夢の終わりは二人の始まり(1)

 ユクモ地方に伝わる、新人ハンターたちにまず支給される装備――――ユクモノシリーズ。空色の掛かる白い羽根の飾りをあしらった笠に、襟の立った黒の胴着、袴を締めるのは魔を祓うとされてきた朱色の帯だ。その出で立ちは、無骨な狩人とは異なり、その昔に居た侍、或いは流浪人を彷彿させ、紅葉美しい温泉の村になんと映える事かと嘆息をこぼすほどの佇まい。
 新人が最初に着る装備とはいえ、その装備の凛とした外見は人の目を惹く。一部のハンター諸侯には、今もなお愛されるシリーズに数えられていた。

 門出を祝うように、風にそよいだ紅葉がひらりと舞った。いつもの風景が、今は妙に美しく、それでいて優しく映った。
 セルギス宅の前に集まっていた、影丸、レイリン、彼らのオトモアイルーたちは、入り口に掛けられた長暖簾が捲られると同時に、手のひらを合わせ鳴らした。何処からともなく、おお、と歓声も上がった。その中には勿論、とカルトも居た。
 少し前までは片手に杖を握っていた、かつて村を一人で守っていたというセルギスの姿が、暖簾の向こうより現れる。本人の願いあって上位資格のあったギルドカードを返還、最初からやり直す心構えで新人に戻り心身のリハビリと療養の生活を送っていたが、医師から太鼓判を押され、この日ついにハンターとしての本格的なリハビリに入る事になったのだ。真新しいユクモノシリーズは見慣れないものでは無かったけれど、これまであった経緯を思えばその装備も感慨深くなる。歴戦の狩猟者の風格は、ブランクがあってもなお漂い、とても新人とは思えない貫禄が滲み出ていた。や影丸たちから温かく拍手なんかされたのがこそばゆいのか、セルギス本人は笠を掴み目深に直している。もともと長身で身体つきも逞しい彼だ、の感覚で云うなれば和服だが、よく似合う事。無駄のない、シュッと伸びた印象を抱く。

「おーセルギスもついに復帰だな」

 影丸は軽口を叩くが、恐らくきっと、誰よりも喜んでいるのは彼なのだろうとは思った。いつになく上機嫌で、邪悪さのない無邪気な笑み。彼は自らで気付いているのだろうか。
 セルギスは吹き出すように笑い、「気が早い」と影丸へ告げた。

「ようやくハンターとしてのリハビリが本格的に出来るようになっただけだ。まだ当分はお前たちに任せて、俺は訓練場通いだ」
「でも、セルギスさんなら直ぐに現役復帰出来そうです!」

 ぐ、と両手を握りしめて胸の前に掲げるレイリンに、セルギスは声を漏らし笑った。

「そうだな……貴方なら、きっと直ぐに」

 見上げるヒゲツの目には、過去慕った主人への憧憬が浮かんでいた。何年も共に居た、オトモのメラルーの眼差し。セルギスは小さく笑い、手を伸ばした。ヘルム越しにヒゲツを撫でる手は、穏やかだった。

「ま、案外直ぐに現役に戻れるだろ。勘さえ取り戻せば、下位から上位にも上がるだろうし」
「簡単に言うな、正直何処まで立ち回れるのか分からないんだ」
「少なくともレイリンよりかは格段に早いだろ」
「そうそう私より……って、ええ?!

 そりゃそうですけどォ、と気落ちしたレイリンの前で、影丸はいつもの悪魔のような顔でケタケタと笑っていた。
 彼らのやり取りを楽しそうに見守るの目が、不意にセルギスとぶつかる。彼はふっと目を細め、浮かべた笑みをにも向けた。笠の向こうには、赤銅に似た赤茶色の髪と琥珀色の瞳。三十歳ほどの、働き盛りで力のある男性の佇まいに、鮮やかな碧色も、黄土色も、あの牙竜の鋭さは何処にもない。セルギスという人間の、ごく当たり前な要素。それでも脳裏には、博識で、冷たくて、恐ろしい姿なのに優しかった、臆病な大きな竜が未だ残っている。だからきっと、なお一層は今の彼の姿が、自らの事のように嬉しくなるのだ。七年もの間抱いた、人間の心と獣の姿の葛藤、諦めたつもりで僅かとも捨てる事の叶わなかった感情を、唯一知って触れたのは――――あの頃同じ立場にあった、だけだったのだから。
 最大金冠サイズの《無双の狩人》と過ごした、桜色のアイルーの記憶は、夢の中で起きていたのか。現在目の前にあるいつか夢見た光景に、不思議な錯覚を抱きながらも、肌身離さず身に着けている牙の首飾りに胸の内で語りかける。上手くやっていけてるよ、と。



 セルギスは早速その日を境に、竜や獣と唯一戦える狩人――ハンターとしてのリハビリを始めた。どうやら彼、荒れた農場の整備の合間に筋力トレーニングをしたり、家にあった下位の武器をこっそり持ち出して素振り等をしていたらしく、彼のオトモアイルーになる事を選んだ新米のカルトから聞いたは、少し笑った。やはり本人が、最も望んでいて、そして喜んでいるのだろう。「懐かしいなあ」と呟きながら訓練場に向かっていったセルギスの背は、逸る想いを感じた。
 そのカルトも、以前からオトモになるべく修行をしていた事はも知っていた。すっかり懐いて「兄貴兄貴」と慕う大ベテランオトモのヒゲツにくっついてモンニャン隊に行ったり、実際に狩場へ出向き影丸とヒゲツの働きを見物したりと、新米の情熱は燃え滾っているようだった。一応先輩であるコウジンとは、いつぞやの社会見学の時のように相変わらず口喧嘩をしているものの、後輩が出来たような心境らしいコウジンは何だかんだカルトに付き合っているらしい。主人のレイリンは、ふわふわと笑っていた。
 自身も、既にこの頃には集会浴場にて清掃員のアルバイトを始めており、上司に当たるギルドマネージャーや温泉の番台アイルーたちから日々セルギスの復帰を喜ぶ声を聞いている。七年前の凶事――――里に降りてきた雷狼竜の討伐事件が起きるまで、彼は一人でユクモ村を守って来たほどの狩人だと言う。きっとあの頃の力も直ぐに取り戻す、腕の立つハンターが増えてユクモ村は安泰だ、などなど、セルギスの帰還は多くの人々に祝福されている。彼のハンターとしての姿は知らないが、彼がどれだけ村に必要とされているのか、それくらいはも容易に察する事が出来た。

 復帰を目指すセルギスに、ピカピカな夢一杯のカルト。彼らの姿は毎日眩しく見え、嬉しい半分、羨ましさと寂しさが半分ずつあるのは、今のところのの秘密だ。



 清掃員のアルバイトを終えた、昼下がり。が訪れたセルギスの農場はすっかり綺麗に整えられており、様々な設備が復活していた。当初荒れていた畑の畝には、小さな葉も芽吹いている。河岸から吹きあげる涼しい風に髪を泳がせながら、は眼下にセルギスの姿を見た。
 的に見立てた太い丸太と向かい合い、セルギスが弓を構え、矢をつがえている。身の丈以上の、大きな弓。相手が単なる猪や鳥などではないのだから、当然と言えば当然だが、それにしてもの元の世界の弓が玩具に見えるくらいの立派な作りだ。弦も太く、矢に至っては最早ジャベリンのような大きさだ。矢尻一つでも、ナイフと同等の大きさである。あれなら確かに、竜の甲殻も貫けるだろう。
 軽々と引き絞るセルギスの右腕が、顔の横へと持ち上がる。狙い澄ます琥珀の瞳は鋭く、横顔に静かな緊張が宿る。声を掛ける事を躊躇してしまうほどの面もちで、の方が何故か息を飲んでいた。
 矢尻が、的を狙う。細めた目は、鋭利な刃の切っ先のようだった。そうして右手が離されると、つがえた矢は空を切り真っ直ぐと的へ放たれる。ダァン、と何処か重い、それでいて芯に響く音が高らかに鳴った。矢は的の正面ではなく、少し逸れたところで刺さった。それでも素人のには命中した事に変わらない。
 セルギスから、ふう、と息が吐き出される。特に喜びはない、あくまで静かな空気を崩さない。あるいは彼の思う結果と、少し違ったのだろうか。その仕草は、落胆とも取れるかもしれない。弓が下ろされたところで、はそうっと近付いた。片手に持った袋がガサガサと鳴り、声を掛ける前にセルギスが振り返った。

「ああ、か」
「練習ですか、セルギスさん」
「まあ、そんなところだ」

 セルギスは弓を折り畳んだ。あんなに大きなものなのに折り畳めるんだ、とが関心していると、彼は薄い笑みを浮かべた。

「何だ、弓が珍しいか」
「はい。というか、そんな太い弓とか矢を見た事なくて……」
「ハンターにとっては、これくらいは普通なんだが……まあ、一般人から見れば、どれも変な形ではあるか」

 セルギスはおどけて言い、折り畳んだ弓は隣へ置いた。もくすりと笑い、手土産にと買ってきた袋を差し出した。

「集会所のドリンク屋さんから、試作品ですけど飲み物を分けて貰いました。休憩がてら、どうですか?」
「ああ……そうだな、頂こうか」

 琥珀色の目が、ふっと細められる。狩人の鋭利さは無く、セルギスという男性の、落ち着いた笑みが浮かんでいる。は、良かった、と小さく微笑んで、近くの傾斜へ直に座り込んだ。うっすら芝の覆う地面に、二人分の足がゆったりと投げ出される。ガサガサと音を立てて、竹で作られたカップのドリンクを袋から取り出し、セルギスへ手渡す。も一つ取り、細い木の飲み口をはむっとくわえた。セルギスも同じように口を付け、互いにドリンクを飲み込んだ。

「へえ、美味いな」
「はい。なんというか、これでもう普通に集会所出して良い味だと思うんですけど」
「そうだな……まあドリンク屋にとっては、まだ未完成なんだろうなあ」
「美味しいのに」

 例えて言うなれば、ココナッツミルク。甘いけれど後味はすっきりして、口にいつまでも残らない。タダで良いもの飲んだ、とは上機嫌に啜った。

「そういえば、セルギスさん、弓を使うんですね」
「ん?」
「影丸から聞いたんですけど、セルギスさんって前は双剣……? というものを使っていたって」

 桜色アイルー時代、社会見学の終日の夜にセルギスの家に訪れた時。彼の寝室の壁には、幾つもの番の剣が掛けられていた覚えもあった。  ああ、とセルギスは思い出した風に呟く。「別にそれでも良かったんだけどな」と続けた。

「どうせ七年も経てば、使い慣れた武器だって素人と大して変わらん。なら新しいものも使ってみるかと、一通り試しに持ってやってみているところだ」
「へえー。私は、そういう事全然知らないですけれど、凄いですねえ」
「別に、凄くはない」

 セルギスは、取り立てて驕った風もなく笑った。が、文系体質で体育の成績も並だったとしては、多芸という事はそれだけでも十分に誉められるものだと思っている。影丸は言っていた、一人でこのユクモ村を守ってきた奴の実力は考えるまでもない、と。つまりセルギスは本来それだけの狩人であったのだ。こういう、変に気取らない静かな気質が、彼の良いところなのか。

「それで、武器って何を使うんですか? 色々と種類はあるって、耳にしてはいますけど」
「さあ……やはり、双剣かもな。ただ、使ってみて大剣も良かったし、この弓も悪くない。色々と、手に取ってみるさ」
「そうですか……ふふ、もうハンター復帰間近ですもんねえ」

 空っぽになった竹のカップを、そっと伸ばした太股の上へ置く。

「……何だか、あっという間だなあ」

 ふと、こぼれた呟き。セルギスの視線が頭の天辺を見下ろしてくるのを感じると同時に、はあっと唇に手をやった。

「すみません、急に」
「いや、構わないが……」

 は、隣を見る。どうかしたのか、とセルギスの琥珀色の目が尋ねていた。

「いえ、あの」

 戸惑う側で、セルギスは黙って待っている。そよそよ、と風すら不意に音を潜める。何となく観念して、は小さく告げた。

「……何だか、渓流に居た頃から、時間があっという間で」
「……ああ」
「気が付いたら、セルギスさんもハンター復帰間近。カルトも、オトモアイルーの勉強で忙しいし。何だか私だけ、置いて行かれてるって訳じゃないけど……何というか、少しだけしんみりするっていうか」

 なんて、子どもみたいですよね、とは笑いを交え誤魔化したが。セルギスの目は、の言葉を静かに聞いてもなお静かで、受け止めているようでもあった。三十歳、あるいはその前後の男性の精悍な顔立ちに、恥ずかしさに襲われたも少しだけ落ち着く。

「セルギスさんも、カルトも、今凄く頑張ってて、何だか私に出来るのは少ないのかな、とか。応援している気持ちは本物なんですけどね。変ね、最近そんな事ばっかり思ってる」
「……そうか」

 サァァ、と風が鳴る。僅かな空白を挟んだ後。

「お前は気付いていないかもしれないが、俺も、カルトも、随分助けられている」

 セルギスの横顔が、へと向く。少し見上げた先にある彼の整った顔ばせには、笑みが浮かんでいた。薄い、穏やかな笑みだ。

「そう、卑下する必要も、後ろ向きに思う必要もない。それに、これが今のところ俺に出来る唯一の事だし、これがお前に報いる唯一の方法だ」

 報いる。
 その言葉に、はあっと思い出す。杖をついて、覚束ない足取りで懸命な歩行練習を送る日々の中、彼がいつかへ言った言葉だ。
 セルギスは笑みを深め、立ち上がった。ユクモノ装備の袴の裾が、若い芝を撫ではためく。

「七年間、人間の居ない、人間の文化と常識の通じない世界で生きてきた。その最後の数ヶ月、あの渓流で過ごした日は……まあわりと、俺にとっては、結構救われていた」

 セルギスは片手を持ち上げ、その手のひらで首を撫でた。まるで照れたような、仕草。それをじっと見上げるに、セルギスの眼差しが落ちる。

「戻ってきた当初も、今も、お前にはよくよく迷惑を掛けている。だから、ハンターとして確実に復帰する事が今一番の礼であると俺なりに思ってる。カルトも、そうなんだとは思うぞ。オトモアイルーとして立派になる事が、あれなりの答えなんだろうな」
「そう、でしょうか」
「ああ。……そうやって、見守ってくれる奴が居るだけでも、随分、救われる」
「え?」

 よく、聞こえなかった。けれどセルギスは首を少し横へ振り、「何でもない」と早口に言ってしまう。

「まあ、何だ。つまりは、だ――――お前には感謝しているという事だ、アイルー」

 は、一度目を見開いた。それから、ふっと満面の笑みを咲かせ、悪戯っぽく返した。

「どういたしまして――――ジンオウガさん」

 どちらともなく、声を微かに漏らして笑った。
 もう既に過去のものとなった、お伽噺のような現実。渓流に落とされた桜色アイルーと、人里を追われた流れのジンオウガの、不思議な月日。双方ともに、もうその頃の記憶は外見にはなく思い出の中でしか見いだせないけれど、この時はセルギスの目にあの獣をふと思い出した。
 博識で、冷たくて、恐ろしく凶暴な姿なのに。優しくて、不器用で、誰よりも臆病な大きな獣。
 あの瞳を、今のセルギスにも見出した。

「……ねえ、セルギスさん」
「ん?」
「一度だけ、一度だけで良いから、その弓に触らせて下さい」

 セルギスが、途端に目を剥く。まあそうだろう、素人に触らせられる代物ではないのだ。何せ獲物は猪や鳥ではない、巨大な竜である。隣に立つセルギスは案の定、眉を顰めたけれど、はバッと立ち上がり両手を合わせて頭を下げる。お願いします、と強く強く言えば、セルギスはたっぷりと黙った後、長い溜め息を吐き出した。

「……一度だけだぞ」
「! もちろんです! やったー!」
「全く……」

 呆れたように呟くも、一瞬厳しくなったセルギスの表情は柔らかい苦笑いが浮かんでいる。そうして彼は空のドリンクのカップを足下へ置き、腰に巻いたポーチから手袋を取り出すと、それをへ差し出してきた。手を保護する、予備のものだろう。は嬉々とし受け取って、それを両手にはめた。まあ当然、サイズは成人男性のものなのだから、の手に合うはずがないが、文句はない。
 セルギスは、弓を拾い上げ、少し距離を取って展開する。ガチャン、と音を立てて折り畳まれた弓が広がり、弦がピンと張る。
 おぉぉ、とは一人関心していた。

「ほら」

 差し出され、は近付く。いざそれを前にすると、何だか緊張し怖くもなったが、ギュッと両手で受け止める。棒きれでも持つかのような素人の手つきだと、自身でも思った。

「わ、わ……ッ?!」

 セルギスの手が、離れた瞬間だ。どれほどの重さかと思って身構えるも、なんと女の腕にも持てるほどの軽量だった。かといって、脆い作りではない。勿論、手のひらに乗り腕にまで伝う重さはあるけれど、成人男性の背丈を越える弓にしては随分と軽い。元の世界で、これほど大きな弓なんてある訳ないのに。
 この弓一本で、竜と戦うなんて。
 はしばらく、物珍しいものを見つけた子どものようにはしゃいでいた。そのせいか、隣でセルギスが笑っているのに気付くまで、時間が掛かってしまう。ハッと我に返った時には、もう遅い。

「ちょ、もう、笑わないで下さいよ!」
「ッすまない、くく……ッあんまりにも輝いた目をするもんだから、つい」
「だって、こんなに軽いなんて思ってなくて」
「ハンターの防具も武器も、丈夫な作りのわりに軽量なのが売りだ。並の攻撃じゃ壊れない、流石に竜相手では破損する事も希にあるがな。少なくとも常人の力では易々と折れはしないさ。それらの元の素材は、何せその竜たちだしな」

 ひとしきり肩を揺らした後、セルギスは呼吸を落ち着ける。それから、不意にの左隣へと並んだ。身体が密着するほどの距離に、急に近付いたセルギスの影。は狼狽え、たじろぐように顔を上げる。ユクモノ装備の黒い胴着の向こう、セルギスの厚い胸が、の肩へと触れた。

「持ち上げてみろ。利き手は右だな、左手で弓を握って……」
「え、あッ」

 耳元で、セルギスの声が聞こえる。彼の手は、棒きれのように素人そのものな持ち方をしていたの手を取り、あれよあれよと体勢を整え形を作らせる。左手で弓を持たせ、右手は弦に触れさせる。その上から、セルギスの手が覆い被さるように重なった。大きな男性の手、そして狩人の堅い手。の細い手は、すっぽりと隠れてしまっている。左隣についたセルギスの存在が、いつも以上に大きく感じた。

「此処に矢をつがえて、放つ。弦は、こうして後ろへ引き絞る」
「うわ、わ……?!」

 しっかりした弦が、麺でも伸ばすように、ギュッと引かれる。ピンと張った感触、目一杯後ろへ引き絞る腕に緊張が走る。は手を添えているだけで、実際はセルギスの手が導いているだけなのだけれど、自らがしたようには笑みを浮かべた。元の世界でも弓道というスポーツがあり、傍目にかっこいいとは思っていたが……見た目だけは、もしかして格好がついているだろうか。まあ格好だけで、中身は素人そのものなのだけれど。意味もなく、凄い凄い、とはしゃいだ。左隣につくセルギスからは、絶えず笑う振動が伝わってくる。
 パッと手を放すと、弦が戻る。ビィィン、と甲高い音が響いた。今はただビヨンビヨンと空を揺れているだけだけれど、此処にあのジャベリンのような太く巨大な矢をつがえて放てば、獲物へと向かい貫く。
 そして、そうなる日は、きっともう直ぐ其処なのだ。

「……気を付けて、頑張って下さいね。今も、ハンターになってからも」

 が呟くと、セルギスは「ああ」と返した。真横にあるだろう彼の横顔は見えない。きっと、笑っているが、真剣に頷いてくれたと思う。



 それからも、セルギスの訓練場通いがしばらく続いた。本人は厳しく「現役の時と比べれば、まだまだだ」と採点していたが、その現役の影丸は「マジでレイリンより早い」と驚嘆していた。お前それは彼女に失礼だろう、とは思ったものの、レイリンも「さすが、師匠の師匠です!」と笑っていたから何も言うまい。くそ可愛いなこの子、とがこっそりと影で和んでいたのは当然の事だ。
 ド素人のには、ただ凄いとしか言えなかったけれど、日に日にハンターとしての勘というものを取り戻すセルギスの姿は、単純に嬉しくなって。あの渓流で、土地を巡ってさまよって来たジンオウガがずうっと捨てきれず願い続けた想いが形になるのを見て、やっぱり良かったなあとは再確認する。
 救われている、なんてセルギスは口にしたが、それはきっと自分もだとは思っている。彼が出来る事がハンター復帰というならば、に出来るのは彼を後ろから応援する事だけなのだ。  ……やっぱり少し羨ましく、寂しく思ったのは、内緒である。



 そして、ついにその日がやって来た。
 訓練場通いの総仕上げ、そしてハンター復帰を自ら賭して称した試験……つまり、初心者が通る登竜門たる大型モンスター、狗竜ドスジャギィの狩猟討伐。
 これがこなせれば無事ハンターとして復帰だとセルギスは意気込み、勉強の日々だったカルトもオトモアイルーとしてデビューするのだといつにも増して気合いが入っていた。
 当日、彼らを見送るべくや影丸、レイリン、ヒゲツやコウジンなどは集会浴場の出発口に集まっていた。本来、ハンターという職業は実はそれほど難しい試験を経て取るものではなく、簡単に登録して身分証明のカードを手に入れる事が出来るものでもあるらしい。其処からは、自ら下積みを繰り返し、力をつけてゆく。その先がどうなるかは当人の実力のみが物を言う、厳しい業界。けれどセルギスは、あえて練習を重ねて討伐を試験と称したのは、彼なりの区切りを作ったのかもしれない。
 ともかく、これが無事に終われば彼はハンターとして復帰する。集まった全員がそれぞれエールを送り、無事帰還するようにと願いも込めた。
 そんな風に始まってもいない内から大騒ぎするたちを見て、セルギスは「止めろ恥ずかしい」と笑い、ユクモノ装備の笠を目深に被り直す。彼の背中には、折り畳まれた弓と、矢筒が掛けられている。
 最初だからと、ヒゲツから借りたお揃いのユクモノネコ装備を着込んだカルトは、セルギスの足元でピコピコと耳を揺らして胸を張っている。彼の小さな背には、渓流時代からのどんぐりハンマーがあった。ヒゲツは静かに「頑張ってこい」と告げ、コウジンは若干憎まれ口を叩きながらもカルトを応援している風でもあった。
 彼らの姿は、初々しくも、何だか感慨深いものが漂う。

「気を付けて下さいね」

 は、セルギスにそう言った。返ってきた言葉も、「ああ」と短かったけれど、それだけでも十分だった。

「――――それじゃあ、行ってくる」

 セルギスとカルトは、たちに背を向け、出発口から狩場の渓流へと向かった。
 どうか、無事に戻って来ますように。は最後に胸中でそう呟いて、見えなくなるまで彼らの姿を見送った。