09 再会の名前

 人と人の繋がりというのは、やっぱり不思議なもので。
 国境近くの街へやって来てから、おおよそ半年ほど。の交流関係には、まさかの【騎士】という項目が追加されていた。
 田舎からぽっと出てきたチビには、何だかキラキラして恐れ多い事だと思わずにいられない。持って生まれた怪力を理由に、一番近かったこの国境の街へ逃げるようにやってきたものだから。
 最近、街中で蒼い騎士服を見かけるたび、考えさせる。私も役に立てる事はあるのだろうか、と。例えば、夜通しの仕事にも臨む騎士や、騎士を背に乗せる真っ白な美しい竜のように。

(……あの騎士様たちも、今頃きっと、大変なお仕事をされてるんだろうなあ)

 けれど、想像もつかない。
 この怪力を隠す事が当然であると思っている今は、自信なんて。



 喫茶店が休店日であるこの日、は街の商店通りに足を運んでいた。
 煉瓦造りの建築物、街灯の並ぶ石畳の通りは整然とし、美しい街並みを形作っている。それでいて通りを行き交う人々は朗らかに笑い、親しみやすい空気で弾んでる。の隣を通り過ぎる住人は、人間だけでなく、獣人や鳥人など種族は様々だ。
 そういうお国柄でありながら他の種族と関わりが無かった故郷の村とは、やはり風景が全て違う。先日知りあったルシェの実兄――アシルは「国の中心なら華やかだろうに」と言っていたけれど、にはまだこの街も十分に華やかに映っていた。
 キラキラと瞳を輝かせながら、浮足立つ空気を隠せず、通りを進む。喫茶店で働く時には、若草色のリボンで結んでいる髪も、今は解かれて肩の後ろに柔らかく広がっていた。

 通りに連なる店先には、様々な商品が陳列されている。国境の近くという事は、つまり国と国の境にあるという事で、なかなか珍しいものが頻繁に並びだされる。こうして眺めているだけでも、心が弾んだ。鼻歌交じりにちょこちょこと歩くにも、従業員が明るく誘い文句を掛けてくれるのだが、しかし残念な気分にさせられる。何故そのほとんどが「そこの可愛い小さなお嬢さん」なのだろう。これでも既に、結婚できる齢十五を過ぎている。そしてある一点を見て、言い改められるのが、また複雑な心境だった。

 しばらくのんびりと歩いていたが、はふと果物屋で足を止め、安売りだった果物を大量に買い込んだ。村では甘い果物は多く食べられずにいたが、ここではいつだって手に入るというのだから嬉しい。
 またジャムを作って、ルシェにおすそ分けしよう。
 果物をたっぷりと入れた巨大な紙袋を、は大切に、優しく両腕で抱きかかえる。この街の人々はとても優しく、頭の天辺が他よりも低い位置にあるに気付くと、一瞬びっくりした後に道を譲ってくれる。中には、大丈夫かと声まで掛けてくれる人もいる。は微笑むとぺこりと会釈し、ありがたく道を通らせてもらう。背中には絶えず、不安そうな視線がいくつも刺さったけれど。ゴ
 リラなみの怪力なので、どうかご心配なく。



 そのままアパートメントハウスに戻っても良かったが、せっかくなので街の真ん中にある広場へ向かった。
 広々と開放的な造りをしたそこには、竜を象った石像が佇む噴水が中心に設置され、涼しい音色を辺りに響かせている。
 この広場は、人々の憩いの場でもあるが、街へやって来る商人などが荷物を運ぶ有翼獣と共に降りてくる場所でもあるらしい。確かにこの広場からは、商店通りへ直に繋がっている。アルシェンドは空路による運搬をいち早く切り開いた国でもあるらしいから、そういった場は何処にでも必ずあるのだろう。
 しかし、有翼獣が降りてくる場所といっても、慌ただしさで空気が損なわれる事はない。降り立つ有翼獣はそれほど居らず、広場を窮屈に感じさせる事もなかった。

 は大きな紙袋を抱え、ちょこちょこと小走りで噴水に向かう。お気に入りの場所は、噴水近くのベンチだ。
 ――そこまで進んだ時、水を吐き出す竜の石造の向こうに、蒼い集団が見えた。
 「あっ」は声を小さく漏らし、噴水の側からそれを眺める。
 毅然とした蒼に染まる、荘厳な騎士の制服。その側に控える、何頭もの飛竜の姿。国境支部の騎士団だろう。
 そして、一際目立つ、竜の姿もそこにあった。

(こないだお店に来た、アシルさんのお友達の……)

 薄氷色を帯びた白い鱗の、大きな竜。
 一度見たら絶対に忘れない美しい竜が、他の飛竜たちを従えるように、悠然と座っていた。
 という事は、この近くにはアシルもいるという事だ。明るい茶色の髪と瞳を煌めかせる、お日様のような友人ルシェの実兄。姿は見えないが、きっと影に隠れて見えないだけだろう。
 蒼い騎士服を着た彼らは、商人らしき人物と荷物を運ぶ有翼獣を囲んでいるようだったが……何の仕事だろうか。
 最近、知り合いの項目に【騎士】が加わったものだから、彼らの動向が純粋に気になった。次第にの身体は斜めになり、紙袋の中から果物が転げ落ちそうになってしまう。慌てて抱え直し、果物の位置を整えた。
 ……みっともないよね、盗み見るみたいな、変な真似なんて。
 お勤めの邪魔にならないようにと、はベンチに座ろうとした。

 その時。

「うお! 暴れんな、直ぐに医者のところに連れてってやるから!」
「やば、荷物が……!」

 慌ただしく響いた声に、はもう一度、彼らへと視線を向ける。
 噴水の向こう、荷物を外そうとする騎士たちの真ん中で、荷運びの有翼獣が身を捩って暴れていた。
 その激しさのあまり、やがて荷物は勢いよく放り投げられる。天高々と舞い上がったそれは、放物線を描きながら天辺へ到達し、そして――落ちてくる。

 ぽやんと見上げる、の頭上に。

 何と絶妙なタイミングだろうか。ゆるゆると目を見開くの正面から、悲鳴に近い声がいくつも聞こえてくる。落ちてくるその荷物は、を押し潰そうと既に目の前だ。

 ――きっと傍から見れば、重い荷物を抱える少女の上へ、さらに重い荷物が降って来るという、恐ろしい光景なのだろう。
 しかし、当の少女は、少し慌てたものの死を覚悟したりはしない。

「わッわッ」

 わたわたと抱えた紙袋を横に放り出し、落ちてくる荷物の影を優しく(物理的怪力で)受け止めるだけなので。

 降ってくる荷物を細い両腕でキャッチし、そのまま優しく足元へと滑り落とす。ドッスンと重厚な音を立てたそれは、麻袋だった。中身はさて、豆か、小麦粉か。
 良かった、中身が散らばらなくて。無駄になっちゃうもの。
 などと、ほのぼの笑う見た目は清楚なゴリラ級怪力少女だったが、野太い悲鳴の不協和音が凄まじい足音と共に一斉に駆け寄ってきた。

「だ、大丈夫か! お嬢ちゃん!!」
「怪我は?! 怪我はねえかッ?!」

 があっと顔を上げた時にはもう、蒼い騎士服を着た男性十数名が取り囲み、見下ろしていた。
 齢二十代前半から四十代前後までと、年齢層の幅の広い、男性の顔。その制服を身に着けるに相応しい、がっしりとした屈強な身体つきと、伸びた上背。
 ただでさえチビで華奢なには、城壁レベルの威圧感だった。
 下手したら、大怪我は免れない降ってくる重量物よりも、心配するあまり鬼気迫る彼ら騎士の方が怖いと思ってしまうほどに。

「あ、あの、その」
「本当にすまない、大丈夫か?! 何処か怪我してないか!」
「へ、平気でしゅ」

 どもるあまりに噛んだ。地味に恥ずかしい。誰もそこに着眼していなかった事が幸いだ。
 あわあわと視線を泳がせ、この状況をどうするべきかと混乱するの耳に、聞き慣れた声が救いの手を差し出した。

「おーし、そこを退け野郎共。一般市民をびびらせる騎士が何処にいるってんだ」

 ひょい、と立ち塞がる城壁を割って現れたのは、明るい茶色の髪と瞳の男性――アシルと。
 影を落として覗きこんできた、美しい白鱗の竜だった。
 の交流関係に【騎士】という項目を書き加えた、主な二人。見知った顔が近くに現れて、思わず安堵の笑みが浮かび上がった。

「ああ、やっぱり、ちゃん」
「こ、こんにちは、アシルさん。それと……」

 は、アシルの後ろに佇む大きな白竜へ視線を移す。

「白竜の、き、騎士様も」

 挨拶を返すように、白竜からも「ブオンッ」と重厚な鳴き声が聞こえた。
 覚えていて、くれたんだ。こんなにチビで薄ぺらいのに。
 ちょっぴり嬉しくなり、の表情がふわふわと綻んだ。すると、周囲の騎士達が、何故か驚愕を露わにした。

「副隊長が……」
「反応した、だと……?」

 そんな呟きに、白竜はその青い眼を鋭く光らせる。アシルは笑いながら、はいはい、と両手を打った。

「詮索は後だ。ごめんな、怪我は本当になかった……みたいだね、うん」

 何かを察したように、アシルは頷く。丸太の輪切りの超高速ストレートを受け、なおかつ小麦粉袋三つを優しく持ち上げる光景を目の当たりにしたのは、このアシルである。

「本当に大丈夫か? あの位置だと確実に当たったと思うんだが……」

 一人の騎士が、表情を歪めながら麻袋を重そうに抱え、縦に置き直す。ぎくり、とは全身を跳ねさせたが「私の直ぐ手前で落ちたので大丈夫でした」と過去最高速で思いついた言い訳を口にする。「そうかあ? それなら良いけど」騎士は不思議そうにしたものの、それ以上問答をしなかった。彼らだってさすがに、こんなチビで細い小娘が麻袋を優しくキャッチしそっと滑り落としたなどと、想像もつかないだろし、言っても信じないだろう。
 第一、あまり言いたくない。
 は、小さく息を吐いて、安堵をこっそりと浮かべる。

「あちゃー……でも、ちゃんの荷物は……」
「え? ……あッ?!」

 は勢いよく視線を下げ、足元を見渡す。
 降ってきた荷物は優しくキャッチして無事だが、その代わりに、放り投げた果物の紙袋は。

「あ~……」

 さすがに落胆の声が出てしまう。三分の一ほど落とした際に潰れてしまったらしく、駄目になっていた。
 しょんぼりとはしたものの、人の荷物が駄目になるよりは良いと思う事にし、散らばった果物を拾い上げる。多少の傷くらいは、どうせジャムに変わるので気にしない。
 ちょこちょことがしゃがんで拾っていると、見かねたのか他の騎士たちも手伝ってくれて、汚してしまった広場の地面も綺麗にしてくれた。「水かけとけ、水」と、噴水の水をバシャバシャ落とすという、かなり大雑把な手法であったけれど。
 皆さん優しい。は最後に彼らへ、ぺこりと礼をした。



 ――場が落ち着いたところで。
 白竜とアシル曰く、見回りに出た時、ちょっとしたアクシデントが発生した、との事だった。
 彼らが率いていた騎士団の部隊は、街の周辺の見回りに出ていたらしいのだけれど、街へと続く街道で立ち往生する商人から救援の声が掛かった。なんでも、荷物を運ぶ有翼獣が調子を悪くさせてしまったらしい。そのため、彼らを運んでこうして広場にやって来たのだが、どうにも有翼獣の気が立っていたらしく暴れてしまったのだという。

 タイミングが悪かっただけなので、は特別怒ったりなどしなかった。むしろ、彼らの職務の邪魔をしてしまったようなものなので、申し訳ないと謝る。

「さて、とにかく、連れてきた商人さんと一緒に荷物を取引先に運んで、有翼獣を医者に診て貰おう。それで一先ずは任務完了だ」

 指示を出すアシルの姿は真っ直ぐと伸びて、はきはきとして、翻る蒼い制服が凛々しく似合っていた。彼は、部隊長なのだという。今一つピンと来なかった言葉であるけれど、ああこういう姿を指すのだなと、は知った。

「副隊長は、さすがにその姿じゃ街中には入れないし、他の飛竜を見ていてくれ。直ぐに戻る」

 アシルはそう告げると、商人と有翼獣、他の騎士たちを連れて離れていった。商店通りへと向かう姿をぼんやりと見送るは、その場に佇む。
 彼女の背後で、白竜――テオルグは静かに腰を落とし広場へ座る。他の騎士たちの騎竜である小型の飛竜(といっても全長五メルタはあるのでそれなりに立派な大きさ)にも座るよう促した後、改めて少女の頭を見下ろした。座ったところで、相変わらず彼女の頭の天辺は凄まじく低いところにある。
 の視線は、国境支部の同僚たちの背を追いかけていた。純粋な興味か、それとも。

「……気になるか、嬢」

 落ち着き払った低い男性の声が、の頭の天辺に落ちてくる。振り返り見上げると、首を少しだけ下げた白竜の頭が斜め上にあった。四本の角が伸びる凛々しい輪郭は、陽の光を受けてキラキラしている。
 嬢。そんな風に呼ばれた事なんて無いから、は一瞬動揺し、肩を揺らしてしまった。つい先ほど、店の人々にお嬢さんと呼ばれたけれど、大きな白竜に呼ばれるそれは響きが異なる。田舎から出てきたばかりの小娘を、まるで、令嬢のように。何故だかとても緊張と恥ずかしさを感じてしまい、それを懸命に隠し頷きを返す。

「ち、近くで騎士様のお姿を見る事は、今まで無かったので」

 薄氷色を帯びた白鱗と、混じり気のない澄んだ碧眼。間近で見る美しい竜に緊張したのか。それとも、低い男性の声で告げられたから、恥ずかしさを覚えたのか。には判断出来ない。あんまり見ていると目がキラキラして眩みそうだったので、視線を外して前を見た。もうアシルなどの、蒼い騎士の背は見えない。
 緊張を抱くの背を、風が撫でてゆく。ほんの少しの静寂が、の忙しない心を宥めた。ふう、と一度だけ小さく息をつく。

「……騎士様は、こんな風に、色んなところで活躍されてるんですね」

 は、小さく呟く。しみじみとした響きが聞こえ、後ろに座るテオルグは呼気を漏して返す。

「特別な事はしていない。課せられる事を全うし尽くす、それだけだ」
「は、はい。でも……私、そんなお姿も見ないところから、来たので」

 恐縮したように、の小さな身体が縮こまる。ぎくりと、人知れずテオルグは焦った。だが、は不意にパッと顔を上げると、「だから間近で見れて嬉しいです」とはにかんだ。緊張に染まる頬はやや強張っていたけれど、そよ風に似た清楚な声は変わらない。
 純粋な、興味といったところだろう。騎士だから、ではなく、初めて見たものへの興味。悪い事ではないと、テオルグは思う。彼まで和んできて――となったところで、慌ててハッと意識を戻す。いや和んでどうする、待機中に。緩みそうになった気を、一気に引き締めた。
 後ろで白竜が自問自答してるとも知らず、はほのぼのと言葉を紡いだ。

「……田舎の村から来て、騎士様とお話をしたのはこれで三人です。ありがたい事です」

 ふふ、と微笑むの頭上、凛々しい白竜が「三人?」と呟きをこぼす。返ってきた竜の低い声は、不思議そうな響きを有していた。
 そうか、この白竜――竜に転変した竜人からしてみれば、もしかしたら国境支部の仲間なのかもしれない。
 はそう思った。

「友人のお兄様の、アシルさん。今、こうしてお話している、白竜の騎士様。それと……」

 笑みを含んでが告げた言葉に、次の瞬間、白竜テオルグは一人静かに衝撃を受けた。

「お店であったとあるパーティーにいらっしゃった、黒髪の竜人の騎士様です」

 あ、竜人の騎士様とお話するのは、二度目でした。なんて、些細な事を思い出して言いながら、はほのぼのと笑う。

 しかし、その後ろでは。
 動きを止めたテオルグが、石像のように凍り付き座っていた。


 喫茶店の、とあるパーティーにいらっしゃった、黒髪の竜人の騎士。

 ……。

 俺だ。

 俺の事ではないか。


 三人なんて、どこ部隊の誰なんだと思ってしまった事も含んで、テオルグは己の顔を何度も想像の中で殴り飛ばす。この場が自室であれば、間違いなく現実で殴ったところである。
 その時、彼はようやく思い至った。彼女は、竜へと転変した今の姿のテオルグを知らないでいる。あの喫茶店の片隅で出会った時の、黒髪と碧眼、額から反り出た四本の角に尖った耳の、人の姿のテオルグしか見ていない。
 繋がるはず、ないのだ。目の前の大きな白竜と、喫茶店の騎士が。そして別人枠で数えられてしまっても、ある意味当然の事ではないか。
 そう冷静に思いながらも、叫びたくなる彼が確かに居た。苦行の記憶の苦さも同時に思い出してしまった事もあるけれど、それ以上に、果たすべき事を忘れてしまっていた己の失態は何よりも大きい。


 人の姿であったとして、竜の姿であったとしても。

 彼女へ名を、まだ――――。


「竜人の騎士様、夜勤のお勤めやってるのかなあ……」

 黒髪と碧眼の、精悍なかんばせを宿した、長躯の竜人。本当に大きくてびっくりしたものだ。頭の天辺は、あの騎士の胸の下、あるいは腹部にしか届かなかった。けれど、少し疲れたような面もちに浮かべられた笑みは、ほんの少しであったけれど、優しく気品があって。記憶に残り続けているのは、きっと憐憫の情が勝った事と、初めて出会った騎士であったからだろう。
 ああ、あの後、ゆっくり休めただろうか。
 がぼんやりと思考を巡らせたその時、低い鳴き声と生温かい風が、の細い背を押した。驚いて前のめりになって、体勢を整えながら振り返る。
 白い竜が、を見下ろしていた。宝石みたいに綺麗な蒼い瞳は、冴えた眼光を真っ直ぐと放っている。
 喉が反るほどに見上げるの頭上で、白竜は牙を覗かせ、顎を開いた。

「……騎士と、そう呼ばれるのはどうも好かない」

 一瞬、どういう意味なのかと考えあぐね、細い首を傾げる。

「その職に就くのは確かに私であるが、その呼び名は個人を示さない」
「は、はい……?」
「まあ、なんだ、つまりは……」

 装具を取り付けた白い巨体が、もどかしそうに身動ぎする。しなやかな体躯の向こうで、折り畳まれた一対の翼も僅かに動く。
 の正面から風が吹き、柔らかな髪が毛先を泳がせた。

「……アシルを呼ぶ時のように、名を」

 はそう静かに言われた時、白竜の告げる言葉の意味を飲み込んだ。つまり、騎士という称号で呼ばないで欲しいと、そういう事なのだろう。けれど、は「騎士様」としか呼べない。

「あ、あの、私……その……」

 名を、知らない。こんなに綺麗な、大きな白い竜人の騎士の名を。
 は、きゅっと紙袋を強く抱き込む。思わず力が入ってしまったようで、紙袋の中からミチリと嫌な音がした。
 教えてくれるよう乞う事は、失礼にならないだろうか。
 踏ん切りがつかず言葉にもたついていると、伏せがちになるの前へ白竜の顔が降りてきた。先日のように、合わさる視線と、フスフスと音を立てて吹きかけられる温かい鼻息。

「……テオルグ」

 あっと、は息を吸い込む。

「先日、名を聞いておきながら、私の名は言わなかった。失礼をした、嬢」

 まるで、落ち着きのない子どもを宥めるような、静かな低い声だった。実際、声音から察するに彼の方が年齢も上だろう。一人勝手に慌てた事にはずかしくなりながらも、は再び彼を見上げる。

 テオルグ。綺麗な、白い竜――竜人の名前を、テオルグ。

「……テオルグ、さん?」

 恐る恐るとした囁きを、小さな唇に乗せる。細い腕に抱きしめた紙袋が、クシャリと音を奏でた。不安げに窺うの視線の先、瞑目で応じる白竜が居た。許容の、あるいは肯定の意思。こんなに綺麗な竜の名を告げる許可が貰えたと、はそのまま、表情を緩ませた。

 見る見る内に、慎ましやかな花を咲かせる少女の顔。大袈裟な、と見つめながらも、らしくもない仄かな安堵と喜びがテオルグの中にあった。
 白鱗に覆われた、人間とは根本から造りの異なる強靭な身の内に。己よりも小さく華奢な、正に小動物と呼ぶに相応しいこの少女に対して。人の姿を持ちながら、本質は竜である、竜人が。

 ……竜の姿で良かった。人間の姿であれば、どのような阿呆面を晒していたか、分かったものでない。

 むず痒さを払うように、テオルグは再度身動ぎをする。体長が十五メルタもある竜がほんの少し動くだけでも、小さな人間には脅威であるが、はくすぐったそうに肩を竦める。ふわりと動く風に揺れた、陽を受けて煌めく柔らかいブロンドの――クリーム色とも言える――髪が、丸みを帯びた薄い肩の向こうで広がった。ああそうか、若草色のリボンが無いから。緩やかな波を刻む毛先が、自由にはためく。

 人間と根本から造りが違う種族というのも考えものだ。以前テオルグが感じた、懐かしいような、同族にも近いような、不思議な匂いを再び彼女から嗅ぎ取った。

 ……何だろうな、本当に。この小動物は。

 思わず倒れそうになる四肢へ、広場の地面を踏み砕く勢いの力を込め、静座する姿勢を張り付ける。

「……嬢、それともう一つ。訂正を、入れておきたい」
「え?」
「恐らくはきっと、出会った騎士は三人ではなく――――二人だ」

 の頭が、大きく傾げられる。真ん丸に見開いた緑色の瞳に映る白竜は、下げていた頭を戻し、長く太い首を起こした。再び喉が反るほどにが見上げると、白竜の後ろに空が見えた。

「まあ、あのような失態を見せたし、無理もない。人の姿を見せたいところだが……残念ながらそれは出来ないな、街中で」
「え? え??」

 グルル、と低い重厚な鳴声が、へ落ちてくる。

「――夜勤明けの身に、嬢の気遣いはいたく染みた。……感謝する」

 目礼した、瞳孔の裂けた蒼い竜の眼。その目に、はあのパーティーで出会った騎士の目を、不意に重ね合わせた。
 四本の角を宿した、黒髪と碧眼の長躯の竜人。小娘に対しても礼の欠かさない、気品の滲むその人は、薄く笑みを浮かべて。
 もしかして、この騎士様は。
 緑色の瞳を、ゆるゆると大きく見開かせ、食い入るように見上げた。

「あの時の騎士様――」


「――まじで?! あの子だったの?!」


 驚くの細やかな声が、野郎の野太い絶叫に掻き消された。

 そよ風が吹くように心地よかった空間が、何処かむさ苦しい場所にまで吹き飛んだのを察知し、テオルグの碧い竜の眼がビキリと歪んだ。

「おい! このッでかい声出すなよ!」
「いやだってあの子だろ、支部でやたら噂になってるちっちゃくて可愛いお店の子って! うわー副隊長の竜の方、クソでかいから本当にちっちぇーなぁ!」
「馬鹿ッお前みたいな悪人面に、可愛いなんて言われてたまるか!」

 竜の石像を飾った、広場中央の噴水。
 その向こうで、もみくちゃになっている蒼い集団を、早々に見つけた。

 きょとりとするとは対照的に、白竜テオルグの顔ときたら。大の男も裸足で逃げ出す、強圧的な獰猛さを剥き出しにしている。
 ゆらりと噴水を睨み、眼光を放てば、ハッとなったように集団は身を低くする。しかし、あれで隠れているつもりなのかと、問い質したいところだ。恰好だけは国境支部に従事する騎士団ではあるが、野次馬魂丸出しのむさい集団と言っても些かの間違いもないように思う。
 そして何よりも、テオルグの癪に障ったのは。

 背に乗る事を許した盟友アシルの、頬を膨らませて笑いを耐えるその顔である。

 何だあの顔は。九割方、既に爆笑しているように見える。
 アシルの顔に苛立ちを誘われたが、テオルグは荒く息を吐き出す事でどうにか抑え込んだ。

「あ、あの……」

 足下から響かせるささやかなの声に、テオルグは顔を下げた。

「あの時の、騎士様、なんですね」

 テオルグは、少しの間を挟んでから、四本の角が伸びる頭部を上下させる。
 途端、は緑色の目をゆるゆると見開かせた。あの黒髪の男性と、この白竜が同一人物だなんて。人と竜の姿を持つ竜人という種族の、その最大の特徴を改めて間近で見た驚きも大きかったけれど、それ以上に。

「またお会い出来て、光栄です。騎士さ……あ、えっと、テ、テオルグ、さん」

 ふにゃりと緩む、無防備なはにかみ。ぎこちなく言い直すその言葉と共に、そよ風のような清々しさでテオルグの中へと滑り込む。普段身を置く世界にはない彼女の控えめな声は、ささくれ立つ竜の心を、ふわりと和ませた。
 グラリと上体が揺れそうになり、テオルグの渾身の力がさらに前足へ込められる。が、長い尻尾はべったりと地面に横たわり、すでに力尽きかけていた。

 なんなんだ、本当に。
 この、くそ可愛い小動物は――。

 と、その時。
 噴水の向こうにいるむさ苦しい蒼い集団が、テオルグへ何かを激しく訴えてきた。声は出さず、口の動きと表情で。特に、その最前線にいるアシルは、身振り手振りで必死に何かを伝えようとしている。
 いやだから、貴様ら、そこで何がしたいんだ。
 テオルグは怪訝に目を細めながら、仕方なくそれを見やる。パクパクと動くアシルの口の動きは。



 今が好機 俺に構わず 押し通せ



 良い笑顔を浮かべたアシルは、最後に力強く頷き、グッと親指を立てた。

「――やかましいわ! 脳天気男!」

 腹立たしいサムズアップを視界に入れた瞬間、テオルグの我慢は一気に限界突破を迎えた。
 大気を震わす白竜の咆哮に、噴水の向こう側のむさい集団は悲鳴を上げながら転げ回り、そして――大人しく座っていた飛竜たちも、驚いて一斉に姿勢を崩した。その内の一頭、テオルグの横に座っていた飛竜は殊更にびびり、広場の地面へ倒れ込み。

 その拍子に、長い尻尾が、ヒュンッと空を切った。

「あ」

 が小さな呟きを落とすのと、ほぼ同時であった。
 飛竜の尻尾は、が抱えた紙袋を横から叩き上げた。

「あ」

 その後の呟きは、テオルグか、それともアシルか。
 跳ね上げられた紙袋は、宙に舞うと同時に破れ、陽の下に放り出された。しかし勢いが良すぎる。放り出されたというよりは、吹き飛んだと表現した方が正しい。

 そしてその結果、三分の一を駄目にした果物たちが、今度は、皮の厚い柑橘類を残し全て――。

 通り抜ける温かい風が、新鮮な果汁の甘酸っぱい香りを、その場にいた者全てに運んでいく。
 気づけば憩いの場である広場には、不自然な沈黙が訪れていた。



ようやく、互いできちんと認識した話。
ゴリラ級怪力の主人公ですが、反射神経は人並みなのでさすがに追いつかなかったようです。


2015.02.11