過去も未来も、未設定

草をついばんでいた雄ケルビと雌ケルビが、不思議そうに首を傾げた後、驚いたように一目散に逃げ去る。その原因となってしまっている桜色アイルーは、次々と立ち去るガーグァやケルビの群れに手を振る。
野生のアイルーには珍しく簡素なワンピースの衣服を着て、背を真っ直ぐにし、両手に誇らしそうに何かを抱えている。大地を潤す浅いせせらぎの中を堂々と進んでいくそのアイルーは、ケルビやガーグァの視線を独り占めしていた。
正しくは、桜色アイルーがちょこんと乗っかっている、《アオアシラ》が原因ではあるのだが。
視線を集めようと狙っているわけではないアイルー……になってしまった元人間のは、周囲は気にせず、両手のものを見つめながら進む。
アイルーの手には少々大きい埃まみれの本と、よれた羊皮紙、あとは折れる間際の万年筆。
どれも、山菜爺さんから貰ったものだ。いつも思うが、あの人の散策ルートはどうなっているのだろうか。
じゃっかんの不安を残す姿をしてはいるが、にとってはさほど問題ではないため、嬉々として文房具に使わせてもらっている。

のしり、のしり、とゆったり進むアオアシラ。意外に触り心地の良い青毛は、お尻に敷くと最高級のシートを思い出させる。頭の天辺から首にかけて堅い甲殻に覆われているが、背中とお尻はふわふわだ。
揺られながら、も渓流を眺め、そしてアオアシラの背に羊皮紙を押し付け、折れる間際の万年筆を走らせる。文字が曲がりそうなのと、筆が折れそうなことでダブルの緊張に立ち向かうの耳に、くすぐったそうな少年の声が聞こえる。

「何だかムズムズする」
「我慢してね……あ、ちょっとズレた。まあいいか、これくらい」

羊皮紙に書いたものを見て、はまあまあ上出来だと頷いて、「完成」と言ってみせる。アオアシラは、グフグフと笑うような鳴声を上げた。

「これで終わり?」
「終わり。ありがとうね、アシラくん」
「いいよ。お手伝い、するのも初めて。楽しいね」

アオアシラの顔つきにはやはり似合わないなあ、と思う少年の声。は背中をもふもふと撫でる。
アオアシラ、と呼ぶには少し長い上に味気ないため、親しみを込めて《アシラくん》と呼ぶことにした。ちょっと可愛すぎるかと不安になったであるが、当の本人は大変嬉しそうであるため定着した。
出会いは、蜂の巣であるが、あれから何度か会い良好な関係を築いている。この日もに同伴してくれていて、おまけに背中に乗せてくれている。普段ちょっかいをかけてくるジャギィも、さすがにアオアシラという大型牙獣に手を出すことは出来ないようで、遠巻きに見てきた。が一人で出歩くよりもぐっと危険は減り、ありがたい限りだ。
ちなみに何をしていたかというと、近辺の間取りの記録である。現在のの移動範囲は、寝床の森林部と、近くのせせらぎ、あとは少し山道を登った先の竹林だ。おっかないモンスターに会いたくないため、近辺の散策に出ることはなかった。だがアオアシラという強い味方を得たことで、ようやくそれも叶うということだ。どういった光景が他にあるのか、山道の繋がる場所は何処なのか、実はずっと気になっていたのである。
そうして、ほぼ丸一日費やし、羊皮紙数枚分にも及ぶ手書き地図は完成した。といっても渓流は広いため、本当に付近に限られているのだが……。

「この場所って、広いね」
「? ひろい?」
「うん、とても」

アオアシラは不思議そうにし、顔を振り向かせて見上げてくる。その視線を感じながらも、の瞳は空へと向いていた。
切り立った崖の上の、開けた台地。そこから臨んだ光景は、あまりにも広大だった。霧がかった豊かな森林と、垣間見えるせせらぎの道筋、耳を澄ませば彼方より聞こえる優しい水の音色……そこに《人間》という言葉など何処にも見出すことは出来ない。渓流の壮大な姿の中に、今も呼吸しているだろう自然の住人のモンスターは本能と自然の摂理で暮らしている。
は、ある意味では当たり前のことに、ギュッと胸を締め付けられる。痛みではなく、ある種の感動と、納得によるものだ。
アイルーの腕に抱えていた埃まみれの本を、そっと見下ろす。この世界の人々……特にハンターと呼ばれる対モンスターの狩猟者の、入門書。サバイバル生活のいろはから武器の扱い、食料、動植物、モンスターの生態と基礎と思われるものが書かれていた。本当は少しだけ、人の生活に憧れていた。だが見れば見るほど、には結構な険しい生活だ。ハンターの入門書なんて読んでしまったせいだろうが、それでも、この世界の人々はなんて逞しいのかと感嘆した。
私も、そこまで強く生きられるだろうか。
ハンターとしてではなく、モンスターと共存するこの世界で生きる一人の人間として。
不安に、なるところだが……

( 人に戻ること、諦めたわけじゃない。それを追いかけるのも、自由だよね )

現代社会で暮らしていた時とは、明らかに違う自身の覚悟に、は思わず笑う。

「……さん?」

アオアシラが首をかしげている。はにこりと微笑み、「何でもない」と言って、背中をポンポンと撫でるように叩く。

「さ、ご飯食べよう。魚でも獲っていこうか」
「うん!」

さんの分も、いっぱい獲るね。アオアシラの得意げな声を褒めるように、その背をポムポムと撫でてやり、川を求めて移動を始めた。のしりのしりと揺れる感覚は、やはり気持ちが良かった。

岩肌のむき出しな台地から下っていくと、すぐに聞こえる水の流れ落ちる音。水源豊かな渓流の、カーテンのように広がって落ちる滝だ。霧雨のように舞い上がる飛沫が、斜陽の光でキラキラと輝いている。
キノコでもついばんでいたのだろうか、もう見慣れたブルファンゴが鼻を鳴らしながら地面を嗅いでいる。
それを横切って川の側に立ち止まったアオアシラの背から、は飛び降りると、顔のところにまで移動し「よしよし」と喉元を撫でてやる。恐怖がなくなった今、よくやってしまうことだった。最初は驚いて戸惑っているようだったアオアシラも、素直に気持ちよさそうに目を細める。モンスターの生活に、《撫でる》という無駄な行いなどなかったのだろう。
しかし、可愛い。真ん丸のお尻がプリプリと動いている。顔だってほら、ずっと見ていれば可愛く……可愛く……

……思わなくもない。

「じゃあ獲ってくるね、待ってて!」
「あ、うん」

魚を探しに、水際をドスドスと歩いていく。やっぱりお尻が可愛いと思った。
さて、じゃあ私は自分用に火の準備を……と思ったところで、先ほどとアオアシラが通ってやってきた山道に、アイルーの姿があることに気付いた。腕を組んで、呆れたような半眼をしているそれは、どう見てものサバイバルコーチであるカルトだ。じとりとした眼差しの理由など、考えるまでもない。

「……何か言いたそうね」
「よく分かってるじゃニャイか。あのアオアシラと何で一緒にいるのニャ」
「だって、仲良くなったんだもの」

が言った途端、カルトは「馬鹿じゃニャイか」と呟いた。言われるとは思っていたけれど、何も本当にそこまで露骨に言わなくても良いだろうと思うのは、やはりアイルーの感性と食い違っているせいだろうか。

「……メラルーならまだしも、牙獣のヤツらと仲良くなるなんて、何してるニャ。そういうのは、いつかパクリと食べるための嘘だニャ。悪いことは言わないから、さっさと捨ててくるニャ」
「ちょ、野良犬じゃないんだから」

とはいえ、カルトの言いたいことは、分かる。この世界に突然落とされてからそう長くは経過していないが、が思っている以上に危険の付きまとう場所であり、また弱肉強食の言葉が実に明確な厳しい場所である。このアオアシラも、きっとアイルーからすると捕食者の立場なのだろう……カルトの懸念も、分からないでもない。
だが。

「アシラくん……アオアシラくんが一緒にいてくれるだけでも、私みたいに無防備なのが動き回る時危険も減るし、悪くないと思う」

それに、と付け足して、は笑って見せた。

「あの子、きっとまだ大人になりたての子よ。可愛いし、良い子だし、きっと食べようとはしないと思う」

たぶん、とじゃっかんの不安もプラスされるが、あのアオアシラと実際に会話したの素直な感想だった。今も、わざわざ魚を獲りに行ったのだから、をご飯と認識していないことは確実だろう。
カルトは未だ半眼だったが、険しい眼差しを不意に和らげ、嘆息を漏らす。

「……それもそうだけど。何であのアオアシラが良い子だなんて分かるニャ」
「喋ったら、何となく」
「アンタ変なヤツだニャー……牙獣の言葉なんて分かるもんなのかニャ」

オレは分からないニャ、とカルトは言ったけれど、それはも不思議だと常々思うことであった。
カルトは不思議そうにしながら、前方をじっと見た。つられても向くと、アオアシラがドシリドシリと近付いてくる。得意げな顔をし大きな魚をくわえている姿が、妙に笑みを誘う。

「……ね?」

カルトはなんとも言いがたい表情になったが、「……まあ、しょうがないニャ」と漏らす。

「でも! 認めたわけじゃないからニャ! 危ないと思ったらすぐにソイツを―――」

さん、さん、獲ってきたよ!」
「大きい魚ね、凄いわ」
「凄い?」
「うん、凄い」

「……話聞けニャーーーー!!!」

カルトが放り投げた竹の物入れは、の後ろ頭にクリーンヒットした。
そんな君らを、全力で愛してる。
アイルーとアオアシラは、管理人とって鉄壁の萌え。

この後、カルトも仲良く魚を食べていればいいと思う。

2011.06.13