愛を探す旅に出た獣(1)

――――― その日、彼は恋をした。
全てを凍てつかせる、極寒の冷気に閉ざされた果ての大地《凍土》で。
吐息さえも、油断すれば凍りつく地で。
その地で、命が潰えるのだと覚悟した瞬間で。

胸がざわつき。
血が全身を駆け巡り。
言い表せない幸福と、何処か焦燥に似た感情が込み上げ。
頭の芯から爪先まで、火照りに目の前まで霞んで。

……食物連鎖の頂点に立つ絶対たる強者である彼は、無防備な姿を晒して、惚けた。

生まれてより初めて、《雌》を求めた。恋をしたのだ。

しかし、それは到底、同族とは言い難い相手だった……―――――。


「……これを、食べてみて下さい。美味しくはないかもしれませんが、体力が落ちている今は、身体を暖めないと」


今まで彼が見た、人間という一族は、皆モンスターの匂いを纏わせ、物騒な爪を生やしてそれを振り回した。だが、彼の今目の前には、それらの匂いを一切させないものを着込んだ小さくか弱い人間の雌がいる。彼の顔の横へと、ぎこちなく膝をつき、生肉を差し出している。
人間の雌の方が、食べ物に見えたが……ほんのり染まった頬、凍土にはない豊かな自然の匂い、酔狂な真似としか思えない手当て。
よりにもよって人間の雌に助けられるなど、腹立たしくなると思ったが……。
彼に触れた小さな手と、言語の相互理解は、強者たる心を、一瞬で崩壊させた。
少し千切って食べた生肉は、血が滴る新鮮さは無かったのにこの上なく美味で、ますます人間の雌の挙動を見つめうっとりとした。
命の危機あっての、子孫を残さねばならない本能かもしれない。だがそれは、人間の持つ感情でいうところの、一目惚れに相違なかった。
今ならいっそ、死んでも良いかもしれない。
強者たる彼は、この数十分の間で、雌を見つめすっかり惚れ込んでいた。



――――― 良かった。ちゃんと、食べてもらえそう。

は安堵し、真っ白な息を吐く。
ここは、凍土のとある洞窟。凍りつきまるで切り立った崖のような山々の、麓にある。吹き荒ぶ吹雪もなく、雪の降り積もった大地もなく、幾らか落ち着けた。もちろん、厳しい寒さには変わらないが。
その中で、横たわるモンスターが、今しがたが差し出した生肉を恐る恐ると咬み千切り、一欠片飲み込む。
色彩のない凍土に浮き上がる、橙色と青色のストライプ模様の鱗。それに覆われた大きな体躯は、薄暗い洞窟の内部でもはっきりと存在感を示した。強靭な前足には翼を持ち、後ろ足は太く逞しい。飛竜の類いだろうが、その容姿は極めて狂暴だ。恐竜の輪郭をし、ズラリと生えた牙が顎が開くたびに見え、とてもじゃないが穏やかな気性には微塵も感じられない。
けれど今は、が……人間が側に居ても、大人しく横たわり、を丸呑みにしようとはしなかった。
そうすることも、出来ないからなのだろうけれど。

……すると、の隣の、ウルクネコ装備という白ウサギを模したフードとコートの装備を着たアイルーのカルトが、やや怯えながらのコートを掴む。

、もう帰るニャ。コイツ絶対、動けるようになれば、襲って来るニャ」

くいくい、と何度も引っ張られる。カルトの手も、微かに震えていた。
分かってるわよ、怖いのは私もだし、凍土なんかに来ているのは仕事のためだ。けれど……。

「……酷い怪我じゃない。少しだけ、お願い。ね?」

翼は引き裂かれ、背や腹は斬撃の痕を残して、その強靭な顎からは掠れた息遣いしか聞こえない。何より、こんなに狂暴な容姿にも関わらず、覇気が全く感じられないのだ。

絶対強者と名高く、狂暴な竜……轟竜ティガレックス。

実際に見るのは初めてで、きっと本来の覇気を取り戻せば、こんな風に悠長に事を構えていられない。
だが、かといって見過ごすことも出来ない。

がそう言えば、カルトはあからさまに呆れた。

「……どうせ、自業自得ニャ」

そうね、きっと。
獣の牙などで引き裂かれた痕ではない。とても鋭利なものだと、の素人な目でも分かった。恐らく、ハンター、だろう。

自然の摂理。どんなものも、生きて、死んでいく。

は、かつてそれを身をもって学んだ。単純かつ、残酷なまでの正しい摂理。
けれど、それをみすみす失わせるなんて、必要はないはずだ。あの時、慕ってくれた幼いアオアシラの冷たくなる風景を忘れたことはない。
私はハンターではない、ましてこの世界の人間でもない。

( なら私みたいのが一人くらい居ても、良いじゃない )

なんて、このティガレックスには、分からないだろうけど。

「傷の手当て、するから。少し、じっとしていて下さい。大丈夫だから」

ティガレックスは、渇き固まった赤黒い血が付着する、顔をへ僅かに向けた。
獰猛な瞳が、困惑を宿している。それもそうだ、今が話す言葉を理解出来ているはずなのだから。まさか人間と会話出来るなど、思っていなかっただろう。
アイルーから人間の姿へ奇跡的に戻っただが、その便利なおまけは残ったままで、良かったとも言える。
ともかく、ティガレックスの治療に移行する。治療なんて大それたことは出来ない、せいぜい綺麗に身体を拭い、回復薬を飲ませるくらいだ。背中に負った大きめの鞄を外して地面に置き、ゴソリゴソリと手を突っ込む。

「――――― 何で、俺を……」

不意に聞こえた、掠れた小さな声。男性のそれは、ティガレックスから聞こえた。
カルトには、きっと呻き声にしか聞こえないだろうが、はそれに対し敵意はないことをアピールしつつ微笑んだ。

「貴方は、気にしなくて良い。これは私が勝手にしていること、すぐに居なくなります」
「アンタ、は……」

ティガレックスの腕に、手を置く。厚手な手袋ごしではあるが、その強靭さは感じ取れる。彼が少しでも動けば、きっと私なんて簡単に吹き飛ばされるわ。言葉が分かるといっても、相手は人間の世界の理に縛られない、極めて本能的な暮らしを送っていた。言葉だけで全て穏便にはいかないだろう……だから、彼のためにも、自分のためにも、早く終わらせて帰らなくては。
は、効くかどうか分からないが、全ての傷痕を出来るだけ優しく拭い、傷薬を吹き掛けることにする。
その間、ティガレックスはを一心に見つめていた。恐らく、監視しているのだろう。
カルトは、ティガレックスがへ何かしないかと、緊張し見張った。



――――― この状況の説明をすると、そう長くはなならい。

は、人の姿へ戻った後、もっと多くの土地の見聞を広めたいがため、時おりユクモ村近郊を離れて様々な地や村々を巡っていた。
この世界で、地に足をつけられないような立場にあるだったが、アイルーの姿の時にしていたサバイバル経験を生かし、ちょっとした採取活動でユクモ村にある道具屋等の手伝いをしながら、だ。プロの仕事ではないため、取り寄せるのに何十日とかかる場合や不足分を埋める程度の、ささやかなものだ。あとは、集会浴場で働かせてもらったりと、外を見て回りたいというの願いを集会浴場の女将でもあるユクモ村長がくみ取ってくれたのだ。
ご厚意で借家まで借して頂いているのだ、ユクモ村に自分なりに貢献し、もちろん村長の言付など守るようにしている。
さて、そしてこの日は、ここ、《凍土》にやって来ている。寒い地ならではの、草花を採りに来たのだ。
頼まれたものの調達もしつつ、ユクモポイントに交換出来る草花も探していた。オーロラ草などは、ギルドへ全て納品する義務になっており、一般で使用することは出来ないが、代わりに金銭が得られる。雪の降り積もった地面に膝をついて、草元ではうずくまっていた。その隣には、オトモアイルーの道を志すようになったカルトがいる。雇い主であるかつてジンオウガの姿に変わっていたもう一人のユクモ村の英雄……セルギスの了解を得て、の手伝いに着いてきてくれたのだ。
その時、偶然にも入った洞窟。吹雪を凌げると思いやって来たそこに、蹲る竜を見つけたのだ。傷だらけで、息も絶え絶えな轟竜ティガレックスである。

鼻の効くカルトは、血の匂いの中に混ざるハンターの匂いを嗅ぎ取り、帰るよう言ったが……。ティガレックスは、たちを見て警戒したものの、動くこともままならぬようで一瞥寄越して、苦し気に呻くだけだった。

そしてはカルトを押しきり、半ば強引に手当てをすることにし、冒頭に戻るのである。



「染みるかもしれないですが、少しだけ我慢して下さい」

血は出来るだけ綺麗に拭い取り、腕の切り傷へ薬を吹き掛ける。
グォ、とティガレックスは呻いたが、一瞬動いただけでを吹き飛ばしはしなかった。単に、その気力もないのだろう。

「……、コイツ、をさっきからガン見してるニャ」
「……知ってる」

ただ気になるのは、そう、このティガレックスは先ほどから無言の眼差しで何かを訴えてくるのだ。の挙動を監視してるかとも思ったが、そうでもないようで、の動き自体を見つめているとも取れる。曖昧なのは、ティガレックスの顔立ちから深意を読み取れないからだ。無理だ、こんな狂暴な顔からでは。せめて話してくれればいいが、あれから一言も漏らさない。
時おりホットドリンクを少しずつ飲みながら、最後の傷薬を吹き掛ける。

「……よし、これで大丈夫」

効くかどうかは定かでないにしろ、多少は……治りも早いだろう。確か回復薬もまだあったはず、と瓶を探す。

……そこで、今まで聞こえなかった、男性の声が耳に届く。

「……アンタ、一体何がしたいんだ」

粗暴な口調で、人間でいう二十歳前後のように感じた。きっと、若い個体なのだろう。
が彼と視線を交わすと、ティガレックスの目がやや忙しなく揺れた。僅かな疑念と、困惑だろうか……それも、分からない。が、仮にそうだとし、無理もない。

「……ただ、貴方たちの言葉が分かる、変な人間です。それで良い」
「アンタは……いや……俺は……」

幾らか、声に芯が戻って来ている。それだけで、には十分だ。

「……ハンター、ですか……?」
「あ……?」
「その傷は」

ティガレックスは、しばし沈黙すると、「ああ、あいつらはハンターという人間なのか」と呟く。
会話が始まったと見たカルトは、とティガレックスをうかがいながらも、静かに座り込む。

「……ハンターと……武器を持った人間と、何か、あったんですね」

自然と暗く声が落ちる。だが、ティガレックスから返って来たのは、意外や非常に明瞭な言葉だった。

「自分の強さには、自信あったんだけどな……この辺じゃ、俺に勝てる奴は居なかったから。えげつない爪生やした人間らにも、何度も勝っていたし。今回は、相手が強かった。それだけだ」
「貴方は……自分から、挑んだのですか?」

ティガレックスは「ああ」と頷いた。
自ら、ハンターへ挑む。ティガレックスという好戦的な種族ゆえの、本能的な行いだろうか。それであっても、には少々驚きだ。

「後悔は、ないんですね」
「戦いに、何で後悔がつく? 俺は自ら挑み、力及ばず負けた。それだけだ」

後悔はない、か。ますます、は重なっていく。ティガレックスに、幼いアオアシラの姿が。

「……俺のことより、アンタだ」
「え、私……?」
「何で、言葉が分かる。何で、俺を助ける。何で、」

矢継ぎ早に言うティガレックスの目には、困惑がありありと滲む。
「私がしたかっただけだもの……迷惑なのは、承知よ」は、そう静かに囁いた。けれど、それに返って来たのは、「そういうことじゃねえ……!」と強い語尾の言葉だった。
ティガレックスの伏せていた身体が、ググッと持ち上がる。だが、腕は上手く踏ん張れずに、ズシャリと冷たい大地に崩れた。
動けるようになったなら、薬は効いているようだ。ホッと安堵したものの、同時に一抹の不安も過った。

自分は、人間。
相手は、モンスター。

些細な動きで……四肢が飛び散ってもおかしくはない。言葉が分かっても、中身は……。
が考えていると、ティガレックスは両手足を震わせながら立とうとし、なお声を必死に絞り出す。

「違う、そういうことじゃ、なくて……ッ俺は……ッ」

ガチ、ガチ、と顎が動くたびに鋭利な牙が鳴った。覗くその牙の鋭さに、はぐっと手のひらに力を込める。
……怖い、さすがに。けれどきっと、とても混乱しているのだ。人間に助けられ、その人間の言葉が分って。せっかく具合の良くなってきた時にまた動かれて、傷に障れば大変だ。
は、立ち上がろうとしたが、その正面で、ティガレックスが吼えた。
彼にとっては、唸った程度のものだろう……だがには、大気を揺らすほどに思え、肩をビクンッと跳ねさせた。膝立ちになった足は、ペタリと冷たい大地に倒れる。

「行くな、此処にいろ……ッ」

ユラユラとだが、ティガレックスの目に恐らく彼本来の獰猛さが、戻って来ているような気がする。
ああ、そうか、それもそうだ。自分は、彼からしてみれば敵なのだ。

( ―――――きっと、食べる気なんだわ )

は、そう思った。カルトが慌てて駆け寄ってきて、コートの裾を掴む。逃げよう、と言っているのだろう。
けれど今逃げ出したところで、後ろを追いかけられガブリと丸呑みされるのも、困る。だから……。
は、鞄の中にまだ生肉があるのを確認すると、採取しポケットに手を入れて探る。確かまだ採取しここに入れたままのものがあったはず、との手袋の先につんと当たった。《それ》を気付かれないよう、そっと取り出し、後ろ手に地面へ置く。
カルトは意図を察し、《それ》を掴むと手のひらの肉球で擦り潰し、鞄から取り出した生肉へ塗り込み始める。

「……今、ハンターがいるの?」
「さあ、な。上手く撒いたとは思うが」

もし居るなら、今頃来ているはずだ。
ティガレックスはそう言いながら、ズリズリと這い、へたり込んだに顔を近づける。そのあまりの迫力に、の耳へ彼の声はろくに届かなかった。自分の身体ほどもある大きな竜の顔が、鋭い牙を見せ、瞳を寄せる。格好良い、なんて言っていられない。ヒュ、と情けなく喉を渇いた空気で鳴らし、つい顔をそらす。荒い鼻息が、耳元に吹きかけられる。フードが、飛んで行ってしまいそうだ。
しかし不思議なことに、ティガレックスのいかにも狂暴な顔は、の胸に……いやほぼ全体にだが、押し付けられる。

「え……?」

ズリ、ズリ、と硬いストライプ模様の鱗が、胸を擦る。厚手のコートだが、その感触は伝わってくる。
頬擦り、だろうか……何故?
あの轟竜ティガレックスに、頬擦りされる理由がまるで思い付かず、相当な間抜け面をさらしただが。
トントン、と腕を叩かれてハッとなる。
カルトが、ティガレックスの視界に映らないよう、こっそりと生肉を掲げた。《それ》をたっぷりと染み込ませた、生肉だ。はカルトと視線を交わし、頷くと、それを受け取りティガレックスへ言った。

「……もう少し、食べませんか?」

グル、とティガレックスが顔を上げた。の手のひらに乗せられた生肉を見つめ、そして一口に呑み込んだ。
その様子を見つめ……ほんの僅かな罪悪感に、は目を細めた。

「アンタ、何でオレ、に……?」

ティガレックスの四肢が、緩慢に力を抜いていく。獰猛な目が、ゆらり、と動き、震えた瞼が落ちていく。ズズ、地を擦り、彼の強靭な体躯が崩れていく様を、はじっと見つめた。ポケットに入っていたネムリ草と、鞄の生肉……二つを調合することで出来上がる《眠り生肉》。さすがは、大型モンスターを初手必ず眠らせる罠肉だ。ティガレックスの身体が、見るからに睡魔に教われているようだ。
ティガレックスは、自身に何が起きたか理解はしていない、けれど意識が沈み込む境の縁に立ち、なおもにすがる。その行動の理由を、今後も知ることは無いのだろうと思いながら、彼女はそっと頭部を撫でた。
猫や犬の柔らかさとはほど遠い、鱗の滑らかさと硬さが返ってくる。

「……ハンターが居ないなら、身体を休めて下さいね。貴方は凍土の、強者なのでしょう?
そして、貴方が次に目を開ける時には……」

は、一呼吸置いた。

「私は、ここから居なくなってるから。安心して下さい」

朦朧とした目が、急に見開かれる。だが身体はすでに意思を拒絶し、ティガレックスが起き上がることは叶わなかった。
眠るのをぐずる赤ん坊のように、身動ぎを何度も繰り返した後……静かに、寝息を立て始めた。
ずし、とティガレックスの顎が落ちる。その下敷きにされた両足を力一杯抜き、その寝顔を見下ろす。

……無防備な、姿。
罠肉の効果に恐ろしくもあるが、今はそれがありがたい。

「……ごめんね、でも、元気で」

謝罪など、場違いなのだろうか。が抱いた、罪悪感も。
白い息に乗って、その疑問は消えていった。は急ぎ立ち上がると、鞄を背負い直した。

「行こう、カルト」
「ニャ……あ、待ってニャ!」

カルトは立ち上がり、ティガレックスの側に一度近寄ると、眠っていることを確認しすぐさまのもとへ戻る。
「さ、行こうニャ」カルトは歩きだしたが、の足は動かなかった。立ち尽くし、ティガレックスの姿をぼんやりと見つめている。

「……?」

とんとん、と叩かれる。は頷き、カルトに引っ張られながら洞窟を後にした。
せめて傷が治って、また強者の名に相応しく凍土で強さを誇ってくれれば、と思う。
モンスターは、人に慣れることなく、自然の中で自由にして居たらいいのだ。
だから私に出来ることは、彼の存在を見なかったことにし、これからも凍土で元気で暮らしてくれればと、願うだけなんだから。
ほんの少しの罪悪感、残り大半の願いを込め、はその日凍土を離れ、近隣の村の宿屋へ戻った。




――――― そして、彼が目覚めたのは、それからずいぶん後のことだった。
ハンターという人間と戦っていたことが、要因であるだろう。本来ならすぐに効果が切れてしまう罠肉だが、深い眠りへと彼を落とした。
彼は、しばしまどろみにぼんやりとしていたが……急速に蘇ってくる記憶に、ガバリと身体を起こした。太い首をもたげ、何度も何度も見回した。だがその風景に、雌の姿はない。冷たく凍った洞窟の岩肌と、宙を舞うブナハブラが数匹しか見えない。

あの、雌の人間の姿が、ない。
一体、どうして。

彼は、愕然とした。けれど、脳裏に過ぎる、彼女の声。


――――― 私は、ここから居なくなってるから。安心して下さい。


雌の人間は、確か、そう言った。
ああ、何ということだ。
思い出し、彼は苦々しく口を閉じると、横たえていた身体を持ち上げ四足を踏ん張る。
微かな痛みはあったが、動けないわけではない。彼は洞窟の中を見上げ、上空へと続く抜け穴の位置を確認する。そこへブナハブラを蹴散らして駆け寄り、抜け穴へ飛び込んだ。
急いだためか、足がもつれ、みっともなく引っ掛かって転げたが、そんなことは今はどうでも良かった。
彼の頭の中にあるのは、あの雌の人間の姿だけだった。
生肉を分けてくれた手が、触れた身体が、初めて聞いた声が、凍土の厳しい寒さなど感じさせないほど、彼を熱くさせた。

凍土にいる、雪と同じ色の体毛で覆われ口から二本の長い牙を生やした竜のように、上手くは飛べないが、必死に抜け穴を上へ上へと向かって這い上がる。
光差す白い穴が、近付いてくる。彼はそれを勢いよく潜り、雪山の高地へ飛び出した。そこからさらに上へと向かい、凍土を一望出来る山頂付近にやって来た。
普段は灰色の雲に覆われた空が、珍しく澄んだ水色を見せている。ちらちらと舞う、粉雪が光っている。何とも思わないのに、今はこの時ばかりは腹立たしくなった。

彼女の姿が、ない。
何処を見ても、岩場を注意深く見ても、それらしい姿はない。

……何ということだろう、彼女は自分のみっともない弱り切った姿を見て幻滅して、去ってしまったのだ。

彼の種族に限定されないが、雌は強者を好む。より強い雄を求めて、子孫を残す。
今まで、強さに自信のあった彼。雌には不自由しなかった。
だが、雌に一目惚れしたのが初めてであれば、もちろんある意味失恋したのも初めてだ。
あんな姿をさらせば、雌は逃げる。きっと自分に相応しくないと、思われたのだ。
たとえ相手が人間という種族であろうと、彼にとってあの雌は追いかけるべき雌である。今も彼女を想うと、全身の血が沸き立ち、息遣いが激しくなる。

彼自身への情けなさと、消えてしまった一目惚れの雌の姿を想って。
彼の咆哮が、山頂から高々と響き渡った。



「……ニャ?」
「どうしたの、カルト」
「今、ティガレックスの雄叫びが聞こえたような……」
「え、ちょ、止めてよ怖いわね!」



……そしてこれが、まだ両者とも知らぬところであるが。
これをきっかけとし、華麗な勘違いとすれ違いによる恋の駆け引き……ではなく、ある意味地獄の追いかけっこが始まるのであった。
そんなことも微塵も予想していないは、宿屋にて、採取した草花を箱に詰めユクモ村宛のお急ぎ便の準備をしていた。親しくなった、ユクモ村ハンターの少女レイリンへの手紙も同封して。
まだしばらく、この地域にとどまる予定な彼女の行き先は、幸か不幸か。



こんなティガレックスなら、みんなきっと好きになれる。

という想いを込めて作った結果、嫌な予感しか起きない話になりました。
さながら追いかけてくるモンハン界のジョ○ズ。


2011.12.17