愛を探す旅に出た獣(3)

薄い晴天を背にした、狂暴な影。強靭な輪郭に触れて掠める、六花が光る。それに匹敵するほどの、眼光を放つ竜の双眼。
それらを視界へ漠然と収め、見上げたままのは、奇妙な感覚に浸っていた。

……不思議な、気分だ。

に圧し掛かっている竜は、ハンターを恐れ戦かせる轟竜ティガレックス。その顎で岩をも砕き、手で地を抉り、咆哮であらゆるものを薙ぎ倒す、肉食の凶暴な竜だ。
けれど、顔どころか全身を赤く染めて口をパクパクする姿は、何かを訴えているのだろうか。その口や顔の造りは《話す》という表現に適さないのに、何故かそのように見える。

( って、そうじゃなくて )

可愛いなんて思っている、場合でもない。相変わらず自分は仰向けに転がされ、真上を取られているのだ。無防備な腹を晒した蛙のような気分を味わう後ろ頭や背中は、冷たく体温を奪われていく。ホットドリンクを飲んだとはいえ、雪にうずくまっているせいかさすがに寒さを感じた。
がそのように思っていても、この真上のティガレックスは妙に息遣い荒く見下ろしており、退こうとする意思はない。吐息のおかげか顔だけは温かい。ちょっと、生臭いけど……。

「あ、あの」

見つめ合いに耐えかねたのは、の方だった。ようやく彼女が口を開くと、彼は途端にハッとなったのか、ピクンッと頭が揺れた。
そして、何故か一層顔を赤らめると、慌てて立ち退いた。またあの咆哮が来るかと思ってしまったが、彼はそれを行う気配もなく、足元でそわそわとしていた。
様子をうかがいながらも、は上体を起こし、頭やコートから雪を払う。その間も、ティガレックスは熱心にを見下ろしている。

……そんなに、面白いものでも、ないと思うんだけど。

あまりの熱心ぶりに、が先ほどまで抱いていた全力の逃避感情は静かに消えていく。

「えっと、貴方は……あの時のティガレックス?」
「てぃ、が……?」

目の前で、彼は太い首を傾げた。不思議そうに反芻し、「何だそれは」と言った。
ああ、そうか。彼らに名をつける概念はないのか。は付け足すように、「人間が、貴方たちをそう呼んでいるんです」と言ったものの、彼はよく理解していないようだった。名前とは、その人その人を特定するもので、それとかあれとか言わないようにつける、などなど説明していたら本筋より外れていたことに気付いた。
「洞窟で、会った……」と呟くと、彼は頷くように首を縦に振る。

「お、覚えていて、くれたんだな」
「え、ええ、まあ」
「……なら、何で逃げる?!」

は、きょとりとしティガレックスを見た。何で、逃げた? 逃げたって、そりゃあ、あんな恐ろしい咆哮を見たら……と言う弁解する暇もくれないのか、彼は大きな声で遮る。

「俺は、アンタに会いたかっただけだ。あの時も、行くなっつったのに、何処かへ行くし。でようやく見つけたら逃げるし……何なんだ?!」

ティガレックスが、強い声で言うものだから、はしばし硬直した。彼は、自分を怒って、食おうとして追いかけたのではなかったのか? だって凄い形相をしていたぞ、目は血走ってたし、身体は赤みを帯びていたし、極め付けにあの咆哮だ。それを完全に怒りと捉えていたのだが、違うのだろうか。は、頭の中で必死に事実の整理をする。

「だ、だって、貴方は……私のことを、た、食べようとしたんじゃなかったんですか?」
「お、俺が?! 何で?!」
「だって今にも『殺してやるぜ』って空気だったから」

が呟くと、ティガレックスが途端に声を潜める。

「驚かせちまったのは、悪かったけどよ……別に、食うなんてつもりはない。今も、昨日も」

少しだけの、不安。はしばしの沈黙を挟み、「本当?」と尋ねていた。赤みを帯びた轟竜を前にして、そもそもその問いかけ自体が可笑しいのかもしれない。が、彼はの目をそらさずに、はっきりと言い放った。

「絶対に、食わない。アンタだけは」

足元で蠢いていた恐怖が、雪に溶けていくように、静かに消えていった……


「―――――人間の肉は、美味くないしな!」


……かのように、思えただけだった。
なんか、穏やかさを返して欲しい。

は口を思わず閉ざし、頬を強張らせる。まあ彼は、肉食であるし、竜であるし……自分も生き物の肉を食べて生きていくのだから、あまり深く考えないようにしよう。
沈黙したは、ふとティガレックスを見上げる。彼は、そわそわと身体を揺らし、の反応を待っているようだった。強者たる轟竜のそんな仕草が少し笑みを誘い、まなじりがふっと和らぐ。

「……うん、まあ。そっか、それなら、良かった」

食べられるのではないかとか、変に心配してしまったが、前向きに捉えることんしよう。
はくすりと笑ったが、当のティガレックスはというと、その笑みにすっかりまた見惚れて呆けていた。
――――― 手当てしてくれた時と、同じ、あの表情だ。
くすぐったくて、けれど温かくなる、不思議な表情。
今まで彼が見てきた人間は皆、攻撃的な殺気だった目か、怯えて逃げ惑うものばかりで、彼女のこの顔は見たことがない。
それがまた、今向けられている。しかも、こんなに近い場所で。
収まっていた血の沸騰が、また起こりそうになるほど、ティガレックスの心臓が一気に高まる。
もうこの際、言葉が分かる疑問など、どうでもいい。彼女を逃がさないよう、幻滅させないようにすることの方が最優先事項だ。ティガレックスは、一本道の思考で、そう思った。

「……俺は、あの時アンタに、あんな情けない姿を見せたし、そりゃ驚かせたけど、アンタに何かするつもりはない。絶対」

ティガレックスの顔が、ぐっと近づく。
わ、とは驚いて後ずさったが、それもすぐに埋められてしまった。

「俺はただ、アンタを―――――」

俺の雌に、したいだけだ、と。
今までの醜態を挽回するつもりで、格好良く言い放つ。


……はずだった。


「オーレ!!」

間抜けな掛け声と共に、ティガレックスの真下でシビレ罠が炸裂しなければ。

《バチィ!!》と、強烈な電気の爆ぜる音が、彼を包み込み、ギャオウ!と悲鳴が飛ぶ。
は驚いて、のけ反ったその強靭な身体を見上げた。
あれ、何で?! と思って足元を見ると、先ほどまで気絶していたはずのカルトがいつの間にか復活を果たし、華麗な反撃を成功させていた。そういえば、シビレ罠の術を覚えたいってセルギスへわがまま言って、習得したと話していたか。
特別な場合を除いた、あらゆる大型モンスターの全身を強烈に縛り付ける人間の知恵に、無論ティガレックスも抗えない。

「ほら、退散するニャー!」

カルトはバッと足元から出てくると、の手を掴み立たせる。落ちてしまった鞄を握り引きずりながら、の腕もしっかり握って駆け足になる。
上手く反応出来ないうちに、彼女はまたティガレックスから離れて行く。
痺れに見舞われながら、ティガレックスが絶叫していたことは言うまでもない。

は、カルトに連れられながら肩越しに振り返り、ギュッと唇を噛む。

「――――― まだ、この場所に居るから! また、来るから!」

ティガレックスの耳に、彼女の声が残る。

今、彼女は、何と言った?
また来るからと、言わなかったか?

それだけで歓喜が沸点に到達し、気合いで罠を弾き飛ばす。彼女は、少しは見直してくれたということだろうか!

だが残念なことに、その頃には当然のように彼女の姿はなく。


「……何でだァァァァァアアアアア!!!」


歓喜が、絶叫に変わった。


放たれた咆哮に、また何処かで雪崩が発生した。



そんな一人と一匹の、ドタバタ追いかけっこストーリーであって欲しい。
私がティガレックスに抱くものは、大体こんなギャグくらいである。
甘々? 無理よね、このティガレックスだと。

けれど最初も言いましたが。
こんなティガならみんな好きになれる、と信じたい。


2011.12.20