36 少女の変化、竜の覚悟(5)

 跪き乞われた言葉が、動きを止めたの脳内に繰り返される。
 一瞬、理解が出来なかった。けれど、頭は追いつかないのに心臓が激しい音を立てた。バクバクと、息苦しくなるほどに。きっと顔も、赤一色に染まって酷い事になっている。

 今、彼は、なんて。

 は呆然と立ち尽くし、唇を不格好に開閉させる。この場から意識が遠ざかりそうになったけれど、掬い取られた両手をテオルグの長い指にくっと握られ留まった。
 青い竜の目は、今もに眼差しを注いでいる。他を見ず、ただ一心に。その強さを前にして、冗談ですか、なんて言えなかった。


 ――竜人が背に乗せる者は、盟友と身内、そして伴侶のみ。


 誰もが知っている、竜人たちの持つ有名な習わし。余所の村との交流も少なく、どこか時代錯誤な雰囲気のある故郷を出たが、真っ先に学んだ事もそれだ。

「あ、あの、あの」

 震える唇からようやく絞り出した声は、なかなか言葉にならなかった。
 が何度も唇をまごつかせていると。

「――貴女になら、この背と翼を、差し出して構わない」

 真摯な熱を含んだテオルグの低音が、言葉を紡ぐ。

「いや……言い方が悪いな。俺は貴女に、差し出したいのだ」
「テオルグ、さん」
「何て言えば通じるか……どうも、竜人にしか伝わらない言い回しにしかならないな」

 テオルグは少し困ったように頭(かぶり)を振る。その仕草に、彼の緊張が見えた気がした。あのテオルグが、緊張しているのだ。

「……私で、良いんですか?」

 は小さな声で呟き、「竜にとって、背中に乗せる事は、大切な事なんでしょう?」と続ける。
 テオルグの精悍な顔が再び上がった。そして、引き締まった口元に笑みを浮かべる。

「つまり、そういう事だ」

 掬い取られたの両手が、テオルグの手に包まれる。

「俺にとっては、それだけ貴女の存在が――その、大切なんだ」

 静かだけれど、熱を帯びていて。
 言葉は短いけれど、真情の全てをつぎ込んでいて。

「好きだとか、好ましいだとか、そういう軽い言葉では言えないぐらいには……愛しい、と」

 その甘やかな低音に、は緊張で泣きそうになりながら――どうしようもなく喜んだ。

 私だって、私だって、ずっと。

 押し寄せる感情の波に揉まれ、うまく言葉がまとまらない。けれど、緑色の瞳は、テオルグをしっかりと見つめた。
 「」名を呼ぶ竜の声が、再び尋ねた。

「貴女が、その、これからも側に居てくれたら嬉しい。俺の背に、乗ってくれるだろうか」

 手を取り跪いて乞う、凛々しく美しい白竜。
 そんな風にされなくとも、最初から、の答えは決まっていた。

 真っ赤に染まっている面持ちへ――緩やかに頬笑みを浮かべる。やはり上手く作れなくて、嬉し泣きのようなくしゃりと崩れた不格好な笑みになってしまった。
 テオルグの表情に、微かな驚きが走る。

「わ、わた、私で、良いのなら」

 筋張った長い指を、きゅっと握る。

「の、の、乗せて、下さいィ……ッ」

 楚々として慎ましい声音を、途切れてしまいそうな細さに変えていた。けれど、小さな花が咲くような笑みは、今は大輪のそれに等しい輝きを放っている。
 テオルグはしばし、呆然とした。
 自ら願い出た事であるけれど、本当かと、現実味がなかった。しかし、泣き出してしまいそうな危うげな笑みと、握り返す頼りない指先には、確かにの心が表れていた。

 テオルグの言葉を喜んで受け入れた心。

 ようやく理解した瞬間――背筋どころか心臓まで粟立った。
 その歓喜と高揚は、ある男を乗せた時に勝るとも劣らないもので、奔流のごとく全身を駆けた。
 闘争でしか価値を発揮出来ないような竜の懇願を、この少女が。恐れずに笑いかけ、その小柄な身体で窮地を救い出す少女が――!



 テオルグは無意識の内に、握った小さな手を引き寄せた。
 バランスを崩して倒れ掛かったの前には、上体を伸ばして寄せるテオルグの顔が広がった。



「――うおォォォー! 良かったなテオ……むぐぐぐ」



 ――ビキリと、空気が凍りついた。
 主に、ではなく、テオルグの。



「おいィィィ! 静かに見守るって言ってただろうが……!」
「しかも何でアンタの方が号泣してんですか……!」
「俺、本当はこういうの弱いんだよォォォ……! ずびびーッ!」
「ちょ、鼻かむ音でか……」



 握り拳二つ分ほどしか空いていない、互いの顔の距離。それほど近いから、よく分かる。テオルグの額に浮かび上がる青筋の数が。
 の胸のドキドキが、別タイプのものへ変わってゆく。

 唐突に割り込んだその会話を、誰がしているのか。もテオルグも、ものの一瞬で見当がついた。特に――やたら号泣している、その人物については。

「テ、テオルグさん」
「…………」
「あ、あの、どうか落ち着いて」

 どんどん据わってゆく青い瞳には、険呑な光。繋がったこの両手を離してはならない使命感を抱き、はぎゅっと彼の筋張った長い指を握りしめた。
 それまであった恥じらい等は、全て彼方へ吹き飛んでいた。
 重い沈黙を纏わせたテオルグは、おもむろに立ち上がる。握っていた両手を恐ろしいほど優しく解き、の頭を一度だけ撫でる。そして、一呼吸置くと。

 猛スピードで踵を返し、青い制服のちらつく建物の角へ突撃した。

 存在感を隠せていないひそひそ声が、途端「ヒイッ!!」と悲鳴を上げた。逃げる間を与えず、彼らの前にテオルグは仁王立ちする。
 道端にうずくまる、見慣れた青い制服の男たち。何処からどう見ても、国境支部の同僚たち。そして彼らに囲まれているのは、鼻をかんでいる格好のまま硬直しているアシルだ。
 怒気によって黒く染められた大気が唸りを上げる。怒りのあまりじゃっかんの竜化が進み、テオルグの肌に散らばる白鱗の面積が広がった。

「……貴様ら、何をしている。特にそこのアシル」
「いや、その」
「それは、ええっと」

 怒れる竜、テオルグの青筋が秒速で増えてゆく。
 下手な事を言ったら、殺される。
 屈強な男たちの表情が瞬く間に青ざめる。

「ちが、お、俺たちは止めましたよ! でもアシル隊長が『テオが笑ってる! 双眼鏡を持て、何かが起きるぞ!』って大騒ぎしてるから……!」
「そうです、全力で止めました! 全ての犯人はこいつです!」
「ちょ! お前ら、隊長を売るつも……おいおいおい止めろ、足蹴にするな!」

 アシルという名の盾を全力でグイグイ押し出す屈強な男たちと、それに抗い仰け反る盾となった男アシルの、見苦しい攻防が目の前で繰り広げられる。
 何を聞かずとも、今のやり取りでテオルグは大体を把握した。面白がって騒ぎ立てるアシルと騎士たちの光景が、目の前に見えるようである。

 背景を埋め尽くす怒りのオーラがさらに色濃くなった。

「ひィィィ!!」
「すんませェェェん!!」

 野太い悲鳴が幾つも響いた。
 相変わらずアシルは同僚たちの盾にされ続け、もっとも近い場所からテオルグの怒れる眼差しを浴びる。「でも仕事は全部やってきたから! 放り出したわけじゃないから!」と叫ぶも、テオルグの機嫌はさらに急下降する。
 普段は事務仕事が苦手なくせして、どうしてこういう時ばかりこの男は回転が速くなるのか。
 しかも宥めるポイントが違う。

 何故、このタイミングで、お前らが視界に入る――!

 すっかりと竜化したテオルグの握り拳が持ち上げられるのを見て、アシルを含む国境支部の騎士は悟った。
 あ、これは死んだな――と。

 けれど彼らは、その直後、暴竜の背後に光を見つける。

「テ、テオルグさん、穏便にいきましょう……!」

 ちょこちょこちょこちょこ、と小動物感満載駆け足で寄って来るが、テオルグの腰に張り付いた。

 その瞬間、あれほど溢れ出ていた禍々しいオーラが、一瞬にして拡散し消えた。

 テオルグの背が大きすぎての身体は全く見えなかったが、国境支部の精鋭たちはその細腕に神々しさを覚えた。
 なんという天使――いや女神。
 そして彼らはその隙を見逃さず、機敏に身を翻して猛スピードで逃走する。
 「お幸せに!」「おめでとうございます!」「末永く爆発しろ!」祝いの言葉を口々に残してゆく彼らは、青ざめていたわりに逞しかった。そして、まなじりを颯爽と拭って親指を立てるアシルを最後に、彼らはあっという間に建物の角に消えた。


 その後を追いかける事は、さすがにテオルグもしなかった。腰に張り付く小さな生き物を離すのが惜しかったためである。

「テオルグさん、テオルグさん、どうか穏便に」
「いや、……うぐゥッ」
「お怒りを静めて下さいィ……!」

 だから本当に腹部が締め上げられていた事は、テオルグは忘れる事にした。


◆◇◆


「……いや、すまない、

 テオルグは、額を覆っていた。国境支部の同僚たちへの怒りが消えた代わりに、今度は情けなさで重く項垂れる。
 隣に並んでちょこちょこと歩くは、赤い頬のまま首を振った。

「い、いいんですよ。別に、見られていた事くらい……」

 ちょっぴりは、恥ずかしいですけど。の控えめな微笑みは、くすぐったそうに色づいていた。
 テオルグの謝罪が示しているのはそこではなかったが、彼は声に出して訂正はしなかった。胸の下、あるいは腹部にしか届かない頭の天辺を見下ろして、テオルグは奥歯を噛みしめる。

 いや、本当に、すまない。

 同僚たちについては言うまでもないが、自らの行動に対しての謝罪でもあった。
 背に乗る事を了承してくれて感極まっていたとはいえ、無意識に何をしようとしていたのか。の手を引き寄せ、自らも上体を伸ばして、互いの顔を近づけて、その次は。
 ちらりと覗く唇の色から視線を外し、ぐしゃりと黒い前髪を握り潰した。そんなテオルグの葛藤は知らず、ほのぼのと笑っているが救いである。


「……あの、テオルグさん」

 小さな足音を鳴らした踵が立ち止まる。

「その……えっと……」

 は言葉をさまよわせた後、ゆっくりと顔を上げてテオルグを見つめた。

「竜人は、誰かを背中に乗せるという事を、とても大切にすると聞いてます」

 そして、その背中に乗せた者を、とても大切にするという事も。
 何度も耳にしたも、知っている。誇り高く高潔な、人と竜の姿を持つ【竜人】にとってそれがどれほど重い事であり、大切な事であるかも、理解しているつもりだ。その上でも、どうか我が背にと願うテオルグの想いを、喜んで受け入れた。
 けれど。


 ――竜人が背に乗せる者は、盟友と身内、そして伴侶のみ。


 これまでテオルグの背に乗ったのは、アシルのみだという。彼に差し出された席の名は、恐らく盟友。
 なら、私は。私は、どの席を差し出されたのだろうか。
 頷いておきながら、そう考えてしまったは緊張と混乱で震えた。

「私、テオルグさんの背中に乗れる事も、こうして隣に立てる事も、とても嬉しいです。でも、その、まだ」

 自惚れていると笑われるだろうか。それとも、竜の矜持を傷つけたと怒られるだろうか。
 テオルグの隣に居られるだけで胸がいっぱいで、その行動の深いところは考えられない、なんて。
 は不安になって俯いた。

「私……」

 その時、の頭の上に、大きな手のひらが乗せられた。勢いよく顔を上げると、表情を和らげるテオルグが視界に広がった。

「……今は、深く考えなくていい」

 頭の天辺に重なった手のひらが、淡い色の髪を撫でつけ下りてゆく。さらりと抜けてゆく指先の不器用げな仕草が、くすぐったくて優しい。

「側に居てくれ。それだけで……俺にとっては十分なんだ」

 爬虫類のように瞳孔が縦に割けている、青い瞳。切れ長な形をしたその瞳には、言葉にも勝る静かな優しさが満ちていた。
 ああこの人はもう知っているのだと、は緊張する肩から力を抜いた。強ばった頬に、ふわりと微笑が綻ぶ。小さな花が咲くような、不思議と目を惹く愛らしさ。

「……はい。隣に、置いて下さいね」

 テオルグは一度顔を逸らしたけれど、ぎこちなくの前に戻し、表情を緩め笑った。
 引き締まった凛々しさも勿論好ましいけれど、パーツの一つ一つを緩めて浮かべる笑顔の破壊力には、やはり敵わないと思うであった。

「……ああ、くそ、ようやく思い出した」
「え?」
「王都で買ってきた土産。渡そうと思って、忘れていた」

 テオルグは内ポケットから小さな紙箱を取り出し、へ見せた。

「わ、私に……?! わあ、何でしょう」

 紙箱の大きさは、の手のひらにちょうどよく収まる程度の長方形。重さは特に感じない、可愛らしい外見だ。うきうきとした空気を隠せず、蓋を開けてその中身を見つめる。
 そこにあったのは、二つのピンタイプの髪留めだった。一つは、黄色い花を、もう一つは若葉色の花を、それぞれモチーフにした銀色の髪留め。
 可愛らしいけれど決して鼻にはつかない、上品な清楚さも感じさせる意匠は、この街では見ない雰囲気がある。普段使いも気軽に楽しめそうだ。

「普段から、髪を結んでいるだろう。思いついたのがそれくらいで、あとは店の者の受け売りだ」

 ほんのりと気忙しい仕草が声に滲んでいる。可愛らしい髪留めを手に頭を捻るテオルグの姿が思い浮かんで、は小さく笑う。

「綺麗です……とても。ありがとうございます」

 は髪留めを一つ取ると、箱を脇に挟む。自らの髪を手早くひとまとめにし、くるりと丸めて髪留めを取り付ける。やっぱりリボンよりも格段に使いやすく、何より可愛い。見えないけれど。

「さっそく、大切に使いますね。テオルグさん」

 えへへ、と上機嫌に花を飛ばすに、テオルグもつられて口元を緩めた。

 が、古い竜人――現存する竜人たちの尊い祖先――の先祖返りであったと判明しても、その根幹は人間である。従って、異種族に当たる竜や竜人の、背に乗せるという行為がどれほどのものであるかは、きっとまだ知らない。
 どれほどの想いが秘められているのか。どれほど一途に情念を募らせているのか。時に命を天秤にかけ背に乗せる者を最期まで守り通す、その重さがどれほどなのか。
 きっと、まだ。

 全ての竜人は、その場の感情だけで、決して背中を差し出しはしない。
 テオルグも同様である。
 この瞬間から、は決して手放せない場所に抱える存在となったのだ。


 ――竜人が背に乗せる者は、盟友と身内、そして伴侶のみ。


 テオルグはへ願った場所は何処なのか、考えるまでもない。
 けれど、今すぐにその話をするつもりはなかった。

 今は、これでいい。
 その笑みが向けられるのであれば、今はこれだけで。
 この先手放す事は、決してないのだから。

「……気を取り直して行こうか。時間はある」
「はい」

 は壊れ物を扱うように箱を鞄へ入れると、目の前に差し出されたテオルグの手のひらへ指先を伸ばす。

「テオルグさん、私も」
「ん?」
「私も、テオルグさんの事――」

 囁くような言葉の後、とテオルグは互いに甘やかな微笑みを交わした。

 互いの種族を押しつけ合わず、肩を並べて爪先を進める、その穏やかな喜び。テオルグもも、ようやく知った気がした。

 身長から体格、雰囲気まで対極にあるような二人の手は、隙間を埋めるように繋がれていた。



2016.01.24