かつて美しかったものとはじめから汚いもの(1)

 綺麗に整えられた部屋の中に、苦しげな息遣いが繰り返し響く。

 ベッドの縁に前足を置くオトモアイルー――ヒゲツ、カルト、コウジンの三匹は、心配そうに覗き込んだまま離れない。冷たい水で絞った手巾を丁寧に押し当てるレイリンなど、もはや終末を迎えたかのような悲壮感を張り付けている。彼らの傍らに佇むセルギスや影丸も、おおよそ似たような面持ちだった。

、すぐに医者が来る。大丈夫だ」

 セルギスが呼びかけると、ベッドの上で力なく横たわる彼女が微かに反応を返した。真っ赤に上気した顔にぎこちない笑みを浮かべ、何事が囁く。大丈夫だと、言ったのだろうか。けれどその声はあまりにもか細く、消えかかっている。
 すっかりと、弱りきってしまったその姿。つい半日前は、すこぶる好調だったはずなのに。の激変した様子に、各々で動揺した。
 あまりにも常と異なる姿に、セルギスと影丸は冷静に振る舞いながらも、内心では途方に暮れる。半日、の傍らに居たのは、他ならぬ二人なのだ。

 分からない、一体、何故。

 何度したか分からない自問自答を、再び、繰り返した。



 程なくし、調査拠点アステラに駐在している医師が、往診するため部屋へとやって来た。
 の容態を診るその様子を、セルギスや影丸達は後ろから静かに見守る。

「ふーむ……何か、予兆のようなものはなかったかい。今朝から体調が悪かったとか」
「いや、これがいたって普通だったんだ。朝飯だって普通に食べて、拠点を走り回っていた。具合が悪いような素振りは、全然なかった。レイリンも、何も聞いてないだろ?」
「は、はい。さん、いつも通りでした」
「……となると、日中に出ていた探索に原因がありそうだ。最初から、出来る限り思い出してみてくれないか」

 医師に尋ねられ、セルギスと影丸は今日の探索を振り返った。

 天候に恵まれたこの日は、絶好の探索日和だという事で、セルギスと影丸はアステラ近郊に広がる“古代樹の森”へ共に出掛ける事にした。そこにがやって来て、私も行きたいと挙手したのだ。
 狩猟ではなく探索や採集が主だった目的の場合、を連れて行くのは現大陸時代からの日常である。そうして、三人で森に出発した。
 その道程に、異変や何らかの問題が起きた記憶は一切ない。探索自体も極めて穏やかで、特筆すべき点は一つもない。も、体調を崩すような行動を取っていないはずなので(池に落ちたとか雨に降られたとか)、思い起こす限り、本当に問題は……。

「――そういえば、、派手にずっこけてたニャ」

 ぽんっと肉球を叩いたのは、カルトである。その隣に居たヒゲツも、そういえばと呟いていた。

「ずっこけてた?」
「苔に気づかないで足を滑らせて、そのまま草むらに突っ込んでたニャ」
「それはまた派手にいったなあ」
「ああ。しかも、ちょうどそこが野花の群集地でもあったから、花粉がついたとか騒いでいたな」
「災難なこったな、そりゃ」

 すると、その時、会話に耳を傾けていた医師の表情が、僅かに動いた。

「……その花、どんなものか、分かるかい」
「ニャ? んーと、確かが腹いせにもぎ取ってた気が……」

 カルトはおもむろにの鞄を掴み寄せ、ごそごそとその中を漁り始める。小さな束になった野花を取り出すと、医師へ手渡した。何か思い当たる事があったのか、医師はそれをじっと見下ろしている。

「先生?」
「……こいつは、確か……」

 医師は顔をさっと上げ、植物研究所の所長を呼んできてくれと告げた。





「――ああ、知っているよ、その花。新大陸にも自生しているんだね。なるほど、花粉を吸っちゃったのかな」

 白い学者服に身を包む若い男性――植物研究所の所長で、愛称は若所長――が、眼鏡を治しながらのんびりと言った。
 病人の側で騒ぐのもなんだという事で、今は全員、部屋の外に集まっているのだが……。

「え、まさか、これが原因なのか」

 影丸の口から、思わず素っ頓狂な声がこぼれ落ちる。

「ああ、そうだろうね。ちなみに薬の材料でもあるから、劇毒系の花ではないよ。そこは安心してくれたまえ」
「ニャ?! で、でも、すごく苦しそうだニャ! 熱もあって、動くのも大変そうだニャ!」

 慌ただしくカルトが飛び跳ねたけれど、所長は相変わらず鷹揚とした態度である。そりゃあ苦しいだろうねえ、なんてのんびりと笑っていた。

「苦しいって、何でニャ!」
「だってあの花――催淫効果があるからね」


 ――その一瞬の内に流れた空気は、言葉にしがたいものがあった。


 さては劇毒の類かと焦り、腰を浮かせたところに聞かされた、その単語。何も言えなくなり、茫然と立ち尽くしてしまった。所長へ掴みかかるところであった手のひらなんかは、行き場をなくして宙をさまよい、挙げ句、口から滑り落ちるのは「は」だの「え」だのと文字の羅列ばかりである。

「さい、え?」
「は、さい、何だって?」

 聞き間違えかと思い、影丸とセルギスは所長を見つめる。しかし彼は、鷹揚と笑い、再びその単語を口にした。

「催淫。要するに、性交渉したくてしょうがなくなる状態にしてしまうんだね」

 この辺りは、さすが研究者と言おうか。その明け透けな物言いは、躊躇いも恥じらいもまるでない。ますますどんな顔をしていいのか、分からなくなってしまった。

「この花は、媚薬の主成分によく使われる野草の中でも効果が強くてね。花粉の吸い込みと、葉の部分による切り傷によって、その効果が表れる。さんの場合はたぶん前者だろうね、一番もろに効果を受けるパターンさ」

 ちなみにこれ、野生のモンスター達にも効いてね。たびたび季節外れの発情期を起こしてくれる問題児で――なんていう言葉が続いたが、八割方、右耳から左耳へ通り抜けた。

「やはりそうか。確か、始めは体温上昇から変化が起き、発熱と倦怠感が強まる。本格的な症状が出るのは二、三時間後だから……今夜辺りが一番辛くなるだろう」

 今夜って……すでに夕方だから、もう間もなくではないか。

「え、ええっと、解毒薬とか、あるんですか?」

 レイリンがおずおずと手を挙げると、医師と所長は声を揃え「無い」と断言した。

「耐えるか、あるいは発散させるか、二択だけだね」
さんに恋人がいれば発散させる方が一番楽だが……ふむ、その顔を見る限り、耐える方だな。熱冷ましの生薬を処方しておこう。それと、涼しくさせて過ごすように。あとは――さん自身の忍耐力が頼りになる」

 その後、医師と所長は去って行ったが、残された面々はというと、しばらくその場で黙り込んでいた。
 毒の類でなかった事は、不幸中の幸いなのだろうが……催淫効果だなんて、ある意味、猛毒よりもタチが悪い。

「そんな草が存在している事にも驚きだけど……あいつ、起こす面倒の引きが良いな」
「師匠」

 レイリンからじとりとした眼差しが向けられ、影丸は肩を竦めて両手をあげる。

「とりあえず、さんには話さなくちゃいけないですね……」
「まあ、そうなんだが、どうするかな……」

 空を仰ぎ、唸り声をこぼす。しかし、アステラから臨む空と海原は夕焼けの色に染められ、問題の夜はすぐそこにまで迫っている。悩んでいる時間は、残念ながらない。

 ――さて、はどんな反応するやら。

 セルギス達は部屋へ踏み入れ、ベッドに横たわるのもとへ近付いた。



2018.09.09