熊と奇跡とハチの巣と

サバイバル経験皆無の私にとって、この生活は苦行である。
いかにあの日常が便利であったかを、思い知らされる。
が、嘆いても状況は変わらないため、もうやけくそになる他ない。これこそ文字通り、日々真剣に生きる、ということだろう。
この近辺に住んでいる野生のアイルーの、カルトから送られた竹の物入れを腰に巻きつけ、は慎重に渓流の森林を歩いていた。ピクニック気分で歩けず、辺りをキョロキョロとうかがって神経を張り巡らせる。なにせ、ジャギィと呼ばれる小型な鳥竜種なるモンスターでも十分に恐怖だったのだ。はっきり言って……歩くのも、かなり勇気がいる。
本当ならばカルトにも同伴頼みたいところではあったのだが、彼にも生活があるだろうし、仕方なく一人……いや一匹で向かうことになってしまった。
森林特有の、草と土の自然な匂いと、水を含んだ空気を鼻先で感じたが、どうにも安らげない。安らいだら、後ろから刺されそうだ。
は、そっと茂みから顔を覗かせて、何度もうかがう。立派な大木が立ち並び、深い茂みで空を覆った木漏れ日の注ぐその風景に……危険なものは見えない。ほっと安堵すると同時に、は身を潜ませながらある場所へ駆け寄る。
ずっと前から気になっていた……

「……あ! あった!」

蜂の巣、である。
以前カルトと通った時に、実はひそかに気になっていたのだ。分かりやすく木についている上に、蜜がポタポタと地面に垂れる様子を見ては、「いつか舐めてくれようぞ」と思うものである。……え、思わない?
アイルーになったせいか、妙に鼻が利いて、蜂蜜の甘い匂いが頭をふわふわとさせる。近付いたせいで、一層それを嗅ぎ取って、はつい目を細める。

「さて、と……」

蜂の巣から2メートルほど離れた場所で座り込み、竹の物入れにねじ込んでいた皮袋 ( アイルーサイズ ) を取り出す。蜂の巣をもぎ取ろうという恐ろしいことなど出来ないため、地面に落ちた蜜を掬い取ろうという魂胆である。ほふく前進でにじり寄って、地面に落ちている蜜を拾い集める。残念なことにスプーンのようなものを造る発想が浮かばなかったため、もう手を使うしかない。当然ながら蜜で酷いことになっていたが、気にしないよう一心不乱にかき集める。巣の真下に皮袋を置いて、垂れる蜜は直接キャッチ、落ちてしまったものは手で豪快にキャッチ、この半ば骨の折れる戦法で蜜を集める作業に没頭する。
とはいえそんなに多く集めてももったいないため、皮袋に三分の一程度溜まったところで止めることにした。その頃には結構な時間が経過してしまったようで、木漏れ日の影の位置がずいぶんと変わっていた。
落ち葉や木の皮が混じっているため、あとで綺麗にこし取らなければ。は鼻歌交じりで、皮袋の口を締める。

――――― そのせいもあってか、すぐ背後に近付いていた気配に、気付かなかった。

奮戦した手はべっとりと蜂蜜が付着して、さすがにこのまま歩く気にもなれずぺろりと舐める。うん、甘くて美味しい。
なんて思っていると、背後でパキリと木の枝が折れる音が響く。
蜂蜜にうっとりしていた甘やかさなど、一瞬で消え失せる。辺りの静寂が急に張り詰めて、感覚が冷えていく。
……フッフッ、と何かの鼻息が聞こえる。自分以外の気配が、確かに背後にある。
ほふく前進の体勢のまま、すっかり固まってしまったは、振り返るということが出来ずにひたすらに息を止めたが、その間背後にいる《何か》は着々とさらに近付いてくる。
……ジャギィか、またジャギィか、それとも別のものか。
どちらにしても、には絶叫ものである。もうこのまま透明になりたい。などと夢を見ていると後ろの《何か》は痺れを切らしたのか「ブォン」と小さく吼えた。
今の声、聞いただろうか。どうやっても、ジャギィではない。もっと重量級の、獣のような―――――。
そこでそのまま逃走を図れば良いものを、緊張のあまりは、ついに振り返ってしまった。べたりと地に腹ばいに伏せたまま、ゆるりと見上げる。

巨大な体躯の、青毛の熊が。
甲殻をまとった太い腕と脚を地につけて。
赤い目で、そりゃもう真っ直ぐに、をガン見していた。

――――― その瞬間、の緊張は一気に弾けた。

「ィギャァァァァ!!」
「ッ!!??」

絶叫し飛び上がった時、熊の鼻先に頭がクリーンヒット。自分の頭の天辺も痛いが、相手も驚いたようで、素っ頓狂な表情をし尻餅をつく。そうなるとますます体躯の大きさを思い知らされるわけで、はこの僅か数秒の間で混乱の極みへと辿り着いていた。
この状況の打破するにはどうすればよいか、などという冷静さなどあるはずもなく、ほとんど無意識と混乱によりの身体は意思と関係無しに動いていた。
はジャンプして、つい先ほどまでは恐怖の対象であった蜂の巣を掴むと、落下する力でもぎ取り、未だぽかんとしている青毛の熊に向かって。

蜂の巣を投げつけた。

人の行動とは、謎に包まれたものも多々あるというが、今のの行動は恐らくその類だろう。が、それを改める余裕などなく、は皮袋を掴むと脱兎のごとく走り去る。
彼女の中にあるのは、今あの青毛の熊から離れることだけであった。


――――― から蜂の巣を投げつけられた、その青毛の熊はというと。
蜂の巣をしっかり両手でキャッチし、尻餅をついたままじっと見下ろす。フンフンと匂いを嗅いだ後、べろりと一舐めし……の走り去っていった方向を見つめた。



「もう、何あれ、何なの、ねえ?!」
「落ち、着く、ニャ、

突然現れたと思ったら、何の前触れもなく肩を掴まれ前後に揺さぶられるカルトとしては、そろそろ口から何か出そうである。
が、大絶叫の恐怖に見舞われたには、んなこたぁ関係ねえという状態だ。
散々揺すった後にカルトを開放したが、その彼はというと地面にぺしゃりとバターのように力なく突っ伏す。

「で、何が、あったニャ……」
「あ、あんなのがいる世界だなんて、恐ろしいわ……」

は、青毛の熊に出会ったことをカルトへ伝える。それを聞いて彼は、「あー」とまるで何かを思い出すような声を漏らし、上体を起こした。ぺたりと地面に座り、毛づくろいをしながら言った。

「それは、《アオアシラ》だニャ」
「アオ……え……?」
「アオアシラ。この辺りにいる、それなりに大きな牙獣だニャ」

……つまり、あれが大型モンスターというやつですか。
ジャギィだけで大層驚いたというのに、あの熊のようなモンスターまでいるとは……。だが呆然とするの隣で、カルトは「あれより大きな竜はゴロゴロいるニャ、ラッキーだったニャ」と慰めているのか定かでないことを言っている。
早くもこのサバイバル生活が、苦行から責め苦に変わろうとしていた。

「どうしよう、なんかもう暮らしていく勇気なくなった」
「! よ、弱音を吐くんじゃニャイ、オ、オレが……い、い……」

急に顔を赤くして何かを言おうとするカルトに、は首を傾げる。が、カルトは「何でもないニャ!」との頭を叩きつけて穴掘って逃走した。
……意味が分からない。
桜色の毛並みを整え、はそろりと腰を上げる。ここにいても仕方ない、寝床に戻ろうか、と気持ちを落ち着かせたところで気付く。

「あ……手、洗ってない」

べっとりと蜂蜜だらけの手を見下ろし、そういえばカルトの肩を掴んじゃったなーと思い起こすが、そっと記憶の奥に片付けた。
ついでに、今日のことは良い経験だったということで、あまり引きずらないようにしよう。何が良い体験かはも謎だが、そうしないと《アオアシラ》なるあの青毛の熊型モンスターに夢にまで出てこられそうだった。
蜂蜜をこし拾った空き瓶に入れた後、食事と見繕いを終えベッドに埋まった。見た目のわりにふわふわなそれに ( ガーグァの羽の寄せ集め万歳 ) 、その日はすぐに眠りに付くことが出来た。

――― が、その翌日。を再び驚かす出来事が、朝霧の中で待っていた。

いつものように、顔を洗うため目を擦りながら近辺のせせらぎへと向かったは、ろくに周囲を確認せず何の気もなしにバシャバシャと顔に水をかけた。ハーさっぱり、なんて顔を上げた瞬間。

再来、青毛の熊。

どひゃァァァァ! と悲鳴を上げたが、その声はびっくりしすぎて変な呼吸音に変わり、朝の渓流を騒がせることにはならなかった。が、悲鳴を出していればカルトに聞こえたかもしれない。後悔しても、身体は動かない。いっそこのまま石にでもなれれば良いが、青毛の熊の姿をした《アオアシラ》とはばっちり目が合っている。そらす方が難しい見つめあいは、の精神を秒単位で削る。
このアオアシラが先日のものか、それとも別のものかは区別出来ないが、とにかく危機再来に表情が凍りつく。
――― と、その時、向かいのアオアシラが足元の何かをくわえて、太い四足でせせらぎをかき分けながら向かってくる。
当然それは、の元に、だ。
一瞬この時、《前菜》などいう単語が過ぎったのだが、コチーンと硬直した彼女に動けるはずもない。互いの距離数センチというところで、目の前のアオアシラはその太い腕を振り下ろした。
……のではなく、くわえていたものをポトリと落とした。

「へ……?」

おっかなびっくり見下ろすと、ピチピチと力なく跳ねている魚。はしばらくそれを凝視し、そろりと顔を上げた。
が、そこにアオアシラは居らず、「あれ?!」と面食らう。思わず探してみれば、せせらぎの下流を凄まじい水飛沫上げながら重量級のダッシュをしている、獣のお尻が見えた。
あ、プリプリ動いて可愛いかも……じゃない。
は、足元の魚を見下ろす。結構なサイズで、両手に抱えるほどの大きさだ。アイルーサイズだからか。それを持ち上げ、何故置いていったのか非常に不思議であったが……攻撃してこなかったことを思うと敵意によるものではないようだ。
今日の朝は、焼き魚かな。
水洗いしながら、魚に刺す枝を探した。


――――― と、それで終われば、それでよかったのだけれど。

あれから、妙に視線を感じる。
が食料調達に出歩いている最中も、ガーグァ親子の後ろを歩いている時も、ケルビ夫婦と世間話をしている時も。
ジィーッと、食い入るというかもうめり込んでしまいそうな視線が、終始見張っていた。
振り返っても、そこに生き物の姿もなく、風に揺れる草木のみ。
……少し不気味だったため、決まってその場を去るのだが、数分後にはまた視線を感じる。これは、さて、ストーカー……? と思ってはみたものの《この場所》でストーカーなどはないだろう。気にしないことが最良なのかと思ったが、残念なことにそれは愚策だった。

というのも、その視線は丸一日感じたから。

陽が傾き、橙色の遮光が伸びる頃。渓流も徐々に夜を迎えるため静かになり始めていたが……の胸中はそろそろ穏やかでなくなる。
まさか寝床にまで付いて来られたらたまったものではない、と岩の上にデンと座り、しばし唸った後、バッと振り返る。背後の茂みが、ガサリと揺れる。それを見つめて……

「あの、どなたでしょうか……?」

馬鹿正直に、尋ねてみた。
生憎、背後を急襲する勇気など、これっぽちも持ち合わせていない。
再び茂みが揺れ、豊かに成長した草木のせいで姿は見えないけれど、困惑したような空気は感じられた。
誰だ……あ、まさかアイルーだろうか。

「あんまり後ろに居られると落ち着かないので、そろそろ出て来て下さいよ」

アイルーならば安心だが、という淡い期待を込めて極力穏やかに言ってみた。茂みの向こうで何かが動いている、が、どう見てもその影がアイルーでないことは今さら気付いた。

「――― あ、あの、喜んでもらえた?」

は、「ん?」と固まる。
あれ、何だか、少年の声が聞こえたのだけれど……。十代半ばか、あるいはもう少し下の年齢を思わす声音だった。身構えたわりにずいぶん可愛い声だと、すっかりは緊張を抜いてしまう。

「ねえ、出てきておいでよ。ちゃんと、お話しよう」

きっとケルビの子どもかガーグァの子どもだろう、なんて思いこんでいた。茂みの向こうで影が揺れ、「でも……」とためらっているようだった。けれどしばらく空白置いた後、意を決したのか影が大きく揺れてのそりと動く。
そうして現れたのは……甲殻に覆われた、太い前足だった。

……ん?

再度固まるの脳裏に、不穏に過ぎるある光景。いやまさか……と目を凝らす彼女の前に、決定的な顔が現れる。
少し気だるい面持ちの、赤い目をした、青毛の熊。
再度こんにちは、《アオアシラ》である。
が内心ギョエェェェェー!と叫んだのも無理はない。が、出て来いなんて言ってしまったのも間違いなくである。
アオアシラは、のそりのそりとうかがいながら歩み寄ってくる。

「え、あ、貴方……」
「魚、喜んでくれた?」

ごつい顔には似合わない、少年の声。やはりこのアオアシラのもののようだが、どうやら見た目によらずまだ若い個体らしい……って、違う。
は、恐怖を必死に抑えて、恐る恐る尋ねる。

「えと、魚って……あの時の、子なの」
「うん、喜んでくれた?」

誇らしそうに、けれど恥ずかしそうに頭をかきながら、尻を地面について座り込む。少しだけ、それが可愛かった。

「わ、私のこと、食べるの……?」
「え、な、何で?」
「ずっと後ついてきて、捕食目的かと……」
「違う、よ!」

ブォォォ、と低い声で唸ったが、今度はそれは怖くなかった。
アオアシラは慌てて首を振ると、「ちゃんと、代わりになったかどうか、心配で」と小さく呟く。

「……代わり?」
「この前、蜂の巣くれた」

どうやら、あの逃走記憶の、アオアシラであったようだ。
ただは、蜂の巣なんてあげただろうかと悩む。あの時はとにかく逃げることに集中していたから、その間の出来事など全くあやふやだ。
けれど、目の前のアオアシラは嬉しそうに身体をゆすっている。

「アイルーと話すなんて、初めてだ。僕の言葉が分かるなんて、珍しいね」
「そ、そう? 言われてみれば、私も何だか不思議な気分……」

普通の人間であれば、きっと今のアオアシラの声は獣の鳴声にしか聞こえないのだろう。
そう思うと、だんだんとこの不可思議なことも愛しく思える。
当初あった恐怖心は薄れ、は警戒心を解いていた。

「別に、気を使わなくてもよかったのに」

ぱたりぱたり、と桜色の尾を振る。アオアシラは首を横に振って、笑うように口を開けた。

「……居なかったから、そんなことしてくれるヒト。だから何か温かくて、つい」

アオアシラは、強面な顔を手で擦って、グルグルと喉を鳴らす。
モンスターの生活がいかなるものか、まだは理解していないが、ただ何となく……価値観や精神構造の違いは、何となく分かったような気がした。

「……私ね」

は岩の上で立ち上がると、少しだけアオアシラを見下ろした。

「いつもは、あっちの……木がたくさんある場所にいるの。良かったら、いつでも来てね。
食べるという考えは、もちろん無しの方向で」

嬉しがるあまりだったのか、突然あがったアオアシラの咆哮に、が岩の上から転げ落ちるのは数秒後のことであった。


――――― 追伸、アオアシラの男の子と友達になりました。
アオアシラは、史上最強の萌えキャラ。
と思い込んでいる管理人です。え、萌えキャラですよね、どう見たって。

2011.06.04