ちっぽけな足で進む先

――――― 渓流の朝の肌寒さと濃霧には、なかなか驚かされる。
豊かな山岳と天高く伸びた大木に恵まれ、清水が至るところに湧き出ている。それが集まり川となり、切り立った磐を流れ落ちて滝となる。
当然といえば当然のはずの、獣と野鳥と大自然の摂理を体現したその世界は、雄大さをもって改めて全身に感じさせる。

真ん丸の体躯と、羽の名残であろう小さな手のような退化した翼を持つガーグァが、浅いせせらぎを横切る傍らを、私――――はいそいそと通り過ぎる。
鳥といっても飛ぶことは出来ず、地面を歩く彼らだが、何せ鳥のくせにやたらとデカく注意しないと踏み潰される。親ガーグァの後ろにいた小さな子ガーグァと目が合い、挨拶すれば向こうも可愛い声で返事をしてくれた。この可愛い雛鳥が、将来真ん丸の大きな鳥になるなんて……と何度目になるか分からない疑問を感じながら、せせらぎのそばに転がっている岩の上にしゃがむ。朝方ともなれば水が冷たい、そこを歩く勇気はなく、岩の上から水をすくって顔にかける。その冷たさに目が一瞬で冴えるが、ゴシゴシと洗えば気持ちが良かった。肩にかけていた布で拭い、すぐ下の緩やかなせせらぎの水面を見つめる。
そこに映る私は……人の姿はしていなかった。
模様のない淡い桜色の毛の、二本立ちの猫《アイルー》の姿をしていた。身体に、綺麗とはいえないがボロの布を繕った簡素な白のワンピースを着ている。
アーモンドの形をした、ぱっちりした目。伸びたヒゲ。手を返せばピンク色の肉球がある。お尻にも、長く伸びた猫の尾があって揺れている。
どう見ても、人間ではない。何度見ても。もう、見慣れてしまったといえば見慣れてしまったのだけれど。
はあ……と猫らしかぬ溜め息をつくと、濃霧を照らし出すように、眩しい朝日が一筋伸びた。朝露に濡れた渓流が目覚める煌いた瞬間を、はじっと眺めた。



辺りを覆っていた濃霧も薄れて、空も青く透き通る頃、は山道を登っていた。途中で見つけた果物を、もぎ取って食べながら。見たことのない形ではあったが、半分に割るとオレンジのような甘酸っぱい匂いと色をしていて、慣れたように口へ運ぶ。柑橘類の爽やかな味が広がった。
猫の姿のせいか、身体が軽くヒョイヒョイと進める。先ほどまで居たせせらぎを、高みから見下ろせる渓谷の上部に辿り着いた時には、辺りの景色はまた少し変わっていた。
立派に成長した竹林がの視界に映り、彼女はトコトコと駆け足で進んだ。
耳に届く幾つもの猫の声。それに紛れて聞こえる、微かな鈴の音。は竹の細長い葉を腕で払い、猫の声の正体であるそこに居た多くの《アイルー》たちにへ、「おはようございます」と声をかける。
すると、彼は耳を揺らして振り返り、声明るく返してくれた。

「おはようニャ、
「今日もべっぴんさんだニャ」
「あらあら、ありがとうございます」

はアイルーたちの脇を過ぎ、階段のように丁度良く削れた岩を越えていく。数メートル頭上の小高い崖によじ登ると、目の前に同じ背丈の小さな老人がぬっと現れる。
杖を持ち、カゴを背負った老人は、人とは異なる尖った耳とやや赤みを帯びた顔をしていたが、浮かべた笑みはさほど変わらず穏やかだった。

「なんじゃおぬし、また来たのか」
「もう、またすぐそう言うんですから。昨日も『また来い』って言ったじゃないですが、お爺さん」
「そうじゃったかの」

ほっほっと悪戯っぽく笑う老人は、近くの石のそばに座り込むと、カゴを漁り始める。そして、埃まみれの本を一冊取り出した。
もそばにしゃがみ、覗き込む。

「それは何ですか?」
「人間たちの間に出回っている本じゃ。わしが拾うて来た。これでも読めば、また勉強にもなるじゃろうて」

埃をかぶっている本を差し出され、は喜び受け取った。「ありがとうございます」とその本を早速開いて、ペラペラと眺める。拾ってきた物らしい汚れ具合とヨレヨレ感だが、文字は識別出来る。ひらがなを砕いたような――あえて言えば幼稚園児の文字を綺麗に整えたような――奇妙な文体だったが、何とか読めることはありがたかった。ここでさらに文字まで読めなかったら、いよいよ暮らすのが辛くなるところだ。
が本に目を通す傍らで、老人は不思議そうにしながらも頷きながら言った。

「おぬし、やはり野生のアイルーに比べたらとても賢いの。元人間というのは、まことらしい」
「だから、そう言っているじゃないですか。もう」
「ほっほ、何せそんな事態に遭った奴を見たのは、とんと久しくてのぉ」

老人は楽しそうに言って、桜色の毛をかき混ぜるように頭を撫でて来る。
は苦笑いを浮かべたが、撫でられるままになった。



――――― そう、私は、元は人間であった。それも、この世界ではない人間。

田舎育ちの田舎暮らしではあったが、平日は事務仕事で職場に、休日は友人と遊んだり買い物でもしたり、ありきたりではあったが満足していた日々を過ごしていた。
ところがある夜、いつものように寝て、朝目覚めたら……目の前には見慣れた自室ではなく、野性味溢れる大自然が広がっているではないか。
これにはもおったまげる。夢かと思えば、自然の音も目の前のせせらぎの静けさも、幻想というには確かなものだった。しかも……何だか、身の回りの木や岩も大きくて、途方も無く広い場所に投げ出されたのかと、しばし動けなかった。幾ら呆然としたところで目の前の風景が変わるわけでもないため、のろのろとせせらぎに歩み寄ると……水面に映し出されたものを見て、同様の驚愕にみまわれた。
猫の、顔が、ある。
桜色の綺麗な毛並みの、猫が。自分の姿は何処にいったのかと慌てたが、「まさか……」と手を見下ろしてみれば、肉球プニプニの手が。足が。尻尾が。視界に映った。しかも、二本立ちしている。
は長いこと、放心状態に陥ってしまった。

それから数時間が経過し、雲行きが怪しくなる。翳ってきた渓流の、せせらぎのそばではずっと座り込んでいた。もう驚きすぎて、涙も出ない。この場所が何処なのか、自分の知る風景は何処なのか、友人や家族はどうしたのか……知りたいものは、何一つ周囲にない。ただ、猫になったを笑うような木々の擦れあう音が不穏に頭上で響いている。
雨が降るかな、とぼんやり思っていた。
その時、の落胆した背中に、場違いな明るい声がかけられた。

「ニャ、見かけないのがいるニャ」

ニャ? 変わった口調……と薄ぼんやりと振り返れば、と同じように二足歩行をした猫がいた。その猫はベージュ色で、手足の先が茶色をしている。腰には、竹の筒が装着されている。器用に、どんぐりをくくりつけた杖らしきものを握り締めている。

「……猫が喋った」
「オレは猫じゃないニャ。《アイルー》ニャ。大体喋ってるなら、アンタも喋ってるニャ」

……アイルー? なんぞやそれは。
もうただでさえ状況は理解出来ていないのに、ここでさらに訳の分からない生き物まで出てこられてはたまったものじゃない。ますます表情を暗くしたに、そのアイルーなる二足歩行の猫 ( 私もか ) はギョッと目をむくと、恐る恐る近付いてくる。

「どうしたニャ、何落ち込んでるニャ」

……藁にもすがる思いで、はポツポツと言った。元は人間であったことを、全く知らない場所であることを、もしかしたら別の世界なのかもしれないことを。最後に関しては、あからさまに馬鹿にしたような顔をしたが ( この猫……! ) 、落ち込むの手をグイッと引っ張った。もつれるように立ち上がると、そのアイルーは笑って、「とりあえず付いて来るニャ」との反応を他所に引っ張って歩き始める。
同情というより、面白がってのことだろう……こちらは大変な状態だというのに。
しかしその手を振り払うことは出来ず、は大人しくくっついていった。孤独感も、あったのだ……猫の手であっても、振り払う考えなどなかった。

そうして連れてこられたのは、竹林が豊かに生えている場所であった。またずいぶん大きな竹だ……と呆けていると、アイルーなる生き物が数匹出迎えた。どうやら知り合いらしく、の手を握るアイルーと二言程度の言葉を交わした後にへ振り返る。「コイツ誰ニャ」と実に単刀直入な問いかけであったが、それに返す「下で落ち込んでた変な奴ニャ」という言葉もまた実にはっきりとしていた。もうどうにでもなれ、と半ば俯くと、アイルーらの間から別の影がすっと現れる。猫ではない影のシルエットに、は再び顔を上げると……老人が佇んでいた。しかし、同じ視線の高さということは……かなりの小柄な老人だ。アイルーサイズ……いやむしろアイルーよりも小さいかもしれない。

「ずいぶん綺麗なアイルーがいるものじゃの」

老人はそう言って、背負った大きなカゴをゆさゆさと揺らしながら歩み寄ってくる。は身構えたが、老人の全身を見ていく視線は、妙に不快ではなかった。その間、アイルーが「元人間だなんて言ってるニャ、変な奴ニャ」とか笑っている。こ、この猫、とが目を吊り上げると、目の前の老人は何故か納得したように声を漏らした。

「道理で、歩き方がアイルーらしかぬわけじゃ」
「え……」
「ふむ、賢い話し方じゃ。久しいの、アイルーになった人間なんぞ」

今度は別の意味で目が見開かれた。
周りを囲っていたアイルーらが、「本当なのニャ!?」と失礼なほど驚嘆していた。

――― これが、の最初に出会った、《アイルー》なる生き物と、小柄な龍人族なる老人《山菜爺さん》であった。

それからというもの、この老人に何かと助言を頂いている。たまに面倒くさがって耳が遠いフリをするが、かなりの長寿らしく豊富な知識を持っていて、の疑問には大抵答えてくれる。気分がよければ、拾ってきたといって本や何かの道具を譲ってくれる。( ただし使い方は不明なものも多々あり )
アイルーらもを面白がっていたが、何にも知らないに自慢げにあれこれ説明してくれて ( 優越感だろうか、結構なお調子者だ ) 、特に失礼なほどはっきりと言う最初に出会ったアイルー ――名前をカルトというらしい、恐らく雄―― はなかなか義理堅い性格だった。余所者のため、彼らの群れの中へ入ることは出来なかったが、寝床を造るならあの辺りが良いと教えてくれた。あとはガーグァという生き物の羽を集めて洗えばフカフカだなどなど……にはありがたいサバイバル知識だった。
そうしてカルト指導のもと出来たの寝床は、水場が近く、キノコや果物も豊富に自生している森林地帯の、さらに陽射し注ぐ切り立った岩壁の中という立地条件最高級の場所であった。まあ、ちょっと虫が出るのは仕方ないが、虫除けの草があれば大丈夫だろうとカルトが遠慮なく寝床の真下の地面と入り口に差して行った。これではいかにも生き物住んでますと言わんばかりであったが、まあ気にしない。カムフラージュに落ち葉と蔓草を入り口の岩の亀裂に垂らしてみれば、結構ばれなさそうだ。
内部は、上手い具合に削れていてちょっとした洞窟であったが、壁をしっかり補強して……とやっていったらびっくりするほど立派な寝床が出来た。たっぷりの羽根を、譲ってもらった布切れで包んで、掛け布団もつければ完璧なベッドだ。
布切れで繕ったワンピースも、着てみれば悪くない。裸でいるような感覚だったから、かなり安心出来た。

がここまで必死になったのも、理由がある。
山菜爺さんが、最初に言った。人間に戻れることは、今後はないと。はっきりと、告げられた。
下手な嘘をかけられるよりは、よほど良心的だったが、それでもその衝撃はあまりの大きさで、しばらく受け入れられなかった。
人間にも戻れず、元の世界にも戻れず、家族や友人、職場の先輩にも会えない。
その悲愴な事実を……一体どうやって受け入れろというのか。それこそ、難しい話だろう。
だが、数日かけて、ようやく頭が僅かでも働くようになった頃……諦めと、仕方なさが、ストンと胸に落ちてきた。
こんな猫の姿になった理由も、聞けば聞くほど別世界にやって来た要因も、今のには答え合わせだって出来ない。そして、これが現実というのであれば……この姿で、やっていくしかない、のだろう。
決意するには容易いものではなかったが、そう言い聞かせ、山菜爺さんやアイルーらの隣で。
気が済むまで泣いて、泣いて泣いて、とにかく泣いて、気持ちを新たにする他なかった。

それから、はとにかく山菜爺さんのもとに通って、この世界のことを学ぼうとした。そして現在も、学んでいる最中である。
人間がモンスターになったり、はたまたモンスターが人間になったり、奇想天外な事象も起きるらしいが原因は不明。何が起きるか分からない《ドキドキノコ》とやらの摩訶不思議なキノコのせいとも、それを主成分にしたある玉のせいとも囁かれるが、実はとても曖昧。
人生長い山菜爺さんだからこそ、それもまた起き得ることであると知っているが、世間では噂程度の認知らしい。
となれば、ますますがこの姿で「人間だ」と言い張っても、信じてもらえない確立限りなくゼロ。

……しかしまあ、知れば知るほど、この世界は予想以上にデンジャラスだった。

一つ、この世界は人間とモンスターなるものが隣り合わせらしい。
二つ、アイルーもも、獣人族というモンスターだったりするらしい。
三つ、世の中には厄災をもたらすとまで言われる山のような巨大な龍などもいるらしい。
四つ、そんなモンスターと、人里が脅かされないよう奮戦しているのがハンター呼ばれる人間の狩猟者であるらしい。

おおまかではあるが、そんな感じだった。
モンスターなんて、お話の中の存在かと思っていたが、この世界では隣り合わせ……非力なアイルーには日々死活問題だ。
世の中にはハンターについて共に戦うアイルーなど、人間社会に溶け込むアイルーもいるらしく、どうやらアイルーなる種族はとても賢く器用らしい。山菜爺さん曰く、は「モンスターの言葉も人間の言葉も分かる賢いアイルー」らしいが、褒められているはずなのにあまり嬉しくないのは何故だろう。
ちょっとだけ、人間という言葉に惹かれたが……。

はてさて、何処かで聞いたことのあるような世界観だが、はなかなか思い出せずにいた。
しかしそんな疑問も、この自然溢れる渓流ではすぐに消されてしまう。
モンスターがいる世界に放り込まれた、うっかり普段通りに無防備に歩いてたらジャギィという小型の鳥竜種につつかれた。顔を見た時は悲鳴ものだった……何かの映画に、出てきたような気がする。結構痛いし。気を抜ける時は寝床ぐらいだ。
「アンタ無防備過ぎニャ、早死にするニャ!」とカルトによく罵倒されながらも、日々サバイバル生活を送っている。



そしてこの日も、山菜爺さんのもとでお勉強、というわけだ。

「ねえお爺さん、今度また人間の生活に関わる本があったら、見せてもらっても良いですか?」
「ふうむ? そう見つかるもんじゃないよ、ちなみにどんなヤツじゃ」
「うーん、例えばハンターとかいう人たちの、技術本とか」

が何となしに言えば、カルトが唐突に割り込んでくる。一体何処から出てきたのだろう。
「ハンターなんかに関わるんじゃないニャ!」と憤慨しているが、何も直接的に接触するわけじゃないのに。

「だって、ハンターさん達はサバイバル生活強そうだし、きっと役に立つ情報をたくさん持っていると思うのよ」
はアイルーニャ、人間じゃないニャ! はここで暮らしていくのニャ!」
「元人間ではあるけれど……分かってるわよ、どうしてそんなに怒っているの?」

カルトが不意に、言葉に詰まる。不思議がって覗き込むと、カルトは「何でもないニャ!」と言いながらどんぐりのハンマーを振り回しながら去っていった。何なのだ、アイツは……と猫背を見送ると、山菜爺さんも笑いながら立ち上がりカゴを背負いなおす。

「じゃ、ワシもキノコ探しでもしてこようかね」
「お気をつけて」

耳の遠いフリをして去っていく山菜爺さんも見送って、は竹林の中で読書をすることにした。
サワサワと竹の葉が風に揺れ、涼しい匂いが過ぎ去る。この自然の中に、かつていた街の喧騒も車の音も、子ども達が駆け回る声も、聞こえない。物寂しさが胸を過ぎるが、ここまで自然の中に身を置いていたこともない。
は一度、空を仰いでみる。立派に伸びた竹が、頭上を埋める。猫の姿もあって大きく感じるけれど、きっとそれだけではないのだろう。
ここは広いなあ、とぼんやり思い、は本へ視線を戻し、パラリとページを捲った。


このデンジャラスな世界にやって来て、数週間。
それなりに上手く、やっているような気がします。
なんだかんだで書いてしまいました。まさかのモンハン3rd夢……!
需要あるかどうかは、気にしない。だって私にあるから! という寂しくも気高い自給自足精神で頑張ってまいります。

さて、主人公が人間ではなくアイルー姿ですが、だいぶ迷いまして……。
人間でも良いけどアイルーもありかなーとか何か曖昧に思って決定。
いえ、たぶん人間の姿に戻っての話も書くのだろうと思いますが、まずはアイルー姿からまいります。

とりあえず、モンスターたちとキャッキャウフフと仲良くやりたかったんです。狩りもいいが親睦深めようぜ……!

管理人が思いつくままの話が上がると思いますが、宜しくお願いします。

2011.06.04