に襲われた。

 俺は何度、彼女の死を見ているのだろう。何度も、何度も、悪夢の先には必ずこの光景がある。
 共に夜明けを迎えようと、交わした“最初”の約束は、一度として果たせていない。


 ――狩人など、お前らの方が血塗れだろうが!


 ああ、そうだ。愛しい人の血にまでも染められ、狩人など愚かなものだ。
 遠い昔から繰り返されてきたであろう獣狩りも、狩人という存在も、本当は何の意味も無いのだから。

 抱きかかえたの顔を、そっと見下ろす。穏やかな微笑みを浮かべた、美しい面持ちだった。恐怖も、憎悪も、何もない。彼女は何を思いながら、獣に切り裂かれたのだろう。
 血で濡れた冷たい頬を撫で、薄く開いた唇へと顔を下げる。口元を覆う布を下げ、これまで何度もしてきたように口付けをすると、冷たさと甘い血の腐臭が伝わってきた。

「……。今回の悪夢は駄目だったが、次は同じ道を踏まない」

 だから、また俺の腕を取り、家に匿い、惹かれ合い、愛し合おう。そして、共に夜明けを迎え――このおぞましい世界から抜け出すのだ。

「次の悪夢でこそ、貴公を救ってみせる」

 もう一度、あの“夕暮れ”を始めよう――。



たぶんきっと“前の悪夢”では、身をやつした男を発見していなかったのでしょうね。この悪夢の狩人さんは。
次からは容赦なく、診療所送り。あるいは、自らの手で内臓抜きをするのでしょう。

少しずつ、少しずつ常軌を逸脱していく、獣狩りの夜。
ブラッドボーンでは、発狂などありふれた症状なのだよ。

(お題借用:スカルド様)


2019.08.09