お月さまのまいごたち(2)

 市街地へ向かうその道中に、会話は無かった。
 静かに先導する外套姿の男の後ろを、は黙々と着いて行く。けして居心地が良いとは言えない沈黙だけが、そこにあった。

 男が自ら告げた通りに、こうして見る限り、に害を与える様子は見られないが……。

(この人は、一体、何なのかしら)

 薄汚れた外套で全身を隠され、その下にあるだろう男の全貌はまったく分からない。だが、丸まった大きな背には、厚い聖布が垂れ下がっている。それを身に着けるという事は、すなわち医療教会の関係者であるという事に他ならない。

 医者も、医療教会も、それに関わるもの全て、等しく嫌いだ。が過去に味わった、あの残虐な仕打ちを思い出せば、二度と信用しようなどとは思えないだろう。けれど、目の前の人物には……何故か悪意を向けられないでいた。
 大きな背が、哀愁を帯びているせいだろうか。それとも、外套をぎゅっと押さえ、まるで姿を晒す事を恥じるように見えるからだろうか。
 その困惑を言葉で表すのは難しく、結局、押し黙るしかなかった。



 医療教会の大聖堂を離れ、長い石畳の階段へ辿り着く。そこから臨んだ眼下の風景に、は自然と歩みを止めていた。
 大聖堂の足元に広がるヤーナムの街並みは、いくつもの明かりで照らされ、それは見事な美しさだった。人々が暮らす住居の一つ一つが目映く照らされ、大通りは一際明るい。荒れ果てた様子は一切ない、豪奢な古都の景観がそこにあった。
 そしてそれは、にとって、見た事も無いヤーナムそのものでもある。

「……綺麗、とても」

 けして口にする事のなかった言葉が、の唇からこぼれていた。それほどまでに、この夢は美しく、良く出来た幻だった。

「――そうか。美しいと、思って下さるか」

 外套で身を包んだ男が、いつの間にかの傍らに佇んでいた。立ちはだかるようなその圧迫感は言葉に出来ないものがあったが、不思議と、恐ろしさは感じなかった。

「ええ、とても。……獣狩りが起きているとは、思えないほどに」

 男は、静かに口を噤んだ。

「貴方は、医療教会の人でしょう? どうして、獣は来るのかしら。どうして、獣が現れてしまったのかしら」
「……」
「この美しい風景が、ずっと、続いたらいいのに」

 夢だとはいえ、我ながら、意地の悪い問いかけだ。は、うっすらと自嘲を口元に浮かべた。

「ごめんなさい、変な事を言ったわ。戯言と思って、聞き流して……」
「――続くだろう」

 え、とは小さく声をこぼした。男は、外套の奥深くから、じっとヤーナムの街並みを見下ろしていた。

「医療の街と栄える、ヤーナムのこの風景は、これより先の未来にもあるだろう。その為に、我らは……いや、私は、狩りを続けるのだ」

 誓いにも似た、覚悟を帯びたその言葉に、はようやく知った。この人は、医療教会の狩人だ。

「……住人の不安は拭えず、医療教会を疑問視する声も増えてきている。我ら狩人も、やがては嘘つきと罵られ、石を投げられるのかもしれない。だが、少しでも救われる者があるのなら、私は喜んで狩りに染まろう」
「貴方は……」

 厳かな聖布が翻る背は、こんなにも大きいのに。
 清廉な覚悟の言葉を口にすればするほど、その姿はとても脆く、儚く映ってしまった。

 男の巨躯から漂う、切実な哀愁の正体を、が知る由も無いのに――ふと、異邦人の狩人を思い出した。それだけでもう、はこの外套姿の医療教会の狩人に、冷酷な言葉を吐けなくなってしまう。

「……貴方の目には、何が見えているの?」

 夜を迎える薄暗さのせいで、外套の中はとても暗く、男の輪郭は全く掴めない。だが、街並みを見つめる瞳だけは、はっきりと見た。

「――光」
「え?」
「細く儚い、光だ。私はその光が、やがてヤーナムを救う導きになると、信じている」

 その言葉の真意は、分からない。希望の、比喩だろうか。だが、その光とやらを呟く低い声は凪いだように穏やかで、美しい街並みを映す瞳も――とても優しい形をしていた。

 その美しさが、これから先も続いていくのだと、きっと強く信じている。だからこそ、純然と輝いているのだ。
 夢なのに、なんて哀れで、痛ましい希望に満ちているのか。

「さあ、街へ向かおう、ご婦人。もう、空はこんなに暗い」
「あの……」

 階段を下ろうとした男を、は静かに呼び止めた。

「ありがとう。その、上手く言えないけど……ありがとう」

 男は、酷く驚いた空気を漂わせながら、を見下ろした。

「……無理は、しなくてもいい。人々のため、ヤーナムのためと言いながら、ただ狩りしか出来ぬ――愚かで、卑しい、男でしかないのだから」

 吐き出すように呟いた男は、外套の下に隠していた腕を、へ伸ばした。
 眼下に現れた手は、異常に伸びた長い指と、鋭利な爪を持ち、所々皮膚が黒く染みていた。
 それが意味するところを、は一瞬の内に理解した。

「貴方……」
「私は、光の導きに追るほかない――醜い獣なのだ」

 醜い獣。自らをそう蔑み、男は腕を戻そうとする。は、それをがしりと両手で掴んだ。それまで淡々としていた男の空気が、初めて激しく揺れ動き、動揺を露わにした。

「貴方は、人だわ。これからも、ずっと」

 人を失いつつある大きすぎる手を、躊躇なく、包み込む。男の手は物言わぬ岩のように硬直していたが、の手を振り解いたりはしなかった。

「……人であると、そう、思ってくれるのかね」

 暗闇に消されてしまいそうな、小さな声だった。よりもずっと年上だろう男が吐露した弱さを、縋るような願いを、けして笑ったりはしない。

「もちろん。貴方は、人よ」

 だって、今夜の獣狩りに臨む彼も、火薬の香りを纏っていた“あの人”も、ずっと人であるべきなのだから。

 それに、は、もっとおぞましい“獣”を知っている。
 病の浄化を謳い、油と火を投げ入れ、全てを炎の海に沈めようとした……そんなおぞましい所業を平然とやってのけた“獣”達を。

 迷いなく告げたの言葉を、男は初め理解出来ないようだった。しかし、それが本心からのものであると知ると、男は大きな身体を震わせ、咽ぶように歓喜をこぼした。

「獣憑きの卑しい身に、そんな言葉を掛けられるとは、思わなかったよ。ああ……感謝する。貴女は、優しい婦人だな」
「まさか……。私は……そんな立派な人間じゃあないわ」
「ふ……そうか。だが、その言葉に、私は救われた心地がした」

 男はおもむろに身を屈め、足元に人知れず咲いていた白い野花を、一輪摘み取る。獣の性に冒されつつある指先に持ち、へゆっくりと握らせた。

「子どもじみた、礼しか出来ぬが」

 けして珍しくはない、かといって特別美しくもない、花弁が白いだけのありふれた野花であったが、は喜んでそれを受け取った。

「おかしな人ね。礼なんて、私の方がすべきなのに」
「気に入らなかっただろうか」
「いいえ、まさか。……ありがとう。とても、綺麗ね」

 外套の向こうで、男がとても優しい微笑みを浮かべた――そんな気がした。


 だが、不意に獣の鳴き声が聞こえ、穏やかな空気は引き裂かれた。
 周囲の暗闇から感じる、獰猛な獣の気配。夢の中でありながら、獣狩りの夜が、始まったのだ。
 緊張で震える胸を抑え、必死に辺りを見渡す。暗闇には何も見つけられないが、もう既に、囲まれているに違いない。どうしよう、とは怯えたが……。

「――ふふ……このような心地は、一体、いつぶりだろう」

 頭上から、微笑む声が聞こえた。満ち足りたような、柔らかな響きだった。
 男はの肩に手を置くと、すっと前へ踏み込む。背に庇い、守るように佇むその姿は、これまでと違うように見えた。自らを恥じるように丸まっていた背筋は、真っ直ぐと伸び、聖布をはためかせている。その佇まいは、獣を狩る狩人の風格と、敬虔な聖職者の空気に溢れていた。

「ありがとう、ご婦人。もはや醜い獣憑きでしかなくとも……貴女の言葉がある限り、私は人であり、狩人だろう」

 硬く閉じ合わせていた外套が、はらりと、解ける。その下から、覆い隠されていた身体の輪郭が、月明かりのもとで露わになった。

「この聖剣のルドウイーク――今夜は、けして折れぬ剣になろう」

 大きな身体の上にある頭部は、歪んだ面長な輪郭を宿していた。馬に酷似した横顔で、ぼさぼさに乱れた髪はたてがみのように見える。
 男の言う通り、彼はもう獣に全身を蝕まれている。まだ人間の輪郭は残しているが、やがて彼は獣に身を落とすだろうと、容易に想像がついた。
 だが、それでもなお彼の瞳は、高潔さに溢れ、純粋に輝いている。獣の醜さに染まらない、まだ人として在ろうとする強い意志が、確かにあったのだ。

 男は外套を払い、両手で大剣を掲げ持つ。礼式を感じさせる、とても美しい所作であった。
 すると、真っ直ぐと天へ向かう大剣の刃が、緑がかった青い光を纏い、淡く輝き出した。太陽の光のような、煌びやかな目映い光ではない。月光を彷彿とさせる、静寂に満ちた、暗く美しい光だった。
 青い光に染められながら、はその時、狩人の言葉を思い出した。


 ――過去、実際に存在したという狩人の名が付けられている。

 ――この武器は、英雄の用いた武器を模ったものだ。


「貴方は……――」

 は、腕を伸ばした。だが、獣と人の輪郭を持つ男は、大刃から迸った神秘の光へ飲まれるように消えてしまい――もまた、暗闇の中へ投げ出された。


◆◇◆


「――……

 呼び声が、を揺すり起こす。緩慢に瞼を押し上げると、よく知る男の顔が、目の前にあった。
 枯れ羽を模った黒い帽子を被り、黒いコートに身を包んだ、異邦人の狩人だ。

「狩人、さん?」

 が声を漏らすと、狩人はほっと安堵の溜め息をこぼし、黒革の手袋に包まれた手のひらで頬を撫でた。

「ああ、良かった。驚いたぞ、眠っている時、随分様子がおかしかったから」

 眠って、いた。
 はのろのろと上体を起こし、周囲を見渡した。見慣れた家具、内装、そしてテーブルの上に並ぶティーセット。長年暮らしてきた住まいだった。
 栄華を誇った都のようだったヤーナムも、聖布を背に垂らした医療教会の狩人も、全て目の前から消え去っている。ようやく、夢から目が覚めたのか。しかし、随分と長い間、夢と呼ぶには生々しく鮮やかな幻を見せられていた……目の前の光景は、本当に現実のものだろうか。

「私、ここに、いた?」

 ソファーの足元に膝をついた狩人は、不思議そうに首を傾げた。「ずっと、この家に居たのだろう?」と、律儀に答える彼の姿に、はようやく夢だったのだと確信した。
 そう、そうよね。あんな変な夢が、現実だったわけがないわ。
 狩人から色々と話を聞いたから、妙な夢を見てしまった。きっと、それだけだ。

「何でもないわ。ちょっと、変な夢を見たの」
「そうか……ん? 、それはどうしたんだ」
「え?」

 狩人は、の手をじっと見つめていた。その眼差しにつられ、も視線を下げる。
 緩く握り締めた手の中に、真っ白な一輪の野花が、ひっそりとあった。

「花、か?」

 じっと見下ろした野花は、やはり特別な美しさはなく、 ありふれた造形をしている。けれど、それを握りしめていると、あの月のような暗い光と、剣を掲げる後ろ姿が、淡く脳裏を過ぎった。



『純白の花のしおり』

何の変哲もない、押し花のしおり。おそらくヤーナムに咲くものだろう。
いつからか手の中に握られていたというその花を、は何故か大切にした。

「優しくて、可愛そうな、英雄からもらったの」

病と不浄に塗れたヤーナムに、英雄など存在しない。
しかし、それを握れば、見えてくる幻でもあるのだろうか。

◆◇◆

夢と呼んでいいのか分からないけど、ルドウイークとの出会い。
断絶を超え別世界の狩人と見える秘儀があるのだから、悪戯に巻き込まれ次元を超える事だってあるんじゃないかと適当に理由をつけてみる。
上位者の考えなど、凡人に理解出来るものではないし。

かつて英雄と呼ばれたその人物は、完全に獣へ堕ちる前、どうだったのか。周囲の目に怯え、末路に恐れ、そして自身に恥を覚えていたのかなと、思いながら書いてみました。

英雄と呼ばれた彼は、強い狩人だった。しかしそれは、狩りの中でのみ。
狩りが無ければ、ただの心折れた人。
やがて辿る英雄の末路に興味がある方は、是非とも、DLCの狩人の悪夢を。

(お題借用:天文学 様)


2020.08.02