19 アルシェンド騎士団国境支部(4)

 女の子にはつまらないだろうけど、とは言いながらもアシルとテオルグは快く騎竜を自由に放す放牧地なる場所への案内を買って出てくれた。
 隊長と副隊長御自らという、恐れ多くもありがたい歓待を、たちは受け取った。数ある支部でもこうなのだろうかと疑問を感じるが、この辺りは彼らの心なのではないかとも思う。

 放牧地に向かう前に、アシルは双眼鏡――騎竜は近くへ寄ってはこないので遠くから見る事になるらしい――を取りに、テオルグは白竜の姿から黒髪の男性の姿に戻るために、一度建物の中へと戻っていった。

 とルシェは、二人の言いつけを守りその場でちょこんと待つ。

「あの、ごめんね、竜なんてルシェには珍しくないかもしれないんだけど」
「気にする事じゃないよ。それに、見学しても良い場所みたいなんだからさ、せっかくだから私も見たいし」

 兄貴ぐらいどんどん使っちゃってよ、とルシェはあっけっらかんと微笑んだ。友人の笑顔は今日も頼もしい。
 【碧空と竜翼の国】という異名が、故郷の田舎にも届いていれば良かったのに。異種族交流どころかその姿すら何故かまったく見ない場所だった。

 そんな事、あるものだろうか。

 何となしに考えているその時、背後から声が掛けられた。
 ちょうど二人が居る場所は、訓練場から建物へと入る事の可能な入り口――アシルとテオルグが入っていった場所――付近だが、そこには数人の騎士が佇んでいた。達とも年の近そうな若い騎士で、顔を洗っていたのかタオルを首に掛けている。そして、その中の一人は。

「あ、えっと、キルテさん」

 柔和な面持ちの青年が、他の騎士を伴いやって来る。先ほどはありがとうございます、と礼をすれば、彼も柔らかい笑みを返してくれた。アシルが凄い勢いで走って行ったので、気になって顔を覗かせたらしい。
 騎竜の放牧地を見せてもらう事を告げると、彼らは一様に目を丸くし微かな驚きを見せた。他人にはあまり懐かず遠くから見るしかないという事を示唆している仕草だ。それを承知しているのはなので構わないと告げ、同時に遠くから見るだけで十分だと笑みに乗せる。
 あまり面白くないだろうけれど、好きなだけ見ていって欲しいと、キルテらは言った。どうやら国境支部はこの立地の関係上、公開訓練日はあってないようなものだったらしい。誰も見に来ないなんてもったいない、とはこっそりと思った。

「そういえば、お二人はテオルグ副隊長やアシル隊長と知り合いだったんですね」

 テオルグとアシルがまだ戻って来ない事もあり、話はいつの間にかそんな話題になっていた。

「ええ、アシルが私の兄で。この子は私の友達で」
「あんまり騎士様のお仕事も知らないから、お邪魔させていただきました」

 アシルの兄姉という点に彼らは驚いた様子を見せつつ、どおりで似ていると納得している。

「でも、驚いたのはやっぱり」
「“あの”テオルグ副隊長とも、知り合いだったとはなあ」

 は笑って頷く。

「そのおかげで、今日はとても勉強になりました。騎士様って凄いんですね、あんなに大変な訓練をしてお勤めをしてるんですね。テオルグさんも本当、凄かったし」

 さっきの空中訓練は凄くて興奮しました、と両拳を握るの姿に、空気が緩む。
 若い騎士達は謙遜し、驕る素振りは見せなかった。しかし、何故か一様に苦笑いめいたものを浮かべた。

「あの人は、もう別格というか」
「なんというか、強いし、怖いし……なあ」

 緩んだ空気が、何やら暗く陰っていく。その気配に、とルシェは互いに小首を傾げる。

「テオルグさんは、凄い人だから、近づきがたいというか」

 曖昧にぼかすキルテの言葉に、しばらく考えたはぴんと来た。

 なるほど、この騎士様達は……さては照れていらっしゃる!

 チビで華奢で年下な視界にも入らないようなにも丁寧に接してくれる、立派な人物だ。それは、日頃からよく知っている。同じ立場の騎士が感じるものはと同一でないかもしれないが、憧れの念に近いのではないだろうか。先ほどの訓練を見学し、テオルグがとても腕の立つ騎士であり騎竜である事を再確認した。どことなくしたり顔で、は頷く。

 ……しかし、キルテを含む若い騎士の面持ちが、照れではなく真逆を向いた強ばりを見せている事を、は全く気付いていなかった。いなかったが、照れているという事を前提に口を開く。

「分かります。知り合って短い私よりも、普段近くにいるキルテさん達の方が照れて近付きにくく思うかもしれないですね」
「え、照れ……?」
「いや、それは照れてるわけじゃ……」

 途中に挟まれた言葉は華麗に聞き逃し、は続ける。

「ちょっと怖い、近付きにくい人かもしれないですけれど、でもそんな事ないです。こんなチビな一般人にもあの人はとても優しいですし」

 それに、とは物静かな声に笑みを含ませた。

「騎士という立場をよく知って、とても実直ですよね。きっと他人にも厳しいけれど――自分にはもっと厳しい人です。騎士様の事をよく知らなかった私がそう思うくらいなんですから、本当、凄いです」

 若い騎士達の表情が、ハッとなったように動いた。

「人間だからとか、竜人だからとか、たぶんきっと関係ないんですよね。テオルグさん個人がそれだけ強くなろうとして……なんだか憧れますよね」

 テオルグは言った。そうなる事しか考えられなかったと。
 それでも、それを貫き果たす精神は、とても真似出来るものではないと思えたのだ。

 私自身が、ゴリラ怪力と長年揶揄され、逃げるように村を出るしか無かったから、なおさら。
 陰口を言った大人達やからかった男の子達に、挑むだけの度胸があれば、何か変わっていたのかもしれない。

 そう思うから、テオルグのあの強さに惹かれるのだろう。

(……え? 惹かれる?)

 ふと思い浮かんだ単語に、一瞬言葉が止まる。

「……そっか。そう、ですよね」

 柔和な顔立ちのキルテが、小さく呟いた。

「テオルグ副隊長も、自分に厳しく鍛錬を課して、あの立場になったんですよね」
「そうだよなあ……うん、そうだよなあ」

 は考えるのはそこそこに、再び顔を上げる。キルテだけでなく、他の騎士達も神妙な面持ちを宿していた。何か変な事を口にしてしまっただろうかと思うの背を、ルシェの手のひらが押した。

「まあ、騎士にも色々あんじゃない? 気にしない気にしない」
「え? あ、うん……」

 その時ちょうど、テオルグとアシルが戻ってきた。テオルグは、白竜の姿から騎士服を纏った人の姿へ変わり、アシルは両手に双眼鏡を持っている。キルテ達は、それと入れ替わるように建物の中へ入っていった。

「――ありがとうございました」

 去り際に、何故かへ、感謝の言葉を述べて。
  
「よ、よく分からないけど、こちらこそありがとうございました~!」

 キルテは片手を胸に重ね、親近感の湧く柔和な微笑みを浮かべた。そして彼らは、アシルとテオルグに礼をし、建物の中へと入ってゆく。
 は小首を傾げつつ見送り、その視線をテオルグとアシルへ向けた。

「ん? うちの新米達と話してたのか」
「うん、待ってる間、お相手して下さったの」

 ふうんと、アシルは特に気にした様子は見せない。

「さて、騎竜の放牧地に行くとしよう」
「あ、はい!」

 歩み出したテオルグの背を、はちょこちょこと追いかける。頭の中は既に、先ほどアクロバティックな戦いを見せてくれた騎竜の事でいっぱいだった。


◆◇◆


 放牧地に向かい始めた達の背を、キルテを含む若い騎士達が静かに見つめていた。
 が知るはずもないが、彼らは国境支部に初めて配属された騎士だった。訓練生を修了した者、他支部から異動になった者など様々であったけれど、共通して課せられたのは【根性の叩き直し】であった。
 国境支部に異動を命じられる理由の、堂々第一位である。

 騎者と騎竜のペアリング制が一番の特徴であるアルシェンド騎士団は、その姿の勇猛さからおとぎ話の竜騎士のようだと言われている。だが、そんな彼らも恐れ慄く場所が、国境の監視と防衛の任を負う国境支部であった。
 変則的な風が吹く土地にある国境支部は、もともと厳しい環境の支部として有名だったが、今日の有名どころにまで昇りつめた最たる原因は、とある一組の騎士のせいだと言われている。
 国境支部最速の、テオルグとアシル。
 様々な栄誉ある支部の配属先と役職を蹴りに蹴って僻地までやって来た彼らは、訓練の難易度を大幅に上げ、今日の【阿鼻叫喚の空中訓練】と呼ばれるものを確立してしまったそうだ。
 初年度いきなり頭角を現したルーキーに負けたくなくて、張り合った結果こうなった。そんな風に呟いた先輩騎士の言葉は有名だ。

 彼らの配属理由の詳細は省くけれど、通常は支部の異動が多くない事を思えば、推して測れるところである。
 そしてその中でキルテは、訓練生を無事に修了したその足で国境支部にやってきた青年だった。つまり、まさに新米の騎士。
 訓練生時代も真面目で、良い騎士になろうと勉学に努め、人柄の評価は悪くない。むしろ満点であった。ただし、騎竜を操る技術はあまり良くなく、卒業試験も空中実技についてはほとんどギリギリ。今後は訓練生とはまるきり異なる環境に身を置いて、有事の際には剣を抜き、竜と共に終始あるのだ。それを思えば些か不安の種になるので、技術面の向上を期待して彼の配属先は国境支部へと決まった。

 騎士の位は、国から賜る名誉あるもの。配属先が何処であろうと是と答えるものだ。しかしながら、様々な逸話がついて回る国境支部に配属された彼らは、大いに絶望した。
 国境支部。先輩騎士達の誰もが苦々しい面持ちになる、あの国境支部。
 そしてその予想は、やって来た初日に大当たりした。

 戦闘力、統率力、飛行技術……どれを取ってもずば抜け、国境支部の騎士は皆、精鋭の名が相応しかった。そして同時に、妙に個性的な性格の者も多かった。
 いや、それはまだ驚嘆するところでなかったと思い知ったのは、訓練を受けた時である。かつて数多の配属先を蹴ってやって来たという最速の一組による、その空中訓練の恐ろしいこと。容赦なく追い立てられるのは当たり前、叩き落とされるのは軽いジャブ、舐めて掛かろうものなら軽く命の危機を見る。
 訓練生時代に感じた厳しさや、実際に任務に就いて培った経験が、呆気なく彼方へ飛んでいったのを彼らは初日に自覚したものだ。これが噂の国境支部なのかと。

 凄いとは思った。国境支部の騎士達もそうだが、この精鋭達の中で一際の存在感を放つあの最速ペア――アシルとテオルグが。それは嘘偽りなく思ったのだ。
 だが生まれた驚愕は憧憬に変わる事なく、階段跳ばしのように畏怖へとすり変わったのだ。
 アシルについては、訓練時には笑って鬼と化すが平素は気さくでよく朗らかに笑う人物だったので、好感を持つまで時間は掛からなかったけれど。彼の騎竜であり、鋼の竜人と呼ばれるテオルグだけは、どうしても苦手だった。人の姿になれば剣技の冴える強者、竜の姿になれば背後を取らせない高潔な白竜。厳しく、容赦なく、弱さを責める――。

 きっと、嫉妬だったのかもしれない。情けなくてみっともなくて、そう思うならば追いかけてみればいいのに、脳裏に残る竜の瞳の厳しさに何度も凍り付いた。

 そして結果、彼らはやってはならない事をした。
 誇り高い竜人を、陰で【下竜(げりゅう)】と揶揄してしまった。

 誇りを失い、地に墜ちた竜だと貶める、侮蔑の言葉。
 言ったのは一度きり、訓練の厳しさにくじけそうになったタイミングもあった。けれど竜と共に飛ぶ者として最もしてはならない事をし、彼らは他の騎士達よりきつく叱られた。キルテは、その言葉を口にしていないが、否定しなかったのだから同じだった。竜人の背に乗る事を憧れておきながらと、後になって酷く後悔した。
 きっとテオルグの耳にも届いているに違いない。そう思うと、なおさら彼らがテオルグに近付く事は叶わなくなった。


 ――しかし。
 今日、公開訓練でやって来た少女の言葉に、彼らの雁字搦めになった心が解かされた。


 テオルグが毎朝早くから自己鍛錬に勤しんで、国境支部の空を飛んでいる事は誰もが知っている。陽が昇り白く染まる空に羽ばたく純白の巨影を、窓越しにキルテ達も見てきた。


(きっと他人にも厳しいけれど――自分にはもっと厳しい人です)

(人間だからとか、竜人だからとか、たぶんきっと関係ないんですよね。テオルグさん個人がそれだけ強くなろうとして……)


 そうだ。あの人は他人に厳しいが、それ以上に自分自身にはもっと厳しい。
 それに、鬼だ冷酷だと決めつけて、一度でもあの人が横暴に振る舞った事があっただろうか。一度でも、理不尽な暴力を受けた事はあっただろうか。

 【下竜】と揶揄した事を知っているだろうに――あの人は、それに腹を立てず、変わらず訓練を共にしてくれていたではないか。

 そよ風のように清楚な少女の声が言葉を乗せて、キルテ達の心にふわりと吹いて。国境支部にやって来てから渦巻いていた澱が、何処かにさらわれていった。
 そんな当たり前の事、よく知っていたのは自分達の方であったはずなのに。

 情けなさと恥ずかしさが改めて込み上げてきたが、不思議とそれを素直に受け止められた。

「……あとでさ、テオルグ副隊長に謝って来ようかなー」
「うん。あとさ、もっかいお願いしようかな。訓練、ばしばしお願いしますって」

 キルテを含む若い騎士は、その日を境に心を改めて入れ替えて、国境支部の日々に従事するようになったという。彼らが精鋭の名に恥じない若手騎士となるのも、そう遠くない未来の話である。


 国境支部の片隅にあったわだかまりを無くした立役者となった事を、はまるで知らないでいた。


◆◇◆


 騎士団の建物を離れてから、ほどなくの事。頭の中に騎竜の文字が躍るの目の前に、野外訓練場ばりの広大な土地が現れた。
 若草色が敷き詰められたなだらかな大地は森を拓いただけの長閑さを抱き、騎士団の敷地内にしては何処か牧歌的ともいえる不思議な風景をしている。しかし、奥に窺える堅牢かつ大きな建造物やその風景の中で寛ぐ生物の姿に、和やかさが一瞬で興奮に変わった。

 の目の前には、時折声を上げ翼を羽ばたかせる、騎竜達がいた。

 騎乗用の装具は全て外してあり、寝そべっている竜や、じゃれ合って遊んでいる竜などもいる。あちらこちらで、思い思いの自由な時間を過ごしているようだ。
 なるほど、ここが放牧地なる場所か。の小さな唇が開き、感嘆の吐息がこぼれる。

「嬉しそうだな、嬢」
「はいっ! それはもう、こんなに近くで見る事が滅多にないので!」

 放牧地を吹くそよ風の中に咲いた、控えめながら温もりを帯びた花。テオルグの胸にさえ届かない低い位置で頭を揺らすの仕草は、相変わらず小動物感が満載だった。
 それでも、テオルグの鋼の顔面が緩まなかったのは、さらにその隣に見えるとある人物の顔のせいである。

「……アシル、その顔は何だ」
「い、いや? 別に、お前が本当にデカくてちゃんがちっちゃいから身長差おかしすぎるなんて、お、思ってないからな!」

 この素直すぎる友の顔面を殴っても、きっと誰も咎めないと思うがどうだろう。

 腕をぶん回してやろうかと思ったが、の前では不作法な事だと、ぐっと堪える。何度も激しく咳込み笑いを誤魔化すアシルを冷ややかに一瞥し、テオルグは説明に入った。

「さて、見ての通りにここが騎竜の放牧地だ。基本的に騎士の乗る竜は、あの奥の建物で過ごし、訓練後や昼休憩には外に出て自由にしている。今はちょうど正午だから、これから食事だな」
「さっきの訓練場よりも、ずっと広いですね」
「テオと比べたら小さいけど、体長三メルタ前後、尻尾まで入れたら何気に五メルタ以上だしなー。それが三十頭超えだし、それに他の竜を休ませる事もあるし」

 国境支部に荷物を運ぶ運搬用の巨竜や、文書を運ぶ小さな翼竜などがいるらしい。さすがアルシェンド、様々な竜種が存在し活躍している。

「そういや、柵で囲ってるけど、これだけで逃げ出したりしないんだ」

 こんこん、とルシェは細い丸太で組んだ柵を叩いた。人の胸の前に届く程度の高さをしたそれは、ごくありきたりな外見をし、これといった特徴もない。がちょんっと力を込めれば呆気なく叩き折れるレベルとすら思える。

「ああ、これは放牧地の範囲を示してるだけ。何かを囲む意味はない」
「どうして?」
「横を囲ったところで“上”が開いてるんだから、意味ないだろ?」

 アシルの言葉に、とルシェは納得する。翼を持つ彼らには、柵など飛んでしまえば何の効果もないのだ。しかしこうして眺めると、どの騎竜も脱走する素振りがない。飛んだとしても、必ず放牧地に降りてくる。

「竜はどれも賢い。役割を理解させてリーダーを認めさせれば、そうそう勝手はしない」
「まあそうなるまでがものすっごい大変だけどな。どいつも誇り高いからまず教えるのが苦労する……テオも昔は同じだったな?」

 騎乗用装具に慣れるまでは、そこらの暴れ馬と大して変わんなかった。意味ありげに笑ったアシルへ、テオルグは眉を寄せて咳払いをした。

「さて、せっかくの時間がもったいない。騎竜は呼んでもあまり近くにまでは寄って来ないから、ここから見てもらうとしよう」

 甲高い指笛を、テオルグが吹き鳴らした。その音に反応した騎竜が数頭、達の元へゆっくりと近付いてくる。

「ここの支部にいる竜のリーダーの一人がテオでね。ただ呼べば来るんだけど、騎士じゃない人間がいるとよくて五十、六十メルタまでだろうな。あとは双眼鏡だ」

 ほい、と軽い動作で差し出されたものは、が思い浮かべていたものよりもずっと重厚感のある双眼鏡だった。市井に見られる単純な作りではなく、ずっしりとした重みが手のひらで感じられる。

「そのまま覗きこんで良いからね。自動で合わせてくれる調節要らずの優れものだから」

 なるほど、とは頷いて柵に近寄る。あともう少しというところで視界が届かなかったので、柵の一部に乗っかる。えっと、確かこのまま覗けば……。

「アシル、もっと簡易的なのはなかったのか。完全に索敵用だろうこれは」
「だって直ぐに見つかったのこれだけだったし。魔石使ってあるし調節いらずで良いじゃん」

 そんな会話を背後で聞きつつ、は双眼鏡を構えて覗き込む――事は出来なかった。

 良くて五十、六十メルタの距離までしか近付いてこないと言っていたはずの騎竜が、ぐんぐん距離を縮めているのだ。と彼らの間の距離は、既に五十メルタもない。

 双眼鏡を構えようとした恰好のまま硬直すると、それでも気にせず芝生の大地を踏みしめる騎竜の目は、がっちりとぶつかっている。
 えっ! ど、どんどん近付いてるんですけど、これは良いんですか?

「肝心なところで毎回……妹君や嬢には重いかもしれないが」
「これでも力仕事は得意なんですよ。このくらいの重さはへっちゃらです」

 四十メルタ。
 三十メルタ。
 二十メルタ。
 結構な速さで距離を詰めてくる、全長五メルタの二足歩行の飛竜。前足はないが後ろ足は強靭に発達しており、テオルグの白竜姿より小さいと言えども間違いなく空を支配する竜だ。その外見から滲む風格は、彼らからも強く感じられる。

 いくら国を象徴する生物とはいえ、その外見は人を圧倒する。ましては自他共に認める、華奢で薄ぺらいチビだ。眼前から迫りくるその光景ときたら。

 そしてもうの目の前には――ぬうっと長い首を伸ばす竜の頭部と、その中心で光る眼があった。
 フスフスと鼻息を掛けられながら、はゆっくりと身を引く。

「騎竜の観察いざ開始~! 、ど――」

 ルシェの明るい声が、切り取られたように止まった。次いで「!」と悲鳴に似た声が放たれ、驚いて跳ねたの足が柵から滑る。
 倒れる、と目を瞑った時、の首根っこがぐいっと引っ張られた。喉が締まり、ふぐっと息が漏れる。

「いやァァァー! が食べられちゃうー!」
「いやいや、食べないから。落ち着け妹よ」

 兄妹の声が背後で賑やかに鳴っているが、は何故か振り返れない。柵の上へ上半身を乗せるように、前のめりに固定されているせいだ。何が起きたのかと考え込みながらも、両手の双眼鏡だけは決して落とすまいと注意した。

「……嬢、慌てずそのまま。お前は口を離せ」

 物凄く近いところから、グルルル、という鳴声が響いた。そして唐突に、圧迫されていた首根っこが開放された。前のめりになって滑り落ちそうになる身体を、背後から伸びたテオルグの腕がすかさず止めた。

「うちの騎竜がすまないな。落ちるのを止めようとしたらしいが……」

 すとん、と地面へ下ろされた後にが顔を上げると、柵の向こうから騎竜の顔が幾つもにゅっと伸びていた。

大丈夫? あッ首のところの服ちょっとだけ濡れてる!」
「何ともないよ。平気」

 ハンカチーフを取り出してわしわしと拭くルシェの隣から、アシルの感心した笑みが向けられた。

「珍しい事があるもんだなー。普段見ない人が居る時は、ここまで寄って来ないんだけど」

 柵の向こうには、騎竜が四頭ほど佇んでいる。そわそわしたように長い首を左右に動かして、を見下ろしている。その目にあるのは険悪さや獰猛さはなく、言うなれば好奇心だろうか。テオルグとアシルは本当に珍しそうに交互に見ていた。

「落ちないように支えてくれたんですか? 紳士ですね、さすが騎士様を乗せる竜です!」
「うん、ん? いや着目するとこはそこじゃないんだけどね」

 アシルの呟きなど聞こえないは、のんきにほわほわと微笑んで騎竜を見上げる。覗きこむ彼らは、得意げに翼を揺らして尻尾を振った。
 街の中央広場で対面した騎竜は、毅然と胸を張って座っていたが、今の前に居る彼らは動物的な仕草が多く見れる。仕事のオンオフのスイッチがあるのかもしれない。

「あの、もう一回近付いても?」
「ああ……大丈夫だろうが、慎重に」

 テオルグの言葉に従い、はゆっくりと慎重に動き、柵へと再び両足を乗せた。背丈が足らず届かなかった頭がひょっこりと現れると、騎竜達は顔を寄せてフスフスと匂いを嗅ぎ始めた。
 驚きを深めたのは、テオルグとアシルであった。
 普段から竜という生物と肩を並べ過ごしているので、どれほど気難しく時に凶暴なりうる存在であるのか熟知している。人里で繁殖されて訓練を受けたこの飛竜種は、比較的人間に懐き温厚であると言われているが、しょせん《比較的》である。騎士の騎乗用に訓練を受けながら容易く騎士には懐かず、触れさせず、近寄らせないなんてザラだった。だからこそのアルシェンド騎士団の門の狭さであり、最大難関であるのだ。騎竜を得た後も、その苦労は続くと言われている。
 他種族同士の交流を広げる現在であっても、竜と名のつく種族が格別の存在として見られるのは、そういった事があるからなのだろう。
 現に竜人テオルグも、アシル以外を乗せようとはしてこなかった。

 そうなると、も例外なく袖に振られるところだったのだが……まさか初対面から騎竜の興味を引かせるとは。それも、あれほど積極的に。世の中不思議な事があるものだと、テオルグとアシルは心の底から感じた。
 そのは今、騎竜達から顔を寄せられ、あちらこちらを嗅がれていた。くすぐったそうに声を漏らす横顔には、笑みさえ見える。

大人気ね。そんなに不思議な事なのかな」
「竜と触れあう本職の俺らが言うくらいだから、凄い事だ。何ならルシェ、近づいてみな。間違いなく噛みつかれそうになるから」
「絶対嫌よ! 何それ危ない!」
「そう、危ないからこそのちゃんのあの不思議だ。何でだろうなあ」

 威嚇する素振りも、尻尾を叩き付ける素振りもなく、好奇心を露わにへ近付いている。他の騎士が見ても、ほぼ同様の反応をするはずだ。

「でも、何か凄く嗅がれてるんですけど、これは何でしょう?」

 鼻息を全方向から掛けられ、ミルクティー色の髪はあちらこちらへ泳ぎ回っている。

「良い匂いするんじゃない? あ、食べ物の匂いとか」
「匂い、匂いねえ……あ!」

 アシルが不意に、ぽんっと手を打った。

「もしかしてちゃんの特技とかが関係し……」
「おらァァァァ!!」

 全て言い切る前に、ルシェは俊敏に実兄の口を覆った。勢い余って唇に平手を浴びせ、とても心地よい音が響き渡る。だが気にするところはそこではない。
 騎竜にフスフスと鼻息を吹きかけられるは、柵に乗っかった体勢のまま硬直していた。

「ん? 嬢がどうかしたか」
「何でもありません! それより兄さん唇に虫がついてたよ! 本当注意してね!」
「むぐっお、おう! 妹よしゅまなかった!」

 実妹の手によって容赦なくたらこ唇にされるアシルを、テオルグは首を傾げ窺う。
 テオルグからは見えなかったが、背を向けているルシェの顔は、第一部隊長も怯む鬼の形相だった。そうである、の特技、すなわち、ちょっと人よりもゴリラみたいな怪力を持つ事は、誰にも言ってはならない秘密である。後で怒りの兄妹会議が開かれるところだった。
 も一瞬ひやりとはしたが、それよりもルシェの俊敏さに事無きを得て、ちょっとだけ安堵する。テオルグはよそよそしい空気に怪訝な面持ちを宿しただけで、特別触れる事はなかった。

 それはそれで良いとして。

「で、でも、ちょっと嗅ぎすぎなような……」

 そんなに変な匂いがするのかと思うほどに、騎竜達はこぞって鼻を鳴らしている。まさかゴリラ的な匂いがするのだろうか。そう思ったら急に恥ずかしくなっては身を引いたが、追いかけるように竜の頭がついてくる。渋みのある緑色の鱗に覆われた獰猛そうな顔が、ぐいぐいとの頭を囲む。

「わ、ちょ、ま」

 さすがに少し怖くなり、柵から離れようとした、その時。
 べろり、と何かが首筋を這った。
 冷たくも温かくもない湿った質感に、舐められたという事は直ぐに理解した。
 「ひゃあ?!」と思わず情けなく叫んだ瞬間、の身体がぐいっと真上に引き上げられる。普段はとても低いところにあるはずの視線が、柵どころか放牧地の地面、ルシェやアシルを見下ろしているその事に驚いて、舐められた衝撃は何処かへ吹っ飛んだ。


 ――はて、私は今、何処にいるのだろう。


「……座れ」

 重い低音が、真下から聞こえる。
 ついと頭を下げると、黒髪と白い角が見えた。

 誰のものか知ると同時に自らが腰掛けている場所も分かり、の顔がみるみる驚きに染まる。

 テオルグに一睨みされ、柵の向こうの騎竜達は一斉にぺたりと腹這いに伏せた。過ぎた好奇心がようやく落ち着きテオルグは溜め息を吐き出したが、ふと片隅に含み笑いを浮かべるアシルが映りこんだ。

「ぷ、ぷぷ……テオ、テオ」

 ニヤニヤとした邪悪さを隠さないアシルが、テオルグの横を見る。何だこいつは、と思ったところでようやく彼も思い出した。
 自らの片腕に乗せて持ち上げている、小さな存在を。
 テオルグがハッとなって顔を上げた時、同じようにも顔を下げており、二人の視線がぶつかる。


 ――ちょっと待て、俺は今、何をしている。


 パンツに包まれてもなお細いの両足をテオルグの片腕が持ち上げて、彼の上半身の横に並べるようにその片腕へを座らせている。
 つまるところ、これは俗に【子ども抱っこ】と呼ばれる――。
 理解した瞬間、双方の顔に衝撃が走る。しかしテオルグの場合はのそれ以上で、普段まず崩れる事のない落ち着きが木端微塵に吹っ飛んでいった。

「す、す、すまない。これは別にた、他意があったわけではなくてだな」

 青ざめた汗が滂沱の勢いで背景に流れ始める。何だこの軽さと小ささと柔らかさはという困惑と、ほぼ無意識の内だった己の行動の驚愕で、テオルグの声は震えに震えていた。

「いえ、あの、あ! す、直ぐに降りますゥ!」 

 慌てても降りようと試みたが、普段見る事のない視線の高さにふらついて、思わず側にあったものを手すりのように掴んでしまった。
 すべらかで硬い――白く染まった角を。それはもう、がっちりと。
 今こそとんでもない事をしでかしてしまったのではないかと、の小さな身体がいよいよ小動物のように震えた時。

「ぶはァッ!!」

 ついにアシルの忍耐が途切れ、抑えていた笑いが全力で解き放たれる。
 それぞれの理由で動きを軋ませるとテオルグの間を、アシルの大爆笑が過ぎ去った。困惑が困惑を呼びよせる二人には申し訳ないが、チビとデカの差があまりにも著しくて笑いしか出ない。なるほど、これは何処にいようと目立つ他ない組み合わせだ。
 アシルほどでないが、ルシェもついつい笑みをこぼす。

「ヒーッヒーッ……ごめ、お前達おもしろ……ふぐッゲホゴホ!」

 激しく咽るアシルの後頭部を、背伸びしたルシェが引っ叩く。
 アシルの笑い声によって空気は破壊されたものの、思考は水を掛けられたように冷静になった。僅かな落ち着きを取り戻したテオルグは、一度大きく呼吸する。

「……すまない。いきなり」
「い、いえ! あの、私も……つ、角を、すみませ……」

 は手のひらを広げ、ごく自然に握ってしまった白い角をそろそろと放す。テオルグは怒るでもなく、じゃっかん傾いた頭の位置を正すだけだった。

「いや、それくらいは気にしない」
「そ、そうですか。良かったです」

 さまよった小さな両手を胸の前で握り、ほわほわと微笑む。小柄な身体の全てを使いほっと安堵するは、そよ風に小さな花を飛ばしている。テオルグの片腕に乗っかったまま。
 不意に、ぐっと足に力が入った。

 頼むからこの至近距離で小動物ぶりを発揮しないで欲しい。

 背丈がようやく腹部に届くような生き物が、控えめに袖口を握ってちょこちょこと後をついてきた、あの日。あれとはまた違う方向性でぶつけられる危険なほのぼの感が、テオルグの壁を風のようにすり抜けて攻撃してくる。普段背に乗せるアシルと比べものにならないほど軽く、温かく、柔らかく、いよいよ小動物を抱えたようなその感覚は、テオルグの顔面と精神にクリティカルヒットする。

 これはまずい。何か、色々まずい。

 表現のしようがないざわつきを覚えたテオルグは、ぎこちなくを降ろした。大体いつまでも抱えていて良いものではないのだと責めるテオルグに気付かず、は彼の腕から地面の上へと移動する。ちょっぴり驚いたけれど、良く考えれば初めての視線の高さだった。普段見る事のない世界を見て得した気分さえするは、何処までもほのぼのとしていた。

「ご面倒をおかけしまして……きっと変な臭いがしたんですね」

 柵の向こうの、地面に伏せた騎竜達へ視線を流す。騒がせてごめんねと柵の隙間から覗き込んで謝ると、騎竜達は喉を鳴らした。気にしなくて良いよ、と言っているようである。
 ごめんね、きっとゴリラ臭かったんだね……。

「思わず嗅ぎたくなる良い匂いだったんだよ。気にしない」
「そうそう、そんなしょげないで……なあテオ!」

 テオルグへ振り返ったアシルの笑顔が告げている。
 良い見世物だったぞ。
 それに反論出来ず、テオルグは額を覆った。

「それにしても、こうして近くで見ると、やっぱり竜はどなたもかっこいいですね」
「初めて間近で見たのに、肝が据わってるなあ。
「結構びびる奴が多いんだけどな。どう、気に入ってくれた? うちの騎竜は」

 柵の間から騎竜と視線を合わせるは、物静かな声を弾ませた。

「はいっ。でも……やっぱり一番素敵なのは、テオルグさんの白竜姿でしょうか」

 放牧地に流れた風のように、紡がれた言葉。
 一瞬の静寂が、各々の間に運ばれた。

「……あッ! ちが、違いますよ! 変な意味とかじゃくてですね、あの、白い鱗が綺麗でお顔も凄く凛々しくて、空を飛ぶ姿なんかとてもかっこよくて、あの」

 慌てて言い繕ったけれど、ルシェとアシルは優しい微笑みを深め、テオルグに至っては顔を背けている。言葉選びを間違えてしまったらしい。は誰よりも低い位置でうろたえたが、そっとアシルが告げた。

「ううん、良いんだよ。ありがとうちゃん」
「あの、でも……」
「テオは、ちょっと崩壊しかけてるけど、あれは別に怒ってるわけじゃないからね」

 実際、テオルグは怒っていない。騎竜としての外見の良さ、能力の高さ云々を置いたストレートな賛美に、著しく耐久値が削られただけである。
 チビな少女に称えられてまごつくデカの竜人。さながら仔犬に好かれて困惑する大型犬のよう。竜だけど。


 その時放牧地に、飼育係だろうか、「昼飯だぞー」という声が響き渡り、巨大な肉の塊が柵の内側へ幾つも運び込まれた。近くに来てくれた騎竜達もご飯のもとへ走り、多くの仲間と共にもりもり食べ始める。その野性味溢れる豪快さに満ちた様子に、は目を輝かせた。

「もう無くなりそう」
「胃もたれしないのかな」

 間近で見る竜の食事にキャッキャとはしゃぐ見学者の後ろ姿は、とても和やかであったけれど。
 彼女達の背後で肩を並べる、憔悴したように項垂れるテオルグと、ニコニコと笑うアシルは。

「……アシル」
「ん?」
「後で、ちょっと殴ってくれ」
「何で発想が脳筋なんだよお前」

 アシルの悪戯を帯びた言葉にも反論する気力が残っていないテオルグは額を覆う。そこは素直に喜んでおけば良いものを。変なところで不器用な奴だと、アシルは手のひらを彼の肩に掛けた。

 こうして、放牧地の見学は終わり、達の国境支部の公開訓練も無事に終了となった。




 国境支部を後にして、街へ向かうその帰路。
 やって来た道を戻るの足は、満足そうに大地を踏みしめる。一部分とはいえ初めての騎士団見学は、とても濃く貴重な時間だったのだ。願わくは公開訓練が行われる時にはまた見学させていただきたいと、は笑う。

「楽しかったね」
「うん。それに……凄かった」

 は小さく呟きを落とす。
 人を乗せ空を駆る白竜の威風と、人の姿でもそれを損なう事のない毅然とした竜人の横顔。
 以前から感じていた憧憬が増す事は、何ら不思議ではないと思うのだけれど――。
 は何度もあの姿を思い浮かべながら、小さな手のひらをすぼめる。片腕に座らされ持ち上げられた世界が、思わず握りしめてしまった白い角の感触が、鮮明に残っているのはどうしてだろう。

 本当に、ただの憧憬か――。

?」
「……ううん、何でもない。間近で訓練とか竜とか見たから、まだちょっとドキドキしてる」

 たぶん、きっと、そのせいだ。爪先が軽いのも、心臓が落ち着きなく跳ねるのも。


◆◇◆


 とルシェが去った後。
 国境支部の食堂は、祝宴か何かのような盛り上がりを見せた。

 公開訓練日なんてものには無縁と言われてきた国境支部に、突然現れた見学者の話題は、たちまち支部内に伝わった。達は気付かなかったが、実のところ建物の窓には見学者を一目見ようとベッタリと張り付くむさい野次馬があったほどである。
 たった二人、されど二人。
 これまで散々な想いをしてきた夢見る騎士達は、可愛らしい見学者様の来訪に大いに沸き立った。そして、どうやら呼びこんだ人物であるらしい第一部隊長アシルへ群がった多くの騎士(※男)達が聞かされたのは、「ああ帰ったよ」という無情なこの一言。花をもたらした天使が午後も居る事を期待した彼らは、両手両膝を床につき落胆を隠さなかった。あれほど歓喜に沸き立った食堂が、瞬く間にびしゃびしゃとした湿っぽさに包まれる。
 しかし、見学者の残してくれたものは、そんな涙をすくい上げた。


「とても勉強になりました。また見学したいです」


 天使の言葉とお礼のフルーツタルトによって、国境支部に野太い歓声が響き渡った。
 誰も言わないが、世間一般でこれを“残念な人達”と称する。


 保冷庫から取り出されたバスケットが、長机の一角に置かれる。その中にでんと鎮座しているフルーツタルトを取り囲んだ騎士達は、ほうっと感嘆の吐息をこぼした。

「良いか、これは俺の妹達がもたらしたフルーツタルトだ。本当なら俺とテオで平らげて『美味かった』と自慢して回るところだけど」
「ひ、ひでえ……!」
「鬼だ……!」
「心優しく差し入れとして持ち込んでくれたものだ。均等に分けて食べようと思う」

 何処からともなく拍手が上がった。それをどうどうと抑え、アシルは続ける。

「大きめに作ってきてくれたんだけど、支部全員にはさすがに配れないから、この場に居る奴だけにしよう。見回りで居ない奴は……まあご愁傷様って事で」

 アシルはバスケットからタルトを取り出し、サクサクとナイフで切り分けてゆく。実家が飲食店だけあり、こういった作業は昔からさせられてきた。手慣れた仕草にはベテランのウェイターの風格さえある。

「とりあえず、一切れじゃ絶対に全員分回らないから……一口サイズにまで小さくなるな。ちょっと待ってろー」

 八等分にされたタルトが、さらに細かく切り刻まれる。本当に一口サイズである。「細切れ」「天使の差し入れが」「心が狭い」などと聞こえるが、アシルは無視して作業を進める。
 残り一切れ、となったところでナイフを置き、それを皿に乗せて確保した。
 「他のは良いぞー」とアシルが声を掛けると、騎士達は何処となく寂しそうに身を寄せたが、一口サイズのタルトを各々太い指でそっと挟んでゆく。大切に口へ放り込むと、不満げな表情は何処にいったのか、幸せそうに噛み締めて味わった。
 数多く存在する騎士団でも精鋭揃いの国境支部の猛者達が、一様にもごもごと口を動かし花を飛ばす風景は、正直不気味であった。

 そんな普段にない幸福感の漂う仲間の輪から、アシルはひょっこりと外れる。そして、数分前から全く恰好の変わっていない憔悴したテオルグの側へ歩み寄った。

ちゃんには型無しだな、鋼の竜人。いや鋼の顔面」
「うるさい」
「まあほら、とにかく食え」

 ズイ、とアシルの差し出したタルトを、テオルグはようやく視界に収める。食堂の不気味な幸福感満ちる空気にもその時になって気付いた。

「……これは?」
「ありがたーい差し入れだ。俺の検分は通ってるから怒んなよ?」

 ほら、と持たされた皿からふわりと香る、甘い果物と焼けたタルト生地の香ばしい匂い。

「一番大きいの食わせてやるって、約束したんだからな」

 それとこれ。アシルは隊服のポケットから隠していた小さなカードを取り出すと、それも合わせてテオルグへ押し付けた。不思議そうに面持ちを崩したテオルグに、アシルはにこりと笑って賑やかな輪へ戻った。

「……あ! お前ら、俺の分は残してんだろうな?!」
「うわ、やべ戻ってきた!」
「おい早く食っちまえ!」
「ゴラァァァ! 寄越せ! 妹達のタルトを寄越せェェェ!!」

 途端に騒がしさが増したけれど、テオルグの意識は小さなカードに向けられていた。日々の生活では見ない女の子らしいそれには、やはり女の子らしい丸い文字が綴られている。



 ――先日の果物をたくさん使わせていただきました。お口に合いますように。
 それと、今日もお勤めありがとうございます。お疲れ様です。


 



 テオルグの脳裏で、ミルクティー色の髪と鮮やかな緑色の瞳の小柄な少女が、慎ましい花を咲かせて控えめにはにかんだ。
 ありありと鮮明に浮かぶ姿に、恐らくきっとあの少女はそうするのだろうと、テオルグは自然と思う。

 カードは懐にしまい、皿に乗せられた一切れのタルトを口に運んだ。サクリと鳴る小気味の良い音と冷えた果物の甘さが、カードに綴られる柔らかさと共に染みた。

 冷たい白鱗の奥、何人に揺らぐ事のないはずの、竜の心臓に。



そして国境支部には、あっという間に見学者二名の情報が出回って、テオルグの噂話は消火されずさらに燃え上がるのでしょう。

そんな国境支部の公開訓練はこれで終わりです。
次話からは、少々シリアスというか、ちょっぴり苦く塩辛くなる予定です。


2015.08.20