それでも、きっと(2)

――――― 事の始まりは、数時間前に遡る。
が寝床改修に出掛ける前から、既に事態が起きていた。

渓流という場所は、見た通りに水と緑に恵まれた豊潤な地で、多くの動植物が育まれている。全ての季節において天候も安定しているので、その恵みが尽きる事も滅多に無い。
モンスターにとっても暮らしやすい地であるけれど、同時に人々にとっても大切な地であった。
日常生活で使われる薬の元となる草木や、木の実や山菜などの食料まで、至るところで見つけられるので近郊の村々ではたびたび人々が探しにやって来る。
そしてこの日、明朝からある小さな農村より一人の少女が薬草などを採りに足を運んでいた。本来ならば大人と共に向かうのだが、現在その村では薬の元となる植物が枯渇してしまい、其処へさらに追い打ちを掛けて農作業で負傷した者がどういうわけか続出してしまった。少女はもう一人でも大丈夫だからと、忙しい大人たちを考え飛び出してしまった。実際彼女は何度も渓流へ足を運んでいるので、慣れた道を進んで到着した。道すがらせっせと薬草などを摘んで、ついでに崖上の高地にある竹林でタケノコも採っていこうと移動していた。そうして携えた籠が一杯になったところで、早々に村へ戻ろうと元来た道を引き返したのだが。
崖上の中腹に広がった台地へ踏み入れた時、山道を登ってきた鳥竜とはち遭った。旅人には恐ろしい、ジャギィとその長であるドスジャギィである。
少女は一瞬、事態を飲み込めず呆気に捕らわれていたのだけれど、くきりと顔を向けた凶暴な鳥竜の眼差しが一身に突き刺さり。
少女のまだあどけない顔立ちが歪むまで、時間は掛からなかった。


――――― さて一方で、そんな渓流へとある二人組のアイルーが向かっていた。
何かとを案じて通う、アカムネコ装備のヒゲツと、どんぐりハンマーを背負うカルトの、お馴染みとなりつつあるコンビであった。
図鑑にも載っていない、新種の竜……それも現在のどの生態系にも当てはまらないモンスターとくれば、人の目につけばどのような事態に陥るか分かったものではない。研究者であれば不用意な行動は取らず遠くから観察する程度で、まだマシだろうが、ハンターともなれば面白半分で手を出す者が出てくる。
現状ではともかく最悪だと、彼らの知るハンターたちはそう口にして調査をしている。だがそうしていながら、彼らの横顔から容易にその内心を読み取る事が出来る。

……あの桜色アイルーが姿を消して、代わりに竜になったという、まるで夢物語のような事実。

モンスターが人の姿になったという、その手の与太話はハンターたちの間ではもっぱら有名で、酒の席の笑いになっていたが。
よもやそれが現実に起こりうるなど、思ってもいなかっただろう。

いや、それだけでなく、が竜となってしまった事実……それが、彼らを困惑させていた。特にセルギスは、ジンオウガの姿で暮らした最後の数ヶ月を支えたと立場が逆転してしまった事に、どうすれば良いか考えあぐねているようだ。

……まあ、そうだろうな。あの姿の時もっとも側にいてくれた者が、今度は言葉の交わせぬ竜となれば……。
ヒゲツも、人のことは言えず、胸にはわだかまりが残ったままである。
後悔とは名の如く、後になって理解するものらしい。

( ……もっと早くに、言っていれば良かったのかニャ )

今となっては、全て遅い事か。もう彼女の、あの声も聞く事は出来ない。

「――――― ヒゲツの兄貴、大丈夫ニャ?」

不意にカルトが、窺った。ヒゲツはハッとなって意識を戻すと、「ああ」と返した。

「もう少しで、のいる場所だな」
「そうだニャ、アイツ少しは飛べるようになってると良いんだけど……」

そう呟きながら進むカルトに、ヒゲツは気になっていた事を尋ねた。

「カルトは、が竜になってもあまり気にしていないようだな」

カルトは、一度ヒゲツへ顔を向けた。が、その表情は全く変わっておらず、むしろ不思議そうにもしていた。

「別に、あんまり気にしてないニャ。まあの方は大変だろうけど……オレがにする事だって、変わらないのニャ。アイツはオレがついてないと駄目だから付き合ってやるのニャ」

なんて、呆れながら告げたけれど、カルトの目は笑みを浮かべている。彼女に対する想いは、姿形が変わっても褪せる事も無いのだろう。
ヒゲツは小さく笑い、「そうか」と呟いた。

……こういう真っ直ぐなところは、俺も見習うべきか。

だがその頃、彼らがそれぞれ想う白竜―――は、とんでもない事態に出くわしていたのであるが。



『……何、あれ』

呟いた声に、答えるものなどいない。
ただ目の前に広がる光景だけが、意味のない疑問を肯定する。
踏み入れたは良いが、そのまま動けないの耳には、姦しい鳥竜の鳴声が不愉快に届いていた。
の、視線の先で。
数匹のジャギィと、ドスジャギィが輪になって何かを取り囲んでいる。それは、十歳前後の小さな女の子であった。地面にうずくまって、小さく縮まる身体は遠目でも分かるほどに震えている。転がっている籠からは、採集したのだろう、薬草や毒消し草の類のものが零れ出ており、ジャギィの足が踏みつける。
近隣の山村の、子なのかもしれない。少なくとも、ユクモ村の衣服ではないからそうなのだろう。

……いや、そんな事は今はどうでも良い。

ただ確かなのは、少女は非常に危険な状況だと言う事だ。
そうして自分は、此の場に踏み込んできた第三者となる。
特に、ジャギィやドスジャギィにとっては……。

少女を笑うように囲んでいたジャギィの内の一匹が、山道の下り口で佇むに気付いた。キロリ、と大きな爬虫類の瞳がを見定めると、ドスジャギィに教えるように声音を変えた。
一斉に、彼らの視線がへと向く。その目には、明確な敵意が浮かんでいた。
さながら、邪魔者が入った、もしくは獲物を横取りしに来た、とでもいうのだろうか。
は、びくりと身体を揺らすと、どうしようかと足踏みをする。

『あ……』

逃げようと、思った。けれど、うずくまる少女を見ると、それを是とする訳にもいかなかった。
なまじ姿は竜でも、心は人間だからだろう。
突如踏み込んでしまった事態に、は困惑に狼狽えたが。

相手は、そうではない。
野で生きてきた純粋なる竜であるジャギィとドスジャギィにとっては、他に思う余地無く介入者。横取りをしにきた敵である。

を見るや、ジャギィが標的を変えて足下に駆けてくる。そうして、無防備な前足に向かって、細いながら牙の並ぶ顎を開いて噛みついた。
急に走った痛みは、さほど大きくはないが十分に混乱を呼び、は声を漏らした。

『ちょ、いった……?!』

みっしりと白い鱗が覆う足は、ジャギィの牙に血が出るほど柔らかくはないようだが、ちくちくと前足と後ろ足を噛まれてはさすがに。
は慌てて振り払うも、しつこく噛みついてこようとするものだから困る。

『べ、別に何も貴方達に何かするわけじゃ……ッもう、い、痛いってば!』

情けなくそう叫んでも、ジャギィは辞める様子もない。耐え兼ね、は無理矢理蹴飛ばして、尻尾を振る。身体よりも長いそれは、バシリとジャギィを払う。抜け出そうとして走ると、数匹ジャギィをはね飛ばしてしまったが、安堵も束の間である事を知ったのは直後だ。

の前に、大きな影が突進する。獰猛な鳴声を放ったそれは、彼女が認識するよりも早くに、顎を開いた。
え、と微かに視線を向けた瞬間。

――――― ギャリ、と喉元に鋭い牙が突き刺さる。

ジャギィの噛みつきなんか可愛く思えるほどの、凶悪な痛みだった。
軌道を押しつぶされる圧迫感に困惑するの視界に、ドスジャギィが映った。鳥竜と云えど竜、との体格差は数メートルも小さいけれど、迷いの無い分その力は途方もなく思えた。

『ッあァァァ!』

長い首に食らいついた、ドスジャギィの牙が食い込むのが分かった。
ぞっと震えて、夢中になって首をしならせると、引き剥がれたところで慌てて離れた。
ドスジャギィとジャギィから距離を取ったところで、自身を確認する。血は……出ていない、けれど首回りはヒリヒリして鱗が剥がれたかもしれない。

何これ、何なの。

不確かな恐怖は、を青くさせる。
状況を飲み込めない、けれどただ朧気に分かる事は、目の前の彼らは自分の命を奪おうとした事だった。
……分かっていたつもりだったが、いざ降りかかると何と恐ろしい事か。人で無くなった事で、今度は野生のものたちと争わなければならないなんて。あの人は、こんな恐ろしさを乗り越えたのだろうか。

( ……出来っこない )

あの人も耐えたんだから、なんて妄言に過ぎなかった。
あの人は元ハンターであったから戦う術を持っていたけれど、自分は一般人だ。あらがう手段なんて、最初から持っていない。
そんな自分が、ドスジャギィとジャギィにだって勝てるわけがないのだ。
怯え、震えたは数歩後退したけれど……。

「ひっく……う……ッ」

不意に届いた、少女の泣き声。
地面にうずくまり、の足下で震える少女のそれは、か細くジャギィの声にかき消されてしまいそうだった。
そうして、見下ろしたの視線と、顔を上げた少女の視線がぶつかる。少女はを見るや一層恐怖を露わにしたけれど、動く事だって出来ないのだろう、ギュウッと身体を小さくさせるばかりだった

……人の心の影響か、子どもの心から怯えた泣き顔は堪える。


「何だ、これは……一体……」
「……ーー!」


緊張が満ちる台地に、響きわたる声と、小さな複数の足音。
テテテッと駆け寄ってくるその音に長い首を振り向かせると、小さなアイルーとメラルーが武器を構えていた。見慣れた彼らの姿を見て、は安堵に表情を緩める。
だが、ジャギィたちにとってはさらに邪魔者が増えたようなものだ。
リーダーの放つ鳴声に合わせ、彼らは標的をから再び獲物である少女に定めるや、飛び跳ねるように駆けてくる。

ジャキ、と大剣を握りしめたヒゲツがスピードを速めるが、恐らくそれよりもジャギィの牙が届く方が先だ。
足下の少女を見下ろし、が取った行動は、多分きっと愚かであったのだろう。
咄嗟に身体を伏せ、うずくまるその子を前足に抱える。そうして振りかざされた牙は。

『ッ! やっぱり痛い!』

自身の首で受け止めた。

「……え?」

少女から微かに声がこぼれていたが、今は気にしている場合でもない。相変わらずチクチクした牙は厄介で、えいやっとがむしゃらに首をしならせて払う。思いの外ジャギィは吹っ飛んでくれたが、直ぐに立ち上がった。

、何してるニャお前、こんなところで」

カルトが、隙間を潜っての前足に手をついた。
何を言っても、キュオッと鳴いている声にしか聞こえないだろうが、それでも少女と散らばった籠、ドスジャギィとジャギィの群を見れば大凡を理解するだろう。
ヒゲツはしばし考え込んで、ともかく一般人が危険だという事を真っ先に知ると、大剣を構えて向かってくるジャギィを下からアッパーカットをかまし蹴り飛ばす。

「ッともかく、早くこの場を離れた方が良い。貴方がこんな場所に居るのも状況が悪い、その一般人は置いて戻るニャ」

そう告げたヒゲツは、群れるジャギィに剣を振りかざすが、巨体のドスジャギィの突進には成す術なく吹き飛ばされる。体勢を立て直して続けざまの攻撃を防御するのは流石であるが、アイルーやメラルーだけでは状況は最悪だろう。

……自分が戦えないから。

は、ぐっと歯を噛みしめた。
彼女の足下では、状況が分からない少女とカルトが、を見上げている。

「……真っ白な竜と、アイルー……? え、何で……?」

涙が溜まる瞳は、おどおどとして窺っていた。
カルトは少女を軽く宥め、「説明は後でするとして」とへ告げた。

、逃げるニャ。分かったニャ? ここはオレと兄貴で何とかするから、逃げるニャ」

のくちばしに、カルトの手が重なった。ぽむ、ぽむ、と柔らかい肉球で撫でられたそこに、微かな温もりが残る。
戻る、とはすなわち、この場を去れという事。こんなに小さなアイルーたちに背を向けて逃げろと、そういう事か。

( ……何だろう、すごく )

戦った事なんて無い一般人には、それが何よりも最良であるのに。

( ……すごく…… )

どういう訳か。
素直に従う事を良しとしない自身が、其処にあった。

どんぐりハンマーを手に持ったカルトが、駆け出そうとしたその直前に。
は、抱えた少女を後ろへ解放し立ち上がる。動き始めた白竜にジャギィたちの視線も集まったが、はのそりと踏み出すとカルトの隣をすり抜け、ヒゲツの背に首を下げる。開いたくちばしで彼をくわえて拾い上げると、ポンと後ろへ下ろした。
……?」不思議そうなカルトとヒゲツの声を足下から聞こえたが、は黙したままジャギィたちを見た。

……人であった頃の生活から離れてしまったせいか、それとも獣の身体で生活するあまりにもう慣れてしまったのか。
どちらにしても、も自身で笑ってしまうほどに、先ほどまでの狼狽えようが嘘のように静まり返っていた。
あるいは、危機に直面した時に生まれる、防衛本能だろうか。

歌うようにしか鳴けなかった声に、グルグルと這う低い唸り声が増していいく。

『――――― それは俺たちの獲物だ。何で邪魔をする』

突如として聞こえた、第三者の声。
年若く、粗暴な青年の印象を受けたが、は一瞬驚きながらも直ぐに落ち着いて聞いていた。
……ああ、そうか、獣になっても聞こえるらしい。
は考えずとも、何故か理解した。

『今の、貴方の声?』
『……答えろ、竜。何で邪魔をする』

青年の声の主―――ドスジャギィが、ぎらりと睨む。それに呼応し、ジャギィらはその甲高い声を上げて飛び跳ねる。
はそっと身体の向きを直す。台地は広いけれど、滑落すれば危険な剥き出しの崖が直ぐ隣にある。その緊張が、向かい合う眼差しの間でさらに増した。

『お前も、それを狙っているのか』

それ、とは恐らく少女の事だろう。
ビリ、と背筋が震え、踏みしめた四肢に力が増した。ゆらり、と揺れる長い尻尾が、岩の地面を撫でる。

『……別に、食べるつもりはないわ』
『なら、何で邪魔をする』
『……きっと貴方には分からないわ、リーダー』

微かに首を傾げる仕草を見せ、ドスジャギィは一歩踏み込む。

『私は貴方たちと同じ竜だけれど、貴方たちは違う。貴方たちとは、絶対に』

恐らく言葉という形で意志疎通は出来ているけれど、意味までは理解していないだろう。ドスジャギィの目には、変わらず敵意が滲んでいる。その目に浮かぶものは、目の前の乱入者への敵対心と、その後ろにある餌への欲求だけだ。

……私もいつか、こうなるのだろうか。
人間の頃の生活を忘れ、本能のまま生きてゆき、いつか同じ人間さえも、いや下手したらアイルーだって食べようとするような日が。

は思った。けれど同時に、強く望んだ。
人であったからこそ、非生産的なこの感情も行いも、手放したくはないと。
広大な自然では、きっと取るに足らない事で、いつか呑み込まれてしまうだろう事は微かに思えるが、それでも今は。
こんな竜に対し態度を変えず接してくれる彼らも、かつて同じ姿であった少女も、目の前の生き物に食べさせるなんて出来やしなかった。

……セルギスさんだったら、どうしたのだろう。

不意に思い、きっとこんな事はしないだろうなと思った。

『……ごめんね、貴方だって、ただ生きる為なのにね』

でも、とは呟き、低く首を下げた。

『私はまだ、感情まで《そっち》に行きたくないな―――――』

の目の前で、ドスジャギィが吼える。
カルトとヒゲツは武器を握りしめ、少女をかばった。
獰猛なその鳴声を全身で聞きながら、は大きく息を吸い込んだ。竦み上がる身体を叱咤し、奮い立たせるように、腹の底から高らかに放つ。
その声は、がこの竜の姿に変わってから初めて響かせた、獰猛な咆哮であった。
普段の歌うような美しい声とは一転し、名だたる竜にも勝るその声は、渓流の静けさを打ち破る。
それを合図とし、ジャギィたちが跳躍し四肢に噛みつく。その痛みはやはり目をしかめたけれど、耐えようと思えば何て事はない。振り払わず、そのまま踏み込んできたドスジャギィを見据え、その顎が開いたと同時に。
長い首を鞭のようにしならせ、真横から打ち付けた。
もちろんやり方は適当で、強引さの方が強いけれど、もともとの体格差があった事が幸いしドスジャギィの身体は舞い、岩壁に叩きつけられる。
その拍子に、四肢に絡みついていたジャギィも吹っ飛んでいった。

ぱっと、は僅かに瞳を緩めた。

だが。

「ッキャァァァ!!」

甲高い悲鳴が聞こえてきて、首を向ければ。
いつの間にやら一匹、無防備な少女の後ろに居たではないか。いや、きっと恐らく、先ほど蹴飛ばした時に気絶でもしていたのだろう。復帰して、当初の獲物を狙う事にしたのか。
ギョッとなったのは、だけでは無かっただろう。カルトとヒゲツは気付いたが、武器をかざすよりも先に身体が動いてしまい、もろに突進を食らってしまっていた。
オトモアイルーといえど、体格差というものは時にあらがえないもので。
毛糸玉のような軽いカルトはもちろん、あのヒゲツまで地面を跳ね、ついでに後ろの少女まで一緒に押されてしまった。

けれど、その背後には。
あの忌まわしい崖が待ちかまえていて。

二匹は持ち前の獣並の集中力で少女を助けようとしたけれど、腕を掴む事くらいしか出来ず。
は身を翻し、ジャギィは蹴飛ばしながら駆け寄って前足を伸ばした。

『カルト、ヒゲツ!』

けれど、その鉤爪の先が、あと少しで触れるところで。

―――――」

するり、と。彼らは、断崖の縁から転がり落ちていった。
ほんの一瞬だけ、カルトとヒゲツと視線がぶつかった。
だが、それが助けてくれるわけでもなく、彼らはそのまま呆気なく降下して遠ざかっていって。

……まるで、縋るような。助けを乞うような、眼差しだった。

ざわり、と戦慄いたの背が、何かに突き動かされる。
無意識下で彼女の翼は、微かに広げられ、彼らを追い迷わず断崖を飛び降りた。



実際のところ、何を考えているのだと、自分でも思っていた。
目を開けられぬ風圧と、途方もない落下する浮遊感覚に襲われながら、飛べも出来ない自分が起こす行動としては、とても正気の沙汰ではないと。

それでも、この世界にやって来てから親しくなったカルトやヒゲツを失う事も、とても耐えられないと思った。

……人間の感情だって、邪魔なのかもね。
は一人思い、そしてギュウッと噛みしめた。耳をつんざくほどに鳴る風の音が、浮遊感が、ひたすら襲ってくる。

……けれど。
地面を這うしかない、あの身体ではなくなった。言い換えれば、あの頃の姿とは異なるけれど、代わりに彼らを助ける事の出来る肉体を授かったはず。
嬉しいか否かと問われれば、迷わず「否」と返す。だが、カルトやヒゲツ、あの名の知らぬ少女を助けられるのであれば。

今だけは、人ではない、竜として振る舞ってみようと、思う。

それは今までのの迷いを一気に払い、堅く閉ざした竜の瞳を見開かせた―――――。



渓流の近隣に存在する、小さな農村。
日々の生活の必需品でもある薬効のある植物が、何の不運か枯渇してしまった其処では、一人出掛けた少女が持ち帰った大量の薬草などが配られていた。
人々の生活とは切り離せない自然、だが同時に危険なモンスターも多く出没するそこで無事に帰還した少女を家族はもちろん村人は皆安堵して出迎えた。
彼らの嬉しそうな顔を見ながら、けれど少女は少し笑っただけで何かを考えているようだった。
どうしたのかと父母が尋ねると、彼女は首を振って何でもないよと返した。

「……それにしても、こんなにたくさん。頑張ったね、大変だったろう?」
「ううん、私は平気だったよ」
「でも危ないから、もう一人では行かないでおくれ。アンタが出掛けた後、最近ドスジャギィが頻繁に動き回ってるなんて隣のお爺ちゃんから聞いて、心配してたんだよ。何にも、無かったかい?」

そう尋ねられ、少女の脳裏には父母の云うドスジャギィとジャギィに襲われた光景が過ぎる。思い出しても恐怖な出来事だったけれど、少女の頬には笑みが浮かんだ。

「……大丈夫だったよ!」

……だって、綺麗な真っ白の竜が助けてくれたもん。

なんて、少女は告げなかったけれど、にっこりと笑う少女に、父母は安堵しそれ以上訊かなかった。
父母が背を向け、薬草を煎じている後ろで、少女はこっそりとポケットを探った。そして、指先に触れたものを取り出すと、じっと見つめた。
桜色を帯びた、純白の竜の鱗が一枚、小さな手のひらに乗せられていた。

「……へへ」

少女は上機嫌にそれを見下ろし、そしてポケットに仕舞う。
あの時の出来事の、秘密と一緒に。
後にそれは、彼女の幸運のお守りとして宝物になるのであった。



――――― 嵐が過ぎ去り荒れきった渓流の崖上の台地には、ようやく緊張の解けた空気が漂う。
ドスジャギィとジャギィの群れは、恐らく撤退したのだろう。其処に姦しい鳥竜の鳴声も、姿も、僅かでも残されていない。ケルビがのんびりと草をついばみ、酷く懐かしい静寂があった。

其処に、バサリ、バサリ、と悠然に羽ばたく音が近付き、ケルビたちは微かに警戒し離れていく。
透き通った水色の空を背にする白い翼が、ゆったりと風を起こして地面へと舞い降りる。静かな気品と美しさを纏っているそれは、純白の竜であった。静かに着地すると同時に、大きな翼は折り畳まれ風が凪いで止む。
ケルビたちはそれを見ると、再び草をついばみ始めた。

トン、と再び踏みしめた大地の感触が、には不思議と懐かしく感じられた。ふう、と息を吐き出して、は首を下げて顎を地面にまで近づける。その天辺から、カルトが飛び降り、後ろに居たヒゲツもさっと降りた。

「ニャー! 空なんて初めて飛んだのニャ!」

楽しそうなカルトを、は微かに笑って見下ろす。ヒゲツから無言でゲンコツを食らっていたが、きっと彼なりに気遣っているからだろうか。


――――― ……これで、良いのよね?


竜として振る舞う覚悟を手に入れ、使い物にならなかった翼は命を吹き返したように本来の役目を取り戻した。
落っこちた二匹と少女を宙で捕らえて舞い上がったその空は、眼下の渓流は、普段見ている光景とはとてもほど遠くて。

結局、自分がした事は、己を人間から遠ざけただけであったのかもしれない。
また一つ、人間として生活していた頃の記憶が離れていったような気もするが……。

すると、ポムポムとの前足が軽く撫でられた。視線を逸らすとどんぐりハンマーを背負ったカルトが見上げていた。

のおかげで助かったのニャ。あの人間の女の子も、きっと村に今頃戻ってるニャ」

散らばった薬草などを全てかき集めた籠を背負った少女は、カルトとヒゲツに挟まれての背に乗った。渓流を出る公道付近に到着すると、其処で少女を降ろしてそっと背を押した。
本来ならば、人を襲う竜に助けられた挙げ句、送り届けられた事実に彼女は終始困惑していたが、を見上げる不思議そうな瞳は嫌悪は無く。カルトとヒゲツが、この竜の事は誰にも告げないで欲しいと念を押す頃には笑みが戻っていた。泣きはらした真っ赤な頬も緩む、無邪気な微笑みだった。

実際のところ、少女と云えど人に見られた事には変わりないし、彼女が本当に誰かへ伝えない保証もない。
だが、今はもう、気になりはしなかった。

カルトはひとしきり言った後、少し口を閉ざして。それから、にっこりと笑って見せた。

「ありがとニャ」


――――― ……これで、良いのよね。


上機嫌に喉を鳴らして首を下げると、カルトがくちばしにしがみついた。

「……」

そんな彼らを、ヒゲツは静かに見つめていた。微かに表情を緩めたものの、ふっと次の瞬間には険しくなる。
あるいは今回の事で何か起きなければ良いのだがと、一抹の不安も過ぎっていたが……とカルトの和やかな光景に、今は何も云わなかった。



夢主、空を飛ぶの巻。

さてこれで、夢主が他の地域に飛んでいけるフラグが確約されました。
またこのIFシリーズも思いつきなので、書き殴っていけたらいいなと思います。
いやあ、モンハンは夢が広がりますな。

2012.10.09