26 激昂

 重く垂れこむような曇天が広がっていた国境の街とその一帯に、雨が降り注いだ。それは豊かな自然を潤わす優しいものではなく、大地に水を氾濫させるような激しいものだった。
 叩きつけるばかりの勢いの雨足の中も、アルシェンド騎士団国境支部の職務は変わらず課せられる。こんな雨ぐらいどうって事ねえ! そんな風に叫ぶ悪天候にも屈しない猛者たちも、さすがに目の前が全く見えない豪雨には気合いだけで勝てなかった。
 この一帯の何処かに潜伏している、アルシェンドの天敵――羽狂(はねぐる)いの捜索は、その日は出来ずじまいとなった。
 この天候が永遠に続くわけではないのだから、まずは雨足が弱まるまでの間、装備の点検と整備、騎竜の状態を整える。また、周辺の街などには騎士を駐在させ、引き続き警戒を怠らないでおく。そういう手筈となって、多くのものはもどかしさを抱きながらも万全の準備を整えていた。

 竜や有翼獣の翼に固執する、獰猛な大猿の魔獣との対決はいずれ訪れる。そう心身を引き締める猛者の集う国境支部であるが――現在、緊張が迸っていた。




「やべえよあれ、声を掛けられる雰囲気じゃ……」
「ああ、機嫌が悪いというか……いや悪いどころの話じゃないな……」
「でも休憩もなしにぶっ続けだ……なあ、誰か言ってやれよ」

 国境支部の一角、屋内の鍛錬場。その入り口からこそこそと中を窺う、屈強な騎士たちの姿があった。

 鍛え直しを課せられたものが集うという裏事情に満ちた国境支部。そこに所属する騎士は皆、個性的で良い意味でも悪い意味でも騎士らしくない。何もしない内から泣かれ、最近ではついに悪党からも怯えられるようになった。

 そんな猛者たちが一様に顔を青くして窺うものは――彼らもたじろぐ、重い気迫を放ちながら鍛錬に励むテオルグである。

 いや、励んでいるというより、あれはもっと別の名で呼ぶべき気迫だ。普段から鍛錬を怠らない人物であるが、今目の前にあるのは通常のそれとは明らかに空気が異なる。まるで何かを追い払うように、一心不乱に剣を振るう竜人。ブオン、と空を切る音さえ重々しい。

「こないだからあんな調子なんだろう? どうしたんだろうなあ……」
「テオルグさんがあんな調子だと、何か不安になるなあ……」
「――まあ、大体の原因は思いつくんだけどねえ」

 不意に割って入った声へと、騎士達は振り返る。同じように中を覗き込むアシルが、背面に佇んでいた。しなやかな上背を傾げる仕草は柔らかいものの、表情は固く、呆れに似たものも浮かんでいる。

「せっかくの昼休憩をあんなろくでもない鍛錬で潰すなんてな。夜の見回りばっかしてたんだから寝れば良いのに」

 アシルはそう呟いた後、普段の朗らかな仕草で同僚たちに引いてもらうよう促す。揃いも揃って厳つい顔をしているのに不安げな色が見えるのは、なんだかんだでテオルグの存在が支部の根幹にあるからだろう。
 彼らの去ってゆく足音が遠くへ消え、建物を打ち付ける雨音がさらにその空気をざわつかせる。一人となったアシルは、入り口からテオルグの背をじっと見た。
 厚い騎士服の上衣を脱ぎ、簡素なシャツの姿で剣を振るう姿には、鍛え続けた逞しい身体の輪郭が浮かんでいる。腕も背中も腰回りも、何処をとっても緩みも隙もない。そういう風に彼は過ごしてきた。けれど、一心に打ち込む今の状態からは――追い詰められているような心がそのまま透けて見えた。
 まったく、らしくない。
 その一言に尽きる。

 これ以上怯えさせたくはない――先日、あの竜人は、確かにそう言った。
 己の流儀と信念には敏感で、他にはあまり頓着しない男が。
 空を根城として他種族を退けてきた、美しくそれでいて獰猛な白竜が。
 自らよりも小さく華奢でほのぼのと慎ましい、対極の位置にあるような少女を想い、確かにそう言ったのだ。

 国境支部の鋼の竜人。そう呼ばれる男に浮ついた話が舞い込んで、あわよくば隣にこれまで見た事のなかった異性が佇んだら最高に面白い。
 そんな要らぬお節介と冗談が半分を占め、こそこそ動き回ったのはアシルだ。だが、残りの半分では、テオルグという男を評価し本心から行動していた。全てが全て、冗談だったわけではない。
 けれど――アシルが思っていたよりも、竜人の心というのは固かったらしい。あるいは、非常に臆病だったらしい。

(馬鹿だなあ、テオ)

 それで良いのかとアシルが尋ね、それで良いのだとテオルグは頷いた。それなのにどうだ、テオルグ本人はどう見てもあれで良かったと証明している雰囲気ではない。
 他のものから見たら、今のテオルグは大層不機嫌と受け取るかもしれないが、アシルから見れば、かつてないほど弱り切っている状態だ。とにかく誤魔化すため、がむしゃらに剣を振っているのだろう。落ち込むなら落ち込めばいいのに、竜人というやつは何でこうも方向性が脳筋なのか。

(本当に、馬鹿だなあ)

 騎士の訓練生時代から付き合い、早十年。
 これまでも見た事のない愉快な彼を目撃してきたが、弱り切った姿も初めてだ。
 よほど、の存在が大きくなったのだろう。これはアシルにとっても予想外の事である。
 嬉しいが、同時に苛立ちも覚える。
 むかむかとしたものを胸に感じながら、アシルはテオルグの背に声をかけた。

「そんな動きで、せっかくの昼休憩を無駄にするつもりか?」

 ぴたりと止まったテオルグの動作から、今初めて存在に気付いたのだろうとアシルは察する。まったく、本当にらしくない。
 ザアザアと激しく鳴り響く雨音の中に、テオルグの荒れた呼吸が混じる。広い肩を上下させ、テオルグが緩慢に振り返った。揺れた黒髪の向こう、鋭さの欠ける青い目がアシルを捉える。額から伸びた白い四本の角も、心なしか鈍く輝いている。普段のきりりと引き締まった面持ちは何処へ消えたのか、精悍なかんばせには苦悩の色がはっきりと見えた。

「いつものお前だったら、入り口から俺達が覗いていれば苦言の一つは言うだろうに。それがないなんてよっぽどだ」

 軽い調子で告げるアシルの言葉に、テオルグは無言を返す。アシルは呼気を漏らすと、テオルグの目を見返し、はっきりと言い放つ。

ちゃん遠ざけるの、自分で納得してないじゃん」

 途端、テオルグの眉間がぐっと寄せられる。その仕草は、不快ではなく図星を示している。
 ますます口が固くなってゆくこの状態で、何を言っても開く事はなさそうだ。アシルは彼らの流儀に習う事にし、入り口から歩を進め中へと踏み入れる。騎士服の上衣を脱ぎ、近くに立てかけられた手頃な剣――もちろん刃は潰してある――を手に取りテオルグと向き合った。

「最近、手合わせ出来てなかったしな。たまにはやろうか」

 軽く屈伸運動をした後、アシルは剣を構えた。

「……いや、俺は――?!」

 言いかけたテオルグの言葉を遮って、アシルは踏み込む。斜めに斬り上げた剣をテオルグが受け止めた瞬間、刃を潰してあるとはいえ金属のそれは火花を散らさんばかりの音を立てた。
 激しい衝撃が、互いの腕に伝う。交差した二本の剣を間に挟み、テオルグとアシルの瞳がぶつかる。

「やっぱり、いつもより粗い。これも初めて見た」

 交差した剣を互いに弾き、再びぶつかる。激しい雨音の中、剣の冴えた音色が幾度も響く。

「そこまでなっておきながら、馬鹿だなお前は」

 どうして踏み込むのではなく、遠ざかるのか。アシルが暗にそう揶揄すれば、テオルグの目が動く。歪む仕草には、怒りか、それとも。

「……分からないだろうな、お前には」
「そうだな、分からないよ。長く付き合ってきた俺だって時々分からなくなるくらいなんだから」

 テオルグの剣を受け流し、アシルは素早く近づいた。ヒュッとしなやかな身体を捻り、テオルグの腹に向かって蹴りを浴びせる。倒れる事なく踏みとどまったが、鈍い呼気がテオルグの口から吐き出された。

「お前は、というか、お前らは大体いつもそうだ。人間を見くびって、自分の想像の定規で測りやが、る!」

 獣人、竜、魚人――数え上げればキリがないが、世界に多数存在する種族の中でも、基本的に人間は力が弱いという位置づけがされている。
 それは仕方ないだろう。実際獣人は馬鹿力であるし、竜は伊達に生態系の頂点に属していないし、人間が見くびられる事はほとんど世の常だ。
 けれど、その定規で何から何まで測られて決めつけられるのは、気に入らない。
 例えば訓練生時代、アシルが人間だからと決めつけ相手にしなかった、棘だらけだった頃のテオルグにもそう思ったように。

「こんだけ違う種族が居れば、一つや二つ戸惑う事なんて当たり前だろ! 大体昔っから――テオは自分基準だ、ちょっとはゆとりを持てっつーの!」

 テオルグの額に、びきりと青筋が浮かんだ。

「竜というだけで勝手に期待し、勝手に落胆してきたのはお前達の方だ。そこまでこき下ろされるいわれはない!」

 先ほどの礼とばかりに、テオルグの回し蹴りが返される。感情が高ぶっているせいか無意識の内に枷が外れ、テオルグの脚はじゃっかん竜化していた。彼岸を一瞬見かけたが、アシルは気合いで持ち直す。

「それでも、あの娘にだけは――その姿でありたいと思うのは、間違いだとでも言うつもりか」
「――ああ」

 激しくせき込みながらも、間髪いれずに返したその一言に。
 テオルグの青い目が、一瞬揺れた。

「自分でも納得してねえくせに決めつけやがって。だからお前たち竜は人間を侮り過ぎだって言ってんだ! 分からず屋!」
「うるさい能天気男!」
「どっちがだ鉄仮面!」

 もはや鍛錬ではなく、ただの一騎討ちと化していた。互いに激しく剣をぶつけ、隙をついた一撃を浴びせ合い、ついでに片手間に罵り合って時間は過ぎる。
 アシルとテオルグの全身には汗が浮かび、荒く繰り返す呼吸と同じく広い肩が大きく上下し始めた。

「大体、こんなの、意味がない」

 アシルが苛立って、テオルグが怯えて、それで何故か一騎討ちのような事をして。
 何の意味もありはしない。

「そういうのを決めるのも放すのも、全部――ちゃんだろうがよ」

 テオルグが、大きく目を見開く。交差した剣から、力が抜けた。
 アシルは最後の気力で足払いを仕掛け、テオルグの長躯を崩す。切っ先の逸れた剣を弾き飛ばすと、大きく踏み込み、倒れゆくテオルグの頭上に剣を振り下ろした。

 ドタン、と。一際大きな激しい音が、訓練場の床を叩きつけた。

 一瞬の静寂の後、相変わらず緩まない雨音が舞い戻ってくる。外の音と荒れた呼気だけが含まれる沈黙の中に、全身に纏わりつく疲労の存在がじわじわと主張していった。
 仰向けに倒れ込んだテオルグの顔の横には、アシルの剣が真っ直ぐと突き立てられていた。その柄を両手で握りしめているアシルは、片膝を立てテオルグの腹部に跨っていた。

「お前らがやたら侮る人間は、やるときゃ、竜だって負かすような生き物だ。だから、はあ、なんだ。ちゃんの、思ってる事まで、勝手に決めつけてんじゃねえって、話だ」

 ゼエゼエと荒く息を吐き出しながらアシルは剣をどけ、テオルグの横にその身体を投げ出した。どたん、と床の上に大の字で転がり、胸を上下させる。

「これを言う、だけで、なんでこんな体力を」
「……二度目だな」
「あ?」

 訓練場の高い天井を見上げたまま、テオルグが呟く。白鱗の散りばめられた頬には、汗が伝った跡が走っていた。

「勝手に決めつけてんじゃねえ――訓練生の頃も、お前に言われながら殴られたな」
「ああ……あったなそんな事。まあその後にはお前にもぶん殴られたけど」
「もう何年も経ってるのに、変わらないものだな」

 お前も、俺も。呟いたテオルグの口角は弧を描いていた。
 全身で呼吸を繰り返す荒れた息遣いが、ゆっくりと整ってゆく。

「……あの娘は、何か、言っていたか?」

 アシルが会いに行った事を、テオルグは既に知っていた。だからこその、あのがむしゃらな素振りだったのだろう。
 アシルは脳裏に、先日様子を見に行った少女を浮かべる。


 ――どうして、怖いなんて、思うんですか?


 ふっと息を吐き、上体を起こす。

「……さあね。どうだったかな」

 追いかけてくるテオルグの眼差しに、アシルは清々と笑って見せた。

「それこそ、俺が言う事じゃないだろ?」

 テオルグは口を閉ざすと、上体を引き起こし片膝を立てて座った。ちらりと覗き見た彼はまだ何か考えているようだったが、幽鬼のような悄然とした気配はない。アシルの顔にも、ようやく普段の笑みが戻った。

 誇り高く強くあろうとするほどに、時に驚くほど弱く脆い、頑なな竜とやらの心。
 これまでそれを剥き出しにする事は、アシルに対してさえほとんどなかった。それが、の存在によって、こうも変わった。
 ならばもう、これ以上はアシルがしゃしゃり出るべきではない。

(全く、面倒くさい奴。でも――だからやっぱり面白い)

 アシルなりの激励を心の中で呟き、にんまりと彼は笑った。



 結局、貴重な昼休憩は、拳を交えた言い合いで終わってしまった。
 落ち着いた後には互いの思考も冷静になり、一体何がしたかったんだろうな俺たちはと二人揃って笑った。しかもこの後すぐに午後の勤務が待っている。まったく、実りがあったんだかなかったんだか。
 ぼろぼろに疲れ切った身体を奮い立たせ、互いに身なりを整える。あちらこちらが妙に痛くて、意識はしていなかったが久しぶりに本気の打ち合いをしていたようだった。

「ちょっとこれ、午後まともに動けるかなー……いててて」
「それはこちらも同じだ……足首が重い……」
「うるせー俺はお前の蹴りでちょっとあの世に行きかけた……」

 もっともアシルは、これ以上はないだろうと思っていた竜人の一撃を超える、強烈なもの――丸太の輪切りの高速ストレート――を以前浴びているが。
 互いに身体を引きずるように訓練場を去り、執務室へ向かう。

「……あー、アシル」
「なんだよ」

 痛む腹部を擦るアシルの隣、テオルグはしばらく視線をさまよわせて。

「……感謝する」

 落ちてきた呟きに、アシルは一言「大いに感謝しろ」と返した。

 激しかった雨音は、幾らか穏やかになっていた。



何でかアシルがたくさんになりました。
彼は能天気なようで時々とても鋭くなります。


2015.11.03