28 もう一度と願う許しの先で

 崖崩れがあった――そう知らせを受け、はルシェ一家と共に雨の中へと飛び出した。
 そして、目の間に広がるその光景に、愕然とする他なかった。
 採掘場の坑道入り口前の大きな広場を、崩れ落ちた大量の岩石が埋め尽くしていたのだ。
 後方に見える、切り拓かれ露わになった崖の一部には、抉り取られたような痕跡。あそこから崩れてしまったのだろうとは何処かで思いながら、目の前に広がる惨い事故の有様に声を失った。
 一体、何が。
 ぱらぱらと降る雨は緩まってきているのに、肌を重たく打ち付けていた。

 昔、この辺り一帯の採掘業などの全てを担っていたという古い採掘場は、今は沈黙が破られ多くの人々によって騒然としている。作業着に身を包んだ人、私服のまま飛び込んだ人と様々であるが、その中心となって声を張り上げているのは青い制服を着た騎士たちであった。

「手ぇ空いてる奴、機具を組み立てるから来てくれないか!」
「竜犬(りゅうけん)が到着したぞ! 放すから一旦下がってくれ! アシルとテオルグが埋まった場所、早く探さねえと……!」

 アシルとテオルグが、埋まった場所。
 聞こえてきたその言葉に、はどくりと心臓を跳ねさせる。けれど、それ以上に狼狽したのは、身内であるルシェ達だ。雨が注ぎ泥水の溜まった地面へ、ルシェの膝がくず折れバシャリと音を立てる。

「あ……ッうそ、兄さん……!」

 はルシェの隣へ、スカートが濡れるのも構わずしゃがむ。震える彼女の肩へ腕を回すと、明るい茶色の髪が縋ってきた。普段はお姉さん風を吹かせる彼女の、なんと儚く頼りないことか。
 青ざめるルシェの両親は、近くの騎士を捕まえ一体何があったのかと問い質す。彼の顔には、覚えがあった。公開訓練の時から知り合いとなったキルテだ。彼はやルシェの顔を見て、一瞬痛ましそうに表情を歪めたが語ってくれた。
 この一帯に潜伏していた残りの羽狂いをこの場所――採掘場跡地――で捕えたが、戦った影響で岩壁が崩れてしまった。他の騎竜を飛び立たせる事を優先し、テオルグとアシルは間に合わず、今はあの広場の何処かに。
 そう聞いた瞬間、「あの子、本当に馬鹿なんだから」とルシェの母が口を覆って座り込んだ。その肩を、ルシェの父が抱く。

「一緒に、テ、テオルグさんが……?」
「そう……だ、だけど、大丈夫です。あの時、テオルグ副隊長は竜化していました。竜の身体は本当に頑丈だから、アシル隊長を守りながら、きっと無事です」

 大丈夫、と何度も彼は言って、作業へと戻った。けれど、浮かべていたキルテの笑みは険しく、安心なんて何処にもなかった。まして、人よりも大きな岩石がなだれ込んだこの広場の有様が目の前にあるというのに。
 本当に無事かどうかなんて、きっと誰にも分からないのだ。

「どうしよう、どうしよう

 ルシェの肩の震えは、にも伝わってくる。何度も撫でて宥めるが、止まるはずもない。
 そしてその不安が顔に表れているのは、達だけではない。作業の手伝いに名乗りを上げる人々も、騎士団の人々も、誰もが同じであった。早くこの岩を退かし彼らを見つけようと、必死に。


 ――この雨が止んだら


 この雨が止んだら、あの人ともう一度話がしたい。
 そう思っていたけれど、もしかしたら、このまま叶わないなんて事も。
 雨に濡れるの青白い頬が、途端にぎゅっと強張る。

 その時、広場を埋め尽くす岩石の上を伝い歩き、捜索していた数頭の竜犬が吼えた。壁際に最も近い広場の最奥の、岩石が特に積み重なっている場所で。恐らく見つけたのだろう。
 良かった、と安堵が浮かんだけれど、直ぐに萎んでしまった。

「くっそ! 機具が入らねえわ……!」
「ええい、騎竜全部駆りだせ、岩をどうにかしてずらさねえと……!」
「街からも有翼獣を借りてきます!」

 場所を特定しても、救出作業に直ぐには取りかかれない様子だった。機具どころか人さえも入れないのだから当然である。転がっている重い岩石も、中には直径二メルタを越えるものまで混ざっているのだ。

 今視界に映る騎竜を全て使って、どれほどの作業速度だろうか。街から有翼獣の応援を呼び寄せて、どれほど掛かるだろうか。その間で、下敷きにされているテオルグとアシルは。

 嫌な予感ばかりが、の脳裏を過ぎる。恩人と言ってもいい友人が、その両親が、こんなにも泣いていて。騎士も街の人も問わず必死になっていて。


 ――私が。
 “私”が、何もしないなんて。


 雨のかかる青白い頬が、ぎゅっと引き締まる。ルシェの細い肩を撫でていた手のひらが、握り込まれる。

「……?」

 憔悴しきったルシェの声が、か細くこぼれる。はルシェに傘を持たせて立ち上がった。顔や身体をじんわりと濡らしてゆく雨は冷たいけれど、気にならないほどに全身が熱く感じる。小柄な身体には不釣り合いな、大きな胸の奥で鼓動を主張する心臓のせいだろうか。
 立ち上がった細い足は震えていた。それを振り払うために、は大きく足を踏み出した。茶色く濁った水溜まりも、バシャバシャと構わず蹴飛ばす。背中に感じる痛いほどのルシェの視線にも、振り返らなかった。

 広場を覆う岩石の手前で、作業を進める人々へと近づいてゆく。直ぐにに気付き、彼らは腕を広げて制止してきた。「危ないから近づいちゃ駄目だ!」大きな声に驚いたけれど、は握りしめた手をそっと広げて伸ばし、目の前に立ち塞がる彼ら――齢三十、四十を越えた男性たち――の腕にやんわりと触れ、軽やかに潜り抜けた。
 彼らから「え、あれ?」と困惑する声が聞こえたけれど、はさらに進む。

さん、危ないですから下がって下さい!」
「嬢ちゃん、心配なのは分かるが下がれ!」

 顔見知りになった騎士たちと、キルテが、目の前に佇む。同年代の娘たちと比べて背も小さく華奢なは、鍛えられ屈強な騎士が周りに立つだけで直ぐに埋もれてしまう。現在の状況もあってその威圧感は普段の比ではなく恐怖すら覚える。
 けれど。


 雨が止むまで、待っていたら――!


 気弱な心をかつてないほど奮い立たせて、は緑色の瞳をキッと上げた。

「私に、お、お手伝いさせて下さい」
「手伝いって……そんなの。危ないだけですよ!」

 キルテ青年に続いて、他の騎士も首肯しさらに声を張る。

「そうだ、お嬢ちゃんには危なすぎる。下がっていてくれ、俺たちに任せて」
「し、信用していないわけじゃありません。私、お手伝い、します」
「だから……ッええい、あとで恨まないでくれよお嬢ちゃん!」

 一人の騎士が、へと手を伸ばす。きっと力ずくで下がらせるつもりだろう。頭上から降りてくる大きな男性の手は、力強くの細い二の腕を掴んだ。
 はそれを見下ろして――そっと、小さな片手を重ね合わせた。

「……ッ?!」

 息を飲み込んだ音が頭上で聞こえた。はそのまま、男性の無骨な手を優しく下ろして、さらに足を進める。目の前に立つキルテは、普段は柔和な面持ちを強ばらせ、駄目だと目で訴えてくる。
 客観的に見て、こんな場所に細いチビな娘がいるの邪魔でしかない。分かっているけれど、は自らを奮い立たせて。

「ごめんなさい、退いて下さい」

 小さな両手をそっとキルテの腰に重ね、横へずらして先に進んだ。
 まるでそよ風が通るような軽さで、はふわりと進む。どうして止めないのだと人々が咎めたけれど、たった今彼女を止めようとした騎士は、全員が瞠目していた。

「え、嘘だろ……」
「今……あの子……」

 騎士たちの呟きを背に受け、はついに行く手を阻む最たる障害である岩石の前に佇んだ。背格好だけで見れば、の方が潰されて終わりだろう。
 けれど。

(……大丈夫、“私”なら、出来る)

 言い聞かせながら、大きく息を吐く。ふわりと両脇に下ろした小さな両手に、意識を集中する。

 怖がられた挙げ句、チビだゴリラだとからかわれ散々な扱いを受けた、幼少期。それでも彼らの中で暮らしたくて、家の外の作業場に通っては岩を相手に特訓してきた。幼い頃の自由な時間を、全て費やして。その甲斐あって、行き過ぎた力を自由に扱う術を手に入れた。

 喫茶店で薪割りと荷運びをこっそりと手伝う普段でさえ、実はほんの僅かしか活用していない。普段はの奥底へ、何十にも鍵やら扉やらして隠しているのだ。
 それを、今は。

 今だけは、無意識の内に自らを戒めるものを――全て、外してしまおう。

 枷を外すように、鎖を緩めるように、脳内で一つずつ戒めを壊してゆく。ぶるりと震える指先や爪先、激しく拍動する心臓に、言葉にしがたい奔流が巡ってゆく。雨に濡れてゆく華奢な身体の全身に行き届いたのを自覚して、は小さな唇をぎゅっと噛みしめる。

「……私なら、出来る」

 普段はあれだけ公にする事を拒んできたのに、今は何も、怖くも恥ずかしくもない。

 だって、悠長に待っていたら。

 雨が止んで、あの人に逢いに行けなくなる――!

「……危ないので、近づかないで下さいね……!」

 はそよ風のような声音で告げると、両手を目の前の濡れる岩石へ重ね合わせた。


◆◇◆


 ――狭苦しく、音がない。

 飛びかけた意識を必死に持ち直した時、真っ先に思ったのはそんな事であった。

 全身に圧し掛かる岩石は、もはや重いという次元ではない。痛みのないところを探す方が難しいほどに、テオルグの白竜の体躯はひりついている。薄く瞼を開けても、先ほどまで見ていた鈍色の空の片隅どころか、光すら見えない。どうなっているかなんて、考えても無駄だろう。

 身体を丸めた姿勢から全く動けず、窮屈で重苦しい事この上ないが――息をしているのは、頑丈な身体のおかげだ。

「……生きてるか、アシル」
「……なんとか、な」

 庇ったアシルがどうなっているか全く分からないが、少なくとも血の匂いはしないので大丈夫だろうと、テオルグは呻きながら思う。
 容赦なく降り注いだ、あの岩石の驟雨に耐えきった我が身が誇らしい。その頑丈さに、感謝すら覚える。

「他の奴らは……大丈夫かな」

 丸められたテオルグの身体の中心から、アシルの掠れた声が聞こえる。「無事に空へ逃げられただろう」テオルグが呟くと、アシルは安堵の呼気を弱々しく漏らした。

「外がどんな状況になってるか分からないけど、俺らだけなら、まだ被害は少ないかな」
「ああ……。ただ、古い採掘場で壁が崩れるくらいには暴れてしまったから……後で始末書ものかもしれん」
「ああ……たぶんあり得るな、それ」

 節々に痛苦を滲ませながらも、アシルはくっと喉を震わせて笑った。そうでもしないと、身動ぎ一つ取れない岩石の囲いに閉じこめられたこの現状に、心がまいってしまうからだ。その強がりを、テオルグは愚かとは言わなかった。

「……まったく、説教した相手に、助けられるなんて。格好がつかない」

 重く息苦しい沈黙の中、不意にアシルがそんな事を呟いた。テオルグは唯一動く口を開いて応じる。

「その貸しは、これで返す事にしよう。お前だけでは、押し潰されてそれで終わりだ」
「はは……本当にな。身体の頑丈さでは、やっぱり竜には勝てないか」

 ありがとうな、アシルは弱々しく呟いた。

「……ところで」

 一呼吸置き、アシルが続ける。

「ぶっちゃけ、この状況どう思う?」
「……決まっているだろう。あまりに悪い」

 テオルグは至極当然に肯定した。だよねえ、と呟くアシルも特に動揺はない。

 岩一つ跳ね返せないアシルを庇うためにテオルグは身体を丸めたが、その形のまま全方位を岩石で覆われてしまった。力もうにも上手く力が回らず、山積みにされたものを跳ね退ける事が叶わない。また仮にそれが出来たとしても、無理に身動ぎしてこの僅かな空間の均衡が崩れてしまえば、人間のアシルでは耐えきれずにすり潰される可能性もある。
 どちらにしても、最悪だ。
 それに、正直なところ――この状態で同じ姿勢を取り続ける事も、今のテオルグには精一杯の事だった。

「……尻尾が、岩の下敷きになっている。これを、退かしてもらわない事には……」

 尻尾は、重要な器官が密集する背骨に直結している。柔な造りをしていないとはいえ、積み重なった岩の重量で押し潰されれば、さすがにただでは済まない。
 感覚の薄い尻尾の先端であればまだよかったが、不幸にも半ばほどから挟まれてしまっている。絶えず背骨へ伝わる雷撃じみた衝撃に襲われながら、テオルグは翼を押し上げこれ以上岩が落ちてこないよう防いでいるのだった。

「そう、か……慰めにはならないが、さっきから俺もあちこち痛くてさ。そのうちみんなが岩を退けてくれるからさ、頑張ろうぜ」
「……ああ」

 そしてまた一つ、岩の重みが翼を軋ませる。テオルグは呻き声を何とか噛み殺し、じわじわと染みる責め苦を耐えた。

「……ああ、そうだ、テオ」

 数分か、数十分か、時間の感覚が薄れた重い沈黙の中、再びアシルの掠れた声が響く。

「今辛いだろうから何も言わなくていい。耳だけ、ちょっと貸してくれないか」

 最後だし。
 縁起でもない一言が添えられ、テオルグは僅かに目を歪める。

「こないだの続き……お前さ、わりと人間を侮ってるだろ。まあ、実際竜人ってのは、人の形でも竜の形でも頑丈だし強いし」

 大口叩いたくせに、助けて貰ってるし。冗談っぽく告げるアシルの声には、微かな笑みが含まれる。

「でも……要は、そういう事だ。お前がちゃんを遠ざけようってのも、あの子を侮ってるからだ」

 侮るも何も、あの細くて小さくてふわふわとした少女を、屈強な騎士と同列に扱うはずがない。
 と、無言を守るテオルグは思ったが。

「……あの子は、見た目よりもずっと、逞しい子だよ」

 何処か、自信に満ちた声音だった。

「ぱっと見て、そうは思えないだろ? でもな……少なくとも、お前の蹴りでも気絶しなかった俺を、一発で気絶させたのはあの子だ」
「……なに?」

 耳を疑うようなあり得ない言葉が、聞こえたような気がした。けれど、アシルは掠れた声音で笑うだけである。

「……お前からも、踏み込んであげなよ。ここから、出たらさ……」

 アシルは、それっきり黙りこくってしまった。まさか、と思わず嫌な焦りを覚えたが、小さな息遣いがテオルグの耳へ届く。気を失っただけのようだ。
 テオルグも口を閉ざすと、全身に圧し掛かるその重みに意識を集中させる。気を緩めてしまったら、恐らく一際大きいだろう翼の上の岩が崩れ落ちてくる事になるのだ。

 外の状況は全く分からないが、岩の撤去作業に時間が掛かる事は確実だろう。その間で、どれだけ耐えられるか――。

 一瞬考えてしまった馬鹿な想定を、テオルグはすぐに思考から追いやった。それを恐れて、あれほど鍛えてきたのだ。ここで弱さを浮かべてしまえば意味がない。

 ……と、気丈に思った直後、彼は思わず笑った。何を今更と、うずくまる白竜のかんばせに自嘲が過ぎる。

 弱さを排他し、強くあれ――それで結局、怯えて欲しくはなかった相手に勝手を言って、酷く傷つけたのは他ならぬ自分だ。
 一体どちらが本当に弱かったのか、考えるまでもない事だろう。

(……お前の言う通りだ。アシル)

 挟まれた尾と軋む翼の痛みが、白い鱗の下に絶えず響く。

(納得など、していなかったな。最初から)

 せめてあの少女の中では、“戦いに染まる”竜ではなく、“綺麗で美しい”竜のままでありたかった。もっともらしい誇りを語りながら、戦いになればその本能を抑えつけられない本性など、あの少女にだけは見せたくはなかった。
 例え少女を傷つける事になっても、いつか未来でこの選択が正しかったと知る。だから、これで良かったのだ。そう何度も言い聞かせていたが――そうしなければ胸を食い破られそうだったのは、テオルグ本人だった。

 あれから彼の脳裏に浮かぶのは、控えめにほのぼのと微笑む少女と、笑みが咲いていた表情を歪める少女だった。交互に何度も現れるたび、自分が見たかったのは決して後者でないのだと思い知らされた。
 遠ざけようとしておきながら、この情けなさ。いつだったかのガーデンパーティーの片隅で出会った時から、何一つとして変わっていない。

 ……恥を捨て、言ってしまえば良かったか。

 彼女とはあまりに違う姿を恐ろしく思われたくなかったと。竜の身に触れてみたいと言ってくれた事を本当は驚喜していたと。これまで何度も勝手ではあるが救われていたと。
 そう思ったら、酷く腑に落ちた心地がした。言ってしまえば、まだましだったのだ。竜の誇りだとか教えだとか、そんなものはさっさと置いて、言葉を飲み込まずに吐き出したら。
 あの少女を傷つけずに済んだのだろう。

(……もう一度)

 もう一度、会わなければ。
 酷い言い分を残したくせに、今更遅いと許されないだろうが、それでも。

 錆びた心臓が動き出すような、不思議な感覚がこみ上げた。酷く急いて駆り立てられる衝動が、テオルグの胸の奥に宿り、その存在を主張する。

(もう一度、見たいのだ)

 自らが飛ぶ空を背にして微笑む、あの温かい少女の姿を。

 テオルグは閉ざした瞼の裏に、ほのぼのと微笑むを、今一度思い浮かべた。



「……!」
「…………?!」


 ――が、遠くから聞こえてくる微かな声に、直ぐに瞼は持ち上がった。
 重く積もった岩石の向こうに、それまで感じられなかった声の気配がある。しかも、ゴンゴンと、何やら大きな振動を伴って近付いてきている。

(もう機具の準備が出来たのだろうか。いや、それにしては随分と進行速度が速すぎる気が……)

 窮屈に丸めて動かない首の代わりに、しばし瞳を忙しなく巡らす。声の気配は近付き、身体に感じる振動が大きく広がってゆく。
 その時、重い暗闇が揺れ、微かに風が吹いた。
 落ちてきた岩石の容赦のない重みが、テオルグから微かに薄れた。隙間のなかった窮屈な体勢に生まれたゆとり。軋む翼を押し上げると、ほんの僅かだが動いた。
 いける、と思ったけれど、ここで無理をしては妨げになる。テオルグは高揚する心臓を抑え、息を潜めた。


「必要……せん……!」
「……え、ちょ、えェェ……!」
「うおォォ……ォォォ……?!」


 岩の壁を突き抜け、幾つもの謎の大音声が響き渡り。
 そして、窮屈に押し潰してきたものが、ようやくテオルグの頭上から取り除かれた。

 解放感と共に、閉ざされていた光が視界を染める。あの囲いから抜け出せたのだと、軋む全身に安堵が広がり、言い表せない感情が胸を満たす。
 支部の騎士たちだろう。無茶をして、撤去作業を進めてくれたのか。
 同僚たちの働きに感謝を感じながら、ようやく動けるようになった頭を上向かせた。雨の匂いの漂う空気に、鈍色の光が差す。
 そこに居たのは、同じ騎士の勇姿――


 では、なかった。


 そこにあったのは、そもそも男の身体ではなかった。
 騎士服に包まれた屈強な身体とはほど遠い、華奢で小さな少女の身体が飛び込んできた。
 頼りない四肢を雨で濡らし、繰り返す呼吸も細く掠れている。悪天候ごときどうしたと叫びながら飛び出す、馬鹿な同僚たちとは訳が違う頼りなさ。白い肌も、淡い色の髪も、緑色の瞳も、逞しさなどとは無縁な柔らかさを帯びている。

 テオルグは、驚いた。それはもう驚いて、呆然と目を剥いた。

「テオルグさん! ご無事、ですか!」

 その姿を何度も想起していた少女――が、あの日と同じ泣きそうな顔で、鈍色の空を背にして佇んでいた。



 折れてしまいそうな細い両腕を掲げ、頭の天辺で直径三メルタは確実にあろう巨大な岩石を持ち上げているという、衝撃の状態で。



今読んでいるのは、ほのぼの恋愛小説でお間違いございません。
(念押し)

お待たせいたしました、以前よりも増強させ楽しいところを次話からお送りいたします。


2015.11.07