29 貴方に胸の中を差し出す

 ここまで出し惜しみしない本気の全力をぶつけるのは、そういえば初めての事かもしれなかった。
 今思う事ではないけれど。




「やぁーッ!」

 ボゴォッッ!

「えーいッ!」

 ドンッゴンッガンッッ!

「んん……ッしょー!」

 ヒュルルル…………ガゴーンッッッ!!



 崖崩れの起きた現場に、可愛らしい掛け声と、物騒な重低音が響き渡る。
 雨粒の滴る空気には、その時確実に、先ほどまでなかった困惑がありありと浮かんでいた。恐らく、その場に居合わせたアルシェンド騎士団所属の騎士を始め、街の人々、騎竜――全てのものが、目の前の光景に意識を奪われていたに違いない。


 「やぁーッ!」突き出される小さな握り拳が、岩を砕き。

 「えーいッ!」細く白い足で繰り出した蹴りが、岩を蹴飛ばし。

 「んん……ッしょー!」気の抜ける気合いと共に、岩が宙を高々と舞う。


 ――なんだこれ。
 全員の心情は、この一言に尽きた。


 採掘場跡地の広場を埋め尽くした、岩石の海。大の男と竜が束になっても苦難を強いられるだろうところを、文字通り物理的に割って突き進む姿が目の前にあった。

 華奢で小さな、柔らかな出で立ちの少女――である。

「……なあ、今、俺起きてる? 実は寝てない?」
「同じ夢を見てるのか、奇遇だな」
「さっきから俺の前にも、お嬢様のやたら逞しい背中が見えてるんだ」

 挑もうとした屈強な騎士たちは互いに確認し合う。しかし何度見ても、考えても、あれは喫茶店の天使、お嬢様だ。
 ……例え今、機具を使わず殴る蹴るの物理技のみで岩石の道を切り開いているとしても。
 しばし彼らは、現実を信じられなくなった。あんなに小さくてふわふわした女の子が、私服のみの軽装備で岩を砕いて進むなど、普通思いもしない。というより、全く考えるはずがない。

「わぁー! ?!」

 ぐずぐずとうろたえていたルシェは、友人の奮起する姿に涙を引っ込め飛び上がった。
 喫茶店で薪割りと荷運びをしてくれた時の比ではない。あれがの本気か。どうしよう、可愛いのにかっこよすぎる。ルシェは傘を放り投げ、雨空の下で声援を送った。
 普段から見慣れてしまっていたせいだろう。それがどれほど衝撃的な絵面であったのか、まったく気付かなかった。

 周囲が呆然としている間も、ちょこちょことは突き進む。動き自体は普段と変わらず小動物感満載であるが、その手から爆発している怪力だけは尋常でない。
 ただひたすらに岩を左右に押しのけ、放り投げるという作業を何度も繰り返す。そのおかげで、騎士団の騎竜が三頭ほど横並び出来る空間が、既に現れつつあった。
 けれど、竜犬が吼えた場所までは、まだ十数メルタの距離がある。
 は荒く息を吐き出し、無心になって岩を左右に放り投げた。

 驚く周囲の声が、聞こえないわけではない。
 向けられる視線の強さが、感じないわけではない。
 けれど、今は不思議と、全く怖くはなかった。そんな事以上に恐ろしいものが、目の前にあるのだ。テオルグとアシルを、早く助けないと――その思いが、普段の気弱な心を奮い立たせていた。

 こういう時に役立たないで、何がゴリラ女だ!

 は雨で濡れる頬を引き締め、次なる岩へと手を掛けた。

 とはいえ、いくら腕力が人並み以上だとしても、の体力自体は一般人と同じ。力仕事の疲労は溜まるし、それに。

「い……ッ!」

 ビリッとした痛みが、指先に走る。思わず見下ろせば、擦り切れて朱が滲んでいた。
 手袋さえしていない素手で行うような作業ではない。どんなに怪力でも、怪我をしないほどの頑強さはないのだ。
 は指先を強く握ると、再び目の前の岩へ伸ばす。これぐらい気にするものじゃないと、ビリビリと何度も走る痛みを耐えた。


 細く小さな少女が物理的に道を切り開く様は、不可解極まりないものであったけれど。雨に濡れ、泥を浴びて、なおも作業を続ける必死な姿は、止まっていた人々の心を動かした。

「な、何かよく分からないけど……手を止めんな! お嬢様の後に続けェー!」
「こういう時にこそ日頃の鍛錬の成果を見せるんだ!」

 いち早く硬直から解けた国境支部の騎士たちが、声を張り上げて撤去作業を再開する。が押しのけて左右に盛った岩が崩れないよう、警戒に当たった。

「はあ、はあ……ッ」

 横へ押しのけた岩に両手をつき、は肩を上下させる。

「グルルル……」

 ふと背後から、数頭の騎竜が顔を伸ばし覗き込んできた。一瞬ドキリとして息を弾ませたが、瞳孔が縦に裂けた眼には気遣うような知性が感じられた。大丈夫か、と言ってくれているのだろうか。
 はそれに薄く笑い、疲労が滲んできた身体を真っ直ぐに立たせる。

「嬢ちゃん、無理すんな! 直ぐに交代出来るからな!」
「は、はい。でも……まだ、やれますので……!」

 ……何だろう。あれほど誰かに見られる事が恐ろしかったのに、ちっとも気にならない。
 チビな身体に不釣り合いな怪力をここまで大きく広げて見せたら、逆にどうとでもなれというか。ちまちま言ってるのが恥ずかしいというか。勢いのままに劣等感を突き破ったら、何だかとても清々しい。
 後で何と言われるかは分からないけれど、どんな視線に晒されても、ゴリラ女と言われても、きっと今の状態なら胸を張って堂々と歩ける。今までになかった自信が、の中にあった。


「――竜犬が吼えてる場所にだいぶ近付いたぞ!」

 誰かが、そんな言葉を叫んだ。
 は手を止めて顔を起こす。目の前に転がる岩石の上、全長が一メルタほどの竜犬――犬と竜が混ざったような姿の竜種――が、低い声で吼えていた。ここだ、ここだと、訴えるように。

「テオルグさん……アシルさん……!」

 そこに二人が居ると分かれば、のやる気も俄然高まる。周りの岩を可愛らしい足で蹴散らすと、疲れた身体を必死に立たせて、もたもたと積み重なった小山へ駆け寄る。

さん! 今、機具を……!」
「必要ありません!」

 キルテの言葉を、は可愛らしい声できっぱりと断る。細い両腕を目一杯広げると、一際大きな岩の塊を抱え込まれるように渾身の力で持ち上げた。

「え、ちょ、えェェェェー!」
「うおォォォォォォオオー?!」

 驚愕と興奮が綯い交ぜになった、男性たちの太い絶叫が雨空に響く。

 直径三メルタほどはあるだろう、一際存在感と重量感を醸し出す岩石が。
 遥かに小粒な少女の細腕によって、高々と掲げられた。

 傍から見たら凄い光景だろうなあ――当のは他人事のように思っていた。
 沸き立つ声を聞きながら、ぐっと奥歯を噛み締め震える瞼を開ける。岩石しか見当たらなかった褪せた風景に、純白の輝きが飛び込んできた。薄氷色の、高潔な、目映い白。
 巨体を窮屈に丸めて防御の体勢を取っているその塊が、もぞりと身じろぐ。僅かに破れた翼が静かに下がって、伏せていた竜の顔が現れる。四本の尖った角を伸ばした、誇り高い気品を纏う、その面持ち。土で汚れても、純白の鱗の煌めきは一切損なわれない。
 ああ、良かった――!
 は、息を吸い込んでいた。

「テオルグさん! ご無事、ですか!」

 疲れも忘れて、無意識の内に大きな声が飛び出した。
 薄く閉じていた彼の瞼が、全て持ち上がる。空よりも濃い鮮烈な青い瞳が、を見上げて認めた。

 途端、テオルグが何度も瞳を瞬かせ、視線をさまよわせた。

 綺麗な青い瞳には、誤魔化せない困惑が滲んでいる。の顔と持ち上げる巨大な岩石の塊を、激しく行き来している。どちらを見れば良いのか、猛烈に迷っているのだろう。

「…………?」

 ぽつりと呟いた声には、隠せない動揺。しかしは、彼の様子を余所に喜びを咲かせた。

「ああ、テオルグさん、良かった……!」

 頬を緩ますの声の後ろで、野太い歓声が上がる。
 は持ち上げた直径三メルタの岩石を、ぐぐっと振りかぶり「えいやーッ!」と可愛らしい声で真横へ放り投げる。思わぬ飛距離を生み出したそれは、ドゴシャッ! と全く可愛くない音を立てて落下した。
 野太い歓声に、ごくりと息を飲み込む音が混じった。
 足下をふらつかせたまま、はテオルグの、白竜の頭部へ迷わずひざまずく。泥水がばしゃりと跳ねた。

「アシルさんは? アシルさんは何処に?」

 問いかけられ、テオルグは呆然とした意識をようやく取り戻した。
 そうだ、アシルを――。
 テオルグは低く呻きながら、伏せていた身体を僅かに持ち上げた。彼の太い四肢の下、外套を広げて倒れ伏す人影があった。
 周囲の騎士たちが、慌てて駆け寄ってくる。

「アシル隊長!」
「よし、引っ張り出して治療……」

 騎士の言葉を聞くや、は小さな身体を生かして、地面と白竜の胴体の間へ滑り込む。気を失っているアシルの胸に両腕を回すと、彼を抱えて小走りで外へ出る。

「はい! どうぞ!」
「え?! あ、お、お、おう」

 はい、と元気よくアシルを差し出されて、騎士の声が意図せず上擦った。
 背丈もあって、外見よりもずっと鍛えられているアシルが、まるで大きなぬいぐるみか何かのように……。
 喉に絡みつく戸惑いを何とか飲み下して、彼はからアシルの身体を受け取る。他の騎士も彼へ駆け寄ると、意識のないアシルの足と腕などを抱えて下がっていった。
 すかさず、ルシェとその両親がアシルに縋る。気を失ってはいるが外傷もなく無事と言える身内の姿に、ついに涙が溢れ出て喜びに咽ぶ。ありがとう、ありがとうと、感謝を告げながら彼らは共についてゆく。
 ルシェが振り返り、涙で濡れたお日様の微笑みを浮かべた。と、そしてきっとテオルグに対してのものだろう。は首を振って笑みを返し、友人の本当に嬉しそうな背中を見送った。

 グオオッ。の背面で、竜の低い鳴き声が響く。
 あっと思い振り返ると、白い巨体が岩の間から抜け出そうとしているところだった。小山が崩れないよう、気を使って慎重にテオルグの前肢が踏み出す。は横にずれ、周囲の人々と共にその動向を見守った。
 長い首、前肢、翼を畳んだ胴体、そして最後に尻尾が抜けると――その瞬間、採掘場広場に空いたスペースに、どうっと白い巨体が崩れ落ちた。
 は泥水に浸かった彼の脇を、小走りで駆けて顔の前に回る。荒い息づかいが、の華奢な足首に吹きかけられる。引き締まった胴体が、何度も上下している。
 泥水も構わずに、はぺたりと座り込んだ。
 よく見れば、美しい純白の鱗には、幾つもの擦り傷があった。所々で、鱗が数枚剥げた痕も見える。アシルと自らの身体を守ったその大きな翼にも、僅かに膜が破れている箇所がある。
 テオルグの向こうには、崩れた岩壁がそびえ立つ。どれほどの重さが降りかかったのか想像も難しくない。
 それを思えば、鱗が剥げただけで済んだと喜べば良いのだろうけれど。いくら竜であっても、非常に頑丈な身体であっても、彼も普通の生き物だ。命を二つと持っていない、同じ生き物なのだ。

「よか、た……」

 最悪の結果に遭遇せずに済んだ。その事実が、ようやくじわじわとに押し寄せる。
 ゴリラで良かった! 本当に!
 感情がいっぱいになる柔らかな胸の前で、の小さな両手が握られる。

 至る所から上がる歓声の中、泥水に突っ伏したテオルグがゆっくりと顔を持ち上げる。

「よかった、よかったです、テオルグさん」

 目の前に座り込んだ彼女の、泣き出しそうに歪む頬は雨でびしょ濡れだった。そよ風に柔らかく泳いだミルクティー色の淡い髪も、雨粒を受けて重く張り付き、華奢な身体も泥水を含んで汚れている。
 それでも、何度も良かったと呟く彼女の、その美しさよ。
 不格好に緩む緑色の瞳に、テオルグのひりついた全身を包む倦怠感が薄れてゆく。

「……何故、ここに……」

 揺れる青い瞳が、をぼんやりと見つめる。

「ああ、そうか、俺は……寝ているか何か、しているな。貴女が俺の前に、来るはずがない」
「テオルグさん」
「それに、さっき、岩を持ち上げる貴女が見えた。まさかな……きっと……何かの幻覚か、夢だな……」

 聞き慣れたテオルグの低音の声に、涙と苦笑が滲む。は、彼のぼんやりとした眼差しを見つめ返した。

「テオルグさん、夢じゃないですよ。夢なんかじゃ」

 泥水の中を膝立ちになって進む。荒い息づかいを遠慮なく掛けられながら、は白い竜の鼻先へ上体を倒した。額を重ねるように頭を垂れると、くらいなら簡単に一口で食べられるだろう顎から、息遣いが一瞬途絶える。
 ぱたぱたと、軽やかに降る雨粒が互いの頭を伝って落ちた。

「テオルグさんと、アシルさんが、大変だと聞いて。私、私」

 小さな花が咲いた、柔らかい声。いつから覚えたのか知らない、不思議な匂い。ああ、これは――本当に、現実か。

 不明瞭な意識が次第に定まる。文字通りの目と鼻の先にある小粒な少女の存在だけが、思考の回らない脳へと入ってくる。
 岩を持ち上げていた光景が何故か浮かんだけれど、しかしそれはさして問題ではない。テオルグが今困惑しているのは、目の前に何故彼女がいるのかという事である。

「……俺の前に、来てくれるとは……思っていなかった」

 あんな言葉を、貴女へ押しつけたというのに。テオルグの低い声がそう呟くと、は額を重ね合わせたまま首を振る。視界の片隅で、濡れたミルクティー色の髪がふるふると揺れる。その柔らかな振動が、テオルグの白い鱗に覆われた鼻筋をくすぐった。

「……この雨が、上がったら」

 は囁いた。

「この雨が上がったら、会いに行こうって、決めてたんです。テオルグさんに、私は怖くなんてないんだって、言おうって」
「……俺に」
「テオルグさん、私にだって、見られたくなかった秘密はあるんですよ」

 それもついさっき、たくさんの人に見られてしまいましたが。
 でも、何だか、どうでもよくなってしまったんです。

「私、それよりも、テオルグさんとお話し出来ない方が――辛いんです」

 のその声に、テオルグの心臓が震えた。頑強な鱗の下で、錆び付いていた何かが音を立てて動き出すような気配。疲弊しているはずの全身に熱が回り、拍動が強まる。

 それは、長いこと味わっていなかった感覚であった。
 騎士の訓練生時代、アシルに負かされた時に覚えた「こいつならば」という、あの期待と高揚。
 あれが、最初で最後とすら、思っていたのに。
 あの時のものと限りなく似ていて、しかし全く異なるものが、テオルグの心臓に宿った。

 鼻筋に押しつけていたの顔が、ゆっくりと持ち上がる。現れた少女のかんばせには、笑みが浮かんでいた。そよ風に香る小さな花のような、慎ましくも朗らかな微笑み。
 見たかったのは、その仕草だった。

 テオルグは喉の奥で重低音とも言える音を奏でると、泥水に伏せていた身体を起こす。長い首が持ち上げられ、白竜の頭部がから離れ高く上がってゆく。
 その動作を視線で追いかけていったは、次の瞬間、驚いて緑色の瞳を見開いた。

 美しく高潔な白竜の姿が、次第に萎んでいったのだ。

 長い首や引き締まった胴体が縮まり、鋭い爪を生やした四肢が細長く伸びる。転変してゆくテオルグの様子を、はぽかんとして見上げていた。
 そこには、初めて見る姿の彼が居た。
 その様子を一言で表せば、大きな白竜がそのまま人間の形になったと言うべきか。座り込むの前には、白竜の頭部を持つ非常に逞しい人物が、片膝を立ててしゃがんでいた。全身に白鱗を纏った屈強な肉体の向こう、大きな翼と、しなやかな尾が窺える。

 彼の種族は、竜人――人と竜の姿を持つ者。
 これもきっと彼が持つ姿の一つなのだろう。竜人という種族の名を実感させる。

 人の姿でも竜の姿でも大きな彼は、中間で合わさったようなこの姿もとても大きく立派だ。様々なところが厚みを持って逞しく、背丈もきっと倍になっている。片膝を立ててしゃがんでも、視線の高さはやはり合わず、その姿から放たれる空気に押されてしまいそうになる。

 ふと、を見下ろした白竜の頭部が空を仰いだ。その仕草に釣られて、も顔を上げて視線を移す。
 鈍色の雲から、青い空が見えた。ぱたぱたとこぼれ落ちていた雨粒も、いつの間にか止まっていた。
 滲む光の眩しさに、とテオルグの眼が互いに細められる。

「雨、止みましたね」
「……狙ったようなタイミングだな」

 掠れた声で呟き、一呼吸置くと。テオルグは「」と名を呼んだ。くりっと頭を動かして、頭上の空から目の前の白い竜人へと視線が移る。

「……この姿であっても、俺を恐ろしいと思わないか」

 白竜そのものな頭部が、の頭上へと近づく。
 四本の角があって、鱗が覆っていて、薄く開く口からは尖った牙が見えて、両手両足には鋭い爪があって。人間の造形に限りなく近い身体でも、目の前にいるのは紛れもなく竜だ。
 が憧れて、尊敬して、どうしても惹かれる――テオルグで、間違いないのだ。

 雲間から覗く空色よりも鮮烈な、青い瞳をしっかりと見つめ返す。声の調子と表情に変化は薄い。けれど、そこには確かに、怯えが見えた。それを拭うように、は言い淀む事なく、しっかりと告げた。

「怖くなんて、ありません」

 宙をさまようテオルグの手に、は自らの手を重ねて持ち上げる。大きな木の枝ぐらいはあろう太い人差し指を、濡れた手のひらできゅっと包む。

「ほら、全然、怖くなんてないですよ」

 テオルグはぐっと喉の音を詰まらす。鱗から伝わる、彼女の手の柔らかさと温かさと小ささときたら。

 ――ちょ、まずい。何だこの生き物は。

 至近距離で放たれるとびきりの微笑みに、岩石が降り注いできた衝撃以上の何かをテオルグは覚えた。
 動かない身体に代わって、背面に伸びた長い尾が濡れた地面をびたびたとうねって悶絶する。

 あの子は見た目以上に逞しく強い子だ――そう告げたアシルの言葉は、確かにその通りだった。
 全体的に華奢で儚く、小柄な背丈であるのに、不思議と物怖じせずそよ風のような柔らかさで滑り込む。強くあろうとするあまり臆病になる、どうしようもない竜の深い所まで。

 身体の大きさも厚みも、半分も足らないようなに。
 その時テオルグは、敵わないと思った。

「そう、か……俺よりも、よほど貴女の方が強い」
「そんな事は」

 言いかけた言葉が、途中で止まる。きゅっと彼の指を握ったまま、大きな手が静かに下ろされる。

「……
「はい」

 ちょこんと座る少女へ、何かもっと、もっと多くの言葉を掛けてあげなければならないと思っていたのだけれど。いざ目の前に居ると、浮かんでいたものが全てテオルグから吹き飛んだ。
 不格好な沈黙を挟んだ末、ようやく口から出たのは。

「……すまなかった」
「テオルグさん」
「身勝手だったな、何処までも」

 テオルグはその一言にあるだけの感情を詰め込み、の丸い耳へ落とす。
 は僅かに緑色の瞳を見開かせ、ぶんぶんと首を振ろうとし――ふと、止めた。過ぎったのは、ルシェとアシルの顔だった。

「ほ、本当ですよ」
「ああ」
「あんな風に言われて、あっちの方が怖かったんですからね」
「そうだろうな」
「ぶ、ぶたれたって、も、文句は言えないんですからねッ」
「いくらでも覚悟している」

 白い鱗に囲まれた青い瞳が、薄く伏せられる。は手のひらに包んだ太い指を離して――代わりに、倍以上は大きな竜の手を両手で挟んだ。
 二分の一、いや三分の一しかなさそうな小さな両手が添えられ、竜の頭部がうろたえる。

「も、申し訳ないって思ったなら……私の事、あ、侮らないで下さいッ」

 私、そんなに何でも怖がったりはしないんですからね。
 雨粒に浮かぶのはにかみが、ふわりと向けられる。ああ、これは本当に、敵わない。自らよりも小さな生き物へ、テオルグは痛感した。

「……心に刻もう。すまなかったな」

 テオルグがそう返すと、は頬に浮かぶはにかみを深めた。

 そしてそれが、必死に我慢していた、限界だった。

 緑色の瞳がくしゃりと歪み、水が湧きだすように涙が溢れる。笑みを作っていた頬が震え、色づいた唇が結ばれる。
 変化の薄い竜の頭部が、ぎょっとなってその色を変えた。

「ご、ごぶ、ご無事で……ッ」

 ひくり、と華奢すぎる丸い肩が跳ねる。

「ごぶじで……ッよか、よかったですゥ……!」

 はぎゅうっと細い眉を顰め、身体を倒すようにして距離を埋める。ぽすりと丸い額がぶつかったのは、幾つにも筋肉が割れがっしりとしている腹部だった。
 握っていたテオルグの手を離し、太い腰に両腕を回す。目一杯に広げても彼の背骨へ全く届かない指先を、必死に鱗へ引っかけてしがみつかせる。

 腹部に飛び込み縋りつくに、テオルグは全く反応が追いつかなかった。
 見た目の通りに華奢で小さな存在は、しがみついてきた事でなおさらそれをテオルグに伝えてきた。思い切り腕を伸ばしても脇腹にしか届かず、しかも柔らかくじわりと温かい。至るところが細くて、頼りなくて、折れてしまいそうな、その外見以上の危うさ。何処までも竜という生き物の正反対にある存在だった。
 けれど。
 ぐすぐすと鼻を啜る小さな頭へと、宙に浮いてさまよったテオルグの手がぎこちなく下りてゆく。濡れていても柔らかく繊細な髪を滑り、丸みを帯びた薄い肩へ手のひらが重ねられる。
 両肩を背後から抱えられる感触に安堵して、の腕はさらにぎゅうっと力が増した。
 不安を埋めようと縋る幼子のような抱擁の、目眩がするほどの可愛らしさよ。
 テオルグは頑強な腹筋で受け止め、そして――



「ぐッふぅ!!」



 ――息を全て吐き出し、気絶した。



 ぐったりと全身を脱力させたテオルグに、の歓喜の涙が止まる。
 覆い被さるように圧し掛かって来る竜人の巨体を、慌てて支えたは、丸い瞳を白黒させた。

 は、忘れていた。それはもう、綺麗さっぱりと忘れていた。テオルグが無事であったという安堵と喜びが何もかもを上回っていたとは言え、重大な事を忘れてしまっていた。
 テオルグを救いたい一心で、は普段自らに嵌めている抑制の枷を、全て、余すことなく、全解放していたという事を。そしてそれは、恐ろしい事に――まだ枷を嵌めていなかったという事を。

「テオルグさん? テオルグさーん?!」

 無意識の内にテオルグの胴体を締め上げて気絶させ、別の意味で涙するの叫び声が、古い採掘場広場へ響き渡る。


 波乱の続いた空にはすっかりと、穏やかな青空が広がりつつあった。



から溢れ出る、圧倒的な女子力怪力の巻。
再三申し上げますが、これはほのぼの恋愛小説でお間違いございません。ご安心ください。

ちなみに29話タイトルの初期案は【怪力少女、覚醒】でした。
なんか違うかなと思ったので変えましたが、やってしまえば良かったかと思わなくもないです。


2015.11.14