10 チビとデカの、約束の街角(1)

 この日の空は、綿毛のような雲が青色に漂い、のんびりと朗らかな空模様だった。

 国境付近に構えたこの街の生活を支える商店通りは、いつもと変わらず人々の足が行き交う賑やかな場所であるが、時刻もちょうど正午になろうとしているためか一段と活気が感じられる。
 は、相変わらずのちょこちょことした小動物感を醸しながらそこを進み、果物屋を眺め見た。店先の三段に組まれた陳列棚に並ぶ、色とりどりの果物。どれも綺麗で、ツヤツヤと光りとても美味しそうだった。
 その内の一つに手を伸ばそうと、先立ちになった時――すうっと、の背後から腕が伸びた。
 指の長い、筋張って大きな男性の手。その手の甲に散りばめられた涼しげな白い鱗が、の視界の片隅できらりと光った。
 あっと息をこぼした時には、その指先は果物を静かに摘まみ、のもとへ運ぶ。そっと置かれた果物が、の手のひらには少し大きいように感じたのは、男性の手よりずっと小さかったからだろうか。

「あ、ありがとう、ございます」

 ほとんど真上を仰ぐように振り返ると、その先で、長身の男性と眼差しが交差した。
 ある一点を除いて薄ぺらでチビなとは違い、何処もかしこも伸びやかな造形をする、鍛えられた逞しさを纏うその佇まい。賑やかな市場の空気から切り取られているような、落ち着き払った仕草は、外見と声音から見い出す齢と男性が就いている職に相応しい静けさを感じた。
 そんな気品と存在感を放つ男性の精悍なかんばせに、ふっと浮かんだ薄い微笑みは、に向けられている。故郷の村で見てきた、意地悪な言葉を放った男の子とも、農作業に明け暮れる働き盛りの男衆とも異なる、ピンッと張った凛々しさ。かといって、冷酷ではなく、ほのかに柔らかい。

 額から後ろへ反り伸びる、四本の白い角。それに相対するような、黒髪。陽の下に露わになっている耳は尖り、切れ長な瞳は背後に広がる空よりも鮮やかな碧玉。

 何故だかとても、じっと見てられないほど緊張し、小猿みたいにそわそわとしてしまう。高潔な竜人という種族のせいか、それとも、が男慣れしていないせいか。思うに後者であるのだろうが、どちらにせよ。
 アルシェンド騎士団の蒼い制服でも、大きな白鱗の竜の姿でも、人目を惹きつける空気を放つ――竜人テオルグ。
 今この瞬間、自らの隣に彼が立っているのを不思議に思いながらも、の小さな心臓は音を立て跳ね回った。

 普段と変わらない市場のはずなのに、の周囲だけ、少し暑いような気がした。


◆◇◆


 ――時間を巻き戻して、数日前。

 ジャム作りに勤しもうとささやかな計画を立てたの休日は、残念ながら計画した数時間後に儚く散った。
 広場で行儀よく座っていた飛竜たちの内の一頭によって、の抱えていた紙袋は、叩きつけるが如く勢いで全て弾かれた。
 気付けば煉瓦で整えられた広場の地面には、潰れた果物たちの悲しい姿が点々と連なっていた。
 紙袋を抱えていた恰好のまま固まったの周囲には、同じように硬直する蒼い騎士達と、大きな白竜が居た。時が止まらず賑やかなままなのは、もんどりうって転がる飛竜ぐらいなものである。

 それはきっと、誰のせいでもない。腕力はゴリラ級のくせに反射神経は人並みなの鈍さのせいでも、大きな咆哮を出してしまったテオルグのせいでも、どう見ても隠れられていない噴水の向こうでサムズアップをくれたアシルやその他騎士たちのせいでもない。

 しかし、静かな風に香る果汁の新鮮な甘い匂いは、そこはかとなく沈黙を重いものにしていった。

 邪魔してしまった自分のせいだと思ってみても、「あ……」とこぼれ落ちた呟きは、消えそうなほど弱々しい。点々と連なる潰れた果物を前に、落胆は隠しきれなかった。
 次の瞬間、騎士たちは光の速さでの前に整列し、一矢乱れぬ動作で頭を下げた。テオルグとアシルも含み「すまなかった」と謝罪の言葉を口にしたけれど、頭を下げられた理由がさっぱり分からなかったは「こちらこそすみません」と謝罪を返す始末だった。今思えば、チビで細いが途方に暮れる姿は、迷子になった子どものように騎士達に見えてしまったのかもしれないが、ともかく。
 しばらくの間、謝罪合戦を繰り返していたが、なにも全てが駄目にしてしまったわけではない。皮の分厚い柑橘類は無傷なので、はそれを回収して手提げ鞄に詰め込んだ。ママレードが作れるし、そう悲嘆する事もない。そんな事よりも、彼ら騎士団の仕事の邪魔をしている事の方がには申し訳なかったので、その後は「お勤め頑張って下さい」と礼をし、直ぐに彼らの側を離れた。走っているつもりだが、実際はちょこちょことした動きでしかない足運びで。

 その背にいくつもの眼差しが集まったが、一際強く見つめていたのが白竜姿のテオルグであったなんて、が知るはずもない。

 それにしても、まさかガーデンパーティーの竜人と、友人の兄の騎竜らしい白竜が同一人物だったなんて、凄い偶然だ。人の縁や繋がりは本当に分からないものだと、はほくほくした気分でママレードを作り、有意義な休日を過ごす。果物を駄目にしてしまった切なさはすぐに無くなり、そして明くる日は喫茶店へいつものように働きに出た。

 ……なのだが、思ってもいなかった不意の出来事が、その後のもとにやって来る。

 なんと喫茶店に、竜人の騎士――テオルグが姿を現した。

 店の外から低い鳴き声が聞こえ、が様子を見に向かうと、白竜の彼と対面した。もしかしてアシルが乗っているのだろうかと、ぴょこぴょこと跳ねてその大きすぎる竜を見上げていたのだが(当然だが見えるわけがない)、苦笑いを落としたテオルグは首を下げ視線の高さを合わせてきた。
 下りてきた竜の頭部は、やはりを簡単に丸飲み出来そうな大きさだ。白い鱗でみっしりと周囲を覆われた、碧玉のように鮮やかな蒼い眼が、の正面へとやってくる。人間とは違う、瞳孔が縦に裂けたその瞳に少しドキドキとしながら、ちらりと後ろを見る。彼の背中には、誰も居なかった。
 視線を察したらしく、テオルグは告げた。「今日は、アシルはいない」と。どうやら、彼だけの来店らしい。
 目を丸くしたが、は両手をぽんと合わせる。「なら喫茶店にご用だったんですね」とほのぼのと笑っていたが、それにも首を振られた。

「用があるのは、貴店ではなく――」

 言いながら、竜の蒼い瞳が、へと止まる。
 数秒の後に、は「えっ」と肩を跳ねさせた。
 テオルグは佇まいを正して座ると、牙の生え揃う顎を開く。どうやら彼は先日の件を気にし、様子を見に来てくれたようだった。
 購入したばかりの果物を広場へぶちまけほとんどを駄目にしてしまった、あの事だろう。
 わざわざ気にしてくれた事に驚きながら、「テオルグさんが気にする事ではないですよ」と首を緩く振るも、彼はぽつりと呟く。

「……あまりにも、途方に暮れた子どものようだったから、良心が痛んだのだ」

 それは、私がそんなに、子どもじみているという事なのでしょうか。
 願わくはそれが、チビであるがゆえの錯覚であって欲しいと、は思った。
 それに、とテオルグは続ける。

「一件を担いでいるのは私であるし、飛竜たちの訓練不足も否めない」
「そ、そんな、大それた事じゃ……」
「いや、些細な事とは思うかもしれないが、私たちの職では重要でな」

 テオルグは苦笑いをこぼした。国の名を背負う以上は、課せられるものを果たす責務がある。騎士という職に昔ほどの強い力はなくとも、何が後で影響するとも分からない、と。そう告げる彼は、高潔な竜でもあり、国を守る騎士でもあるのだと、は恐縮し視線を逸らす。どうしよう、ただの安売りの果物が、大変な事を招いてしまった。

「……だから一つ、私にその憂いを晴らさせてくれ」
「え……?」
嬢が先日買ったものを、私に持たせてくれないか」

 それは、つまり、その。
 さすがには慌て、首を振った。それこそとんでもない、本当にただの安売りのものであったし、あの後無事だった果物でママレードは作れた。テオルグさんがそんなに気にする事じゃあ本当にない。
 困惑しすぎてきちんと言葉になったかどうか不明だが、の狼狽える様子からテオルグも察してくれたと思う。しかし彼は引かず、をじっと見下ろしていた。静かな竜の眼差しが、低い位置にあるの頭の天辺へ、瞬き一つせず真っ直ぐと降り注いできて……。

 結局、押し問答を続けた数分後、小さく頷くの姿がそこにあった。

 そして気付いたら、日程まで決まっていた。

 飛び去ってゆく白い竜の巨影を見上げながら、は終始ぽかんと立ち尽くし、人形のような足取りでふらふらと喫茶店へ戻った。

 当然、その後は店内から様子を窺っていたらしいルシェから、がっつりと尋ねられた。ルシェの明るい茶色の瞳は楽しそうに煌めいていたが、やはりは呆然としたままであった。
 ぽとりぽとりと事の次第を語ると、見る見るルシェの顔が素っ頓狂に変化していく。

「真面目ね、兄さんとは大違い。……いや、兄さんはちょっと脳天気過ぎるから論外か。それとも、もしかして兄さん、何かけしかけたのかしら……」
「え……?」
「あ、何でもない。普通の騎士の、通常運転かしらねって」

 ルシェは何かを誤魔化したけれど、あいにく今のがそこに気付くはずもない。

「それで? 頷いちゃったんでしょ?」
「う、うん」
「何でそんな顔してるの」

 そんな顔、というのがどのような顔を指しているか定かでないけれど、笑顔でない事は自覚していた。己の頬をむにむにと触りながら、は思案に暮れる。
 「嫌なの?」ルシェは真っ直ぐと尋ねる。どう答えたものかと、は首を捻った。

「嫌、とかそういうのじゃなくて……びっくりしたというか……とにかく、申し訳ないというか……何だろう」
「ふうん、なるほど……。でも……そっかー、もついにねえ」

 うんうんと頷くルシェは、にんまりと笑っている。きらきらするチョコレート色の瞳と、楽しそうにつり上がる口元が、猫のように悪戯っぽい。

「だって、つまりそれって、デートでしょ?」


 ……デート。


 ……デート?


 ルシェのこの一言によって、の思考は爆発した。

 これまでとんと縁遠かった【デート】という単語が、まさか己にも掛けられるとは。テオルグが去った後で、がワンテンポ遅れて困惑しているのは、あの軍隊の業務連絡のような淡々としたやり取りに、その僅かな欠片すら見当たらなかったせいかもしれない。
 置いてけぼりをくらうとは正反対に、ルシェは楽しそうに笑っているし、夫妻までも「デートの日に仕事なんて絶対駄目! たまには休んで楽しんでこなくちゃ!」とに丸一日休みを与え、謎の激励を華奢な背中に掛けてくる。
 けれど、当事者であるはずのには、あまりその自覚が無かった。そわそわとはしたものの、「テオルグさんてきっちりしてるんだなあ見習わないと」と全く違うところに着眼し、能天気にその約束(軍隊の業務連絡的な)の日を待つくらいであるのだから。

 ……なにせ、の脳裏に強く残っていたのは、大きな白竜の姿をした彼であったからだ。その背に乗せる者を吟味するという、高潔な種族、竜人のもう一つの勇姿。実際、その姿を見た回数の方が断然多かったので、何の気もなくのほほんとしていたのかもしれない。

 つまりは、肝心なところに、全く考えが及ばなかったのである。
 街中を、あの十メルタ越えの巨大な白竜が、闊歩出来るはずもないという事を。

 そのほのぼのとした思考が打ち砕かれるのは、当日になってからであった。


◆◇◆


 そんな具合に、チビで華奢な少女――の周辺は、ちょっとした騒ぎを呼び起こしていたのだが。
 何の気も無しに淡々と約束を取り交わした竜人テオルグの周辺とて、例外ではなかった。

 街の郊外にあるアルシェンド騎士団国境支部に、その日、敵が侵略してきたような激震が駆け巡った。


 騎士団国境支部の名物、苛烈な空中訓練をさらっと課す二柱の騎士の片割れである竜人テオルグの日々の生活は、隙がない事で有名だった。
 彼は基本、まだ多くの者が眠る日の出の頃に目覚めると、動きやすい簡素な身なりに着替えて外に出る。しっかりとストレッチをし、基礎の筋力トレーニングから走り込みまで、一通りのメニューを倍こなす。汗が滲んで温かくなったら、衣服を脱いで竜に転変し、国境支部の上空へと飛翔する。肌寒い風の吹く空を旋回して少しの休憩を挟んだ後は、空中訓練のメニューをこなして騎竜としてのトレーニングを行う。それが終わる頃には、国境支部に従事する者たちがまばらに起床し始めるので、竜から再び人の姿へと戻り、きっちりと蒼い騎士の隊服に着替える。トレーニングしていたとは思えない涼しい顔つきで、食堂にて朝食を取ると、寝ぼけ眼の隊長兼友人アシルへ張り手を一発浴びせてから、その日の業務を開始する。
 ちなみにどの季節でも毎朝行っているので、国境支部の騎士は目覚めると同時に朝方の空を飛翔する白竜の姿を目撃している。
 そして日中も、決して気を緩める事なく任務や訓練に当たり、それを就寝まで貫き通す。
 そんなテオルグの隙の無さに対して、人々は敬意と畏怖を込めて名付けた――国境支部の、鋼の竜人と。
 竜人という種族は高潔な事で知れ渡っているが、テオルグの場合はそこへさらに実直な一面が加わり、大変な鉄壁ぶりを誇る。多くの者は彼の性格を理解しているが、知りあって日が浅いと誤解を招きかねないのは、言うまでもないだろう。

 他の騎士同様に、テオルグにも数少ない非番の日があるのだが、やはり休日も実質剛健の言葉に尽きる有様だった。お前がきっちり仕事と休みを切り分けないと他の奴らが困るだろうとアシルに言われても、首を傾げるばかりのテオルグが改善した試しは一度もない。


 国境支部の最速。
 鋼の竜人。
 そう語られてきた、テオルグがだ。

 私服で食堂に現れた時は、国境支部の騎士たちは驚きのあまり目を見張った。


 いつもと変わらぬ、国境支部の朝。従事する者たちが食事を取る食堂には、制服で身を包んだ騎士達が現れる。今日の仕事はこれで、今日は俺は見回りで、などと挨拶と共に軽い会話を楽しむ騎士たちの、朗らかな時間がそこにあった。
 しかし、その中にごく自然に踏み入れた鋼の竜人テオルグの、普段とは明らかに異なる身なりに全員が気付き、方々から飲み物や料理を吹き出す音が上がった。
 爽やかな朝の会話は、汚らしいバックグラウンドミュージックへと早変わり。和やかな朝の空気は、テオルグの姿によって一転させられた。
 それを知ってか知らずか、当の本人は相変わらず明朝のトレーニングを匂わせない静かな面もちを浮かべ、沈黙に支配される食堂を構わずに進み、カウンターから朝食と温かい紅茶を受け取り席につく。支部の周囲に広がる自然の景色を楽しめる、窓辺の席だ。白鱗が散りばめられた手でカップを持ち、ほのかな湯気を立てる紅茶を口に含んだ。

 その何て事のない日常の仕草にすら、全員は気をそぞろにしテオルグを盗み見ていた。

 あの人の私服は騎士の制服、つまり戦闘服と同義語なんだぜ――そんな風に影で語られてきた、白い四本の角を持つ長躯の竜人。彼の私服は、鍛えられた半身を包む白いシャツと黒のジャケット、長い両足を覆うパンツと、さして特別なものではなくごく一般的な、シンプルとも言える装いだった。むしろ余計な装飾などない分、彼の持つ整った造形をより研ぎ澄ませ、騎士服とはまた違う人目を引く姿にさせているのではないだろうか。

 その場の誰もが声を発しなかったが、凄まじい衝撃であった。あのテオルグが私服を着ているなんて、と。

 一体どうしたのだ。私服と隊服の区別が全く分からなかったあの竜人が、制服を脱いでいるなんて。騎士の恰好もむかつくぐらい似合っていたけれど、私服になったら余計イケメンで腹立たしい。
 大体そんな事をそれぞれが思い浮かべたが(最後のは完全にやっかみである)、しかし残念ながらこの場にそれを尋ねられる勇者はいない。カチャリ、カチャリと、食器がぶつかる音だけが重々しく響き、食堂は不自然極まりない沈黙が支配していた。

「ふあ~……おはよ~……」

 けれどそこに、救世主の如く、あの男が現れた。
 食堂の空気などその半分眠った頭では気付かない、第一部隊長アシル。明るい茶色の髪と瞳を持つ彼は、竜人テオルグの騎者であり、背に乗る事を許された友人である。
 アシルは大きな欠伸をこぼしながら、ふらふらとカウンターへ向かい、コーヒーを淹れてもらう。それを手にし、またふらふらとしながらテオルグのもとへ向かった。

「おはようテオ、今日も早いなあ~……」
「ああ、おはよう。顔をもう一度洗って来い」
「朝から絶好調だな、友人~……」

 アシルはコーヒーを一口ほど飲み、息を吐き出す。いくらか眠気の覚めた茶色の瞳は、ようやく正面に立つ友人の姿を映し出した。
 私服=制服と思われていたテオルグの、明らかに普段と装いの異なるその姿を。
 アシルが勢いよく空気を吹き出すのと、「ようやくかよ!」というつっこみが各々の心の中で迸るのは、ほぼ同時だった。
 ごほごほと咽なるアシルは、普段と変わらないテオルグの顔つきと、その下の私服を、何度も見比べる。いや、彼が私服であってもおかしくはない、というより制服しか持っていないという事の方がおかしな話だ。しかし、爆発した違和感は、どうしても離れずにいる。

「……なんだ、人の顔をじろじろと」
「え、お前、テオだよな? 俺の騎竜の、新人時代から二人三脚でやってきた」
「……まだ寝ているのか。よし、その能天気面を差し出せ、引っ叩いてやる」
「あ、テオだわ」

 胡乱げな蒼い瞳と辛辣な言動に傷つくわけもなく、アシルはこっくりと頷いた。

「いや、お前が私服なんて珍しいなと……俺だってあんまり見た事ないから」
「大袈裟な、非番の日くらい俺もそうする」
「制服ばっかだったから驚いてんだよ! 俺はずっとお前の私服=戦闘服だと思ってたんだぞ!」

 珍しく鋭く冴え渡ったアシルのつっこみに、食堂の騎士達は「その通り!」と沈黙の中で強く同意した。ただ一人、テオルグだけは「そうだったか?」と小首を傾げている。
 アシルは、コーヒーを一気に飲み干すと、気を落ち着かせテオルグへと向き直った。

「そりゃあ別に非番の日くらい、私服でも良いけどさ……何処にお出かけで?」

 その場に居合わせた全員が聞きたくて仕方なかった疑問が、アシルの口より何気なく尋ねられる。顔は伏せながらも、そばだてた耳と意識は、一斉にテオルグとアシルへ向かった。
 テオルグはやはり普段と変わらず、きびきびと朝食を平らげてゆく。ちらりと流した視線は、大した用事ではないと物語っている。

「街へ行くだけだ、気にするな」
「へー街かあ、街…………街ィ?!」

 趣味は仕事と筋トレ。そう口にしたって何の違和感もないほど、隙の無い鉄壁の生活を送るテオルグが。アシルが突きだしたわけでもなく、自らの意思で、私服で向かうだと。

 用事の有無を除いても、十分に、大した事態である。

 彼と付き合いの長いアシルは、周囲の騎士以上に驚愕し、酷く狼狽える。そんな彼の様子など気にも留めず、テオルグはさっさと朝食を終えて紅茶で一息をつく。

「昼には戻るだろう。俺がいないからといって、仕事を適当にするなよ」
「いや、あ、それはもちろんだが……」

 言い募るアシルは、テオルグを見つめた。

 まさかとは思うが、まさか。

「……ま、まさか、テオ」

 アシルはごくりと生唾を飲み込み、恐々と呟く。

「ど、どこぞの女性と……デートか……?」


 ただでさえ沈黙に覆われた食堂が、さらに空気を重くした。


 テオルグは、一度ぴたりと動きを止めると、「何言ってんだこいつ」という目つきでアシルを見やる。

 居合わせた騎士達は、自らの不運を呪った。
 隙のない鉄壁の生活を貫く鋼の竜人の怒りを、アシルは率先して買って出た。あの人はやっぱり勇者だと尊敬すると同時に、あいつはやっぱり最高の馬鹿だと改めて認識した。
 氷よりも凍てつく眼差しで射殺される、最低な一日の始まりだ―――多くの者が、覚悟した。

 テオルグはしばしアシルを眺めていたが、ふと小首を傾げると、何かに気付いたようにその動きを止める。やがて、整った顔立ちに驚愕の表情が浮かび上がり、その縦に裂けた瞳孔を宿す蒼い瞳を大きく見開かせた。
 カップの縁に重ねた唇が、ヒュッと空気を吸い込んだ――その直後。


 正面のアシルに向かって、勢いよく紅茶を吹き出した。


「アシルさん?!」
「ちょ、テオルグ?!」

 沈黙を貫いていた騎士達は、さすがに我慢できなくなり立ち上がった。


 その日、国境支部ではこの光景が話題の中心となり、多くの者を震え上がらせたのは言うまでもない。




 ――――周囲を驚かし、国境支部へ衝撃を与えたテオルグであるが。
 その本人も、何故か同様の衝撃を受けて狼狽えていた。
 アシルの顔面に茶を吹きかけるというあるまじき失態を犯したのがその証であるが、動揺を表に出さないようギリギリのところで耐えきった。

 アシルへの謝罪はそこそこに、出来る限り平常を装ってテオルグは食堂を出た。背後からは「紅茶が目に入った」と騒ぐ能天気な友人の声が聞こえているが、余計な詮索を入れられる前にさっさと退散してしまおうと、足早に廊下を進む。
 私服になっただけで同僚から注視を受けるのが気に食わなかったが、今のテオルグの思考ではそこまで及ばなかった。建物の外へと進みながら、今更になって叫び出したくなっている境地を抑えるのに精一杯であったからだ。

 数日前、自分は、あの小動物に何と言ったのか。

 ほとんど何の気も無しに今日という当日を迎えたが、数日前の行動を思い出し、テオルグは脳内で絶叫する。
 他意はなかったのだ、本当に。購入したらしい果物が広場の地面に叩きつけられて駄目になった光景を見た瞬間、あのクリーム色の髪と緑色の瞳を持つ小動物が、途端に悲しそうにしょんぼりと眉を下げた。皮の分厚い柑橘類は無事だから大丈夫だなんて、あの生き物は健気に言ったけれど、緑色の瞳をうるうるさせ、肩を落としちょこちょこ走り去る姿は、大いにテオルグの良心を痛ませた。それはもう、グシャリと、捻り潰すが如く。それは紛れもなく、本心である。訓練された飛竜があるまじき失態を見せ、騎士と騎竜の規律を乱した事と一般市民へ迷惑を掛けた事への、償い。何が後になって影響するか分からないから、憂いは早めに晴らした方が良い。それもまた、本心である。
 だからテオルグはわりと真剣に、実直に考えて、行動した。それこそ、何処かの軍隊の事務連絡の如き淡々とした姿勢で。他意は、本当に無かったのだ。
 けれど、テオルグがどう思おうとも、傍から見れば、それはつまり。

 果物を駄目にした件を口実にし、誘い出したようなものである。

(違う違う違うデートなどと軟弱な単語は思ってもいない、あの小動物に迷惑を掛けた謝罪が大部分であって決してそのような色魔の考えではなくて)

 そう言い聞かせても、何度も駆け巡る数日前の言動と今日の件は、アシルが言った通り世間一般ではそれを【デート】と呼ぶ。何を言ってんだこいつとテオルグは呆れ果ててアシルを睨んだが、今回に限ってはアシルの方が正しい。
 ただの安売りのものだから申し訳ないですと、あの小動物――は遠慮していたが。もしかしてそう思ったから困惑していたのだろうか。だとしたらなおの事、大変な事態である。そこを押し通した自分は、一体どう呼ばれるのだろうか。というより、に、どう思われただろうか。小さく華奢で、年下の、あの慎ましい少女に。

(……よし、とにかく、謝ろう)

 下手な烙印を押される前に。

 考えただけで両足が崩れ落ちそうだったが、支部の床板を踏み抜く勢いで耐え、街へと向かった。翼膜の張った白い翼を出して空を駆ける彼もまた、勘違いをしながら今日に臨もうとしていた。


◆◇◆


 ――こうして。
 軍隊の業務連絡の如き色艶のない淡々とした約束が、国境付近の長閑な街で果たされようとしていた。
 噴水がきらきらと煌めく、街の広場。白竜姿ではなく人の姿で現れたテオルグに驚愕すると、開口一番に謝罪を述べる竜人テオルグの頭上には、相変わらずの牧歌的な青空が広がった。

 全体的に差が激しい、チビな人間の少女とデカな鋼の竜人の、無自覚デートの始まりである。



にもテオルグにも自覚がありませんでした。
そんな二人による、視線の高さがまず合わないおデート話の始まりです。

ここら辺でちょこっと、二人に変化を付けたいところです。


2015.03.13