愛を探す旅に出た獣(2)

――――― レイリンちゃんへ
まだ二、三日しか経っていないけれど、こんにちは。カルトと一緒にユクモ村を出た私は、この手紙を書いている今朝無事に《凍土》へ到着しました。
凍土って本当に寒いわね、ホットドリンクがないと確かにこれは凍えると学びました。遠い国の生まれとはいえ寒さには慣れているはずだったんだけどなあ、やっぱり凄いわね。
今は、凍土の外側にある村の宿屋で休みつつ、早速採取した草花などを詰めてユクモ村へ送りました。中に氷をぎっちり詰めたから傷んでいることはないと思うけれど……一応確認してね、と道具屋とドリンク屋に伝えて下さい。
まだ少しこの辺りで採取していこうと思うけど、カルトがいるから大丈夫です。戻るのは、もう少し先かな。
影丸やセルギス、コウジンくんやヒゲツにも、宜しく伝えて下さい。

それでは。

――――― より


「……よし、これで良いかな」

パチ、と暖炉に入れた木が折れ、火花が舞う。
側に置いた小さな机と椅子へは座り、今しがた書き終えた手紙を見つめた。温かな火に照らされた便箋の文字は、まだ少し歪んで汚いけれど、レイリンなら上手く読んでくれる。まだまだ辞書と文字練習帳からは離れられないが、少しずつ覚えるしかない。
便箋を丁寧に下り、封筒へしまう。安い蝋で封をし、その封筒にも【レイリンへ】と書いておく。

「ニャア……は本当に、人間だったのニャね」

机の縁を掴み、爪先立ちで覗き込んでくるカルトは、今さらそう呟いた。
部屋が温かいためか、うさ耳フードは外してふわふわなコートだけを着ている。

「……ちょっと、この姿からアイルーに見えるの?」
「見えないニャ、でも何か今も不思議な気分ニャ」
「まあ、アイルーの姿が長かったもの。アイルーの方が、良かった?」

カルトは、しばし考え込み、「別に」と言った。

「今も前も、はトロいニャ。だから、あんま変わった気もしないニャ」
「ふふ、そう」
「そうニャ」

ニッとカルトは目を細めて笑い、「ところで」と話を切り替えた。

「ティガレックスのことは、書いたのニャ?」

う、との口から呻き声のようなものが漏れる。
出来るだけ思い出さないようにした恐怖が、再び肩へ圧し掛かって来るようだった。

「書いてはいないよ」
「良いのニャ?」
「……傷を治して、わざわざハンターに連絡する理由もないし。良いの」

もともと、彼は好戦的な性格のようだ、が手助けせずともハンターに再び挑みかかりそうだった。願わくば平穏に暮らして欲しいとも思うが、それが彼の生き方なのだろう。戦地に送るため傷を治す医師、とまではいかずとも、奇妙な心境であった。
は椅子から立ち上がり、ベッドの側の箱に歩み寄る。宿屋の主人から譲ってもらった、郵送用の木箱だ。不思議と溶けない氷をぎっちり詰め込んだ中には、この日採取した草花が収められている。手紙が濡れないよう、何枚も布を巻き付けていく。

「そういえば、ティガレックスと何を話してたニャー? オレはずっと分からなかったから」

話したこと、か。は思い出しつつ、カルトへ説明する。
自らハンターに挑んで傷を負ったこと、そしてが言葉を理解出来ることを心底戸惑っていたこと、だ。
カルトは頭の後ろで手を組むと、「ふーん」と不思議そうにする。そして、「何にせよ、食べられなくて良かったニャ」と言った。
それにも頷いたが、今でも不思議に思う。何故彼は、自分を食べようとしなかったのだろう。生肉よりも、もっと新鮮なご飯が間近にあったのに。単に、食べるだけの気力が無かったのなら、それでも良いが……。

「まだここで採取していくニャ、ティガレックスに会うのだけはごめんニャー」
「私もよ」

手紙を箱へ入れ、蓋を閉じる。それを「よいせ」と掛け声と共に持ち上げる。

「宿屋の人に、郵送お願いしてくるね」

が扉へ向かった時、カルトは自分の武器の手入れをし始めていた。「はいニャー」と片手を上げたことを確認しは部屋の外へと出た。廊下は、少しだけ肌寒さが漂ったものの、こじんまりとした窓の外いに見える白い雪を見ればそれも気にならなかった。
階段を下りて、宿屋の女主人に郵送をお願い出来ないかと尋ねたところ、快く引き受けてくれた。村から村への配送になるため料金も割り増しになったが、オーロラ草や深血石などのおかげで幾らか懐は潤っていたので支払うことが出来た。出来るだけ急いで運んでくれると言ってくれたため、は礼を言った。

「アンタ、何処から来たって言ってたかしら」
「ユクモ村です」
「ああ、あの村からかい? そりゃ遠くから……ご苦労だったね」
「いいえ、仕事ですし」

若いのに、凍土なんかによく来るね。偉いよ。そう朗らかに笑う姿が、何だか母のようでもあり、はにっこりと笑って首を振る。

「それに、食べ物がとてもあったかくて美味しくて、寒さなんて気にならないです」
「あはは、上手だねえアンタ」

現代で言うところの宅急便用紙だろう、女主人は羊皮紙へ慣れたように宛先などを書き込んでいく。

「アンタみたいなのが来れば良いんだけどねえ、ほら、ハンターが圧倒的に多いからさ」
「ハンター……」

ほらよ、と紙を一枚へ差しだされる。領収書のようなものだった。それをそっと受け取りながら、「あの、女将さん」と声を潜め尋ねる。
「何だい?」と女主人は顔を上げ、木箱を丁寧に横へずらす。

「ハンターの方々って、今も居るんですか?」
「ああ、ハンターねえ……夕方までは居たんだけどねえ。依頼のモンスターが見えなくなったって、帰ったよ。凍土じゃあ、歩き回ってたって危険なだけだからさ。前なんか、若い連中が無理に散策して逆に捜索願が出ちまったことがあるんだからさ、ハンターも馬鹿だよ。その点、今日の奴らは経験があって良かった」
「そう、ですか。ちなみに、モンスターって」

女主人は思い出すように顎へ手を置き、「ティガレックス、だったかね」と言った。
つい、ドキリとしたが、何とか表情に出ることだけは阻止した。
ティガレックス……昼間の、あの個体で間違いないだろう。ハンターに依頼が出たということは、やはりそれなりに名の知れていた存在だったのかもしれない。

「凍土は、厳しいからこそ人がそう入らず、モンスターの楽園のようでもある。他の土地にだって言えることだが。
ああ、安心おし、ティガレックスって言ったって、今まで凍土から出てこなかったヤツだし、言われるまで私らだって知らなかったんだよ。あはは!」

大型モンスターが出るのは、そもそも珍しいことじゃないしね、と大きな声で笑った女主人に、は何たる逞しさだと素直に賛美した。
自分は、ちょっと目があっただけでも心底肝が冷え、腰を抜かしたのに。
厳しい土地で暮らす人々だからこそ、自然と共に生きていく方法を身につけ、心を穏やかにしているのだろう。いちいち目くじら立てるのは、もしかしたらギルドだけなのかもしれない。

「ま、危なくなったら流石に私らも逃げるけどさ。だから嬢ちゃん、ティガレックスのことはそう怯えなくても大丈夫だよ」
「あ、はい、ありがとうございます」

女主人へ礼をし、は再び階段を上り借りた部屋へ向かう。だが、ふと目にとまった小さな窓へ、そっと歩み寄ると、そこから外をうかがった。
雪はちらほらと舞うようであったが、山沿いへと進めばこれも吹雪になっていることだろう。

( ……彼は、どうしただろうか。元気になっただろうか )

昼間の、傷を負ったティガレックス。彼は今どうしているだろうかと、少しだけ気になった。人の薬が効いていれば良いが……しかし、会う事も出来ない。自分は無防備な彼に罠肉を食わせたのだから、きっと完全に敵と認識しているに違いない。
明日もまた村を離れて、あの凍土へ向かい採取活動をするが……あまり深くに入らず、出来る限り見つからないよう、見つけないよう、努力しなければ。
へっくち、と気の抜けたくしゃみを一つし、は部屋へ足早に戻った。
綺麗に身づくろいしたカルトと共にベッドへもぐり、静かに眠ったが、やはり脳裏にはまだあのティガレックスのことが残っていた。



――――― 所変わり、吹雪荒ぶ凍土の雪山。
斜めに吹きつける白い凍てついた猛威の中、青と橙のストライプ模様が浮かびあがった。激しい息遣いを、その立ち昇った白さが物語る。新しく降り積もっていく雪も、落ちた木の枝も、大きな四肢が全てを無遠慮に踏みつけていく。その様は、凍りついた世界に現れた形となった暴威そのもので、草をついばんでいたガウシカの群れも、一目散に逃げていく。
煙る白い雪の中で、狂暴な牙が、獰猛な双眼が、彼らの前で光る。
凍土の強者……ティガレックス。
けれど、その牙や腕は、振り回されることなく、まして逃げ惑うガウシカを追うわけでもなく、ただ悠然と進んでいくだけだった。
……というか、むしろ、今の彼にガウシカの群れなど見えていなかった。まさに、考え事をしながら呆然と歩いているだけのため、本当に通り過ぎただけだった。
その狂暴な彼を見送ったガウシカたちは互いに見合わせ首を傾げるも、また草をついばんだ。

ティガレックスは、山頂付近の岩場に登ると、そこから眼下に広がる凍りついた自然を眺める。
吹雪が幾らか収まったようで、目の前を横切る雪は先ほどより緩やかに落ちてくる。
沈黙の、凍土。
だがここで、今まで声一つ上げなかったティガレックスの身体が、ブルブルと震え始める。そして次の瞬間には、彼の身体に赤い筋が浮かび上がり、吐息が一層白く激しく上がる。
グッと両腕で上体を持ち上げると、地についた両腕から翼を広げ、そして。


「……何処に行った、俺の雌ゥゥゥゥゥゥウウウウアアアアアア!!!」


ギャオオオオ、と響き渡る、全力の咆哮。( ※実際の音声は、プレイ画面でお楽しみ下さい )
それは大気を震わせ、そこらに積っていた雪を急かして滑らせる。いわゆる、雪崩である。
一般的にティガレックスの種族というのは、その咆哮であらゆるものを吹き飛ばすほどの肺活量を誇り、たとえどのような耳栓を付けようが身体ごと吹っ飛ばされるのが関の山という、恐ろしい鳴き声なのである。当然、物言わぬ自然などその咆哮に恐れをなし、一層張り詰めて沈黙する。が、この時は一般的な咆哮の倍の声量が出ていた。全力どころか、全身全霊、魂の大絶叫である。

彼は、かつてないほどの空しさと、そして物欲しさを、その咆哮に託した。だが、満たされることなく、むしろ喉の渇きが増していく。
フー、フー、と呼吸を繰り返し、幾らか落ち着いたが、肝心の心の部分はカラカラである。

「……ハア、くそ……」

ティガレックスは、小さく呻く。無論、それは人間が聞けば、単なる唸り声だ。
ぽつり、と小さく吐き出した後、いくらも経たぬ内に同じ言葉が続けられる。

「くそ……」

項垂れた頭を起こし、天を仰ぐ。

「くっそォォォォ、俺の馬鹿野郎ォォォォォ!!」

彼方で、雪崩の起きる音が聞こえるが、ティガレックスには関係なし。
感情を咆哮で紛らわしても、何たることか、と彼は一層落ち込む。

ああ、くそ、あの雌は何処に言ったのだろう。

昼間、生肉を差し出して、傷の手当てをしてくれた、人間の雌。
同族以外で初めて会話した彼女は、とても小さくて、とてもか弱くて。けれど、とても温かくて、とても優しくて。
触れてくれた手は、心地良かった。
思い出しただけで、顔がにやけてしまいそうだった。それに嗅いだことのない匂いがして、それが妙に鼻腔の奥に甘く残っている。
しかし同時に、空しさが宿る。俺の馬鹿、何であんなみっともない姿を晒したんだろう。いくらハンターとかいう人間との戦いに、あわや負け寸前のところまで追い込まれていたとは言え、雌の前で悠長に構えているべきでなかった。だから彼女は去ってしまったのだ。

このティガレックス、が昼間助けたあの若い雄ティガレックスだった。
あれから彼は、何度も凍土の全域を飛び回り、岩場も洞窟もくまなく見て、彼女を探し回っていた。が、結果は喜ばしくなく、むしろマイナス点である。彼女の姿はなく、その痕跡も雪で掻き消され、彼女に通じるものは何も残っていなかった。
初めて恋した雌に嫌われた挙句、姿を見失い、探しても探しても一向にその痕跡さえ見つけられないなんて。
虚しい以外の、何ものでもなかった。雄として、むしろ大失態である。

想いのたけを込めた、まさしく魂の叫び。

しかしその叫びは、人間とモンスターの間の思想の違いで噛み合っていないことなど、彼は気付いていないが。
はそもそも、弱い雄云々など考えておらず、身の危険を優先して去っただけである。
当然、そのようなことをティガレックスが、分かるはずもない。

「う、う……俺の馬鹿野郎……」

あの雌に、会いたい。
あの雌に、触れたい。
あの雌の声を、もう一度聞きたい。

食物連鎖の頂点に位置する強者の部類に属される、轟竜ティガレックス。
だがこの時、いや数時間前から、雌を追いかけるただの雄であった。

ああ、一体彼女は何処に行ったのだろう。

本当は、あんな風に弱いわけではない。彼女に、それを知ってもらわなければ。
何処かに、まだいると信じて、ティガレックスはしばらく雪降る風景を眺めていた。




――――― 今朝は雲が晴れ、清々しい淡い水色の空が広がっていた。
朝陽に照らし出された雪の結晶が、きらりと光っている。吐き出す吐息は相変わらず白かったが、寒いからこその美しさなのだろう。
昨日は曇天で、雪が降っていたが、今日は晴れの中凍土の探検が出来そうだ。
は、宿屋の外でぐっと手を握り締め背伸びをした。だが、村の向こう、広がる険しい自然の姿に僅かな憂鬱さもある。

「……ティガレックスに、見つからないと良いけれど」

ああでも、元気になったていれば少し見てみたいが。いや、そんなことを考えていては駄目だ、とは首を振る。

ー! 朝ごはんを早く食べるニャー!」

宿屋の二階、氷柱の垂れる軒下の窓辺で、カルトが手を上げていた。一人苦悶していたはそれを振り払って応え、宿屋の中へと戻る。

女主人特製の温かい朝食で腹を満たした後、とカルトは準備をしっかり整えて自然に繰り出した。まだ陽は高く昇っておらず、およそ九時と言ったところか。村を離れるその道すがら、は荷物をチェックする。ホットドリンクもある、スープも特性水筒の中に入れてある、携帯食料も万端だ。いつも持ち歩いている、地図も忘れていない。
「アンタ仕事熱心だね、頑張りな」女主人に出かける際そう言われた。仕事熱心、か……そう思われるのは、何よりだ。
ザクザク、と掻き分けて進む雪の道は、昨晩降った真新しい雪で覆われている。そこに残る、の足跡と、カルトの足跡が、並んで続いていく。
雪の被った木々を見上げつつ、はカルトへ言う。

「道具屋とドリンク屋には、頼まれたものは送ったから……ユクモポイントに交換出来るものを採りに行こうと思うんだけど。カルトは、何か欲しいのある?」
「鉱石を採っていくニャ! 凍土にしかないアイシスメタルも欲しいニャ、旦那様が必要だってこないだ言ってたニャ」

元気良く、カルトは手を上げた。その様子にクスリと笑みをこぼし、「そうね」と頷いて見せた。
すっかりオトモアイルーの意識があるようで、旦那様ことセルギスを慕っている気持ちが溢れている。鉱石か……そうなると、洞窟や、岩場の多い場所を目安に発掘可能な亀裂を探した方が良いだろう。
そう思ったと同時に、僅かな憂鬱さも込み上げる。

「……ティガレックスには、遭いたくないわね」
「……同感ニャー」

絶対、敵と認識されている。最後には、罠肉まで食べさせたのだから、きっともし彼が覚えていれば血眼になって追い掛け回されることだろう。
しかし二人の苦悩など露知らず、氷塊が流れてくる川沿いを進むこと数十分、厳しさの象徴でもある凍りついた雪山が、視界に映る。晴れ間が広がり朝日に照らされるその景観は、白く輝き堂々と君臨している。
……この眩さが、果たして先行きを照らすか否か、二人は恐る恐ると踏み込んだ。



「……ハア」

輝くと凍土の平野で、至極ゆっくりと這うように歩く、一頭のティガレックス。見るからに気落ちし、溜め息が哀愁を誘う姿は、凍土の頂点に部類される大型モンスターとは思えない。
吹雪がおさまり涼しい晴天に恵まれたが、ティガレックスには何の励みにもならない。むしろ忌々しさばかりが募る。白く染まる瞼の裏に、あの雌の姿があれば情緒的であるが、あいにく目が痛くなるだけだ。

「何処に行ったんだよ、あの雌……」

哀愁背負うのに、その目はギラギラと血走っている。それも仕方ない、何せろくに昨晩は眠れていなかったのだから。雌を想うあまり睡眠不足とか、聞くだけならば何処の少年かと微笑ましくもある。だが、しかし如何せんこの顔だ……普段からお近づきになれそうにない凶悪な顔つきだというのに、今なんか何日と水も食料も食べていない飢えた印象が加わっている。正直、近づくどころか猛烈に遠ざかっていくのが関の山だ。

「……あの小さいヤツらに、当たってこよう」

小さいヤツら―――凍土に生息する鳥竜種バギィのことだが、八つ当たりの対象にされた彼らのもとへとティガレックスは酷くゆっくりな歩みで向かっていった。



恐る恐ると踏み入れた、凍土の雪山の麓は、思いのほか穏やかであった。ガウシカがのんびりと草をついばみ、たまに日向ぼっこをしているのかぽけっと目を細めている。
草食獣は、大型モンスターが付近に現れると敏感に感じ取って逃げ惑うというが、その様子もないためとカルトは安堵する。このようなところにまで、もともと範囲を広げていないのかもしれない。何がといえば、無論ティガレックスである。
いくらか心穏やかになり、は草花の採取を開始する。昨日に必要なものは頂いたので、一気に採取しないよう、オーロラ草にだけ狙いを定める。カルトは、発掘出来そうな亀裂を探してチョコチョコと岩場を散策していた。

「はあ、それにしても今日は、昨日より暖かくて良いわね」
「ニャ、でもこういう日も注意が必要ニャ。雪が緩くなって、雪崩が起きやすいのニャ」
「そうね、雪の深いところや、山のところにはあまり行かない方が良いわね」
「ふふん、そうニャ。旦那様やヒゲツの兄貴に、色々教わったオレが言うから間違いないのニャ」

得意げに胸を張ると、チッチッと指を横へ振る。
ふふ、ヒゲツの兄貴、なんて。すっかり後輩ね。微笑ましくまなじりを和らげつつ、地面を探る。

「でも、やっぱり麓じゃあアイシスメタル採れるところ無いニャ」
「う……やっぱり?」
「……奥に進むしかないニャ」

ちらりと見た、奥へと続く木々に囲まれた雪道は、妙に静かにたちを待ち構えているように映った。昨日も見たはずであるのに、あれが地獄への門にでも見えてならない。けれど、まだこの地へ滞在するのだから……仕方ない、とは覚悟を決めて立ち上がった。

「カルト、生きて帰ろうね」
「全力で、逃げるニャ」

互いに握り締めた拳を、こつりと合わせる。踏み込んだ足は、少しだけ重かった。
霜をまとってそびえる岩壁と、白い木々で囲まれた雪道は、なだらかな斜を描いて登って行く。まだ、朝方の静けさと輝かしさで美しくもあるが……はあ、との口から溜め息が漏れる。

「もうこうなったら行くしかないニャー」
「そうだけどね……」
「殺されないよう、逃げるしかないニャ」

……うん、そうなんだけどね。
なかなか、励みにはならないよ、カルト。

遭ったら即人生終了宣言を、あまりしないで欲しい。考えないようしているのだから。

「でも、これで目の前にティガレックスが居たら悲惨ニャー」
「ちょっと、止めてよ。怖いから」

あはは、と笑ってみたけれど、のそれはとても引きつった笑みであっただろう。
さて、そろそろ、雪山の麓の、平地に出てくる頃だ。願わくは遭遇しませんように、と祈りを捧げるとカルトの目の前に。

ビタンッ!と、《何か》が唐突に降って来る。

……今の音は、何だろう。

坂をようやく上り終えたの表情が、凍りつく。恐る恐る、見下ろすと……頭に星を回して気絶しているバギィが。
ヒュウ、と息を吸い込んだは、悲鳴を漏らさないよう奥歯を食いしばった。背筋から、ザアッと悪寒が走る。
沈黙するの隣で、カルトもまた息を殺していた。バギィを目を見開いて見下ろしたまま、ぽつりと呟く。

「……バギィ、ニャ」
「……カルト、私、顔上げたくない」


実は先ほどから、気にしないようにしていたのだが、前方よりバギィたちの半分泣いている悲鳴が聞こえていたりする。しかもさらに恐ろしいことに……異様な存在感を放つ地面を叩く鈍い音と低い唸り声が、それに混ざっているのだ。
とカルトは、視線を下げたまま、顔を上げられないでいる。けれど、全身に感じる、空気だけで察することが出来る。今、自分たちの前には、圧倒的に強い《何か》が居る、と。

ボトリ、とまたバギィが落ちてくる。それはまるで、存在を消そうと息を殺す二人を、逃がさないように。

は、ひしひしと嫌な予感がしていた。思わずカルトのうさ耳フードを掴んだが、長い時間をかけ、ゆっくりと、ゆっくりと、伏せていた顔を上げる。
……そして、見ずに早々と立ち去れば良かったと、後悔する。

バギィたちを、遠慮なく尻尾でビッタンビッタンと吹き飛ばす、ストライプ模様の鱗の竜が、唸っていた。
どう見ても、ティガレックスである。
小さな身体を奮い立たせ、バギィたちはティガレックスへと威嚇する。けれど彼は、スウッと息を吸い込むと、咆哮で一蹴してしまった。
耳が、つんざかれるような、大音量のそれ。は咄嗟に耳を押えたが、その場にうずくまる。

さすがのその声に恐れをなし、バギィたちは急いで逃げて行く。
ギャウ、ギャウ、とさながら「覚えてろよー!」とばかりの後ろ姿だったが、今は一緒について行って帰りたかった。

「……ハッ! 気分転換にもなりはしねえな」

粗暴な口調の、若い男性の声。とてつもなく、聞き覚えがある。はそろりと顔を上げ、うかがうと、そのティガレックスはまだ気付いていないようだった。
はカルトを見下ろし、アイコンタクトで「逃げるわよ」と訴える。彼も同じ考えだったようで、こくりと頷いての腕を引っ張った。

――――― だがその瞬間、バキリ、と木の枝を踏みつけてしまい、ある意味沈黙をもたらした。

誰が踏んだか。
……である。

カッチン、と動きを止めて凍りついたとカルトの前で、ティガレックスがその音に反応し振り返る。
最初は訝しげに首を下げて、肩越しに見ただけだったのだが。の視線と、その獰猛な視線が、ぶつかった時、ティガレックスの目が真ん丸に見開かれていった。
それに比例し、の口元が一層引きつっていく。
しばらく、一人と一頭の間で、見つめ合いが続いた。が、それはときめきはなく、むしろ別の意味で心臓を高鳴らせた。急に凄味を増した静寂が、自身の鼓動を強く感じさせる。
――――― そして、先に動いたのは、ティガレックスだった。
へと向き直ると、息を荒げ始め、そして全身に赤い血管を浮き出させる。大地を踏み直した前足の翼が、バッと広げられるのを見て。
とカルトはほぼ同時に、坂道を逆戻りする。


「お、お、怒ったニャァァァァァァアアア!!!」


カルトが、ゴロゴロと勢いよく前転で坂道を落ちて行きながら、叫ぶ。ま、待ってよ置いてかないで!?
それと同時に背後では、ティガレックスの爆発的咆哮が響き渡った。



――――― 彼女が、居る。
ティガレックスは、あまりにも唐突な再会に、ずいぶんと長い時間呆然とした。
だって、昨日はあれだけ探しても、見つからなかったのだ。こんなにあっさりと、なんて、まさか幻だろうか。
要らぬ疑心に捕らわれ、凍りついた大地へ反射した朝陽に照らされた彼女の輪郭を、ティガレックスはまじまじと見た。
体毛や鱗とは異なる、厚く長い服なるものを纏い、首と頭を同じもので守っている小さな身体。
少し赤く染まった、何の堅さも無さそうな頬。
そして、ティガレックスを見つめる、狂暴さなど無く優しげな瞳。
それは、洞窟で手当てしてくれたあの時の記憶と、重なっていく。

……まさか、本当に。
彼女、なのか。

そう自覚した途端、あれだけカラカラと渇いて苛立っていた心が、凪いでいく。
同時に、全身に血が巡って、たまらないほど歓喜に満ちていって。
だからつい、いつもの癖で。

「ァァァアア逢いたかったァァァァァアア!!!」

昨晩の、倍はある咆哮を上げてしまっていた。
だがこれがいけない、そんなことをしている間に、雌は姿を消していた。

「や、やべえ!」

彼はハッとなりその雪に覆われた下り坂へ駆け寄ると、見下ろした。そこに、今しがたあった彼女はいない。
は、速いな……人間とはあんなに足が速いものなのか。
ああ、そうか。きっといきなり声を上げられて、驚いてしまったのだ。
何と言うことだ、また自分はとんでもないことをしてしまった。ここで見失ったら、今度こそ再会出来ないやもしれない、そう思った彼は翼を広げて上手くは無い飛行で周囲を旋回する。

……と、眼下で動いた、小さな影。ティガレックスはそれを見逃さないよう、先回した。



坂道を下るというより、坂道を転げ落ちる勢いで、はがむしゃらに逃げていた。
ティガレックスの怒り状態といえば、全身が赤くなり、咆哮で全てを吹っ飛ばす、というではないか。経験者はかくも語ると、セルギスや影丸が苦々しく言っていたのを覚えている。アイツやべえんだよ、何がってあの声。何の準備も無く行くと、まず咆哮に吹っ飛ばされてキャンプ送りだよ。影丸の言葉が、何度も繰り返される。
恐れたそれが、つい先ほど見られた。やはり彼は、自分のことを怒っているのだ。そうよね、罠肉なんて食わせれば、誰だって怒るわよね。
本当は、少しだけ期待していた。元気になった姿を見て、良かったねと言ってあげて、仲良く出来れば良いな、なんて。だがそれも、もう打ち砕かれてしまった。まだ頭の芯を揺さぶるような咆哮が、残響している。

「……来ない方が、良かったかな、やっぱり」

コートやマフラーの動きにくさと、鞄の大きさが、足を重くさせる。
それだけでないものが、彼女の肩に、圧し掛かっているような気がした。

、早く来るニャ!」

坂の下で、カルトが飛び跳ねている。
「わ、分かってるけど、カルトみたいに速くは走れないわ……!」は懸命に追い掛けたが、いかんせん短距離走も持久走も苦手な上に、すでに体力は無くなっている。ようやく坂を下り終え、息つく間もなく引っ張られ、麓を目指す。木々に覆われた狭い道、木の幹に衝突しながらそこを抜ける。木々の影が無くなり、視界が広がる。

、大丈夫ニャ?」
「駄目、もう、正直……吐きそう」
「えー?! あれでニャ? 鍛え足りないニャ」

……あの狭い坂を走って降りることが、どれだけ神経や体力を使うと思っているのだ。この子は。
そりゃあオトモアイルーになって、影丸について狩りへ研修に行ったり、ヒゲツに叩きこまれたりしていたり、セルギスに知識を学んだりと、とは違うとはいえ……ちょっとは理解してくれても良いのに。なんて思って、いやこの子には無理だと自分で終わらせる。
けれど、優しい義理堅い性格だから、何だかんだ言いつつ手を伸ばす。

「全く、しょうがないニャ。早く行くニャ」

の、腰ほどかあるいはやや小さい背丈のため、手を繋いでも母と子ぐらいの光景だが……良い子だ、本当に。
キュ、と握り締め、震える足を叱咤する。

――――― だが、二人の前に、大きな影が見計らったように落ちる。

ハ、と息を飲み込んだ時、冷たい風が吹き付ける。やカルトの身体を強く圧し、影が形となって目の前に現れる。
大きな体躯、四肢が、凍土の大地を踏みつける。粉雪が、その風で舞い上がり、視界を横切って行った。その向こうに見える、二つの鋭い瞳と、竜の顔。
は声を失ったように、口を半分開いたまま、立ち尽くす。

相手が、翼を持っていたことを忘れていた。

降り立ったティガレックスは、相変わらず赤く血管が浮かびあがっており、白い世界をぎらつかせる。

「ニャ! こんのー! お前なんか怖くないニャア!」

カルトは、武器を構えてティガレックスの前に突きつける。
だが、ギラリ、と光ったティガレックスの眼光に、は慌ててカルトを掴んで押しのける。思いの外、力が強すぎたようでカルトはその勢いで横へすっ飛んで行った。ゴロゴロゴロゴロ、と猛スピードで転がっていくカルトは、随分遠くでピタリと止まってうつ伏せに倒れ込む。頭の上に、星が回っている……回転しすぎたのだろう。ごめん、カルト! わざとじゃないから許して!
は、声を漏らしカルトのもとへ向かおうと足を動かす。けれど、降り立ったティガレックスが、ブオンッと鼻を鳴らしてにじり寄って来る。

こ、怖すぎる……!

怪我をしていた時は、弱り切っていたから平気だった。
罠肉を食べさせたから、上手く逃げ切れたから平気だった。

けれど、自分がそんなことをしたから、彼は怒って、追い掛けてくる。とてもじゃないが、逃げられそうにない。迫り来る彼の顔は、現にとてつもなく恐ろしく凄味がある。
あの時は話も出来たし、もしかしたら「元気になって良かった」なんて和やかに笑える光景を期待していた。けれど、この酷く興奮した様子から、そんなこと出来るのかと尋ねられれば……否、とは即答する。

……覚悟を、決めるしかないのか。
ごめん、先立つ私をどうぞ皆忘れないで下さい。

薄い雪が敷き詰められた大地にへたり込んで、一層大きく映る轟竜の迫力に、瞼を降ろす。舞いあがった雪が頬を濡らし、冷やしていく感覚に、出来る限り集中する。痛みは、いつだって怖い。だがどうか、一思いにやってくれ、変に弄ばないで、一瞬でゴリゴリと―――――。

……と、思っていたが、背けた顔に、吐息が強く吹きかけられる。すっぽりと被っていたフードが後ろへ下がり、髪が冷たい風に遊ばされる。
そして、予想外なことが起きた。
雪の張りついた頬に、べろり、と肉厚な舌が這ったのだ。

「え……?」

は、そらした顔を戻し、ティガレックスを見た。
獰猛な瞳は、何処か穏やかに細められ、を見つめていた。

「あ、あ、あい、あ、あい……ッ」

ティガレックスは、その岩さえも砕くような顎から、必死に何かを紡ごうとしている。
……赤みを帯びた鱗が、妙に、頬を染めているようにも見えた。は、すとんと恐怖が消えていくのを感じ、後ろに手をついたまま彼を見上げる。
先ほどよりも、幾らか静かに交わった視線。
ティガレックスは、ギュッと口元を引き結ぶと、真っ白な吐息を大きく吐き出して、強靭な前足を踏み込んだ。
咄嗟のことで上手く反応出来ず、は思いきりその腕にドンッとぶつかって、仰向けに雪の上へ倒れ込んでしまった。反転した冷たい世界と、薄い色の空が、視界に広がる。
の小さな呻き声も、放つことは出来ない。
仰向けになった細い彼女の上に、ティガレックスが圧し掛かった。重みはない、彼の四肢は大地を踏みしめ、を潰しにかかろうとはしなかったからだろう。
けれど、驚いたまま声を出せない彼女の視界が、影で覆われていく。

……今、自分は一体、どんな体勢だ?

じんわりと伝わる冷たさが、ゆっくりと感覚を研ぎ澄ませる。
……いや、違う、逆なのだろうか。

「――――― あ、あ、あい、逢いたかったんだ、アンタに!」

まるで、少年の告白のように。
ティガレックスはそう吼えた。

「だ、だからッ、に、逃げんじゃねえ!」

粗暴な声音なのに、妙に懸命なその声が、の耳に残る。
赤みを帯びた身体は、相変わらず治まることなく、けれど……腕と、足と、爪先に触れる彼の強靭な身体は、小刻みに震えていた。凍土の強者ともあろう、彼が。遥かに弱く、脆弱な人間の前で。

目映い晴天の、氷に閉ざされ沈黙した世界。
降り注ぐ光は、先行きを照らすか否か。今こそ、その答えが欲しくなった。



私はティガレックスに、何を求めているものか。

いや最初、本当ストーカーというか、こう、追いかけっこを想像していたんです。こう、後ろから追いかけまわしてくるような、そんな感じ。
したら、ただのヘタレになった。

短編の予定が、何か続いちゃった。


2011.12.19