かつて美しかったものとはじめから汚いもの(2)

 海岸に展開された調査拠点“アステラ”に、夜が訪れた。
 新大陸の各地へ赴き調査に励んでいたハンター達は、太陽が沈む頃に続々と帰還し、休息に入る。日中とはまた違う賑やかな声が、夜空の下、篝火が焚かれている拠点に広まっていった。

 特に、多くのハンター達が集い歓談で賑わうのが、拠点唯一の食事場“武器と山猫亭”だ。この日も変わらず、見知った顔が並んで食事を取り、エールを煽っているのだが……。

「……あれ? いつも給仕してるさんはどうしたんだい?」
「なんか、体調を崩したんだって」
「え、そうなのか」
「新しい土地だし、疲れが溜まっちゃったのかもしれないわね。重い病気とかじゃないらしいし、ゆっくり休んでもらわないと」
「そうだなあ、お前だけじゃあ華がねえもんな!」
「ちょっと! どういう意味よ!!」

 わあわあと騒ぐテーブルの一角を眺め見ながら、セルギスと影丸は口元にフォークを運ぶ。
 非戦闘員の下働きとして新大陸へやって来たは、この食事場にいる事が普段から多かった。ほとんどの調査員達がここに訪れるので、彼女の顔を知らない者はアステラにはいないだろう。
 そのため、あまりめったな事は吹聴せず、ただの体調不良という事にしておいた。新大陸にやって来て疲れが出てしまったと、そうしていた方がにとっても良いだろう。
 催淫効果のある野花の花粉をしこたま吸ってしまったなんて、そもそも誰にも言えない事だが。

 しばらくし、トレーを持ったレイリンとオトモアイルー達が、テーブルにやって来た。彼女たちが椅子に座ると同時に、セルギスは尋ねる。

の調子はどうだ?」
「だいぶ体温が高いですね……。厄介な風邪をひいてしまったみたいな感じです。とりあえず、冷たい飲み物を枕元に置いて、氷枕とかを交換してきました」

 料理を口に運ぶレイリンの表情は、あまり芳しくない。昼間よりも、具合が悪くなっていたのだろう、きっと。


 これより数時間前――医師の往診が終わった後、に不調の原因が何であるのか伝えた。
 足を滑らせ転倒した際に突っ込んだという野花の群集は、催淫効果があるらしく、その花粉を多量に吸い込んでしまった事が原因である可能性が非常に高い、と。
 は、大きな声こそ出さなかったが、限界まで両目を見開き「マジでか」と絶句していた。
 まあそうだろう、誰だって言葉を失う。
 ただ何日もその状態が続くわけではなく、一過性のものらしいから、山場である今晩を乗り切れば治るだろう。そう伝えると、は狼狽しながらも「じゃあ大人しく寝てればいっか~」と、あっけらかんと笑った。もう笑う事しか出来ないのかもしれないが、様子を見る限りは、落ち着いているようだった。
 現大陸に居た頃から、が遭遇してきた事件のほとんどは一等級だった。豪胆にもなる、というものか。

「あ、それと、夜は心配しなくていいよって言ってました」
「まあ、そうだろうなあ。あんま側に、誰か居て欲しくないだろうし」

 影丸が呟くと、カルトとコウジンがやや不満げに「オレたちは徹夜だって平気ニャのに」と呟き、ヒゲを震わす。それをヒゲツが宥めるが、この二匹はあまり状況を正しく理解していないのだろう。医師が帰った後、看病するといって聞かなかったくらいだ。たぶん目を放したら、のところに走る。特に、渓流暮らしの頃からの付き合いで、もっとも長く側にいたカルトは。先輩オトモのヒゲツが、上手くやるだろう事を期待する。

 ただ、周囲よりも、体調を崩している本人の方が、受けた衝撃は大きいはずだ。

 寝てれば治ると言っても、内心では相当の困惑が渦巻いていそうだが……あまりこちらが構ってしまっては、も落ち着いて休めない。少し様子を見る程度にとどめておこうと、セルギスや影丸、レイリンは決めていた。

「ふあ……あふ」
「でっけえ欠伸だな」
「そういえばレイリン、朝早くから探索に出ていたんだろう。今日はもう早く寝た方が良い」
「虹色ヘラクレスを探してたんだっけ? 結局、見つかったのかよ」
「見つかりませんでした~~~~あんなに張ってたのにィ~~~~~」



 ささやかな談笑に興じるほど、楽観視していた事は否めない。本人も落ち着き、平気そうにしていたし、今晩はどうにかなるだろうと、この時確かに全員が思っていた。

 ――本当に辛くなるのは、これからだというのに。


◆◇◆


 アステラを包む静けさがいっそう深まる、夜半――。
 夜通しの調査任務などに当たる者を除き、ほとんどの者が寝静まったアステラには、さざ波の音が子守唄のように響いていた。
 賑やかに人が行き交う拠点が静まり返り、物音の一つもしなくなる、希少な時間帯。
 拠点の二階部分から行ける、切り立った崖に作られた一等ルームの集合地からも、その静謐さを感じられる。夜風と、波の音。流れ落ちる滝の涼しさと、巨大な水車が回るその音もだ。

 光蟲の明かりを置いた窓辺に、腰を掛けて夜風に当たる影丸は、ぐっとグラスを傾ける。オトモアイルーであるヒゲツは、手の掛かる後輩が勝手に行動しないようにと、今晩は一ヵ所に集めて見張ると言っていたので、実質、今は影丸一人であった。

 しばらくぼんやりと夜空を眺めていると、外に人影が立っている事に気付いた。目を凝らし窺うと、それはどうやらセルギスらしい。影丸もそうだが、使い慣れたユクモ地方特有の趣がある衣服を着ている。

「なんだ、一人酒か?」
「ちげえし、ただの冷や水だ」

 影丸は笑うと、窓辺から立ち上がり、外へと向かった。

「あんたも起きてたのか」
「ああ……どうも、のんきに寝ていられない気分になってな」

 セルギスの視線が、静かに上へと持ち上がる。影丸も、それを自然と追った。
 ここから少し登った先にも、一等ルームが並んでいる。その内の一つに――が休んでいる。

 探索中、催淫効果のある野花の群集に転倒して突っ込んでしまったのは、の不運である。だが、その探索に連れて行き、同行した二人としては、全面的に全ての責任であるとは思っていない。

「今晩が山場って先生は言ってたけど……そもそも、催淫効果とか馴染みなさ過ぎて、どんなもんか想像つかねえや」

 溜め息をついた影丸に、セルギスは小さく苦笑いを浮かべる。

「ああ、まあ……正直なところ、どうしたらいいのか分からないというのが本音だな」

 自然界の歩き方。生き物の痕跡の見つけ方。それぞれで異なる特性を持つ植物。小型から大型、古龍までのモンスターの対応……。狩人としての経歴はそこそこ長く、大抵の事は対処できる自信がある。だが、これは初めての事案だ。情けないが、寝てれば治ると言ったに、任せるしかない。

「だけど、寝てれば治るもんか?」
「どういう意味だ」
「医者先生と、若所長、言ってただろ。耐えるか、発散するか、二択しかないってよ」

 耐えるというのは、言葉の通りに我慢を貫く事だ。しかし発散というのは、恐らく、そういう事だろう。自分達が想像している事で、間違いなく合っているはずだが、だとすれば……。

「度合いは分かんねえけど、要は、すんげーヤリたくて仕方なくなるって事なんだろ? 寝てるだけで、そんな問題ないもんかね――」


 ――ガシャリ


 不意に、何処からか聞こえた、静けさを壊す音。
 トレーのようなものが落下したような、そんなけたたましい音だ。
 セルギスと影丸は、ほぼ同時に互いの顔を見合わせた。

「……聞こえたか」
「ああ。けど、今の音は……」

 なんだろう、と呟いた、その直後。
 今度は、ドスン、と重い音が耳を打つ。
 何か、重たいものが落下したような、低く鈍い音――。

 そこまで考え、セルギスと影丸は勢いよく駆け出す。涼やかな飛沫と音色を奏でる、巨大な水車を通り過ぎ、絶壁に作られた階段を駆け上がってゆく。そして、ある一等ルームの前に到着すると、その扉を開け放った。

「――!」

 踏み入れた瞬間、床の上に散乱する、水差しと桶が飛び込んだ。
 こぼれ落ちた水が広がってゆく床の上で、は背中を丸め蹲っていた。

 水差しを取ろうとしたのか、それとも起き上がろうとしたのか。ベッドから転げ落ちたであろうのもとへ、セルギスは急ぎ駆け寄り、蹲る彼女の身体を抱き起こす。
 その瞬間、ぎくりと、身体が強張った。
 自らの身体を戒めるようにきつく抱きしめるは、驚くほどに熱かったのだ。
 昼間よりも、酷くなっている。タチの悪い風邪にかかってしまったよう。どうにかなるなど、甘く考えていた自身を胸の内で罵倒する。

、大丈夫か」

 セルギスは気遣いながら問いかける。はそれに答えず、代わりにぎゅっと呼吸を噛み締め、身体を震わせた。

「だ、め……」
?」
「さわったら、だめ……ん……ッ」

 鼻に篭ったような吐息と、掠れた声音が、セルギスの耳を掠めた。
 そこに含まれる熱さに、項がぞわりと粟立ち、身体が硬直してしまう。それを後ろから見ていた影丸は、関心するようにしげしげと覗き込む。

「はーん……こりゃだいぶきてるな。こんな風になんのか」
「お、おい、面白がってる場合じゃ」
「ぶ、くく……あんたもそんな風に慌てんのか。まあ、とりあえずベッドに戻してやろうぜ」
「――だ、め……」

 自らの身体を抱きしめ、ぎゅうっと小さくなりながら、が呟く。

「だ、め……なの……」
「ん?」
「あついの……だから、だめ」

 はあ、と大きく吐き出した吐息には、酷い熱が浮かんでいた。真っ赤になった顔には苦悶の表情がはっきりと表れ、舌足らずな掠れた声もあまりに弱々しい。相当、辛いのだろうという事は、その様子から容易に想像出来る。
 しかし……――。

「だからって、床は痛いから止めとけ」
「やあ、ん……ッ」

 鼻に篭もった、息遣い。指先が触れたかどうかで、断続的に跳ねる身体。
 嫌がってるのか、それとも別のものかは、分からない。だが、常に無く甘えたの声に、セルギスも影丸も、情欲が込み上げるのを自覚していた。は今、意思とは関係なく、タチの悪い毒によってそうなってしまっているだけであると、知っているのにだ。

「……とにかく、ベッドに戻してやろう」
「ああ。新しい冷や水、持ってくるわ」

 熱を抱えたようなをベッドに寝かせ、散らかった周囲を整える。それでも絶えず苦しげな息遣いが耳を撫でるため、意識を別のところへ向けるのは叶わなかった。





「やっぱ寝てるだけで治るやつじゃなかったかー」
「催淫効果とかいうのが、そもそもどんなものか分からないしな」

 ベッドの上で、は小さく縮こまり、荒い呼吸を繰り返している。上気する頬の色も、吐息の熱さも、一向に和らぐ気配が見当たらない。むしろ、落ち着くどころか、ますます酷くなっているようにさえ見えてくる。

「一晩、この調子なのか」

 セルギスの呟きに、影丸は「さあな」と答えるだけだ。

 持続性ではなく、一過性のもの。今晩が山場で、それさえ乗り切れば治る。
 そう言っていたが……耐えられるものなのかどうか、今になって疑わしく思えてきた。夜明けは、まだまだ遠いのだ。

 ――続くのか、この状態が。彼女は、耐えられるのか。

 身体を丸める彼女は、もはや言葉も上手く出せないらしい。その唇からは、吐息ばかりがこぼれている。

「だいぶ、意識が飛んでる感じだな。はっきりと起きてるかどうかも分からねえ」
「関心してる場合か。、辛いか」

 セルギスはベッドの傍らにしゃがみ、無造作に広がるの髪を撫でる。震えながら持ち上がった瞳は、溢れてしまいそうなほどに熱く潤み、ぼんやりと蕩けていた。

 すると、不意に影丸が、わざとらしいほどに大きな溜め息を吐き出した。

「セルギス、あんたけっこう酷い言い方をすんだな」
「何だと」
「辛そうなのは、見りゃ分かる。ここでそれを言うのは、下心だけの同情にしか聞こえねえよ」

 セルギスは、微かに目を細める。咎めるような眼差しに気付いていながらも、影丸は反省の姿勢は見せず、どかりとベッドに腰掛けた。小さく蹲るへ腕を伸ばすと――その肩に触れ、首筋をするりとなぞった。

「ん、ん……ッ」
「おい、影丸」

 何をしているのかと、セルギスは影丸を見上げる。
 しかしそこにあったのは、普段から見ている、邪悪な笑みを浮かべた顔ではなく――溢れかえるほどの恋情で歪む、男の顔だった。

「――俺は、あんたのように優しくない。意地汚い自覚はあるし、この状況を何とも思わずにいられない」

 角灯の仄かな灯りに映し出されたその表情は、予想もしていなかった。あの影丸も、そんな風に劣情を隠さず、声と眼差しに滲ませるのかと、セルギスは僅かに狼狽える。

「熱くて辛いだろ、――助けてやろうか」
「影丸!」

 セルギスは立ち上がり、影丸の肩を掴んだ。その手をちらりと見下ろし、影丸は嘲るように鼻を鳴らし笑った。

「……下心があんのは、俺だけじゃなく、あんたもだろ」

 ――期待したんじゃねえのか、こういう事を。

 鋭く光る黒い瞳で、容赦なくセルギスの本心を引きずり出す。目の前で押し黙った赤毛の狩人は、なおも影丸を視線で射抜いてくる。それは、下心を言い当てられたからではないのだろう。同じものを抱く影丸であるからこそ、手に取るように分かるのだ。

 ――そこそこ、長く想ってきたからな。俺も、あんたも。

 影丸は小さく笑い、セルギスの筋張った手を下ろさせる。

「まあ、俺らがどうこう言う前に――の方が、その気になってくれてるけどな」

 セルギスは、ハッと息を吐き出し、視線を下げた。
 ベッドの上で蹲っていたは、震える瞼を押し上げ、確かにこちらを見上げていた。影丸は、セルギスを静かに押し退けると、へ語りかける。

「あんたが俺らをどう思ってるか知らないし、本心じゃこういうのは嫌だったりするかもしれないけど……顔とか身体は、そこまで悪くないだろ? 相手としちゃ悪くないはずだ」

 冗談をほのめかしながらも、誘う声音は、真剣そのものだった。

「あんたが満足するまで、辛いのが無くなるまで、ずっと相手してやる」
「つらいの……なくなる、まで……?」
「ああ、そうだ。俺達だったら――助けてやれるぞ」

 こいねがうように甘く、真剣に。
 それでいて、狡猾さと情欲の醜さは、浮き彫りにし。

 誘うというより、罠にでも掛けようとしているみたいだ。セルギスは不意にそう思ったが、現実でこの感情は、卑怯以外の何物でもない。

 助けようという言葉は――こんな、劣情まみれの口で告げるべきではないのだから。

 影丸とセルギスが、熱く見つめる中、果たしては――差し出された醜悪な誘いに、指を伸ばし、訴えた。

「たすけて……ん、あ、あつくて、くるし……ッ」

 期待と懇願に満ちた、熱に蝕まれる艶美な眼差し。
 の意識は、もう蕩けてしまっている。それが本心であるのかどうかも、分からない。しかし、見上げてくる彼女の目や、強請る指先は――本物だ。いつからか恋い焦がれ、情欲を燻らせながら見つめてきた、本物のだ。

 そこまでされてしまっては、抑えてなどいられない。

 セルギスは、溜め息をこぼし、小さく言葉を吐き出す。

「……後で、恨まれるだろうな」
「止めとくか」
「止められるほど行儀はよくないし、を想ってきたわけじゃないだろ」

 ――お互いにな。

 セルギスと影丸の間に、一瞬、沈黙が降りる。
 背中を預けられる信頼する戦友なのに、唯一の厄介な恋敵であるとは。
 忌々しいが、見ず知らずの男よりかは、マシだろう。

「……まったく。捻くれ者になったな、クソガキ」
「あんたはちょっと丸くなりすぎたんじゃないのか。おっさん」

 挑発し合うように言葉を投げると、横たわるへ腕を伸ばした。



2018.09.09