はじまりなんて望まない(1)

 酷薄な白い月を背にし、暗闇に浮かび上がるその姿は。
 いつだったかに出会った、鴉羽の女狩人を呼び起こした。




 長い長い夕暮れが終わり、ついに訪れた月夜。
 獣狩りの夜が、いよいよ始まった。
 しかし、今夜の獣狩りは常と異なり、夕暮れの内から正気を失い獣に成り果てる者が後を絶たなかった。今回は異常だと、も不気味な予感は抱いていたが……だからと言って、このような事態になるなんて思ってもいなかった。

 ――どうして、襲われているのだろうか。
 獣ではなく、獣を狩るはずの狩人に。

(狩人と、呼んでも良いのかしら)

 頭部をすっぽりと覆い隠す、銀色の兜。両手と両足を防護する、同じ銀色の、薄い金属質の鎧。それはさながら、古い時代の騎士のような造形だった。
 だが、その長身を包むのは、甲冑ではない。鴉の羽根で繕った黒い外套だ。の記憶に今も残る、あの“女狩人”のものと同じ品のように見える。
 関係者か、それとも。
 いずれにせよ、最も解せないのは、地面に転がされその不可解な狩人を見上げている事だろう。

 銀色の篭手を装着した右手には、刃の長い異国の剣が握られていた。月明かりを受け、冷酷な輝きを纏う、見事な美しい剣だった。
 それが、今まさに、を狙い斬り下げられた。
 咄嗟に地面を転がった事で、は理不尽に殺されずに済んだ。けれど、その代わりに積み重なっていた木箱が一瞬で破壊され、は余計に血の気を失った。

「ど、どうして。わ、私は、獣じゃ……」

 銀色の兜の狩人は、声一つすらこぼさない。無言のまま、再び異国の風情がある剣を構えた。
 はありったけの力で立ち上がり、その場から走り去ろうとする。だが、その後ろを、あの狩人は追いかけてきた。

 どうして、こんな目に遭わないといけないのだろう!

「――きゃあ!!」

 は、再び路地へ転がった。焼けるような痛みが、ふくらはぎに迸っている。斬られてしまったようだ。痛みをどうにか抑えようと、手のひらをぎゅっと強く傷口に押し当てたが、ドクドクと溢れ出る自らの血液で汚れるだけだった。

 カシャリ、と金属の擦れる足音が、近づいてくる。
 恐怖に青ざめながら見上げた狩人は、あの月のように、冷酷に剣を掲げた。
 振り下ろされると同時に、ヒュン、と耳をつく鋭い風切り音。は顔を背け、身を強張らせたが――何故か一向に、恐ろしい痛みは訪れなかった。

 恐る恐る、顔を戻し、窺い見る。
 剣は、の目と鼻の先で止まっていた。

 ぞっと震え上がりながら、地面を這い距離を取る。目の前の狩人はゆっくりと剣を下ろし、何故かの足下にまで歩み寄った。震えるなど気にも留めず、鴉羽の外套を広げ、片膝をつく。金属に包まれた指で、流れ出る血を掬い取ったかと思うと、何やらじっと見つめ――あろう事か兜をずらし、赤く濡れた指先を口に含んだではないか。

「ヒッ……」

 目の前に広がる、理解しがたい行いに、悲鳴がこぼれる。
 狩人は、殊更にゆっくりと舐め啜ると、やがて唸るような声をこぼした。

「――まだ、残っていたのか」

 それは、突然の凶行に見舞われてから、が初めて聞く声であった。
 ……驚いた。銀色の兜と鴉羽の外套のせいで、表情はもちろん身体付きまでもまったく読み取れなかったその狩人は、予想外に若い、男の声を有していた。三十代か、もう少し上だろうか。もしかしたら、とも年齢が近しいのかもしれない。

「もはや私の存在にも意味はなく、いずれ獣のように狂うしかないと、思っていた。だが……まさか、見える日が来ようとは」
「な、なんの、はなし……ヒッ?!」

 血だまりの中で、男は武器を置き、深々と額ずいた。それはまるで、赤く濡れたの爪先に、口付けを落とすような仕草だった。

「この日を、どれほど待ちわびていた事か――血の一族よ」

 血の、一族?
 一体、何を、言っているのだろう。人の足を斬り、血を舐め取り、さらには額ずいて。
 頭の中が、ぐるぐると引っ掻き回れるようで、酷く気持ちが悪い。


「――!!」


 暗い路地に、別の男の声が響き渡った。

 鴉羽の外套と銀色の甲冑とは違う、黒ずくめの装束に身を包んだその人物は、が心を許した数少ない相手でもある……異邦人の、狩人の男性だった。

 彼の姿を見つけた瞬間、は安堵に包まれた。だが、額ずいていた男は、即座に武器を握ると、鴉羽の外套を翻し素早く振り返る。下段から斬り上げた異国の剣は、真っ直ぐと、躊躇う事なく狩人を狙ったのだ。
 その一撃を、彼は素早く見切り、紙一重でかわす。

「狩人さ……きゃッ?!」
 
 が近付こうとすると、銀色の防具に包まれた足がガシャリと音を立て立ち塞がる。に剣を向ける気はもう無いようだが、今度はやって来た狩人に殺意を剥き出している。

 冗談だろう。これではまるで、私はこの狩人に守られ、現れた黒装束の狩人の方が敵のようではないか。

「……カインの、流血鴉? どうしてここに」

 男は、鋭利な片刃を自らの腕に滑らせ、躊躇無く切り裂くと、鮮血を纏わせた。
 自分自身を削ぎ取るような、なんと恐ろしい行為だろう。獣狩りの狩人とは、そのような業を持つのか。

 そうして、二人の狩人は睨み合い、互いの得物を振りかぶり――。


「――ちょっと、もう! いい加減にして!」


 ありったけの腹立たしさを込めて叫んだ言葉に、二人の狩人は動きを止めた。

「狩人同士の争いに、巻き込まないでちょうだい。説明の一つもしてくれないの?」


◆◇◆


 路地裏へ無造作に置かれた木箱に腰を下ろし、は狩人から手当てを受けた。黒革の手袋に包まれた彼の手は、存外慣れた仕草で傷を診て、簡易的だが布を巻き付けてくれた。

「すまない。今は、これくらいしか出来ないが」
「十分よ。ありがとう」

 医療教会なんて、ろくなものではない。出所の怪しい薬を使うくらいならば、後遺症が残ろうと自然治癒を選ぶ。

「……ところで、貴公、あの狩人は」

 視線を動かした先には、鴉羽の外套を纏い銀色の兜を被った狩人が、外壁に寄りかかり佇んでいる。つい先ほど、の片足を斬り付け、血を舐め啜り、何事か呟き額ずいた、あの狩人だ。人をこれでもかと恐慌させておきながら、何事も無かったかのような静かな振る舞い。あまりにも、不気味だった。

「そんなの、私が聞きたいくらいだわ。いきなり襲ってきて、それなのにいきなり跪いて……もう、訳が分からない。貴方は知っているの?」
「通り名程度だが……」

 彼は鋭い眼差しを浮かべ、不可解そうに顎をなぞった。

「……おかしい……。まだ白い月夜なのに、何故こいつがここに現れる……」
「狩人さん?」
「……ああ、いや、すまない。大丈夫だ」

 ハッと意識を戻した彼は、あの狩人だが、と話を続けた。

「カインの流血鴉、あるいは、千景の狩人。そう、呼ばれているはずだ」
「ち、かげ?」
「千景。あの、異国風の刀剣の名だ」

 千景――見た目の通り、名称も異国風だ。やはり聞き覚えは無い。
 銀色の兜で顔を覆い隠した容貌の狩人自体、そもそも初めて目にしたのだから当然だろう。

 そうか、と呟いた狩人は“カインの流血鴉”なる人物へ身体ごと向いた。

「貴公、何故、彼女を襲った?」
「……」
「襲っていながら、何故、守るような真似をする?」
「……」
「……だんまりか」

 貫かれる無言に、狩人からは忌々しそうな溜め息が漏れている。

「ねえ、一応、私も聞きたいんだけど……知人ではないのよね?」
「……俺が知るのは、そういう狩人がいる、という事実だけだ。向こうは、知らないだろうが」

 ふうん、とは吐息を漏らし、改めて“カインの流血鴉”なる狩人を盗み見た。
 頭部をすっぽりと覆い隠す、銀色の兜。鳥のくちばしを模したような張り出した独特の造形を有し、よくよく見るとその表面には美しい意匠が彫り込まれている。無数の黒い羽根を繋ぎ合せた、正しく鴉の翼のような外套を羽織り、両手足は銀色の防具で包んでいる。

(……やっぱり、鴉の狩人さんのような、恰好だわ)

 いつだったかの獣狩りの夜、を背負い家まで届けてくれた女狩人。よく似た、というか、ほぼ同じものだろう。外套だけで、近しい人物と結びつけてしまうのは、あまりに安直かもしれないが。

 まあ、そんな事は、今はどうでもいい。早く家へ戻り、身体を休めたい。
 は座り込んでいた木箱から腰を上げ、外壁に手をつきながら立ち上がる。傍らにいた狩人が、すかさずを支えようとしてくれた。

「ありがとう、狩人さ……――」

 ――だが、割って入った銀色の腕が、狩人の腕を遮った。

 いつの間にやら近づいてきたカインの流血鴉が、と狩人の間に腕を伸ばしていた。

 枯れ羽を模った黒い帽子の向こうから覗く狩人の両目が、不信感を露わにし細くなった。

「……何の、真似だ」
「私がこの方を送り届ける。お前は下がれ」
「はあああ?」

 目を剥いたのは、の方だった。
 見ず知らずの他人だ。おまけに、追いかけて足を斬ってきたあげく、流れ出た血を舐め取った。そんな不気味な輩に送られるなど、訳が分からないし冗談じゃない。

「な、何を言っているのよ。止めてよ、襲い掛かってくるような奴に送られたくなんてないわ!」
「……本人もこう言っている。下がるのは貴公の方だ」

 いつになく厳しい声色で、狩人はそう冷酷に言い放った。口数は少ないが、けして粗野な振る舞いをしない彼を思うと、ここまで厭わしさを剥き出す言動は、少し意外だ。
 この人もそんな風にするのかと妙な関心を抱いていると、狩人は武器を腰の後ろへやり、を横抱きに抱え上げた。

「ちょ、ちょっと、狩人さん。私は、歩けないほどじゃあ……」
「こっちの方が早い」
「だ、だからってねえ……獣が出たらどうするのよ」
「なおさら、俺が抱えた方が良いだろう。避ける自信はあるし、問題ない、貴公は軽い」

 そういう問題では、と言い募るの意向は、狩人には聞き留めてもらえない。彼の瞳は今、カインの流血鴉なる男のみを映していた。

「獣に成り果てた狩人も、血に狂い正気を失った狩人も、数えきれないぐらい見てきた。信用できない。まして、貴公は……――」

 途中まで出掛かった言葉を飲み込み、狩人は口を閉ざす。対して、鴉羽の男には怯んだ様子は全くなく、それどころか肩を竦めるような仕草をしてみせた。

「己こそは信用出来るものとするか。狩人など、どいつもこいつも腹黒い傲慢ばかりで、そも信用を得る存在でもないだろうに」
「なんだと……」
「まあ、いい。私の事情が変わった、ただそれだけだ」

 ふと、男の眼差しが、へと移った。射貫くように鋭い、あるいは観察するように熱い、不気味な眼差しだった。
 男はすぐさま背を向け、路地の先へと歩き出す。立ち去ったのかと安堵した直後、つんざくような恐ろしい悲鳴がいくつも鳴り響いた。思わず身体を震わせたを、狩人は強く抱きしめ、足を進める。

 散々に空気を戦慄かせた獣臭い悲鳴は、十数秒と経たない内に、しんと鳴り止んだ。再び訪れた静寂の中、細い路地を抜け、大きな広い通りへと出る。磔にされた獣を燃やす、巨大な焚き火の明かりに照らされたそこには、獣になった住人の群衆が集まっていたはずだが――全て漏れなく、地面に転がり事切れていた。

 僅か一瞬の間に出来上がった、獣狩りに相応しいおぞましさ溢れる光景である。
 そして、真新しい血溜まりの中央には、あの鴉羽の外套を纏った、カインの流血鴉なる狩人が佇んでいる。先ほどと変わらない、不気味な静けさを帯びたまま。

「嘘……」

 あれほどの数の人数を、ほんの一瞬で。
 畏怖を孕んだ呟きが、の唇からこぼれ落ちる。横抱きにしている狩人の耳に届いてしまったらしく、僅かにだがむっとした空気が彼から放たれた。は慌てて口を閉ざし、大人しく彼の腕に抱えられる。

 男は、と黒ずくめの狩人を一度見ると、無言のまま道を譲った。先に行けと、そう言っているのだろう。狩人は警戒はけして解かず、男の脇を通り過ぎた。そして、その後ろに、男は追随するように続いた。

 ――これはまさか、着いて来るつもりなのだろうか。

 その予感は、残念ながら外れてくれなかった。カインの流血鴉と呼ばれた男は、その後本当に、の住居にまで来てしまった。


◆◇◆


 せっかく、唯一心安まる我が家へ戻れたというのに、全く気を緩められないなんて……。
 今夜の狩りは、本当に嫌な事ばかり起きる。

 家主であるが断固拒否したからか、住居の中にまで侵入はしてこなかったが(言葉が通じるのなら何故襲ってきたのだろう)、入り口付近に寄り掛かられては大して変わらないように思う。

「……本当に、知り合いではないんだな」

 狩人から何度も尋ねられたが、そのたびには知人ではないと返すばかりである。だが、あそこまで堂々とされると、実は昔に面識があったのではないかとすら思ってしまうのだから、恐ろしい。(人の足を斬り付けてくるような危険な輩が、知人のはずがないのだが)

「とにかく、座って休もう。もう一度、傷の具合を診てみないとな」
「ええ……ありがとう」

 をソファーへ導いた狩人は、そのまま部屋の奥へと向かった。何度も茶を飲みに来たからか、自らの住居のように、すっかり慣れた足取りである。

 は、ふくらはぎに巻き付けた布を慎重に解く。刃の切っ先が掠めただけだったのは不幸中の幸いだが、一筋の綺麗な痕がくっきりと走っていた。

(困ったな……。傷跡、消えてくれるかな)

 重い溜め息をこぼした時、その傷口から、じわりと血が滲み出した。何処かに綺麗な布は無かっただろうかと、ソファーから立ち上がったその瞬間、力が入ってしまったらしく鋭い痛みが再び迸った。

「いた……ッきゃ?!」

 おまけに体勢まで崩れ、床板に転がってしまった。腕や肩から、じんじんと鈍い痛みが響く。二つの意味で声を呻かせながら、緩慢に上体を起こすと、目の前に影が下りた。きっと、狩人が駆け寄ってきたのだろう。そう思い、何の気も無しには顔を起こす。

 しかし、目の前に在ったのは、銀色の兜と、鴉羽の外套だった。

「あ……」
「……」

 男は無言を守ったまま、膝をついた。反射的に硬直し動けなくなったへ、銀色の防具で包まれた腕を伸ばし、肩を抱く。ひんやりと冷たい金属の感触が、衣服越しに伝わり、ますます身体が竦み上がる。それに気付いているだろうに、男は素知らぬ態度を貫き、を立たせ再びソファーへ座らせた。
 けして乱暴ではない、丁寧とも言える仕草だった。それが尚更、不気味さを煽り立てる。
 つい先ほど、その腰に下げた千景なる武器で、攻撃してきたくせに。

「……」
「な、なによ……。そんな、見る必要ないでしょう……」
「……いいや。話の通り、美しい女だと思っただけだ」
「……え? は? な……?」

 思考が、一瞬、吹き飛んだ。
 反応が返ってきた事にも驚きだが、その反応が全く予想もしない言葉を伴ってくるとは。
 困惑し、口を開閉させるに、男は皮肉めいた笑みをこぼした。

「……敵対する狩人すら惑わす、甘く、熱い血か。ふ……忠誠に狂った老いぼれの騎士が、最期まで取り付かれるのも当然だったか」

 嘲るような声音に、良い気分など抱かない。謝罪も無ければ釈明も無い、この常人とは言い難い狩人に、好意を一欠片でも持つはずがないのだ。
 だが、血を舐め取った瞬間、武器を置き深く額ずいた姿が、強烈に脳裏へ残っている。

 この男は、大嫌いな狩人、そのものだ。
 だから、頼むから――見知ったように見つめてくるのは、止めてくれないか。

 奇妙な沈黙が、と、男の間に流れる。銀色の手が何かを確かめるようにの首元へと伸びたが、その指先が触れる直前、男は素早く身を引いた。


 ――そしてその瞬間、と男の間を、何かが高速で過ぎ去った。


 ダンッと音を立て、壁に突き刺さった何か。驚きながら目を向ければ、ギザギザの刃の小さなナイフが、真っ直ぐと刺さっていた。

「……離れろよ、流血鴉」

 恐ろしく静かで、けれど沸々と何かが煮えるような、低い声が重く響いた。
 見るからに怒気を滲ませている狩人の、片方の腕は道具を抱え、もう片方の腕はナイフを投擲した格好で止まっている。あの狩人が、躊躇無くナイフを投げたようだ。
 確実に仕留めに掛かっただろうナイフを、男はちらりと一瞥しただけだった。驚きもしなければ、怒りも見せない。「随分と荒々しい事をする」と、嘲るように嗤うだけだった。

「……、気を緩めるな」

 狩人は床板を乱暴に踏み鳴らし、の正面に膝をつく。苛立つ狩人の心情も十分に理解出来るため、素直に反省し、謝罪を口にした。

「そ、そういうつもりじゃ、無かったんだけど……ごめんなさいね」
「……いや、すまない。責めるつもりはなかった。だが、あれは、信用出来ない」
「……狩人さん?」
「――けして、信用してはいけないんだ。頼む、忘れないでくれ」

 忌々しげに呟いてから、彼は口を閉ざした。どういう意味なのかと尋ねようとした言葉は、無意識に飲み込み、も自然と沈黙していた。

 静寂の中、狩人の手当てが行われる。その間、あの男はそこにずっと居た。見守りなどという、優しさではないのだろう。を見つめる眼差しは、不気味なまでに真っ直ぐとし、そして恐ろしい好奇心の熱を孕んでいたのだから。



 銀色の兜と鎧、そして鴉羽の外套を纏ったこの狩人――カインの流血鴉と果たしてしまった一夜の出会いは、きっとこれで終わりではないのだろう。
 には終始、そんな予感が絶えずあった。



2020.07.14