35 少女の変化、竜の覚悟(4)

 店内にある静寂ではないものが、とテオルグの間に流れた。
 テオルグは困惑していた。
 目の前の小動物から、反応が返ってこない。
 呆然としたはたっぷりと沈黙を挟んで、その後のろのろと動き出し印付きの地図を手に取った。そしてそれをじっと見つめたまま、動かなくなってしまった。
 テオルグも釣られてつい口を噤んでしまったが、おかげで会話が途絶えた。
 この沈黙は、果たしてどういう意味だろうか。
 テオルグの抱いた僅かな不安が、見事に必中した瞬間である。

「いや、なんだ、憶測で物を言ってはならないだろうが、そうとしか」

 身動ぎ一つしないにそんな言葉を掛けるけれど、彼女はやはり動かなかった。この微動だにしない反応は、驚きか、それとも――。
 テオルグがそう思った時である。

「……古い、竜人」

 がぽつりと呟いた。普段から楚々とした控えめな声質だが、今はひどく頼りない。テオルグはそれに力強く頷いた。

 彼女の持つ、懐かしい匂いや、幼い内から発露した力。
 外見や身体の造りこそ人間でも、それらは確かに竜のものだ。
 思えば騎士団の騎竜が初対面でありながらやたらとに興味を示したのも頷ける。姿形は人間なのに、放つ匂いは確かに同族のものだったのだ。不思議で仕方なかったに違いない。テオルグも同じだった。

 現在に生きる竜や竜人の父母に当たる、古く尊い同族の、その先祖返り。
 テオルグは確信していた。理論詰めなんてしなくとも、本能がそう納得している。

「私が……竜人の……」

 は再び小さく呟いて、その顔を伏せた。両手で持ち上げた地図の写しの端が、微かにくしゃりと歪む。

?」

 テオルグは身を寄せ、切れ長な青い瞳をぎょっと開かせる。

「……ぐすっ」

 は鼻をすすった。まなじりの柔らかい緑色の瞳は潤み、今にも雫がこぼれ落ちてきそうだった。
 これにはテオルグは驚いた。驚くしかない。悪い話ではないと思っていたのは自分だけだった。
 鍛えた身体を不格好に寄せて宥めようとしたテオルグだが、その時店内に居た他の客の視線が向けられている事に気づき、出来るだけ冷静に店を去る事にした。
 「ちが、違うんです、あの、私」は首を振ったけれど、ぐすぐすと鼻を啜る音は増えてゆく。そして弁解も出来ぬままはテオルグに肩を抱えられ、爪先が宙ぶらりん状態で持ち運ばれるのであった。

 当然だが、余計に人目を集めた。



 店を出てしばし人の少ない通りを進んだ後、街角の休憩所で一呼吸置く。その頃にはもテオルグも落ち着き、何とも言えぬ空気の中ベンチに座った。

「ごめんなさい……別に、嫌だったとか、悲しかったとかじゃないんです。ただ、すごく、びっくりして」

 いきなり泣き出したりするなんて、なんと恥ずかしい事か。さぞやテオルグも困惑しただろう。
 は何度も謝りながら羞恥心を必死に抑え込む。テオルグはやはり大人らしく、首を緩やかに振ってみせた。その優しさにまた心が炙られた気がして、誤魔化すように両手で握ったままだった地図の写しを見下ろす。

「自分の暮らしていた場所が、昔は竜人の里だったなんて。全然、思った事なんてなくて」

 テオルグはの横顔を窺った。まなじりに赤みは残っているが、その表情は綻んでいた。

「でも、何で人間の村になったんでしょうか。そのまま、一緒に暮らせば良かったのに」
「……今ほど柔軟な考えは出来なかったのだろうな。竜人も、人間も」

 現在こそ異種族たちが互いに歩み寄って暮らしているが、それに至るまでの課程は、きっと楽なものではなかった。
 文化や思想、姿形も異なる種族がはっきりと隔てられ、まだ共存共栄の考えもなく存在していた時代の波風があったとすれば……の身体に流れる人間と古い竜人が共に暮らすというその考え自体、考えられなかったのだろう。悲しい事だが。

 けれど。

「当時の竜人たちは、きっと里を進んで明け渡したのだろうな」
「どうして?」
「追い出す事など簡単だ。俺たちの本来の姿は、竜の方なのだから」

 やって来た人間を退ける術など幾らでも持っている。けれど今、そこが竜人の里ではなく人間の村として存在しているのは。

「共に暮らす事は出来なくとも、せめて尽くしたかったのかもな」

 もっとも、それこそ憶測の域だが。テオルグはそう締めくくった。

 耳を傾けるは、胸の中に広がる不思議な温かさを覚えた。今ほど自由ではなかった時代で結びついた、ご先祖たち。彼らがその時どのような暮らしを送り、どのような日々の中を過ごしたのか、全く想像も出来ないけれど。

「何だか、凄いですね。そんな時代に、異種族同士で結婚したなんて」

 しかも、あの高潔で名高い竜人と、全種族で最弱の人間が。

 は地図を膝に置いて、自らの両手を見下ろす。受け入れたとはいえ、何度も恨めしく思い、消えてしまえば良いと憎んだ事もあった。けれどその力の由縁を紐解いた今は、何故だかとても尊いものであるように思う。それによく考えたら、凄い事だ。
 先ほど鼻をすすったくせに、またも泣きそうになる。は小さく笑いながら、まなじりを指先で擦った。

「ありがとうございます、テオルグさん。こんな素敵な事、調べて下さって」

 地図を丁寧に畳み、とテオルグの間にそっと置く。

「そう思って貰えたのならそれが一番良いが、やはり驚いたか」
「それは、やっぱり」

 今の今まで、ゴリラの獣人が先祖だと本当に思い込んでいた。ゴリラ並みの怪力、なんて散々に揶揄されてきたせいだろう。
 けれど、実際の正体は竜人。も羨んで、憧憬を抱いた、目の前の彼と同じ竜人の血。
 は少し考え込み、それから口を開いた。

「……私ね、テオルグさん」
「ん?」
「さっき、お店でそれを聞いた時、本当は――」

 本当は、すごく嬉しいなって思ったんですよ。
 は気恥ずかしさと共に、小さな声で吐露した。
 たとえ先祖にどのような獣人が居たとしても気にしない自信はあったが、竜人だったと聞いた時、嬉しくなかったわけではない。だからつい涙なんてものがこぼれ出てしまった。

 テオルグの静かな眼差しを受けながら、はベンチから立ち上がり爪先を数歩進ませる。淡い色の髪が流れる華奢な背を、視線が追いかける。

「でも……だからって、何かが変わるわけではないですよね」

 怪力がどうとか、先祖がどうとか。結局のところ、全ては自分次第という事なのだ。

「私は、私ですよね」

 長いスカートを翻し、陽の光に溶けるような髪を泳がせ、細い背が振り返る。日向で咲いた清々しい笑みに、テオルグは眩しさを感じた。
 はテオルグの側にちょこちょこと歩み寄ると、ベンチに腰掛ける彼の正面に佇んだ。普段は決して合わない目線の高さも、こうしていれば自然と並ぶ。

 の持つミルクティーに似た淡い髪色とは違い、何にも脅かされない彼の黒髪。それを分け、額から伸びているのは四本の白い角。耳の先端は尖り、肌の上には白い鱗が散りばめられている。人の姿でも竜の姿でも、凛々しく風景に浮かぶその存在と同じ血が現れているなんて本当に不思議だ。

「……でも、叶うなら、テオルグさんみたいになりたいですね」

 先祖返りを果たしたのが、この怪力だけであったとしても。
 そうしたら、彼に追いつけるかもしれない。
 が決して届く事のない空を飛ぶ彼に、いつか、つり合えるかもしれない。

 小さく呟いたの言葉に、テオルグの青い瞳が動く。それを視界に捉え、は込み上げる気恥ずかしさを誤魔化した。

「な、なんて、ちょっと強く出すぎですよね! 私ごときでは恐れ多いですもんね!」

 はテオルグに背を向け、赤みが増した頬を隠した。「何でもないです、さっきのは空耳ですから」と慌てる細い背中には、テオルグの視線が変わらず向けられている。それがいっそう、気恥ずかしさを増殖させた。

「……つり合う、か」
「いえ、あの、ほ、本当、き、気にしないで下さい……へ、変な事を口走ってしまって」

 狼狽えるの背面で、テオルグがふっと笑った。

「必要、ないと思うがな」

 不意に聞こえた一言は、の動きを止めさせた。

「そういう風に思う事は、やはり必要ない」
「あ……そ、そうですよね。本当に……」

 いつかつり合いたいなんて、そんな大それた事。
 しゅん、と細く薄っぺらい肩を落とす。は背中を向けたまま、どんどん頭を下げた。

「……それこそ貴女ではなく、俺が言うべき事だろうに」

 いつの間にか頬から滑り落ちていたの小さな手が、背後からそっと取られた。
 女とは異なる、筋張った長い指。見下ろした手の甲には、光を帯びる白い鱗が散りばめられている。
 持ち上げられてゆく動作を追いかけ、自然と振り返る形になったは、己の真後ろに佇む長身な男性へと行き着いた。視線は広い胸を上がり、筋と喉仏の浮かぶ首筋、そして精悍な顎の輪郭へと進んでゆき、青い瞳とぶつかった。

「テオルグさん……?」

 不思議そうにするの緑色の瞳が、不安げに揺れていた。テオルグは目を細め、まなじりを和らげる。



 に会う前に、一つ、決めていた事がある。
 それはいつの間にか宿っていた感情で、そしていつの間にか大きく膨れ上がり、心臓の真上に居座っていた。

(……欲しかったんだろうな)

 背中の疼きと、翼の震えが、今もテオルグに走っている。
 あの男に騎乗を許した時もこうだっただろうかと、疑問に思うほどの。

(あの少女に流れる血が、獣人だろうと竜人だろうと、関係なく)

 控えめで物静かで、けれど意外にもよく笑う、小さな花のような少女。どんなに理性で固めても戦いの昂揚には抗えない獰猛な巨竜にも、恐れず手を伸ばす存在が。

(誰でもなく、自分の背に――!)

 欲しい。欲しくて仕方ない。同じ空を見たくてたまらない。

 白竜の心に宿った願いは、確かに、その少女に向けられていた。



「……ようやく、口に出す覚悟が決まった気がする」

 真っ直ぐと見下ろす青い瞳に、は微かに肩を揺らす。空の色よりも深い青玉に似た瞳が、静けさではなく熱を帯びていた。
 今までとは何かが違う、竜の眼。
 掬い取られた小さな手を、鍛え続けて頑健になった指先がそっと撫でる。たじろぐの困惑を、さらに煽った。

「以前、貴方は言ってくれたな。竜の姿の俺にも、触れてみたいと」
「う……! そ、それは、あ、あの」

 引っ込んでいた頬の赤みが勢いよく舞い戻る。の視線は泳ぎに泳いだが、頭上から注ぐテオルグのそれは揺るぎない。意味の成さない呻き声をこぼしながら、は頷くほかなかった。

「……俺はな、。そんな事、もう前から願っている」

 え、と小さく呟いて顔を起こした時。
 の前にそびえ立っていたテオルグが、その足元に跪いた。
 片方の膝を地に、もう片方の膝は立て、を見上げる。上背がとても伸びたテオルグを見下ろす事など日常になく、いやそもそも誰かに跪かれた事すら全くない、その光景には瞠目した。

 騎士の務めを果たし、竜の矜持を貫く、誇り高い白竜の竜人が。
 それとは対照的な、身体の厚みも高さも半分しかない、薄っぺらいチビな存在に。
 膝を折って、傅(かしず)いている。

「テ、テオルグさん、な、なに、なにを」

 はその場に立ち尽くして狼狽した。今も両手を取るテオルグのそれは、決して強い力ではない。その気になればの渾身の力で容易くはねのけられる。けれど、指先一つ動かせないのは、見上げるその青い双眸の強さ。身動ぎをしてはならないような、そんな気分にさせてくる。

「……貴方にならば、いくらでも我が身を差し出す」

 緩やかに引かれた両手に、熱を帯びた吐息が掠める。は細い肩を飛び跳ねさせる。まるで、懇願するような低い声音。

「いつかきっと、なんて、そんな言葉は必要ない」

 そんな曖昧な言葉は、もうテオルグには意味がないのだ。

「――どうか今すぐ、俺の背に」

 既にもう彼女の存在は、竜の心臓の真ん中にあるのだから。



2016.01.23