それでも、きっと(1)

背中を覆う、大きな翼。
折り畳んだまま地面を歩く事が、もっぱらのの移動手段であったけれど、これをこのままお飾りにしておくには邪魔であるしあらゆる面において効率が悪い。
何より、そんな事では今後厳しい生活になり、いつギルドやハンターに目撃されるか分からないのだ。

望んで竜の姿になった訳ではないけれど、しかもそれが親しくなった人々曰く《新種の竜》《未確認生物》であっても、ともかく早くに行動した方が何よりも事態を救う最良の手段である。


――――― という事で、サバイバル教官であったアイルーのカルトと、ベテランオトモアイルーのヒゲツと共に、の飛行訓練が計画された。
高らかに宣言したカルトとヒゲツが、ユクモ村へ一度戻っていったその翌日。早速カルトが現れ、えいえいおーと腕を上げた。
まだ眠っている、を叩き起こして。

ただでさえこの洞穴、岩盤剥き出しで眠りにくいのに……。
寝ぼけ眼のまま、とカルトは木々が特に密集する深林部へと移動していた。



――――― とは云ったものの、そもそも飛ぶという事はどういう事なのだろうか。
翼持たぬ人類は、空を飛ぶ事を夢見てあらゆる機械を生み出していたが、実際翼を手に入れても使い方はまるで分からない。

……翼は、何とか広げられる。さて、これからどうすべきか。

『……分からない』

パタパタ、とは揺らす事が出来る。だが、力強く翼を羽ばたかせるまでには至らない。
単純に、中身のに問題がある。
そもそもの使い方が分からないのでは、話にならない。

、まずは翼を動かすところからだニャ! バサバサーッて風起こすぐらいに動かすニャ!」

ファイトー、と腕を上げて応援するカルト。気の抜ける応援は、明らかに面白がっている節も臭っているけれど、文句の言葉だって通じない。
だが、翼がお飾りになっている現状は大問題であるのに違いないので、彼の言葉通りにまずは翼を羽ばたかせる練習であった。

近くの手頃な大岩の上に乗っかり、ぐっと四肢に力を込めて重心を安定させる。大きな翼を、ゆったりと広げると、その下にいるカルトの視界に影を落とした。
白い翼が開かれ掲げられた姿を見上げ、カルトは無意識の内に感嘆の声を漏らす。
十メートルと少しの体躯を支えるであろう翼は、気付かなかったが広げると非常に大きく、見た目の華奢さに反し翼の骨はがっしりとしている印象を受ける。

そして、なにより。
緑の濃い陰と木漏れ日の光を受けて、柔らかな輝きを纏う輪郭は、竜にありながらも非常に優美であった。
あれが元アイルーだとか、とても思えない。少し寂しくもなったが、じっとカルトを見下ろす竜の瞳は、彼が今まで見てきた優しい彼女のそれだ。例え、まん丸の瞳が金色の竜眼となっても、穏やかな知性は間違いなく彼女のものだ。
だからカルトは、直ぐに受け入れた。影丸やセルギス、レイリンたちが戸惑っている間に、それを理解していた。

「さ、ファイトだニャ、まずは練習あるのみニャ」

再度告げたカルトに、は小さく頷いた。
出来るかどうかは別として、まずはやってみよう。
最初に自然と動かすところから意識して、ゆっくりと羽ばたかせる。
バサ、バサ、と揺れる音の感覚が徐々に狭まり、生み出す風が地面を跳ね返りの身体を押す。
地面へ這い蹲り、吹き荒ぶ翼の羽ばたきの風に耐える。

「頑張れニャー! いけるニャ、今ニャー!」

高らかに、カルトが告げる。
その声に後押しされるように、の胸に僅かな緊張と不思議な昂揚が抱かれ、強く岩を蹴った。


カルトの上にジャンプしました。


ギャァァァァ、と絶叫したアイルーの鳴き声が、その日渓流に木霊した。
その凄まじい声量に、ケルビたちは逃げ惑い、ジャギィまでもが巣へ一目散に逃げ帰ったという。



「お前危ないニャ! まずはちょっとくらい浮けニャ!(怒)」

あわや潰れたミートパイの大惨事から、奇跡的にも飛び退いて回避したカルトより小一時間説教を食らった
申し訳無かったとは思うけれど、いけるニャとか後押ししたのはこいつであったはずだが。

……まあ、いきなり挑戦した事が間違いであったのだろう。もっと回数をこなし、練習の積み重ねが必要だ。

最終的に説教は反省に変わって、改めてまた練習する事にした。ユクモ村に用事を残してきたというカルトは、その数時間後に去っていった。

……カルトも、人の生活の中で忙しいのね。

後ろ姿を見送って、は僅かに息を吐き出す。
静まりかえった渓流に、カルトの元気な声も、賑やかな空気も、既に僅かでも残っていない。ただカサカサと草木の揺れる音と、彼方から聞こえる水のせせらぎの音が、周囲を満たしている。以前にも感じていたはずのそれを、少しだけ寂しく受け止めた。
顔を下げた白い竜は、仲睦まじく首をすり合わせるケルビの番の横をとぼとぼと通り抜け、場所を移動し崖上の台地に向かった。


緑に覆われた視界が、風と共に解放される。
崖の上から広がった、渓流の豊かな自然の風景を静かに座って一望した。
音が鳴るほどに吹き上げる風の力強さが、広げた翼から全身に伝わる。
見慣れた渓流は、何度見ても命に満ちて豊かで、それでいて壮麗で。そして、あまりにも高い透き通った空だと思った。
大地の楔から放たれてこの空を舞う事が出来るとしたら、それは確かに素敵な事だろう。
だが、静寂の中で、自らの心が震えたのをは気付いた。
竜の肉体を使おうとするだけ、かつて人間であった記憶まで消えてしまいそうだった。アイルーの時以上に、それは予想以上の速度であった。
桜色を帯びた純白の体躯、大きく立派な翼、しなやかな四肢に尻尾。そして、この顔立ちに見慣れてしまった今。

――――― もう、自分がどんな顔であったのかも、薄れているのも事実だった。

『……飛べなきゃ、駄目なのかな』

この体躯と翼で不可能なはずの空へと飛んでしまったら、今度は人間の姿を忘れてしまう気がした。
……なんて、気弱な事を呟いても、返ってくるのは吹き上げる風の音色だけである。

『……いや、飛べなきゃ、駄目よ。危険から逃れる為には』

そうやって言い聞かせて、は一人……いや一頭で、飛行練習に勤しんだ。
けれど、未だ晴れぬ迷いが重石となってか。
彼女の背の翼は、本来の役目を得る事は無く。彼女の四肢は、大地から離れる事は無かった。

空の高さに憧れ、けれど絶望し、一頭の純白な雌竜の鳴き声が切なく響いた。



――――― 結局、は飛べぬまま、さらに数日と過ごした。
その間、幾度かカルトとヒゲツ、たまにコウジンが様子を見に来てくれた。だが、結果としては僅かも浮く事は出来なかった。

もういいや、と練習しながら半ば諦めかけているは、変わらず地面を歩いて広大な渓流を移動していた。
だが、比較的穏やかであったその地に、ある時不穏なざわつきが駆け巡る。
それは物言わぬ自然から伝わる、本能の報せに近かった。

その日は、空気のざわつきを覚えていた。まるで、この地には異質なものが入り込んだような違和感だ。自然の中で暮らしすぎて、神経が尖ってしまっただろうか、なんては気にしなかった。
そうして、あまり深く考えずに、かねてより思っていた寝床整備に出掛けた。
が現在寝泊まりする洞穴は、十メートルと少しのが入って丁度よい大きさと広さで、しかも地上から幾らか離れ緑に隠れている。それでいて周囲は水も食料も豊富であり、立地条件は最高だった。
だが、所詮は無骨な洞穴。最高に、寝にくい。
岩盤に直接寝ころんでいたが、最高に身体が痛くなり朝起きればあちこちバッキバキだった。いや実際、竜の身体に酷い怪我も何も無いのだけれど。
しかし悩みは悩み、それを改善すべく落ち葉や枝などを集めて敷き詰めてみようかと、この日は試みる事にしたのだ。持ち運びには、拾い物の何かのボロの布。口にくわえて運べば何とかなるだろうと、は現在森林部の直中を散策している。

『落ち葉、落ち葉、枝、枝……』

探すまでも無く足下にあるそれらを、前足でかき集めてみたり、くちばしで挟んだりなどして広げた布の上に置いてゆく。土で汚れているのは仕方ないので気にせず、ひとしきり盛った後布の角を順番に折り畳んでくちばしに挟む。
大人が背負うのに丁度良いくらいの量しか集められないので、何度も往復する事になるだろうが仕方ない。は落ち葉と枝を詰め込んだ布包みを落とさぬよう持ち上げ、そうっと元来た道を振り返り戻った。視界も遮る緑の獣道をズボッと抜け出し、先ほども見たせせらぎへと踏み入れる。
……が、前足が地面をしっかり踏む手前で、の視界の片隅に上流でジャギィたちが騒いでいるのを発見した。
咄嗟に茂みの中に戻ると、音を立てぬよう身体を伏せて縮め、顔の先っちょだけを覗かせて窺う。

この渓流で頻繁に見られる、小型の鳥竜種ジャギィ……喧嘩した記憶はないけれど、アイルーの時にはしょっちゅう悪戯ばかりされていたので、あまり良い印象は無い。この竜の姿になってからも、毎回を見るたびに「テメエ誰だコラア」と騒がれるので極力避けてゆきたい生物ナンバー2だった。それが複数集まって飛び跳ねる光景ときたら、情けなくもこそこそ横切る事だって出来ない。
だが、輪になって跳ねる彼らの中心をよくよく見ると……見慣れない大きな影が、ゆったりと首を伸ばして周囲を見渡していた。
小さなジャギィたちよりも、遥かに大きな紫色の体躯と、立派なエリマキを持った大きな鳥竜。姿形はジャギィと通じる部分が見受けられるけれど、その存在感たるや比では無い。周囲を警戒する鋭い眼光も、獰猛な光が滲んでいる。
その大きな鳥竜は、ジャギィやジャギィノスの群れの頂点に座すリーダーたる《狗竜ドスジャギィ》であった。
集団で狩りを行う彼らは人間たちの第一の脅威であるが、そこにリーダーも加わって指示を出し統率されれば、多くのハンターも下手したら負傷するほどの危険な存在である。

この時点ではまだ其処まで知らないが、少なくともその姿と名は認知している。アイルー時代、カルトから何かと教わっていた時彼らの話も出ていたのだ。生き物の本能だろうか、不穏な警鐘を鳴らす。
の現在の姿である白竜は、ドスジャギィのサイズよりも数メートルは大きいだろうけれど、中身は残念な事に一般人。戦い方も知らなければ、翼の使い方も飛び方も知らない。もしもかち合った時に大傷を受けるのは、どう考えてもであった。
早く何処かに行ってくれないだろうかと息を殺していると、ほどなくしドスジャギィが独特な鳴声を発した。飛び跳ねていたジャギィが、途端に大人しくなる。そうして別の鳴声を出し、ドスジャギィは駆け出した。その後ろを、複数のジャギィは従ってゾロゾロと走って去ってゆく。

空気が再び静まり返ると、はようやく緊張を解き、そうっと茂みから抜け出した。いつ戻ってくるか知れないので、慌ててせせらぎの中をバシャバシャ音を立て横切り洞穴を目指す。木々が並ぶ傾斜をせっせと登り、茂みに隠れて口を開けた薄暗い穴の中へと潜り込む。
布包みを岩盤の上に置き、ふうっと溜め息をつく。は再び、そろりと顔だけを出して外を窺う。空気は、先ほどのジャギィたちの鳴声の余韻すら無く静まり返り、聞き慣れた渓流の涼やかな音色が漂っている。
周囲にも本能的に危機を察するような気配もなく、ほんの一瞬の出来事のようだった。
安堵はしたけれど、一体何の群れであったのかとやや気にもなった。だが同時に、妙に胸に残ったのだ。
この姿になって初めて見た、立派なエリマキの中型鳥竜……ドスジャギィ。雄のジャギィが成熟し至る個体だが、鳴声一つであの喧しさを統率するのだから、今になって思えば非常に頭が良い。よりも数メートル小さくとも、野で生きる動物の美しさと力強さを宿す姿が鮮明に残っている。

そう、人の生活を忘れられず、かといって竜の暮らしを完全に受け入れられない、自分などと違って……。

『……やんなっちゃう』

そう呟いたのは、一体誰に向けてだったのだろうか。
吐き出したつもりが喉の奥に異物感を残したまま。の心が急速に重みを増す中、やや頭を項垂れ、洞穴へと戻る。


――――― だが、その時。


キャァァ……


まるで、金を切ったような、悲鳴だった。
実際は微かな空気の振動であったけれど、の鼓膜に直接ぶつけられ震えたような錯覚があった。
遙か遠くで鳴る掠れた音に、の意識は身体と共に外へと向かう。
其処には変わらずの静寂があり、豊かな草木に周囲を覆われ葉音が包み込んでくる。
だが、静かであるほど、の中の警鐘が強く鳴り響き、不可思議な恐怖と焦燥が増してゆく。心地良いはずの葉音が、ざわざわと、不穏な囁きにすら聞こえてくる。

は顔を上げ、見えぬ空とその先の高みを追いながら、酷く緩慢に足を踏み出した。
のろり、のろり。恐々としやんわり大地を踏む純白の四肢が、次第に加速する。泥濘にも似た土の傾斜を降りた時には、半ば猛然と力の限り駆けていた。
清水の透き通ったせせらぎを容赦なく踏みつけて超えると、細い山道へ飛び込み駆け上る。途中引っ掛かる木の枝も視界を遮る木々も、強引に押し通る今の白い竜には障害にならない。バキリバキリ、と容赦なく折れて道を開けざるを得ない。

――――― 何だろう、この緊張感は。

ドク、ドク、と不自然なまでに震えた心臓が、内側からを叩いてくる。
走るという行為に適さないこの竜の四肢は、何度ももつれ転びそうになる。けれど、は無理矢理立て直し、それでも決して速度は緩めなかった。
今までに無い速さで駆けた彼女は、崖の中腹にある台地を踏み込んだ。
ただの気のせいであるかもしれない。
ただの予感であって、何の確証もない焦りであるのかもしれない。

だが、それでも良い。後で自分で笑えばいいだけだ、ああ気のせいであったと。


――――― だって、あの時聞こえた声は。
人の、悲鳴に聞こえた。


けれど、それが裏切られたのは、直ぐの事であった。

喧しく吼えるジャギィたちとドスジャギィが、崖の上の台地で円を作り飛び跳ねて姦しく吼えていた。幾つもの甲高い声に目眩を覚えるの視界に、その円の中心にうずくまる小さな影を発見する。

――――― 激しく震える、十歳ほどの少女だった。



とりあえずフラグを立ててみる。

2012.10.09