じきに運命が追いつくから(3)

影丸の自宅に集まった、いつもの面々――――、レイリン、影丸、セルギス。
影丸からの提案で、この日の晩、夕食を共にする事になった。全面的に影丸の奢りで、机上には集会浴場の料理屋から注文した、様々な料理が並んでいる。影丸は酒を出そうとしていたが、を含む三人から厳しく制され、渋々果物ジュースに替わった。
あの影丸という男から、食事の誘い、そしてもてなし……不思議に思ったのは、気のせいだったのだろうか。もともと四人で集まって食事をするのは普段からしている事であるし、いざ食べ始めてしまえば直ぐにその違和感は消えていった。
各々自由に飲み物を口にし、温かい料理を摘む傍ら、談笑が弾む。話は不意に、レイリンの狩猟討伐の話になった。
が教えて貰った限り、レイリンが今回相手にしたというリオレイアなるモンスターは、雌火竜……所謂、飛竜種だったらしい。下位個体ではなく上位個体だったとか。帰還したばかりの、あの土だらけな格好を見れば、どれほど大変であったか想像が付く。

「大変だったね……怪我しなくて、良かったよ本当に」
「ありがとうございます、でも、何とか討伐出来ました。コウジンが居てくれたし、セルギスさんや師匠に色々教えて貰っていたから……そのおかげです」

恥ずかしそうに、けれど誇らしそうに告げたレイリンは、白い頬を赤らめ笑った。謙虚な健気な姿勢だが、十八歳ほどの少女の身でよくやれるものだと、は同じ女とし尊敬もする。
それを聞いていた影丸は、「そうか」と短く呟いて。

「……ま、上位リオレイアが倒せるなら、上位資格も光るってもんだ。ようやくな」
「え、えへへ」
「おい喜ぶな。せいぜい十点満点で、四点だ」
「四点?! それ好成績なんですか?!」
「おーたぶん、きっと、おそらく」

浮上していたレイリンの心が、一気に落ちた。しょんぼりと項垂れて、コップの中のジュースを薄暗くチビチビと飲む。
その姿を哀れに思ったのか、セルギスが呆れながら口を挟む。

「お前は本当に不器用な奴だな、素直に褒めろ」
「……うるさい」
「大丈夫よレイリンちゃん、影丸ってばかっこ付けてるけど、出かけた後にはちゃんとレイリンちゃんの事認めてるって……」
「おいコラ、

基本的に、セルギスとはレイリンの味方なので、影丸は不機嫌に眉を寄せる。が、慣れっこだから怖くも何とも無い。
ムスッとして机に頬杖をついた影丸を、はクスクスと笑って見つめる。あれで本当に、レイリンの事を一人前に認めているのだろう。素直に言えないのが、影丸の悪いところだ。

しばしの時間、たちは賑やかな食卓を囲った。影丸宅の窓の向こうの景色も、すっかり藍色に静まり、観光地にも夜の気配が満ちている。
机上の料理を全て平らげ、空気がのんびりと穏やかになってきたところで、影丸がふと椅子から立ち上がる。戸棚から菓子箱を一つ取って、机の上に置いた。中には、葉っぱにくるまれたモチモチのお団子が綺麗に並んでいる。柏餅、のようなものだろう。デザートまで用意するなんて、影丸にしては珍しい……彼のズボラ具合をも普段から見ているだけに、余計にそう思ってしまう。

「美味しそう、これも買ったの?」
「まあ、な。とりあえず、遠慮なく食ってくれ」

お言葉に甘えて、とレイリンは早速一つずつ取って口に運ぶ。モチモチのお団子の中には、甘さ控えめのこしあんが入っていた。美味しいね、と二人で笑い合ったのだが、正面に座る影丸とセルギスの表情は何処となく硬かった事に気付いたのはお団子を二つ食べ終わる頃だった。
ごくん、とモチモチお団子を飲み込み、は彼らを見比べる。「どうしたの」と尋ねれば、影丸は妙にぎこちなく首の後ろを掻いたりする。あー、と漏らす声は、やけにはっきりとしない。
小動物のようにお団子を頬張っていたレイリンも、影丸を見て首を傾げる。

「……影丸」

何かを押すように。セルギスの低い声が、影丸に掛けられる。
「分かってる」そう短く返した影丸は、一度息を吐き出し、静かに告げる。普段の邪悪さなんて全く無い、真摯な声だった。

「……一つ、決めた事があるんだ。G級リオレウス亜種に遭遇する前から、何となくは考えていた事ではあったんだけど」

語り始めた彼に、とレイリンは少し背を伸ばした。

「最近はこの辺でも、G級っていう上位を越えた奴らが現れ始めていた。それを俺も知ってはいたが、資格の関係で手は出せなかった。けど、あの時そのG級モンスターに遭って、このザマになって……上位資格だけじゃ、そろそろやっていけない環境にもなってるって身をもって知った」

影丸の目が、レイリンへと向く。真剣な黒い瞳に、レイリンの肩が隣で飛び跳ねるのが、にも見えた。

「踏み出せなかったのは、レイリン、お前が半人前だと思っていた事でもあったが……ま、どうやらようやく一端の上位ハンターになってるらしいな。リオレイア討伐が出来るなら、十分だ。俺から言う事は、多分無い」
「え、し、師匠……?」

褒められているはずなのに、まるで。
急に、突き放されたような、感覚。

レイリンの頬が強張った。セルギスの琥珀色の瞳が、降りた瞼で閉ざされる。
ざわり、との心が栗立つ。それは、数日前の農場でも感じた、嫌な予感と同じものだった。
影丸はそれから、を静かに見る。その目はただ、強く見据えるばかりで、何も告げない。

ふう、と今一度息を吐き。そして、吸い込んだ。黒い瞳から、鋭い眼光が放たれる。

「―――― ユクモ村を、離れる事に決めた」

とレイリンの目が、同時に見開かれる。

……今、彼は、何と言った。

一瞬、言葉の意味を理解出来なかった。それでも影丸の声は、容赦なく続けて脳に叩き込んでくる。

「ユクモ村を離れて、モガの村に――G級狩猟が解禁している村に行く事にした」
「え、な……ど、どう、して……」

レイリンの動揺は、大きかった。上手く言葉が紡げないほどに、彼女は一気に混乱に陥った。
は必死に隠したけれど、やはり突然告げられた言葉にうろたえてしまった。視線を伏せていたセルギスを見て、小さく尋ねた。

「セルギスさん……知って、いたんですか」
「……」
「この前、農場で集まって話していたのは、この話だったんですか」

静かに開いたセルギスの目が、顔を上げを見つめる。「ああ、そうだ」
そっか、そうなんだ。は反芻し、呟いた。別に、何も言わなかった事が憎いとか、そういう事ではない。ただ、あまりにも唐突でしまって、飲み込めないだけで。

賑やかだった食卓に、僅かの沈黙。木彫りの時計が、コチコチと音を立てる。

「G級っていう資格……取るんだ」

が呟くと、影丸は頷いた。何の迷いもない、力強さ。そうだろうな、きっと影丸という男は、ハンターは、そういう人物だ。もよく分かる。だからこそ、もう何も言えない。あの目を見て、何を言えようか。
決して普段は表に出ない、貪欲なまでの、強さへの欲求と情熱。それは彼自身が、七年前に自ら選んだ道であり、今尚歩み続ける道の、根源。
何を言うでもない。けれど、何かを言えるわけもない。
影丸はもうすでに、今以上に危険な狩猟へ身を沈める覚悟が出来ている。今も包帯とガーゼで隠している傷、それを遥かに超える事態に見舞われるかもしれない、強靭な覚悟を。

……彼は、きっと最初から。

無意識の内に、眉を下げる。向かいに座るセルギスが、肩を落とし告げた。

「相談というか、事後報告だったな。俺の場合も」

セルギスの目が、影丸を横目で見る。ほんの僅かな、憤りが浮かんでいる。
影丸は「悪かった」と謝りつつ、続けてゆく。

「村長とギルドマネージャーには、もう話をしてあるし、モガの村支所とも進めてる。静養期間が終わり次第、モガの村に向かうってな」
「終わり次第、って……」

言い渡された期間は、最低二ヶ月。そして現在、もう既に、一ヶ月は経過している。
残りの期間など、あってないようなものだ。

「……そっか、本当に、突然ね」
「昔から勝手だった、もう何も言えないだろう。これと決めたら、こいつは絶対やろうとする」

とセルギスは、互いに苦々しさたっぷりに笑った。本当に、勝手だ。それが、この影丸という男なのだけれど。

―――― だが。
先ほどから、一言も。一言も喋っていない少女が、隣に居る。

「レイリンちゃん……」

僅かとも動かずに硬直しているレイリンの肩に、は隣からそっと手を伸ばす。少女らしい、丸い小さな肩に自らの手のひらを重ねると、ようやくレイリンは意識を戻したのかハッと頭を揺らした。
伏せていたレイリンの顔が上がる。視界に映った彼女は、泣いてはいないが、吃驚し過ぎて呆然としているようだった。無理もない、彼女を思えば。
しばらくレイリンはその状態で黙りこくっていたが、落ち着いてきたのか一度息を吐き出して「大丈夫です」とに微笑んだ。それを見て、はそっと手を離す。

「……私が、頼りないから、ですか?」

レイリンの怯えた眼差しを、影丸は正面から受け止める。机の上に置いたレイリンの細い手が、きゅっと力なく握られる。

「私が頼りないから、師匠はモガの村に……」
「言っただろう、レイリン」

気弱な声は、影丸の声に呆気なく遮られる。彼女が顔を上げると、影丸は珍しく邪気なく笑みを浮かべる。

「上位リオレイアが倒せるようなら、上位ハンターとしてやっていけるって。ユクモ村は、セルギスとお前で守れると思ったから、むしろ決意したようなもんだ」
「師匠……」
「それに、別にユクモ村を捨ててモガの村に定住するわけじゃない」

レイリンの目が、えッと見開く。ついでにも、目を丸くした。

「G級資格を取って、狩猟が一端に出来るようになれば、ユクモ村に戻ってくる。出て行ったっきり、近況報告も何もしないわけじゃないし、温泉に入りに戻ってきたりもする。
まあ、出て行ったっきり俺の事なんか忘れたいなら、そうするが?」

途端、いつもの意地の悪い邪悪な笑みが滲む。レイリンは慌てて首を横へ振る。プルプル、と激しく揺れる頭に、は小さく笑った。

「そっか……そう、ですよね」

レイリンも、それ以上言わなかった。少女の横顔は少し寂しそうであったけれど、影丸の揺るがない覚悟をどうこう出来るものでないと理解しているのか、レイリンはただ一言「頑張って下さいね」とだけ言った。彼の目を、真っ直ぐに見て。それは狩人たちにしか通じない、ものなのだろう。
には、とても出来る事ではないと思った。現に今も、彼女と同じように見送る事は出来ない。頑張ってね、なんて……言えるわけない。あれを――影丸が負傷して帰還した光景を、まだ恐怖している自分には。

それはに限らず、当人も、セルギスもレイリンも、皆等しく思っている事だけど。
決定的な違いは、やはり覚悟なのか。

……そうか、この食事は。
影丸なりの、最後の――――。

そう気付いたのは、影丸宅から自宅へと戻って来てからであった。



彼が一度ユクモ村を去ってG級資格を取ると決めたと告げた、その翌日から、の身辺でも変化の波はあった。
影丸が恐らく、関わってきた全ての人たちへ明かるみにしたのだろう。
まずは、のアルバイト先である集会浴場とユクモ村支所ハンターズギルド。影丸と、恐らく付き合いの長い場所。番台アイルーやドリンク屋アイルーなどは「しばらくは旦那のぐうたらっぷりも見納めだ」と寂しそうに笑って。ギルドマネージャーや受付嬢たちは「G級資格を取ったら必ず戻って来て下さいね」と言っていた。
先に影丸から相談を受けていたギルドマネージャーは、「本人が決めた事だ、アタシが口出しする事じゃあない」と影丸の意思を優先していたようだった。同じように、集会浴場の女将でありユクモ村長は「影丸様の事だから、いつかそうなさるのではないかと思っておりました」と、微笑んでいた。
多くのハンターたちと関わってきた彼らだからこその、応援なのだろう。

「G級資格を取って戻ってくれば、ユクモ村も今後は安全だし、何より影丸は一度決めれば絶対に動かない。こうなれば……アイツが戻ってくるまでの間は、俺も無様な真似は出来ないな」

そう告げたセルギスは、急に決めた影丸に対して、呆れながらも笑っていた。彼はその後から、依頼の数を少し増やして順調にこなすようになったと、オトモアイルーのカルトより聞いた。身体がかつての勘を取り戻したのと、口にはしないが影丸が去る事への、セルギスなりの答えなのかもしれない。

それとは対照的に波乱を呼んだのは、彼を慕って事ある毎に狩猟に着いて行きたがった、あの新人ハンター二人。がアイルーの姿の頃、アオアシラの件に関わっていたあの二人だ。
それはもう大声を上げ、「先輩何で置いていくんスかー!」「俺たちも着いて行きます」と言っていたが、影丸より「うるせえ」とついに一蹴される始末。轟沈していた彼らだったが、「その内また戻る、それまで腕を磨け」と珍しく優しく励まされ、納得はしていない様子であったが縋る真似はしなくなった。

けれど本当は、ああやって縋り止めたかったのは、きっとレイリンなのだろうな、と。は静かに思っていた。
影丸の弟子として近い場所に居た彼女、きっと誰よりも心細いし、一緒に行きたかっただろうに。それでも口にしないのは、彼女も自らの師をよく理解しているからで。何より、影丸に認められ信頼を口にされた事実が、いかなるものか。分かっているからだ。あの影丸が「任せる」と口にしたのは、よほどの事である、と。
けれど寂しいのと心細いのは、隠し切れない。実際、影丸からユクモ村を離れる事を聞かされた翌日のレイリンは、きっと泣いていたのだろう、目の周りは赤かった。でも分かったのだから、影丸だって気付いていたはずだ。
レイリンはいつも通りに振る舞い、泣き言は決して言わなかった。それが一番の、影丸に対する彼女の答えなのだ。
この時ばかりは、いつも憎まれ口を叩くコウジンも余計な言葉は告げなかった。

影丸の、新たな旅立ち。ユクモ村は仰々しい催しなどはせず、あえて普段と変わらない村の風景のままで。それを応援する暖かな空気に満ちていた。
影丸は自らの事を、鬼だの優しくないだの公言しているけれど、そうではないと皆が理解している証拠でもあった。
七年前の、ジンオウガ討伐狩猟の凶事。彼はそれを、もう乗り越えているのだろう。

そんな空気が流れる日々で、は未だに影丸へかける言葉を探していた。もたついている暇もないほど、気付けば日の経過は早いのに、まだ心中は穏やかでない。素直に見送れないのを、この空気の中誰に言えようものか。影丸も、来るG級狩猟解禁の地――モガの村へ行く準備を進め最終段階に入っているというのに。
彼が普段整備に余念のなかった農場は、彼のオトモアイルーたちによって、戻ってくるまでの長期間、施設のほとんどを片付けられていて。目に見えて、彼が去る事実が分かるのに。

「……頑張って欲しいとは、思ってるんだけどなあ」

面と向かって、言えそうにない。心の器が、小さ過ぎて笑えてくる。
の呟きなど気にもせず、何処か素っ気無い風が吹き抜けた。座り込む彼女の隣に居た、隠密模様の金目のメラルー……ヒゲツが顔を上げる。

「旦那がモガの村へ行く事……は嫌なのか」

ストレートに聞いてくるなあ、とは苦笑いをこぼす。

「どうだろう、でも今更言える事じゃないもの。ヒゲツも、影丸についてモガの村に行くんだっけ?」
「ああ……他のオトモアイルーたちも連れて行く事になった。何処まで手伝えるか分からないが、精一杯するだけニャ」

そっか、とは笑う。ヒゲツも強い、影丸の目指すG級狩猟へ付き従う覚悟も、彼にはもう出来ている。
影丸が負傷して帰還した時、ヒゲツもまた怪我をしていた。目の当たりにしたであろうG級なる化け物じみた強いモンスター、あれに怪我を負わされながら挑めるなんて……やはり身を置いてきた環境と、その覚悟が、違うのだろう。

「でも……そうやって心配してくれる人がいて、良かったと思う」
「え?」
「ある意味、ハンターはモンスターたちと戦うのは当然と思われる事が多い。怖いなどと、口にする事は許されないニャ。
旦那だってきっと、本当は怖い。俺も怖いニャ。それでも挑むのは……狩人の意地であるし、生きる術でもあるし……まあ、ともかく、俺が言いたいのは」

アカムネコ装備を纏う、小さなメラルーの目が、さらに細められる。

「許さなくても良いし、怒ってくれていても良い。には……見送って欲しいニャ、どんな表情でも」

不器用げに笑ったヒゲツの尻尾が、くるりと回るように振れた。
は何だか、胸が締め付けられるような感覚がし、おもむろにヒゲツへと腕を伸ばす。「ニャ?」と不思議そうにする彼を気にせずに。
は、鎧ごとヒゲツを抱きすくめた。ゴツゴツした感触しかないのが残念だ。

「ッな、え、、な……ッ?!」

ただ、鎧の上からも分かるぐらいに、ガッチガチに緊張して硬直し、ヒゲツは激しくうろたえていた。
普段の彼の冷静さが嘘のような、酷い狼狽っぷり。そんなに驚かなくても良いのに。は可笑しくてつい笑い声を漏らしたが、の腕は依然としてヒゲツを捕らえたままである。

「ヒゲツがかっこよすぎて、辛くなってきた」
「んな、な……?!」
「そうだよねえ、影丸が居なくなれば、ヒゲツも居なくなっちゃうしねえ……寂しいなあ」

わたわたと、プニプニの肉球がの腕を押す。だが逆に押し返してやれば、ヒゲツも観念したのか次第に暴れるのを止める。

「……影丸と同じくらいに、ヒゲツも心配だよ」
「……そうか」
「素直に、見送れたら良いのにね……よく分からないの、自分でも」

自ら危険に飛び込む、影丸も。付き従う、ヒゲツも。その背を押す、セルギスやレイリン、村の人々にギルド関係者たちも……。
どうやって彼らのように、頑張ってと告げれば良いのか。
抱きすくめたメラルーの尻尾が、視界の端っこでパタパタと揺れている。

「そうやって心配してくれるのが、その、で良かったニャ。旦那もきっと……喜ぶニャ」

……そうだろうか、彼の覚悟を邪魔するだけのような気がしてならない。
何となくしこりのように残る、疑念は消えず。ヒゲツの気遣いに敬意と感謝を込め、「ありがとう」とだけは呟いた。



それから、あっという間に日は過ぎた。
影丸の身体は、怪我の痕跡は表面に少々残っているものの、ほぼ完治といってよい状態にまで回復し、医師たちからも問題ないという判断を賜った。
万全の状態で、新しい地でやっていける。彼はそう喜んでいたという。
は影丸と、言葉を交わす回数が減ってしまった為に、レイリンを通じて耳にした。教えに来てくれたレイリンへそっか、と返すと、彼女は少し眉を下げて。
「今の内に、言いたい事は言った方が良いと思います」そう、呟いた。「モガの村に行けば……しばらくは、戻って来ないでしょうから」
移動だけで半月以上、次にユクモ村へ戻ってくるのは正直いつになるか分からない。だからせめて、今の内に。レイリンは、切実にへ伝えた。たぶんきっと、悲しい顔をしたいのはレイリンの方だろうに……いや、そんな風にさせてしまっているのは自分だろうかと、は謝罪の念を抱く。
優しいレイリンは、を気遣い不必要な事は言わない。ただ、何度も、「今日が最後ですから」と呟いた。

ついに明日出立するという、影丸が過ごす最後の日。
結局何も言えずに、迎える事になっていた。


……せめて一言くらい、見送りの言葉くらいは、言わないと。
の足が、ようやく影丸へ向かった頃には、陽は傾いて橙色と藍色が折り重なる空が広がっていた。
多くの店が立ち並ぶユクモ村の大通りは、日の入りと共に人の足もゆっくりと退いている。軒下や家屋前に設置された提灯の明りが、薄ぼんやりと浮かび上がり、夜を迎える村の風景となりつつある。
それを見下ろしながら、大通りの直ぐ近くに佇む影丸宅へ向かうのは、いつもそうしていたはずなのに、不思議と久しぶりのような気もして。同時に、奇妙な緊張もあった。
家屋内部は明るく、影丸が居る事を証明している。最後の、確認だろうか……邪魔になるかもしれないが、は一度大きく息を吐いて、玄関前に立った。光の漏れる長暖簾を手で押し上げ、声をかけた。

「ごめん下さい、影丸――――」

続くはずだった声は、不意に止まった。妙に、物が少ない。こざっぱりとした、生活感が消えたような光景があった。
……当然か、この家だって、もう当分は使わなくなるのだから。
分かっていたが、は一瞬だけ声を失う。立ち尽くしていると、二拍程度遅れて、二階から影丸が降りてきた。その姿を見て、は意識を戻す。影丸は着崩したユクモ村装束に身を包んでおり、特に何かの作業をしていた風でもない。が、を見て僅かに驚いたのか、目を丸くした。

「こんばんは、突然ごめんね」

笑みを浮かべて、そう告げる。影丸も「ああ」と反芻し、に歩み寄る。普段通りを努めたが、違和感は無かっただろうか。少し気になったが、次いで「入れよ」と彼に言われたのでそうっと踏み入れた。

「最近、あんま喋ってなかったが……忙しかったのかと思ってたが」
「え、あ……ま、まあ。そ、それより、もう準備は終わってるのね」
「ん、まあな。遠くだし、必要なもんはある程度もう向こうに送ってある。家の中のは、特に持っていかないから片付けたし。あとは、ハンター道具と装備、武器……この辺を直接運ぶだけだ」

ずぼらな影丸が、そこまできちんとしているとは。そう思ったが、よくよく考えれば二ヶ月もあったのだ……滞りなく進めていれば、彼でも綺麗に出来るだろう。
準備が出来ていないのは、むしろ、の方である。旅立つ彼を送る、準備が。二ヶ月もありながら、だ。

……馬鹿だな、私。

見送れるか否かなんて、問題ではない。彼はもう、旅立ってしまうのだから。
浮かべた笑みが、僅かに陰る。それは影丸に見られたかどうか定かでないが、彼はすっかり物の無くなった机に寄りかかり、暮らし慣れた家を見渡す。

「しばらくは、見納めだなー。モガの村の借家が、過ごしやすいと良いんだけど」
「そ、そうだね、レイリンちゃん達から聞いたけど、海の上にある村なんだっけ」
「ああ。内陸育ちにはしばらく辛そうだが……仕方ない。G級資格を取る為だしな」

……ドクリ、と。
の心臓が、不意に音を立てた。

そうだね、とすら言えなくなってしまった彼女の口からは、震える呼吸が漏れる。立ち尽くして、彼に伝えようと思っていた言葉を懸命に探すも、耳には、影丸の真っ直ぐな声が響く。
新たな地と、新たなモンスターへの期待。狩人の本願であり、影丸の貪欲な理想。強さと実力の象徴――G級。彼が追いかけ、目指すもの。

「G級ってのは、どういうのなんだろうな。あのレウス亜種みたいに凶悪なんだろうが」


……ほら、言わないと。


「ジンオウガの亜種も最近出るって話だし、駄目になったナルガ装備もG級に新調してみたいし」


……頑張ってね、て。


「楽しみだな、G級狩猟」


早く、言わないと――――。


そう、言い聞かせたが。
そうした分だけ、の思考は真逆を向いて、沈み込んでゆく。
ちゃんと伝えようと、決めてきた言葉はもう何処にも見当たらない。の中に残ったのは、あの日――影丸が負傷して帰還した日から、絡み付いて離れないあの感情だけだった。

「……ああ、そうだ。保管庫の中にさ、食い物が残ったままだから、お前消費してくれないか。腐らせるのも勿体無いし」

「影丸」

厨房に向かった、影丸の広い背。伸びやかな体躯。それに掛けたの声は、自身でも分かるほどに冷え切って震えていた。
数歩進んだ影丸が、振り返る。どうした、と言わんばかりの顔は、普段と何ら変わらず、を見つめていて。

それが、抑え続けたものを溢れさせる要因となった。


「――――行かないで」


何の抑揚もない、声だったのだろう。目の前の、影丸の表情が驚きに染まり、目が見開く。肩越しに振り返った身体を、全てに向けると、今度は彼の方が声を無くしたようであった。
変わりに、の声は次々にこぼれ落ち、静かな空気を震わせた。

「行かないでよ、モガの村になんて」

「影丸にとっては小さな傷かもしれないけど、あんな、あんな怪我しにわざわざ行くなんて。おかしいじゃない」

別に、影丸を困らせる気なんてない。けれど結果としてそうなっているのは、も自覚している。
感情味のない声が、熱くなる。叱責するように、あるいは子どもじみた癇癪のように、気持ちだけが先走り、はた迷惑な激しさが募る。
見据えた影丸の表情が、分からない。滲んで、ぼやけて、痛みの伴う熱が目の奥を刺している。
吐き出すの声にも、それが乗り移ってしまったのか、切実な懇願が滲み出てくる。

「私には、G級っていうのがどんなものかは知らないし、ハンターが味わってる恐怖なんて想像も出来ない!
でも危険で、もっと酷い怪我をするかもしれないって、最悪死ぬかもしれないって事くらい私にだって分かる!」

影丸の足が、のもとへと向かって踏み出すのが見えた。逃げたくもなったけれど、意地でも涙だけは落とさないように堪えるは、その場から動けない。

「行かないって言ってよ……ッ怖いって、影丸だって前に、自分で言ってたじゃない……ッ!」

……なんて、いかにも彼を気遣ってる風に言って。
本当に恐ろしいのは、自分の方だ。
影丸は大丈夫だなんて、意味のない根拠を抱いてきた。それを唐突に砕かれたあの日、改めて再認識した。親しい人が次の瞬間には消えているかもしれない、この世界の厳しさ。桜色アイルーの姿の時にも、身をもって学んでいる。《あの子》が命を落とした恐怖や悲しみと等しく、影丸にもしもそのような事態が降りかかるのであれば。

笑って見送るなんて、出来るはずもない。

けれど、感情のまま吐露するは、既に自ら理解している。これは自分の恐怖を、影丸に押し付けているだけ。彼はそれを乗り越えているし、覚悟してハンターという職業に身を置いている。でなければ、G級狩猟に挑むなんて言う訳がない。
抱く覚悟の度合いが。目指す先で得るものが。と影丸とでは、違いすぎるだけ。

――――そんな事、分かっている。

だが、次合う時が、もしかしたら屍かもしれないのだ。そんな事……。



はあ、はあ。言い切って、肩を上下させるに降りたのは。
普段の邪悪さなど僅かともない、静かな彼の声だった。

「悪いな、ありがとう」

の後味悪くなる言葉に、彼は嫌悪を見せずにそう告げた。目の前にあるしなやかな身体が、見た目のわりに厚い胸が、広い肩が、とは対照的に落ち着いて構えている。降りた影は、滲む視界の片隅を柔らかく覆う。

「モガの村には行く――――悪いな」

影丸は、不確かな事を口にはしない。怪我を否定しないし、死ぬ事すら否定しない。の吐露した感情も、無論慰めない。
容赦のない、言葉であったはずなのに。
同時に、の想いも否定せず、それを受け止めてくれる。
素っ気無く、無駄な事はせず、そのくせ言葉に反して仕草は優しくて。それが彼らしくて、余計に泣きたくなる。涙は堪え、ぐっと奥歯を噛み締める。

「分かってる……分かってる、から……」

彼の覚悟に口出し出来るものではないと、最初から分かっている。
これを影丸に言って、彼がモガの村行きを止めるなんて事、それこそ無いと分かっている。

すん、と鼻を鳴らして、は顔を背ける。赤くなっているであろう頬とまなじりは隠しようがないだろうが、手の甲で溜まる涙を払う。
影丸は目の前に立ったまま、ふと、「驚いた」と短く呟く。頭の天辺に落ちてきた言葉に、はのろりと顔を上げる。

「何が……」
「お前の事だから、人間よりモンスターの方を大事にするとばかり」
「ッは?!」

とんでもない事を言われ、涙も物悲しさも引っ込む。「何よそれ」目をじとりと細め、影丸を見た。彼は悪びれた様子もなく、頭の後ろを掻く。

「モンスターの、なんだ、声が聞こえるって、俺は今もパッとしないが……それがあるなら、モンスターの方を優先するんじゃないかと」
「ば……ッ!」

ばっかじゃないの、とは影丸の胸を叩く。思いのほか力が入ってしまったようで、「いて」と彼は声を漏らす。

「それとこれとは別よ、何言ってんの」
「いや、なあ」
「私はそこまで、薄情じゃないわよ」

そう言うと、影丸の表情にニタリとした意地の悪い笑みが、急に浮かんだ。

「そうだなあ、さっき熱烈に叫んでくれたしな」
「ちょ……ッあ、あれは」
「こっちが赤面するくらいに熱く言って貰って、ありがたいこった」
「ひッ人が、し、心配してるってのに……!」

怒りか羞恥かで、顔が真っ赤に染まる。別の意味でも泣きたくなってきた。
殴ってくれようかこいつ、と不穏な一文がの脳裏を過ぎった時、目の前の影丸がふっと緩やかな息を吐き出す。

「分かってる……が言いたい事も、俺が自分で選んだもんが何なのかも」

すうっと、静かに熱が引いてゆく。影丸の整った顔ばせに、安堵した穏やかさが宿っていた事に気付いた。

「そうやって心配してくれる奴も、まだ居たんだな。俺にも」
「当たり前でしょ……セルギスさんやレイリンちゃんだって、皆、心配してるんだから」
「そうだな……」

影丸の瞳が、僅かに細められる。くすぐったそうに、気恥ずかしそうに。

「ハンターは上を目指して当然、モンスターを倒して当然、そう思われてきた環境だったし……余計、今更ながら心配する奴なんて居るのかと思ってる」

ひっそりと告げた、彼の言葉に。やはり一般人とハンターの、身を置く場所の違いというものを、感じてしまう。
はしばし、口を閉ざした。訪れた沈黙の中に、夜の気配を抱いた風が何処からか吹き込み、空気が流れるのを覚える。

「……大怪我、するかもしれないのに。心配しない訳、ないじゃない」

影丸の目が、微かに見開く。薄く開いた唇が、、と吐息で呟いた気がした。何故かこみ上げる、恥ずかしさ。大声で思い切り言ってしまった挙げ句に半泣き状態とか、思えばかなり子どもじみた仕草だったかもしれない。意識すると急に羞恥心で狂いそうになるが、目の前の影丸は別にからかう様子もなくて。

「……そうか、心配してくれるか。お前が」

力の抜けた、低い声が響く。当たり前の事なのに、不思議そうに反芻する彼が、少し物珍しい。

明日で、そんな彼の姿も見る事は無くなるのに。

「……リオレウス亜種っていう竜は、よく分からない。でもあれ以上の怪我をする可能性だって、あるなら……私は、どんな顔して見送れば良いのよ」

頑張ってなんて、言えない。
もう十分に頑張ってる彼に、言えようものか。

抑えていた感情が、再び存在を示し始めて、はぎゅっと唇を噛む。その頭上で、影丸の無言の視線が降り注いでいる。

「……

呼ばれ、のろのろと顔を上げる。しかし影丸の顔を認知するより先に、彼の手が伸びてきて、二の腕をわし掴みにされる。薄ぼんやりとしていた彼女は呆気なく、その手に引かれて前につんのめり、空足を踏みつける。影丸の胸に一瞬顔をぶつけたが、鼻の頭を抑えるより速く、の身体は一瞬浮き、直ぐ近くの机へと気付けば座っていた。堅い木の感触がお尻の下にあり、爪先は宙ぶらりん。素っ頓狂に、瞬きを繰り返す正面には、一連の動作の犯人の影丸が静かに佇んでいる。

「な、に……?」

ぐす、と鼻を鳴らして、見上げる。両方の二の腕を掴んだ、影丸の手が、滑るように肩へと上がり、首筋に触れる。硬い手のひら、筋張った長い指、大振りの武器を握る男の手。初めて剥き出しの肌で覚えた、影丸の手の感触と温かさ。無遠慮に、未だ状況が飲み込めないの首筋を、撫ぜ上げてゆく。
ぞわり、と背が粟立った。

「……良いか、一度しか言わねえから、よく聞けよ」

告げた低い声が、間近で聞こえる。耳に吐息の熱さまで、伝わってくる。
手のひらの強さと、真正面にある広い胸に、は身動きすら出来ずに硬直する。見上げた先の、影丸のやけに真剣な黒い瞳が、射抜くように煌めく。

「モガの村に行っても、ユクモ村には必ず里帰りしてやる。時間がどれくらい掛かるか分からないけど、逐一手紙でも報告書でも何でも送ってやる」

首筋を撫でた手のひらが、ゆっくり上がる。の顎の輪郭を、手のひら全体でなぞり、頬を包む。横を流れた髪が、一緒にクシャリと絡め取られる。
そのやけに色めいた仕草に、引っ込んでいた顔の熱が、急激に蘇った。火が灯ったような熱さは、直ぐに全身へと走り、心臓まで暴れ始めた。

「や、な、なに……ッ?」

身動ぎさえ出来ないくらいに、がっしりと顔を抑えられる。ふっと降りた影に視線を上げると、影丸の顔が近付いていた。集会浴場で、飲んだくれて酔っぱらって、場所も弁えずに地面に伏していた、あのいい加減な男性が見当たらない。今はもう焼かれてしまった、漆黒の竜の鎧が、迅竜という生物の姿で自然に君臨していた鋭さを瞳に宿している。真摯な眼差しを、躊躇無くへ浴びせて、影丸の唇は絶えず言葉を紡ぐ。

「受ける依頼は、渓流近辺を優先してやったっていいし、大事があれば飛ばして戻る」
「か、影丸……ッ」
「……必ず」

ぐ、と。
影丸の手のひらが、指が、隙間無くの頭を抱え込む。

「必ず、ユクモ村には戻る。だから――――笑って、見送れ」

は、目を見開く。間抜けに開いた口から、吸い込んだ息づかいがこぼれた。

「それ以外の顔は、却下だ。良いな」
「で、も……」
「まだ文句あるのか」
「笑って、なんて……どうやって……ッモガの村で、どんな怪我するかだって、分からないのに……」

この体勢のせいでもあるが、今はとても……普段のように、笑えそうにない。
耳まで真っ赤になり狼狽えるを、影丸はしばし見つめ。それから、目を細める。

「……なら、先行投資してくれ」
「え……?」
「G級のモンスター相手でも、掠り傷一つもしないぐらいの、気合いの入る投資」

彼の顔が、さらに近付く。ひきつった悲鳴を胸中叫びながら、しどろもどろに「そんなの思いつかない」と告げれば、影丸はの顔を上にぐいっと向かせる。変な音が首から鳴ったが、今の思考ではそこまで及ばない。

「別に思い付かなくていい、俺が貰うだけだ」
「な――――」

何を、と告げようとした声が、その瞬間遮られる。
僅かに空いていた顔の距離を全て埋め尽くし、影丸の顔立ちが視界を奪った。空気に触れるだけだった唇の上に、やけに熱い柔らかな感触が訪れる。
の思考が、一瞬何処かへ飛んだ。
が、それを理解するのも意外に早く、は「影丸」と名を呼ぼうと口を開く。が、その隙間も、全て彼の唇で埋められてしまい。声どころか、息まで吸い尽くされた気分だった。
時折、唇の端から、ハッと短く漏れる吐息が聞こえる。それは、自身のものか、影丸のものかは不確かで、ただひたすらに熱さばかりが印象的で。
僅かとも、後ろにも横にも動けない顔は、影丸の口付ける行為にどこまでも従順である。

「ッま……ッ」

両腕を突っ張り、影丸の胸を押す。だがそれを呆気なく押し返され、は困惑した目を見開かせた。
ほどなくして、影丸の唇は離れたが、顔は以前として息が掛かる距離にあり、身体も……触れ合うほどに近付いている。
正面から、逸らさないで見据える、影丸の黒い瞳。竜のような瞳。
恐ろしいほど鋭く、同じくらいに色めいていて、綺麗だと思ってしまった。男性の、目の当たりにする熱っぽさかもしれない。
あてがった腕が、伸ばした背が、自覚するほど震える。

「……お前も、俺が居ない間に隙なんか作るなよ」
「な、なにが……というか、今……ッんむ」

また口を塞がれる。食むような、啄まれた感触がした。思考が焼け焦げそうで、目眩がしてくる。
何で影丸にキスされてるのか、もよく分からない。

「先行投資だ、長旅に出る上に新境地に旅立つんだから、これくらい気前よくやれ」

そんな横暴な、という言葉も、なかなか喋らせてくれない。
せめてもの抵抗に、恨めしく影丸を見るが、ふっと笑われてしまう。これが馬鹿にした笑みなら、まだ蹴り飛ばしてくれたものを……。普段の彼ならば絶対に見せないような、二十代半ばの柔らかな落ち着いた笑みを向けるのだから、言葉を飲み込んでしまう。

影丸の両手が、両頬を包む。熱を灯す頬を撫で、後ろ頭を長い指が緩く動く。

「……死なないようにするし、めったな怪我はしないようにする」
「……うん」
「必ず、ユクモ村に戻ってくる。だから、待ってろ」
「……うん」

本当は、納得してはいない。頷いてはいるが、首を横へ振ってやりたいくらいだ。
けれど影丸の目は、声は、やけに自信たっぷりで。口にはしていないが、暗に《信じろ》と告げている。これを見て、一心に向けられて、信用しないなどと跳ね退ける事こそには出来ない。

《絶対》などという、安易な言葉は口にしない。
けれど、《必ず》戻る、と強く言った彼を……は、見送っても良いかもしれないと思った。

「……ずるいね、そう言われたら、頷くしかないよ」
「だろうな。分かってる」

くつくつ、と笑う振動が、の身体にも伝わった。

「仕方ないから……待っててあげるよ。帰ってくるまで、此処で」

くしゃりと、の顔が自然に緩められた。赤らんだ顔のままで浮かべた、不格好な気の抜けた笑み。久し振りに、自然な笑みがこぼれた気がした。
目の前の影丸の目が、少しだけ見開いて、そして嬉しそうに口角を上げる。傾いた彼の顔が、こつりと額をへ押し当てた。

「……これで、多少は心おきなく、モガの村に行ける。次に会う時は、覚悟してろよ」

へ、と間抜けな声を漏らすの眼前で。影丸の顔に、あのタチの悪い悪戯を閃いたような、邪悪な笑みが過ぎっていた。

「会うたびに、これの続きを段階上げでやってやる」
「なッ」
「今日はこれで勘弁してやるから、次からもっと強い心臓を用意しとけよ」

重ねた額がずれて、再び影丸の唇が近付いた。それを見留めたは、小さく息を吸い込む。

「――――まだ言ってない言葉も、山ほどしてやりたい事だって残ってる。簡単に、くたばってやらない。だからお前も……」

続く影丸の言葉は、口付けと共に与えられた。唇を覆った熱い吐息と柔い感触に、は今度は逃げず、広い肩をぎこちなく掴み瞼を下ろした。


それが、と影丸が、最後に交わしたものだった。


翌日、朝早くにちゃんと見送りに出てきただったのだけれど、レイリンとセルギスと共に彼の自宅へ向かえば、そこにあの影丸の姿は無かった。
がらんどうになった彼の家と、姿の見えないオトモアイルーたち、そして夜明け前に出立したというアプトノスの馬車……自ずから、察するのも容易だった。

見送れなんて言って、自分はさっさと出かけてしまうなんて。
本当に、影丸という男は勝手だ。

は、レイリンとセルギスたちと、しばらく声を上げて笑った。どうせ見送りが恥ずかしくて、さっさと出立したのだろう。帰って来たら思い切り弄くり回してやろうじゃないか、と計画を立てながら。

ただ、しょんぼりとするカルトと、珍しく静かなコウジンは、目に見えて明らかに気落ちしていた。既に見えない先輩アイルーの姿を追いかけているのだろうか……影丸が出立したその日、彼ら二匹はユクモ村の朱色の門前に座り込んで、何を言っても離れようとしなかった。


普段居たはずの姿が、見えなくなったユクモ村。鮮やかな紅葉に染まる温泉の村は、いつも通り湯治客も観光客も多く立ち寄り、ハンターたちで賑わっていた。
だが、日を追うごとに、やはり少し物足りない気が強まって。
この村から、海原の上に存在するモガの村なる場所まで、どれほどの距離があるか分からないが……いずれ、手紙も来よう。
必ず、きっと。


――――まだ言ってない言葉も、山ほどしてやりたい事だって残ってる。
簡単に、くたばってやらない。


――――だからお前も……


――――覚悟して、この村で待ってろ


「……待っててあげるよ、影丸」

不意に見上げた空は、いやに透き通った青さで澄み渡っていた。
この同じ空の下で、影丸は馬車の上、あるいは船の上で、寝ながら見上げているのだろうか、なんて。
らしくもなく思って、は自らの唇に、そっと指を這わせた。



ていう話があったら、面白いなと思って考えた。
影丸、モガの村へ――G級狩猟へ挑む。彼は、多分こういう男だと思う。上位ではきっと、満足しない。
読み切りか続いちゃうかは不明ですが、ジンオウZ装備をフルで着せてやりたいとは思います。顔は見えないけど絶対似合う。

そして同時に、最高のセルギスへの嫌がらせになりました……彼が独り相撲の現状で、影丸はこれである。
もちろん、後悔はない(笑)

(お題借用: as far as I know 様)

2013.05.01