顰め面に花(1)

淡い白の花弁を慎ましく咲かせた、多くの蓮華と豊かな葉に覆われた大池。いや、泉か、あるいは穏やかな流れの大河と言っても良いかもしれない。
水に恵まれた為に空気も涼しく濡れた感触があるものの、決して不快感はなく、むしろ心地良いくらいだった。
その上へ浮かぶように建てられた庵より一望する景観ときたら、素晴らしいと表現する他ないだろう。
以前、この風景を目にしてから、度々足を運び眺めさせて貰っているであるが、何度見ても飽きる事無くそう思う。
この庵の主である、水の女神の八葉院蓮美は、来訪するを拒む事は無く、「好きにすれば」と素っ気無いながらも快く庵の中へ招いてくれる。ただ、彼女は自身の住まいでありながら蓮華の花を好んでいないようで、その唇から出る言葉といえば、「泥だらけの花」である。よって、普段から機嫌の良し悪しが非常に分かりにくいのだが……。

この日は、明確なまでに、不機嫌である事がさすがにでも見て取れた。

( ……さて。どうしたものか )

開け放たれた襖の向こうの、景観を見つめながら啜った茶は温かいけれど、妙に冷たく喉を下っていく。
の隣には、少し距離を保ってキリッと座る蓮美が居る。其れに関しては、普段と同じであるものの、明らかに表情が険しい。その上、眼差しまでも鋭い。凄まじい、威圧感である。
もしや、足を運ぶタイミングがあまりにも悪かっただろうか。それを尋ねようと思ったが、それすら阻むような空気に、は景色を眺めるどころでは無くなった。
ズシリ、と沈黙が重みを増して、に圧し掛かる。だが蓮美は、何も話さない。を睨んでいる訳ではないようだが、向かう先はの背の為にそうされている気分にもなる。意味も無く、白衣の裾を整えたり、後ろ首を掻いたりしてみるが、空気を和ませるには当然至らない。
の口が、耐えかねてそろそろ開こうとした時だった。

「……他の神様方に、また貰ったでしょ」

まるで、罪を責めるような。
蓮美の辛辣な口調に、はただ肩を揺らした。その厳しい声音に思わず固まったが、じろりとした彼女の眼差しに慌てて思考を呼び戻す。

「えっと、貰ったというのは……」
「……手紙」
「……手紙……? あ、ああ、あれか?」

何だそれの事、というあっけらかんとした反応が、非常に面白くなかったのだろう。蓮美の視線は一層厳しさを増し、今度こそを睨んだ。まずい、と彼が思ったのは言うまでもない。

「小耳に挟んだ、貴方はあれをどう思ってるの」
「九条一族を、まあ手駒にしてやろうかというそういう謀の混じる手紙だろう? 俺はそういうの興味ないと、太照天にも伝えてあるから、見なかった事にして放り投げてある」
「……そうじゃ、ないわ」

蓮美が、その整った顔立ちを横へ背けると、さらりと髪が流れた。蓮華を模した髪留めで一つ束ねにされた、優しい大地の色のクセのない真っ直ぐな髪。

「……何故そんなに多く貰うのか、という事」
「……?」
「私は、神々が貴方を気にかけるのは、そんな生臭い事だけじゃないと思ってる」

ギュ、と蓮美の眉が顰められる。

「……泥まみれの花を、貴方が気にかける事は無いけれど」

蓮美はそれっきり、何も言わない。が庵を去る時まで、彼女は一切を告げずに見送って、戸を閉ざした。
何が気に入らなかったのか、身内より常々「お前はばっさりとしすぎている」と言われてきたこの男に分かるはずもなく、ひたすらに首を捻って思案するばかりであった。

彼は自らの天界での住居へ戻ると、火鉢の側に放り投げていた幾つかの文を手に取った。じっくりと眺めずとも分かる、その内容。対朱点用の最終兵器である一族に罠を仕掛けるか、あるいは取り込もうとする、何とも面白味に欠けて最初の一文から読む気にもなれない。とはいえ、短命と種絶の呪いを掛けられている一族にとっては、神の協力を得ずして事をなせぬ存在でもあるので、無視する訳にもいかない。

……が、過ぎるのは、普段に増して仏頂面の蓮美の横顔である。

「……蓮美殿は、何を怒っていたのか」

手紙を受け取った事か、それとも手紙を放り出していた事か。
ふうむ、と腕を組んだが答えを導き出せるわけでもなく、仕方ないので返事の文を出す事にした。もしかしたら、文を貰ってその真っ当な返事をしていない事に苛立っているのやもしれない。彼女はあの通りに、物事の筋をきちんと通す性格なのだから。
まあとりあえず、硯と筆を出してみるか。は机の前に座り込むと、筆の準備をし、短文ではあるが返事をしたためておく。


文を書き始めて、それから数十分後の事だろうか。
こんなもので良いだろう、と完成した文を見ていたの耳へと、女性の声が飛び込む。

「こんにちは、君、いるかしら?」

勝手知ったる何とやら、すたすたと入ってくる気配もする。
はよいせ、と立ち上がると、縁側に佇む。極々平凡な庭の中に、煌びやかな姿が現れた。雨垂れの雫のように、無数の水晶を繋ぎ合わせた装飾と、まっさらな袖無しの純白衣装に身を包んだ、金色の髪と赤い瞳の女神。那由多ノお雫だ。
彼女はが当主の座に就いていた時、当時の一族のある男と交神の儀を取り交わしており、一族に関わった交流のある人物としてのもとへ度々訪れる。

「ああ、お雫殿。いかがされたか?」

お雫はにこりと、何処か無邪気に微笑んで「近くを通ったから」と縁側に歩み寄る。すとん、とごく自然に座った彼女は、を見上げて言った。

「それと、文の事も気になったしね?」
「文……お雫殿も、ご存じか」
「ふふ、天界なんて広くて狭いようなものだもの。筒抜けよ、他の神の動きなんて」
「そうか」
「で、返事でも書いてたってわけ?」

ちらり、とお雫の眼差しが、部屋の中の机を捉える。

「ああ……放り出す訳にもいかないし、あまり上手い事は書けないが、短く簡潔に」
「でしょうね、貴方はそういう性格だもの」

クスクスと笑う彼女は、思い出を語るように呟く。「あの子が、いつも話してたもの。今の当主は、ざっくばらんとしすぎているが、物事はやり通す性格だって」
水晶の飾りが掛かった頬には、穏やかな笑みが浮かんでいる。彼女のいうあの人とは、彼女と交神の儀を取り交わしたあの男の事だろう。此処でもそんな風に言っていたのかと、何だか陰口に気付いてしまったような複雑な気分になる。

「俺は、自然に振る舞っているだけなのだが……皆、そんな風に言っていたか。やはり」
「ええ、とっても。槍の教えの基礎を築いていながら、歴代当主の中でもっともざっくばらんな性格だってね? 有名よ?」
「それは、困ったな……」

は苦く笑い、首の後ろを掻く。お雫の隣へ腰を下ろすと、「蓮美殿もやはりそれを怒っているのだろうか」と呟く。
同じ水の女神の名が出た事で、お雫はふと顔をへ向ける。「蓮美ちゃんが?」不思議そうにし、何かあったのかしらと尋ねて来たので、は数刻前の事を全て明かした。
そうすると、途端にお雫は呆れたように溜め息を漏らした。
その様子に、やはり文の返事を書かなかった事かと思ったけれど、お雫は「馬鹿」と短く苦笑いをこぼしつつ言った。

「貴方、本当に女心が分かんないんだから」
「?」
「まあ、蓮美ちゃんがあの性格だから、分かりにくいっていうのもあるだろうけど」

ふう、とお雫は細い肩を落とす。シャラリ、と涼やかな音色を奏でた水晶の首飾りが、彼女の胸元で煌めいた。

「あの子ったら、いつまでも遠慮しちゃって。私が手助けしなきゃ駄目かしらねー。……あ、ねえ、君?」
「ん?」
「文、とりあえず全部持ってきて」

唐突に告げるお雫に、は思わず言葉を反芻する。「全部?」
お雫は笑みを浮かべたまま「そう全部よ、ほらほら早く」と手を差し出すので、はその通りにして立ち上がると文を返事のものも含めて全て取ってお雫へ渡す。彼女はさっと、の返事の文にも目を通すと、「じゃ、これは全部私が配っちゃってあげるから」と懐にしまった。

「は? お雫殿?」
「なによ、駄目だったの?」
「いや、文くらい自分で……貴方のお手を、煩わせるわけには」
「良いの。いくら貴方が長い氏神生活を手に入れたって言っても、もったいないわよ、こんな事で割いていたら」

……はさっぱり、お雫が何を言っているか不明だった。
が、彼女はの理解は特に求めていないのか、続けて「あ、あと紙と筆も貸して」と言ってくる。説明してくれれば良いのに、と思っていたものの、女神に言われては従わざるを得ない。机ごと持ち上げて彼女の隣に置く。
「ちょっと待っててねー」と軽い声音で言いながら、サラサラと素早く何かを書き込む。内容は気になったが、のぞき込むのも無粋なので視線をそらしていると、ほどなくしお雫より文が手渡された。

「はい、これ」
「? これは」
「蓮美ちゃんへ」

俺に手渡すのか、との目が不思議そうに見開く。だがそのお雫は、やはり明るく笑っていて、真意を語る事はしない。

「それを届けて頂戴。そうね……ちょっと間を置いて、明日明後日にでも」

時間の指定までするとは……何か、重要なものなのだろうか。
不意にはそう思い、仰々しく持ち直すと「承知した」と大切に包みへ入れた。

「必ず、蓮美殿へお届け致す」
「ぷッ……やだ、そこまでけったいなものじゃないわよ。まあ、でも、彼女には大切なものだからね、必ず届けてね君」
「ああ、分かった。必ず」

クスクスと笑うお雫は、無邪気に輝いていた。きっと彼女なりに、蓮美殿の事を想っているのだろう。神々と言えど女同士、とんと疎いとは違って何か考えるはずだ。彼女の意志に反する行いをするつもりはないので、は律儀に文を届ける事にした。

「せっかく来られたのだ、お茶は如何か」
「あら、じゃあ一杯頂こうかしら」
「承知した、少し待っていてくれ」

そう告げて、は奥の畳の間へと向かう。
スタスタ進んでいく背に、お雫はこっそりと苦笑いを向けて、の返事の手紙を膝の上に置く。
全く持って、神々も変わらないものだ。今もまだ、第三の朱点童子一族に罠を巡らせようとしているとは。
お雫もかつては革新派の一柱で保守派の者たちと対立した事もあったけれど、少なくともこの一族と関わってから自らの考えが昔とは異なっているのを自覚している。
の一族の始祖が、風の女神――片羽ノお輪と、人間の源太の間に生まれてから長い年月が経過している。あの時から、一族に関わった天界の神々は皆変わり、この普遍であった天界も光景を変えてきている。それを良しとしないか、あるいは地上に囚われた神々を解放してきた一族の強さに興味を持ったのか、未だこのような神もいるが……お雫は、そういった泥臭い事情にはもう興味はない。

だが。

いつまでも素直になれずにふてくされる女神は、少し可哀想で構いたくなる。

「蓮美ちゃんったら……君が交神の儀で天界に来てから、ずっと好きなくせに」

八葉院蓮美という女神の性格を思えば、仕方ないか。
本当は近くに寄り添いたいくせに、遠くばかりで見つめる不器用さは、いつぞやの時とちっとも変わらない。
やはり、同じ水の神であり女の自分が、背を押してあげなくては。

お雫は一人、そう使命感を抱いていた。全く気付かない、この元当主の疎さも考えものだが……まあ、明日以降がどうなるか。
くすくすと笑って、お雫はの運んできた茶を啜った後に静かに彼の家を去った。
その足が向かう先はもちろん、八葉院蓮美のもとである。



お雫が戸を叩いて出迎えた主は、予想の通りに仏頂面であった。
むつりとした眉と口元は、普段に増して曲がっており、不機嫌さがありありと滲んでいる。もちろんそれはお雫に対してではないけれど、彼女は苦笑いせずに居られなかった。

「こんにちは、蓮美ちゃん」
「お雫様……何か、御用が?」
「うーん、まあ、少し?」

曖昧に微笑むお雫を、蓮美は首を傾げて見たものの、「どうぞ」と招き入れる。お雫は礼を告げると、凛と進む蓮美の背を見つめながら、庵へと踏み入れた。
まるで彼女の為にあるような、美しい蓮華の花が咲き誇る景観。それを横目に、お雫は通された座敷にゆったりと座った。
相変わらずむつりとしているけれど、茶を用意する几帳面さは忘れていないところが、何とも蓮美らしくもある。
蓮美がお雫の前に座ったところで、彼女は口を開いた。

「さっき、君のところへ行ってきたの」

ぴたり、と明らかに蓮美の挙動が止まる。

「気になってたしね、一部の子たちがまた手紙渡してたから」
「……」
「蓮美ちゃんも、気付いてた?」

彼女は、何も云わない。が、瞳は口以上に雄弁だ。その青い瞳には、肯定と困惑がありありと滲んでいる。
苦笑いをこぼさないよう、お雫は朗らかな笑みを続けた。

「私たちって、本当に変わらないもの。変わる事に対して怠惰になったというか、流動的な事に臆病で、いつまで経っても変わりっこない。
それでも、九条の一族たちが一生懸命生きて、戦って、馬鹿な神様方を好いたり好かれたり。
本当、面白いわよね。人間ってさ。私たちが、気の遠くなるほど昔に置き忘れたものを、教えてくれるもの」

正確には人間でないけれど、とお雫は小さく付け足すも、その瞳は慈しみを湛えていた。

「私もねー、ほら、ちょうど君の代の時にいた男の人と交神の儀を交わしたから、何だか分かるのよね。神様たちが、一族を気にかけるのは」
「……言いにきたのは、それですか」

不意に言葉を挟んだ蓮美の声は、普段以上に強ばっていた。
俯きがちな青い瞳に、微かな鋭さがある。
けれど、お雫はやはり穏やかに微笑んで、蓮美をそっと正面から見つめた。

「……ねえ、そろそろ意地なんか張らなくても、良いんじゃない?」

びくり、と蓮美の肩が明らかに揺れた。
お雫はそれに気付きながらも、そしらぬフリをし続ける。

「九条晴天王……氏神の名前の通り、くんってお日様みたいな人柄だけど、肝心なところで大雑把で、繊細な女心に気付かないと思わない? あの子、本当にあったかい性格だけど、そこが悪いところでもあるというか」
「……私には、関係ない事です」
「本当に? そう思うの?」
「お、お雫様は、私に何を仰りたいのですか」

ギュ、と膝の上で強く握りしめた手を、お雫はそうっと包む。その柔らかさと細さは、まるで慈母のようだった。

「……私は、あの子に逢って変われた気がする」

女の蓮美ですらドキリとするような、とびきり甘い声で告げた。

「交神の儀の相手の、男の子。といってもくんと同じくらいかな、見た目の年齢は。
『受け入れてくれてありがとう』なんて言うもんだから、私も思わず『選んでくれてありがとう』って言っちゃった。もうちょっと、素敵な口説き文句、考えてたつもりだったんだけどね。
その後直ぐ、あの子は寿命が来て死んじゃった。氏神にはなれなかったけど、子どもはちゃんと残していってさ……あの子そっくりの、優しい女の子だった。
―――― 彼の最期の言葉、イツ花から聞いたの。あの子らしかったなあ……。『誰か俺の事、忘れないって言ってくれ』だもの。本当は、長く生きたかったのよね……ふふ、もうちょっと早くに気付けば良かった」

私、彼の事本当に好きだったみたい。
睦言を囁くように甘く、けれどその瞳の奥には色めいた切なさが宿っている。
蓮美は口を閉ざし、お雫の声に耳を傾けていた。

「何だろうな、あの一瞬だけでも一族の想いに触れたから、今もこうしてあの子達を見守ってると思うの。でなきゃ、今頃昔みたいに興味もなく日和見してた」
「……」
「まあ、私が言いたいのは、つまり」

一転し、お雫の声は普段の朗らかさを取り戻した。

「蓮美ちゃんも、どうか踏み出してみてね、って事。遅い早いなんて、関係ないんだから」

トン、と蓮美の手を叩き、お雫は満面の笑みを浮かべてみせた。
それでも蓮美の表情は、変わらなかった。
だが、お雫は満足し、茶を飲んだ後に庵を去った。「ああ、そうそう、くん神様方への手紙の返事、ちゃんと書いてたよ」と忘れずに告げて。
その時、既に背を向けていたお雫には見えなかったが。むっつりとした蓮美の表情が、その瞬間確かに崩れ、困惑するように曇らせていた。

……私に、お雫様のように振る舞える資格なんて無い。

蓮美は眉を顰める。一人静かに座ったお座敷から、蓮華の咲き誇る周囲の水池を見つめる。早瀬のもとでは咲く事の出来ない、泥の上の綺麗な花。あれのように、自分は変わる事なんて出来ない。だから自分は、彼が天界にやって来たたったの数回も、声を掛けずに遠くで見つめていたのだ。
遅いも早いも、それ以前に蓮美はずっと遠くに佇んでいる。飛び込む事なんて……――――。


『貴方の名に似合う、綺麗な庭だ』


不意に聞こえてきた、の言葉。ハッと、息を弾ませた。
けれど直ぐに、ギュウッと唇を噛み、仏頂面の顔を伏せる。彼に綺麗なんて、言って貰えない。自分は、醜いのだ。本当に。

でなければ、こんなに陰でぐずぐずと暗く思い耽り。
彼の言葉だって素直に受け止められず、周囲を羨んで妬む事だって無い。

戸を閉ざし、庵の中に姿を隠した蓮美の心を表したように。
彼女の神域にはその日から、か細く滴る滴が絶えず降り注いだ。

その数日後、が番傘を差し訪ねて来た時も、蓮美の神域は哀愁を纏って濡れており、叩いた門の扉は冷たかった。



2012.01.08