25 薄紅色の涙

 夜も更け、街の空には雲で隠れがちな月が昇っていた。
 それをぼんやりと窓辺から見上げるの面持ちを、微かな月明かりが淡く照らし出す。浮かび上がるの瞳には、気弱な影があった。


 ――貴女は、俺に触るべきではない


 ぐるぐると回り続けるテオルグの声に、何度目になるか分からない溜め息がこぼれる。小さな唇から落ちたそれは、寝静まる静寂の空気にひっそりと吸い込まれた。
 何か、変な事を言ってしまったのだろう。彼の気分を害すような、あるいは彼の矜持を傷つけるような事を。
 は、そっと自らの首に指先を這わせる。日中、そこに与えられたのは、彼の爪先だった。人間とは違って丸みが一切ない、尖った鋭利な竜の爪。冷たい質感は、今も残っているような気がした。
 それでも、はテオルグ個人を恐ろしく思ってはいない。自分とは違って立派な人だと、力強く美しい竜だと、その念は全く変わっていない。けれど、あれらが彼の拒絶であるなら、自分はどうすれば良いのか。は一人きりの部屋ので、酷く悩ませられた。

(テオルグさん)

 結局、は収拾のつかない思考に揉まれ、ろくに眠れず翌日を迎えるのであった。


◆◇◆


 ここ最近は麗らかな晴天に恵まれていたが、今朝から重苦しい灰色の雲が街の上に広がっていた。
 見事な曇天模様である。
 今のの心も、その風景とほぼ同じだった。

「おはようございまぁす……」

 重苦しい声と共に喫茶店の扉を開ける。軽快なのはカランカランと鳴るベルぐらいだ。
 影を背負うを見るなり、ルシェは「うわぁ! くっら!」と大仰しく声を上げ、踵を激しく鳴らし駆け寄ってくる。

「すごく暗いよ、なにその顔!」
「うん……気にしないで……」
「いや無理でしょ。さてはあんまり眠れてないな?」

 その原因には既に気付いているのだろう。ルシェはあれこれと多くを言わず、気遣わしそうに優しく呟いた。

「仕事終わったら話そうね。無理はしないでね」

 大丈夫、仕事は、ちゃんとやるから。はこっくりと頷き、準備しいつもの仕事に取りかかる。けれどルシェがその後両親に何かを囁いたようで、その日はほぼ裏方作業だった。きっと気を利かしたのだろう。変に失敗して迷惑を掛けるよりは良いと思いながら、正直、とてもありがたかった。


 そして喫茶店の建物裏側で、は一人、黙々と作業に没頭していた。
 しゃがむ彼女の手元からは、バッキンボッキンと何かを叩き割る不穏な音が響いている。
 薪を割る音だ。
 工具を使わず、白い華奢な腕と指先のみで薪を割ってゆく姿は、第三者が見れば白昼夢かと眼を疑うところだろう。

、そろそろ時間……わぁぁッ?!」

 ぼーっとしたままひたすら薪を作りまくっていたは、ルシェの声でようやく手を止めた。ああ、いつの間にか、もう空は茜色。顔を上げ、そして直後に驚く。
 の両脇は、山のように積み重ねられた薪で取り囲まれていた。

「うわあ! いつの間に!」
「ちょ、崩れる崩れる! 急に動いちゃ……!」

「妹達よ今日も無事かー! お兄様がやってき……うおぉォォァァああ?!」

 うず高く積まれた薪の山は崩壊し、作業場の勝手口から現れたアシルに向かってなだれ込んだ。



 ――そして三人揃って、大量の薪を紐で縛る作業に打ち込む現在である。

「いやあびっくりだ……業者さんでも来たのかと思ったよ」
「すみません、ぼーっとしていて……」
「大量にあって困る事はないからね。うちたくさん使うから」

 アシルとルシェが束ねた薪を、が薪置き場へ運ぶ。一束、推定二十キロの重量物を五個ほど縦に重ねて。
 華奢な少女の身にはありあまる怪力は、今日も違和感を絶好調に放っているが……。

「……すんごい落ち込んでるな」
「こっちが悲しくなるくらいよ。それでも働きに出てくるんだから、もう」

 そっと小声で言葉を交わす兄妹には気付かず、は薪をとぼとぼと運ぶ。それを終えると、アシルとルシェのもとへ戻った。

「すみません、アシルさんにまでお手数をお掛けして」
「いや、良いんだよ、そんな事は」

 苦笑したアシルの仕草には優しさが浮かんでいる。

「……テオルグからざっくりとだけど聞き出したよ。ごめんな、あいつが」

 ――俺に、触れるべきじゃない

 再びその言葉がの中で響く。ぴくりと震わせた首を大きく横に振ってみせたが、隣のルシェは何故か怒りを露わにした。

「謝らなきゃならないような事したなら、兄さんじゃなくて本人が謝れってのよ! 納得出来る理由でもあるかってんだ!」
「ルシェ」
「さすが我が妹、俺とほぼ同じ反応だ」

 アシルは広い肩を竦め、その場に腰を下ろす。つられるように、とルシェもしゃがんだ。

「もう一頭の羽狂いを探して、国境支部の奴らで交代で昼夜探してる。あいつは竜だから夜目も利くし、夜間の警邏担当だ」
「そうですか……」
「……なんて、それはほとんど言い訳でな」

 アシルの茶色い瞳が、不意にへ定まった。

ちゃんに顔を合わせる度胸がないんだろうなあ」

 度胸がない。思ってもない単語が出てきて、思わずの目が丸く見開く。

「昼間飛べば必ず目に入る。もしくはちゃんの視界に入ってしまう。間違った事は言ってないって思っていながら自覚はしてんだよ、酷い事は言ったって」

 馬鹿だろ、自分で言っといてさ。アシルは笑ったが、はそれに反応出来ず、一気に混乱に陥っていた。
 それは一体どういう意味なのだろう。彼のあの優しくも惨い拒絶は、私が何か気分を害してしまったからではなかったのか。
 そんな風に考え込む、の頭上に。

「……竜ってさ、ちゃん」

 不意に声音を変えた、アシルの言葉が落ちてきた。普段のお日様のような朗らかさが引っ込み、静かな、諭すような響きがあった。

「たぶんほとんどの人が思うのは、かっこいいとかそんなのだろうけどさ。実際は――違う」

 国の象徴。生態系の頂をとる者。空を支配する強者。
 多くのものは、美しくも気高い、無条件で心をときめかす存在として竜を見るだろう。
 けれど、それだけだったのなら、特別視なんてされてこなかった。
 気高く美しい外見と印象は、ほんのおまけに過ぎない。長らく空を根城にし他種族を退けてきた彼らの真価は――闘争において発揮される、戦闘能力と狂暴性。
 竜と組むことを大前提にするアルシェンド騎士団は、各々が身をもってよおく学んでいる。それはもちろん、アシルも例外ではない。

 多くの竜が、理性的であり高潔であるのは、その本性を隠し抑える為だった。何故か。竜はその強さを自覚しているのだ。

「テオルグはその反動が、ちょっと他よりも大きいみたいだな。自分の竜としての本性を君に見せて、怯えさせたくないみたいだ」


 ――俺に、触れるべきじゃない


 あの言葉は、まさか。
 決してを傷つけたかったわけではなくて、むしろその反対で。


「……で? なに、兄さんはあの人を擁護しに来たの?」

 ルシェの瞳は、普段の朗らかさを思えばとても鋭かった。アシルは苦笑いを深めると、首を振る。

「まさか、逆だ。怒って良いって後押ししに来た」
「怒るって……」
「だってそうだろう。あいつは勝手に怯えて、勝手に酷い事言ったんだ。ちゃんにはテオルグを怒る権利がある」

 俺はもう昨日しこたま怒ってきた! とアシルは鼻を鳴らした。

「そりゃあさ、テオルグとちゃんがいい感じになったら楽しいなあとは思ったさ、最初は。でもこんなになったらなあ。ちゃんみたいな良い子は、あの阿呆にはもったいなさ過ぎる!」
「阿呆って……兄さんにまで言われたらお終いね」
「……あれ何か今、グサッと刺さるものが……」

 兄姉の会話が飛び交ったが、しかしの耳には入らなかった。

「……あれ、ちゃん?」

 急に黙りこくってしまったに気付き、アシルとルシェは同じ仕草で窺った。ミルクティー色の淡い髪で隠れた面持ちをそっと覗き込む。

「……テオルグさんは」

 震えた小さな声を、は絞り出す。

「私が、何かして怒っていたんじゃ……ない、んですね。私が、テオルグさんの、竜の誇りを傷つけたわけじゃ、ないんですね」

 まさかと声を上げたアシルも、見守っていたルシェも、揃って瞠目した。
 祈るように握りしめたの小さな両手に、ぽたり、と落ちたそれは。

「……良かった」

 震える声に、悲しみはない。

「よ、良かったです。私、ずっとあの人に何か大変な事をしてしまったんじゃないかと、ずっと……」

 心の中に重く、薄暗く垂れ込んでいた暗雲が、柔らかく解ける。その向こうから、濡れた花がふわりと咲き綻び、喜びに震える声を奏でた。

「……怒ってないのか?」
「どうして、ですか?」

 は指先できゅっと頬を拭う。逆に尋ね返されてしまったアシルの方が口を閉ざす。

「落ち込んでたのは、酷い事言われたからじゃなくて……心配していたからなの?」

 は大きく頷く。ルシェはさらに目を真ん丸にした。
 二人の驚く仕草に気付かず、は安堵の溜め息を一度こぼした。

「テオルグさんに言われました。羽狂いに襲われた時、俺が怖かっただろうって。違うって言っても、ど、どうしてか無理するなって言われて。私、何でそんな風に言われたのか分からなくて、触るなって言われた事の方が、こ、怖くて」

 でも。はごしごしと頬を擦ると、晴れやかに顔を上げた。

「違ったんですね。私みたいな、視界にも入らないようなチビの事を心配してくれて……ッうう、良かったです、ほんとう、ほんとう」

 良かった、良かった、と譫言のように繰り返しては喜びを一滴の涙に乗せて握りしめた白い手に落とす。
 涼やかな白鱗を輝かす、美しさと勇猛さを併せ持つ大きな竜。あの人の大切な矜持を、傷つけたわけではなかった。
 それが嬉しくて、はまたぽろぽろと涙をこぼした。

「……怖くは、なかったのか」
「どうして、怖いなんて、思うんですか?」

 あんなに綺麗で、強くて、かっこいい竜を。
 まるで鑑のような、騎士としても人としても素敵なあの人を。

「怖いなんて、これからも、絶対におも、思いません」

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながらも、はそうはっきりと告げた。
 だってあの人は。あの人は。

「……ちゃん、もしかして」

 アシルは、何処か呆然とした声で呟いた。

「テオルグの事――」

 その後に、明確な言葉は続かなかった。けれど、音もなく告げられたものは、の頭に不思議と入ってきて。
 あ、と。小さな唇が震えた。




 ――




「……そっか、うん、そっか」

 アシルの手のひらが、の頭に乗せられた。騎士ではなく、兄のような優しい仕草。

「ごめんな。泣く必要なんて、やっぱりないのになあ」

 俯く頬は真っ赤に染まり、唇に押しつけた細い指先に熱が広がる。




 人の姿であっても、竜の姿であっても、彼へ何度も抱いたあの感情は憧憬かと思っていたのだけれど。
 あれは、本当は何て呼ぶものだったのだろうか。

 別の名前で呼んでも――良いのだろうか。



ゴリラ少女も、自覚する。


2015.11.03