顰め面に花(2)

―――― それを蓮美ちゃんに届けて頂戴。
そう告げられ、那由多ノお雫より手渡された、彼女直筆の文。
彼女がわざわざ時間まで指定してきたのだから、きっとよほど重大な文なのだろうと、は思った。中身を見るという浅はかな真似もせず、お雫の言葉を馬鹿正直に守ったは、きっかり数日後にその文を懐へ丁寧に仕舞い込む。赤い番傘を一本持って、彼は自らの神居である質素な家屋を出発した。

そういえば、神様方からの手紙はあれから来なくなった。お雫が配ってくれた事が、功を成したのだろうか。彼女には、生前から世話になっているなと、は散歩気分でゆったりと歩いていた。わりと細かい事は気にしない彼、既に数日前の神連中からの手紙は内容も綺麗に忘れ去っている。

そうして、しばらく進んだ後だろう。
パタッと鼻先に当たった冷たい雫に、は「お」と声を漏らして見上げ、携えた番傘を広げた。薄い色の空を遮る、朱色の傘が雨を受け止め弾く。
今一つ気まぐれで読めぬ天界の気候。各の神の神域に左右されるのは知っているが……一時大雨に当たってから、は番傘を持ち歩く癖がついており、この日も良い判断だったらしい。彼は安堵し、先を進んだが、まさかその雨が……目的の神域に進むに連れて、足を早めるとは思っても無かった。

終着点であるかの水の女神――八葉院蓮美の神域に到着する頃には、雨は既に雫と呼ぶほど可愛いものではなく、桶をひっくり返したようだった。まるで暴雨。生き物の頭もうなだれるほどの強さである。
一抹の不安も覚えたであるが、ともかく文はしっかり渡さなければと、閉ざされた門の前に立ち扉を叩いた。
「もし、蓮美殿。居られるか」少し声を張って、門の向こうへと尋ねる。返ってくるのは沈黙ばかりで、はしばし思案し。そっと、門の戸を押した。
思ったよりも簡単に開いて、は踏み入れた。無礼とは思うが、お雫の文なので今回ばかりは怒らないで貰いたい、と彼は心の中で呟く。番傘を差したまま、小道を進んで庵へと向かう。
数日ほど前にこの場所にやって来た時は、小雨も美しく彩る水辺の景観に見惚れたものだが、今は大降りの雨で何も見えやしない。あの白い蓮華の花も、きっと煙る雨の中隠れてしまっているだろう。

もう少しで庵だ、と思った矢先の事だ。

「……誰?」

庵の入り口に、主――八葉院蓮美が佇んでいた。
は番傘を少し上げた。仏頂面の女神が、の顔を見るやさらに仏頂面となって見据えてきて、萎縮してしまいそうになる。群青色の瞳が明らかに、「何で勝手に入ってきている」と告げていた。
彼女が口を開くより早く、は礼をして答えた。

「申し訳ない、蓮美殿。お声を掛けたが返事も無く……」
「別に声を掛けなくても、気配で分かる」
「……あ、いや、まあ、そうだが」

有無を言わさぬ声に、は一筋汗が背に伝うのを覚える。

「それで、ご用は」

棘の含んだ声で、蓮美はそう素っ気なく呟いた。は慌てて「那由多ノお雫殿より、文を預かってきた」と告げ、懐から包みに入れた文を丁寧に取り出す。

「……お雫様から……?」

蓮美の仏頂面に、驚きが混ざる。は知らないが、お雫は数日前に足を運んで蓮美の背を押していった女神だ。彼女からの文とは、と考え込んだ蓮美の前に、歩み寄ったが文を差し出す。濡れないよう番傘を少し手前へ押し出して、自らの背が濡れるのも厭わずに。

「……あ、ありがとう……」

少し戸惑いがちに、蓮美は文を受け取った。それを見て、はほっと安堵する。
二人は向かい合い、少しの間静寂に包まれた。ドザァァ、と降る雨が微かに緩まり、幾らか激しさが治まる。

「……蓮美殿、少し前の事だが」

は、そう切り出した。少し前――――が他の神連中より文を貰った事であるが、蓮美は多くを言われずとも察して、やや肩を揺らした。それに合わせ、一纏めにし結い上げた明るい土色の髪が波打って震えた。
は、それを別の意味で受け取り、笑みを浮かべ告げる。

「放っておいてしまった文は、全て返事を出した。俺の手元には、何も残っていない。俺が大雑把過ぎるから、蓮美殿は怒っていたのだろうな」

雨の中でも通る、彼の声。朗らかに笑う様は、本当に太陽のようだった。その明るさを前にすると、やはり一層自らの卑しさを恥じるばかりで、蓮美は「そう」と呟くしかない。怒っている訳ではないし、もちろんに落ち度などあるはずもない。
だがそれ以上何も言えず、蓮美は立ち尽くす。彼女の前ではにこりと目を細め、静かに礼をした。

「許しもなく踏み入れ、申し訳なかった。俺はこれで、失礼しよう」

彼は告げるや、蓮美と距離を取ると静かに背を向けた。その広い背が遠ざかる、と同時に、言いようのない不安も走った。それは、彼が受け取った文たちの存在と、彼の返事がいかなるものであったのか、気にしないよう振る舞っていながらやはりどうしようもなく心奪われている証拠でもある。
けれど。
それ以上、声は出ない。引き留める術は、無い。
うなだれ、顔を伏せ、溜息を漏らす。

……と、蓮美はお雫からだという文を見下ろし、おもむろに包みを外す。今度は何の話だろうか、と思って開けば。そこには、ただ短い文章が、二言程度。


―――― くんの返事は全て私が届けた。けどあの文を出した神様方は、本当に諦めるかしら?


ドク、と蓮美の心臓が飛び跳ねた。
突如として飛び込んだ言葉は、思ってもいないもので、無防備だった蓮美は肩まで揺らした。
本当に、諦めるか。このお雫の声が、耳元で聞こえてくる。


―――― 今、どうせ貴方追いかけてないでしょ。それで良いの?
くん……今度こそ取られちゃうよ?


降りしきる雨の音が、急に不気味な沈黙を孕んで背後に鳴り響く。
顔を上げて追った彼の背は、もう小さく。今になって声を掛けたところで聞こえもしないだろう。
しかし、お雫の言葉に、背を押されたのは事実で。
その大部分は、蓮美が以前より抱いていた恐怖が、今まさに具現化しようとしていると知ってしまったからだ。
彼女は文を握ったまま、蓮華の飾りをあしらった髪を乱して駆け出した。

「―――― 待って、殿!」

今あの背を止めなかったら。
根拠のない焦燥感に駆り立てられ、蓮美は普段の取り澄ました冷静さを捨て。の背を、追いかけた。
蓮美のその声は、へと容易く届き、門を出る間際で彼は振り返った。
自らが濡れる事も構わず、走り寄る彼女。普段の凛と澄ました気丈さは見当たらない。は驚きながらも、けれど慌てて番傘を差し出し彼女の側に寄る。

「いかがされた、蓮美殿。まさか、お雫殿の文に何か大変な事が……?」

そう案じて見下ろした蓮美は、何かを思い出したように狼狽えた。
「蓮美殿?」が再度尋ねると、彼女は珍しくモゴモゴとはっきりとしない口調で言葉を噛んで、そして「あ、貴方には……関係ないけど……」と呟く。
は不思議がって首を傾げる。先ほどとはまた違う沈黙が漂って、背景で鳴る雨足がゆっくりと弱まってきた頃。

「ふ、文を届けてくれた礼もしないのは……れ、礼儀に反するから」

蓮美はそう消えそうな声で告げて、の腕をぎこちなく引っ張った。庵へ来い、という事なのだろうが、彼はやはり不思議さに首を捻るばかりであった。
ただ、蓮美の横顔は少し強ばって、怯えているようでもあったので……彼は拒まず、導かれるまま蓮美の庵へと招かれる事にした。



普段通される座敷から見ていた周囲の景観は、今は雨で隠されてしまっていた。落ちる雫の激しさは引いたけれど、薄い霧のように満ちており、ささめき言のように雨垂れの音が聞こえる。

ただ、それよりもやはりが気になるのは、蓮美の様子である。彼女はいつもの仏頂面であったけれど、その陰りに哀しい色が混じっているように見えて、は姿をそっと追った。
蓮美はの顔を見ないよう振る舞いながら座敷に通した後、隣の部屋へと姿を消す。直ぐに一枚の衣を手に持って再び現れ、佇んだままのの背後へと回り、それを掛けた。
澄ましている表情なのに、そういった気遣いは何とも蓮美らしいと言えば蓮美らしい。例えどんな状況下でも、彼女は礼節はちゃんと貫き通す性格のようだ。
だが、はそれをそっと押し留めて、振り返る。華奢でほっそりした蓮美を見下ろすと、彼女はその青い瞳を少し戸惑わせ泳がせていた。は肩に掛けてくれた衣を外すと、代わりに蓮美へふわりと羽織らせる。

「俺よりも、貴方の方が濡れている」
「別に、私は」
「良いから」

少し笑って、はその衣で蓮美の綺麗な髪から伝った雫を拭う。
彼女は戸惑いを色濃くしていたが、されるがままで拒まない。だが微かに震えている様子を見つけると、また勝手が過ぎたかとは思う。

「……殿は」

けれど、蓮美が先に口を開いたので、は彼女をハッと見下ろす。

「きっと、そういう風に優しいから、どの神も気に掛けるのね」
「……文の、事か? まさか、俺が第三の朱点童子一族だから――――」
「違うわ」

蓮美の声が、否定する。声の弱さが、まるで普段の彼女と様子が異なり、は口を閉ざす。

「言ったでしょう、貴方を気に掛けるのはそういう生臭い理由ばかりじゃないって」
「他に、何かあっただろうか」
「……本当、鈍感なんだから」

それが貴方の良いところで、悪いところ。
蓮美の口からは、その言葉は出てこなかったけれど。
しかしこれではを責めているようでもあって、彼女は付け足して「別に貴方が、悪いっていう訳ではないから」と告げたけれど、ツンとした口調がやはり可愛げのないと自身で嫌悪に陥りそうだ。
は気にした様子はないが、それでも。

「俺が大雑把過ぎるのが、いけないのだろうな。肝に命じよう」

彼は笑って、決して蓮美の陰を暴こうとしたり、深くを探ろうとしなかった。
嬉しくもあって、哀しくもある。
ぽんぽん、と衣の上から濡れた冷たさを拭われる蓮美の身体は、居たたまれなさに縮こまる。
の手は、最後に蓮美の頬の隣に流れた雫を指先で払い、静かに離れた。

「しかし、今日は凄い降りだった。今は、落ち着いているが」

は顔を横に向け、開け放した襖の向こうに広がっている景観を見つめた。

「いつも見える蓮華の花が霞んでいるのは、残念だ」

何気なく告げるの言葉に、蓮美は無意識に唇を噛む。
彼女にとって、あの花は自分自身なのだから。そして、この神域も――――。
そう思ったら、やはり浅ましい女かと自嘲し。身体に掛けられた衣を、そっと外していた。

「あれくらいが、丁度良い。見えない方が、逆に気分も良い」
「……蓮美殿?」
「やっぱり私は変われない、泥の上でしか生きられないのに、早瀬のもとに向かったらきっと今以上に醜くなる」

蓮美の言葉の真意は計りかねる。けれど、彼女があんまりにも辛そうに言うものだから、にはそれがただ心苦しくて。

「そんな事は。この場所も、あの花も、とても綺麗だ」

そう告げた――――だが、蓮美の伏せがちだった瞳が開かれ、痛烈な感情を宿しを見据えた。

「綺麗なんかじゃない。私はずっと、胸の中では黒い事ばかりを思っている」

普段は凛とした蓮美の声が、痛ましく荒げられる。は驚いて、青い目を丸くした。

「神域とは神の心、気質をも表す。天気も、景色も、何もかも全てが神そのものよ。
今のこの空を見なよ、周囲も隠れて、一体何処が綺麗なの」

の声の入る余地を与えないような、次いで出てくる言葉の数はおよそ普段の蓮美とは想像もつかない。佇んだの前で、彼女は涼しさとは真逆の激しさで感情を吐露している。
……いや、あるいはこれが彼女なのかもしれない。
《女神》なんて区別をつけ、あの表面の涼しさに囚われていただけなのだ。所詮神は万能な存在ではないと、生前からも知っていただろうに。
は、上下する細い肩を手を伸ばす。だが、それを蓮美は拒むように一歩下がり、触れさせなかった。

―――― パサリ、と蓮美の足下に何かが落ちたのは、その時だ。

は気付いて視線を下げる。蓮美も彼の視線に釣られて足下を見る。「あッ」と小さな声を漏らし、拾い上げようとする。だが、その前に既には腰を屈め、それをそっと手に取っていた。
綺麗な筆遣いで、二言程度書かれた文。
決して見るつもりもなかったのだけれど、視界に入ってしまえば読んでしまう。文字を追うの眼差しを見て、蓮美は羞恥に襲われた。
彼の瞳は、しっかりと読みとっている。お雫の心遣い、その中で明瞭な、蓮美の想いを。
例えるならば、それは決して異性へ明かす事の出来なかった恋文を見つけられた、女の恥じらい。または、許されない想いの懺悔を暴かれた、恥ずかしさ。
その時、蓮美が悲鳴を上げなかっただけでも大したものだったのだろうが、それでもの正面に立てず背を向けるしかなかった。
消えてしまいたい。いっそ、この座敷を飛び出し、水辺へ身を投げてしまおうか。既に魂の存在ではあるが、泥の中で窒息して再び世に別れを告げてしまえば、あるいはこの辱めから脱する事が出来ようか。
そう思って、足はじりじりと彼から遠ざかる。近づく勇気なんて最初から無いのだ。あの時――――初めてを見て見初めたあの時から、現在までも、何処にも勇気はない。今のお雫の後押しだって、便乗するだけの気概がまだ見当たらない。
二重の意味でも恥じ入って、蓮美は全身を強ばらせて眉を顰めた。普段澄ました顔に、羞恥の朱色が走り頬を染め上げ、きつく閉ざした眦に涙が滲み上がる。

落ち着いていた雨が、再び勢いを増す。激しい音の中で、カサリと文が擦れた振動が響いて。
は、恐らくその文がお雫のものであると察すると同時に。蓮美にそんな文を持たせた理由を……さすがの彼でも、理解した。
文から顔を上げ、彼女を見つめる。細い背が、少女のように震えている。気丈な彼女が、気弱く、怯えて佇んでいる。
は文を畳むや、大股で蓮美に歩み寄る。

―――― ある種の罪悪感と悔恨、恥じらいに死んでしまいたくなる蓮美の背を。
の長身な身体が、不器用げに包んだ。

不意に感じた温もりに、蓮美は息を飲み込んだ。肩に触れた、広い胸の逞しさ。腰に回った、二本の腕の感触。ぎこちなく、ためらって。けれど、曖昧な迷いの無さ。硬直した蓮美を引き寄せる温かさに、彼女はどうすれば良いのか分からず振り払おうとした。

「俺は、口が上手くない」

蓮美の頭上で、は告げた。朗らかな声ではなく、真摯に、低い声音で。

「だから、思った事しか言えないよ、蓮美殿。女性を喜ばす言葉なんて、もっと縁遠くて持ち合わせていないが」

は一度、呼吸を置いて、ゆっくり告げた。

「綺麗だと思う、この場所も――――貴方も」

それは、何を、とは指定していないのに。
蓮美の長年閉じこめてきた黒さが、卑しさが、全て許されたような。
ついには、蓮美は顔を覆って崩れ落ちた。背中を包むの耳に届いた微かな泣き声の向こうで、雨垂れの音が次第に止んでゆき、パラパラと小雨が注いでいた。

ああ、本当、この人はお日様のよう。

蓮美は前にのめり倒れながら、の腕を強く握った。




蓮美の微かな泣き声が止むまで、何をするでもなくは彼女を抱えていた。膝を立てて広げた足の間に、蓮美の華奢な身体を納め、ただじっとして。
パラパラと小雨の降る、水辺の景観に白い蓮華たちはうっすらとしか見えない。
ぐすり、と数回鼻を啜った後、蓮美は消えてしまいそうな声で告げた。

「……殿は、そういうところが少し嫌」

が視線を下げた先には、蓮美の頭の天辺がある。一つに束ね結い上げた髪は、すっと伸びた首筋を流れ背を覆う。柳の葉のような、しなやかさ。

「何でも、笑って包んでしまうから、困る。私は、そんな風にされる器じゃないって、思ってしまうから」

言葉を聞く限りは冷徹かもしれない。が、涙をこぼした後の為に、少し声音は気弱で気恥ずかしさも含んでいる。現に今、の腕にくるまれているが、寄りかからず背を真っ直ぐにしている。蓮美らしい、意地かもしれないが。
意図せず、お雫の文が蓮美の想いを明かし、それをよりにもよって本人に読まれてしまった事も、後を引いている。

「……私は、お雫様のようになれない」

蓮美は、ぽつりと呟いて終えた。彼女の頭の天辺しかには見えないが、少し強ばった頬から、何となく表情の予想はつく。

「お雫様は、貴方が生前当主であった時、一人の殿方と交神の儀を取り交わしたと話された」
「ああ……お雫殿は、あいつと確かに交神を行った。昔から、縁深い御方だった」
「そう……あの人も、変わった。お雫様だけでなく、貴方たち一族と関わった神は皆、古い楔から解き放たれて変わった」

蓮美の声が、再び沈んだ。

「私は……変わりたかった。お雫様のように、なりたかった」

肩に回っているの腕に、蓮美の手が触れた。だが、微かな一瞬で、直ぐに離れてゆく。怯えるように。

……卑下する必要など、何処にも無いはずだろうに。
の口が開き掛けたが、蓮美は見越したように続けて「いいの、何も言わないで。自分で分かってるから」と遮ってしまう。

「お雫様のように優しく、綺麗で、朗らかな女になれたのなら。私は、貴方に……殿に、もっと素直に接したのに。こんな風に、汚い隠した感情を晒しても、口にする勇気だってあっただろうに」
「蓮美殿、俺は」
「……言わなかったのは、私自身。最初から私は、言えなかった。貴方が小さな子どもの頃、天界で過ごしていた時も。交神の儀でやって来た時も。命を全うして氏神となった今も。……言える器量なんて、無いわ」

天界に座す、多くの美しい女神たち。
あの華やかな美しさに、いつも負けている気がしていた。
に告げる言葉は、そんな劣等感からどれも甘さからはほど遠くつまらないものばかり。彼が神から文を貰う中、気にしていながら決して踏み込む事は出来ない。
何て可愛くない、と思う蓮美の頭上には、の眼差しが降り注いでいる 。それは彼女も気付いている。
だからどうしても、背後の恐怖が消えない。
暖かい腕。男性の、の腕。嬉しいのに、恐ろしい。
蓮美は、すん、と鼻を鳴らし、一度袖口で目元を拭う。
そして、の腕を今一度掴むと。そっと、解いて立ち上がる。その仕草を、座ったままのは見上げて追った。纏う着物を整え、さっと振り返った。彼女は泣き出しそうな顔を、無理矢理澄まして平気そうな表情を演じていた。

「……殿、お戻りを」

そんな絞り出したような声で、何故平気そうに振る舞うのか。
不思議に思いながらも、直ぐに理解する。普段から分かっていたが、彼女は非常に他人に対し甘える素振りは見せない。同時に、自身に対しても厳しい。その頑なさは、不器用で、彼女らしい。

だが――――。

差し出した蓮美の細い手は、の手を待っていた。それをチラリと見下ろしたけれど、の目は蓮美を見上げ逸らさなかった。
相手の想いを汲み取る――心の水に長けた様を表す、青い瞳。優しく、穏やかで、けれど芯のある瞳。
その瞳に、蓮美は息を飲む。

「貴方にとっては迷惑であったかもしれないが、貴方の気持ちはよく分かった。だが、俺の気持ちは聞いてはくれないのか?」

蓮美の細い肩が、揺れる。閉ざした小さな口が、力を込めた。

「気持ち、というと……」
「蓮美殿のお言葉に対する、俺の返答だ」
「べ、別に……ひ、必要ない。もう分かってるから」

嘘。本当は知らない。だが怖くて、聞く事など出来るはずもないだろう。
ふい、と蓮美の視線が其処で逸れる。瞬間、それを阻むように、の大きな手が伸びて蓮美の手を強く引き寄せた。踏ん張る前に倒れ込んだ蓮美の身体は、畳の上に膝をつきもつれながら、の腕に再び支えられる。
吐息が掛かるほどの目と鼻の先に、の顔がある。少し焼けた肌の、精悍な顔立ち。二十代半ばほどの若さだが、精神的貫禄がその表情にあった。
びくりと、蓮美の胸が震え上がる。掴まれた手は、決して振り払えない。嘘のように動かないのだ、払おうとしても。

「俺は確かに、大雑把過ぎると言われてきたし、女人の扱いも心得はない。生前からもそうだし、氏神になった今も、変わらない。蓮美殿の想いにも全く気付かなかったような俺だ」
「ッちょ、ちょっと」
「―――― だが、嬉しいと思っている」

赤みを帯びた蓮美の頬に、明瞭な驚きが浮かび上がった。
小さな口がハッと開き、膝立ちの姿勢のまま、を見下ろす。

「貴方の想いを。もっと早くに気付いていれば良かったと思うほどに」
「……嘘」
「本心だ、俺が嘘をつける性格でない事は今までの行動で蓮美殿も分かっていると思う」
「だって、私の想いなんて、貴方にとっては迷惑で、そんな」

狼狽えて再び逃走を図る彼女を、はもちろん腕一本で阻む。

「わ、私は、気の利いた事だって言えなくて、つまらない女で」
「まさか。実直で礼を通す、俺とは違う真面目な性格だ」
「ずっと、陰で他の女の人を妬んで、羨んで」
「凛と澄まして、少し強がって。気丈な振る舞いの中に見せる弱さは、何処か貴方らしい」
「わ、わた、私」
「―――― 蓮美殿」

声量を抑えたの低い声が、耳元で響く。宥めるように、笑みを含んでいるが、決して冗談ではない。
少女のように慌て出す蓮美の前で、はその真摯な眼差しを緩め、にこりと朗らかな笑顔を浮かべて見せた。

「真、遅くなって申し訳ない」

まるで、蓮美の劣等感も行き過ぎた想いも、全て包むような。
その瞬間、逃げ出したいばかりであった彼女の心が。既に朽ちているはずの臓が。の声と笑みで、呆気なく恐怖の壁を壊してしまい、甘く膨れ飛び跳ねるのを覚えた。
持ち前の、朗らかな笑み。その向こうにある、優しい温もりと真摯な想いを、ようやく蓮美もその目で見て、理解して、小さな唇が震え出した。
手を取る感触が、まるで熱が宿ったように急速な現実味を帯びてゆく。

「……本当に、そう思う?」

膝立ちであった彼女の足が、畳の上へと横たわる。の足の間に、距離を置いて向かい合うように座る蓮美の眼差しは、僅かな怯えもあった。

「何も思っていないような顔をして、内側ではずっと汚い事ばかりを思っていたつまらない私なのに?」

尋ねていながら、肯定して欲しい問いでもあって。

「……まさか、そのような事あるはずもない」

は、蓮美の想いを汲み取ってか、一切の迷いもなく頷いてくれた。あのお日様のような、笑顔で。

その瞬間。
蓮美の長い間抱えていた感情は、抑えが効かぬほどに喜びに打ち震えた。
無理矢理に澄ました強ばった頬が解け、の前で穏やかに瞳を細める。彼女の纏う着物の内側で、存在の増す感情に合わせて、心臓の拍動が生まれ強まってゆく。

「……、殿」

蓮美は、微かに震えた声で呟くと、最後の距離を自ら詰め埋めた。畳の上に広がった衣装が衣擦れの音を立て、の足に掛かる。

「……なら、教えて。貴方の言葉で、私の気持ちの、返事を」

青い瞳が、少女の期待と色香を滲ます。蓮美の手を掴むの手が解け、代わりに彼女の腰に回る。
ぴく、と微かに反応しながら、蓮美の手はぎこちなくへ伸びる。精悍な頬をそっと包み込み、鼻先を近付ける。小さな彼女の手のひらは、暖かく感じた。
笑みを浮かべた口元が、開く。静寂の空気にさえも響かぬほど、蓮美にのみ届くように彼女と自分が望んでいる言葉を呟けば。
蓮美は、赤く染まった頬に、再び一筋涙をこぼし濡らした。その光景がとても綺麗で、はぼんやりと眺めていた。
震えていた蓮美の唇が微かに動き、の唇を羽で撫でるように重ねる。
ぎこちなく、けれど彼女の性格を思えば思い切った仕草。はそれを何処かで嬉しく思いながら、胸に抱き込み応えた。思えば初めて触れた彼女の身体は、あの澄ました気丈さからは懸け離れ、華奢で頼りなかった。

あれだけ激しく降っていたはずの雨は、柔らかな小雨――慈雨となって庵に注いでおり。霞んで見えなかった白い蓮華たちが、ようやくその美しさに誇っていたけれど、互いの唇を重ね合いその時間に酔う二人は知らぬ事である。




あの第三の朱点童子一族から登ってきた氏神《九条晴天王》、もとい九条
一部の神は彼のもとへ文を送ったのだが、その返事を、何故か那由多ノお雫が配り回っており、どの神々も不思議そうに首を捻った。
だが、彼女は上機嫌に笑うばかりで理由は告げなかったが、ただ一言付け加えて文を渡した。

君には、もう構わない方が良いわよ。一途で生真面目な水の女神が、これからは絶対許さないから」

そうにっこり笑うお雫にも、言い表せぬ迫力があったと後に語る。
心穏やかで一見優しそうな者が多い、水の女神。本質はその通りだが、その一途さは恐らく土の女神さえも時として越え、相手を溺れさせ決して逃がさぬほどのものであると、この時神々は思ったという。

そんな印象を与えたとは気付いていないお雫は、上機嫌なまま軽やかな足取りで鼻歌を響かせていた。
あの仏頂面で不器用な女神が、今頃どのような面もちで溶けているのか想像も出来ないが、きっとさぞや甘い一時を過ごしている事だろう。

「ふふ、さすがの君も、ちゃんと蓮美ちゃんの事可愛がってるかしら」

なんて、近所の世話焼きおばちゃんのように思いながら。

長い間ある呪われた一族の元当主に恋をした、仏頂面の水の女神の想い。
とある女神の助力によって、天界の片隅で成就したのを、きっと誰も知らない。



八葉院蓮美が可愛すぎて、息が出来ない。
裏要素も入れようと思ったのですが、これは次回にしようと思います。
がっつり、がっつり、がっつり書きたい。( 大丈夫か )

( お題借用:alkalism 様 )


2013.01.14