ねえ、やっとわかったよ(1)

戦場に出れば、女も男も関係ない。命を懸けて、自軍の勝利を目指し武器を握り振るう。
孫尚香も、結婚前の娘であったが、孫呉の姫とし一人の武将とし、戦いに赴いていた。《弓腰姫》と異名を受けるほどの弓の名手であり、彼女も自信はあった。自信はあったのだ。

けれど……―――――。

押し寄せてきた敵兵が、尚香の弓を弾いた。その力に彼女の細い腕は抗えず、弓を落とし地面に倒れてしまった。妙にぬかるんだ大地で、じわりと何かが染み込んでいく。それは、黒く変色した《何かの液体》で、ぞわりと背が戦慄く。確認するつもりも無かったが、彼女の視界に否応なしに飛び込む。だらりと垂れた、人の亡骸が。
気丈だったはずの彼女の心が、その時一瞬少女に戻り恐怖した。
現実に引き戻したのは、頭上で響いた荒い吐息雑じりの、獣のような男の声だった。言葉ではなく、まるで絶叫するような、声。顔を上げた尚香の視線の僅か先で、兵が剣を振りかぶっていた。

「尚香!!」

孫権の焦燥に満ちた声が、後ろで聞こえる。必死に弓を手繰り寄せた時には、もう、剣の切っ先がすぐ真上にあった。
全身が凍りつき、地面に手と尻をついたまま、呆然としてしまった。

けれど、その直後。

目の前に、長身な影が割り込んだ。地面の上を転がるように飛び込んできたそれは、尚香の視界を一瞬覆った。
そして次の瞬間には、バシャリ、と桶の水をひっくり返したような音が響いていた。そして、急に間近に感じる、きつい鉄の臭い。
尚香の目の前の影が、ゆっくりと動き、それが人であったことにようやく彼女は気付いた。見覚えのある、細いしなやかな体躯。それと……特徴的な、赤茶色の髪。かの人中の呂布も扱う、方天画戟と呼ばれる二対の獲物を十字に組んだ武器を握り締めている。
ただし、今は……―――――。

「尚香様、ご無事ですかね」

息絶えたばかりの敵兵の亡骸が横たわっているけれど、それには目もくれず、彼は、笑った。戦場には場違いな、普段のあの笑みで。
まだ暖かな鮮血を真正面から浴びて、赤茶色の髪は真っ赤に濡れている。精悍な顔立ちも真紅が塗りつぶし、筋の浮かぶ首も、肩周りも、胸も、赤い色が浸食していく。
それでも穏やかに笑う彼が、ぞっとする感覚を尚香にもたらす。その感覚は《恐怖》と呼ばれるものだったが、妙に混乱してしまった彼女には、分かることではない。
勝利し戦いが終わるまで、彼女の記憶はそれしか残っておらず、血塗れのの姿だけが尚香に焼きついていた。




戦いに無事勝利し、城へと戻ってきた呉軍の面々は各々身支度などを整えて後戦果報告等の会議を行った。その時にやはり上がったのは、巨大虎に乗り戦場を駆ける副官である意味変わり者として有名な、であった。
先の戦において、彼は孫呉の姫君たる孫尚香の窮地を救った。けれど、それは上官らの命令に背いての行動……つまりは、の勝手であり独断であった。自軍の将であり姫を救ったことは、確かに勇敢な行動であっただろうが、彼はその時課せられていた命令に背いたのだ。その事実が、今議題に上がってしまっていた。
だが、の行いは十分に価値があり、また孫家にとって娘、または妹を失わずに済んだということも事実で、話し合いの結果差し引きゼロで不問となった。本来ならば十分に褒美を受け取るに値する行動であったが、それをそっと断ったのは他ならぬで「孫家に仕えるものとして当然のことをしたまで」と申し上げたのだ。またその時の命令に背いて褒美をもらうなど、出来ないとも付け加えていた。
孫堅などは残念がっていたが、本人がそう望むならと不問にすることで褒美とした。

会議の後、は上官であり戦仲間でもある武将たちから労いと安堵、それと少しのお説教を賜って苦笑いをこぼしていた。の行動は、勇気あるものとし高い評価を得た。
……だが、その賑やかな空気満ちる中、ただ一人だけ表情を曇らせているものがいた。
今回の戦で、が命令に背き救援に向かった姫……孫尚香だ。首筋で綺麗に揃えられた長さの亜麻色の髪に髪飾りをつけ、華奢な身体に黄と赤の鮮やかな衣装を纏い、陽に咲く大輪の花のような明るい出で立ちの娘だが、その表情の重さがそれを隠してしまう。
誰もがを褒める、けれど尚香は素直に喜べなかった。感謝している、あの時が我が身を省みず救援に駆けつけてくれた事、感謝しているのだ。だというのに何故か、喜べない。
脳裏にある、のあの時の姿のせいだろうか。
真っ赤に染まって、ひどい匂いにこそ顔をしかめるだろうに、彼は普段のあのゆったりとした年齢に合わぬ悪戯な笑みを浮かべていた。普段と変わらない笑みで、あの声で、大丈夫かと言っていた。

……その恩人に対し、怖いと?

それはない。けれど、今もなお背後に潜む冷たい気配は、言い難く尚香を曇らせる。
これは一体何なのだろう、と疑問がまとわりつくと同時に、の眼差しも明るくなれずにいた。
あの中に、入ることは今は……出来ない。尚香は、そっと離れることにした。音を立てないよう踵を返し、回廊から遠ざかった。その時、彼女の背中を視線が追いかけたが……気付きはしなかった。




無意識のうちに、人気のない場所を求めていた。そして尚香は、気付けば城内ではなく、庭園を横切り、気持ち程度に整えた竹林を進んでいた。もう日は傾き、青竹にかかる影は濃く、覆い被さるように高く伸びた茂みが普段にも増し静寂を囲む。誰も滅多にやって来ない場所……今だって、尚香の気配しかなく、進むごとに異様な威圧が強くなる。竹林を抜けると、彼女の前に建造物が現れる。頑丈そうな造りの伺えるそこからは、気の立った獣の鳴き声がいくつも聞こえた。低く、そして獰猛な唸り声だ。慣れぬ者やこの建造物が何か知らぬ者が聞けば、恐らく卒倒するだろう。外界から隅っこへ追いやられたように存在するそれは……戦に駆り出される動物たち、特に虎や狼を収監する獣舎なのだ。
人など、滅多に来はしない。だから足が向かった、と思いたいが……獣舎は、今や尚香に馴染みある場所だ。と、頻繁に訪れているから。

……頭の中に、彼がいるせいだろうか。

尚香は獣舎を見上げ、入り口より遥か手前で立ち止まる。

「……何してんだろ、私」

溜め息がこぼれる。戦でが助けに来てくれて、良かったじゃないか。その行いが命令を無視したもののため公に誉められることはないが、誰からも認められているのだ、良かったじゃないか。
しかし何故、素直に喜べないのだろう。
そういった状況に陥ってしまった、自分の失態もあって。男になんか負けないって、いつも思っていたくせにその男に助けられて。それも当たらずしも遠くはないが、もっと違う理由だと思った。尚香でさえ分からないが、もっと別の理由……。

あの時、を怖いと思ったのは、何故だ。



「今は、入らない方が良いですよ」



不意に聞こえた声に、尚香は細い肩を揺らした。

「戦が終わったばかりで、ほとんどが気が立ってます。俺も、入らないようにしてるんですよ、疲れているだろうし……雪斗も」

サク、と踏みしめた芝が小さな音を立てる。
尚香は、ぎこちなく振り返る。小さく揺れた、彼女の鮮やかな衣装がかげる仄かな陽射しに煌めく。

……」

視線が下がり、ためらいがちな声がこぼれる。の顔を、見ることが出来ない。
は、尚香の様子に気付いていないような素振りで、普段と変わらず軽い足取りで歩み寄り、獣舎を見上げる。

「一人じゃ危険だから、俺と一緒に来る約束があったはずですが」

の空気が、ふと変わったのはその言葉の後だった。

「……余計なことをしましたか、俺は」

苦い笑みの含んだ声は、普段聞くことのない声音だった。尚香は驚いて、顔を上げた。その時初めて、が少し悲しそうに眉を下げ、力なく笑っていることに気付いた。

「会議の後で、先ほど尚香様が離れていくのが見えましたから……やはり、俺が原因ですか」
「えっ」
「貴方の表情が、曇っているのは」

尚香は、ハッとなって顔をそらしたが、それは一層を切なく微笑ませる結果となった。は、特徴的な赤い髪を垂らして、尚香の前で頭を下げた。その行動に、驚いたのは他ならぬ尚香である。

「な、に、してるの」
「すみませんでした。戦の時、俺の勝手で貴方のところへ向かってしまって、」

尚香は、反射的にの広い肩を掴み、ぐっと無理やり起こさせた。の目が何度も瞬きを繰り返し、尚香の頭の天辺を見上げた。

「尚香様……?」
「止めてよ」
「は……」
「止めてよ!」

尚香の声は、先ほどの気弱さを消して、怒ったような音色を滲ませていた。怒っているわけではない、ないけれど、にそうされると……何故かとても腹立たしいのだ。

「何で、そんなことを言うの……? 私は、貴方に、そんな風に謝って欲しくない!」

は、表情を困惑させたが、何も言わない。何も言わずに、尚香を見下ろした。
……どちらが酷いのだろう、優しい彼を困らせて、子どもみたいにみっともなく声を荒げて。
とてもじゃないが、孫呉の姫ではない。一人の武将でもない。
彼の前では、いつまでも大人になれない少女みたいだ。
尚香は恥ずかしくなるが、それでも言葉は止まらない。酷い言い草で、に八つ当たりをした。はっきりとしない感情を、ぶつけるように。

「お願い、謝らないでよ」
「尚香様、ですが、俺は……」
「そんな風にしないで! それとも貴方は、私の救援に来たことをそんなに後悔しているの?!」

――――― ザアア、と風が吹き、竹林を荒っぽく揺らして過ぎた。
尚香はハッとなって、目を見開く。今、自分がとんでもない暴言を口にしてしまった気がした。の胸元で握った拳が、次第に震える。

「……すみません」

困り果て、そして自嘲するように、彼はそう一言だけ呟いた。
力をなくした尚香の腕は、脇へと垂れる。

「後悔はないんですよ、ただ、俺があの時命令に背いたのは……貴方が危険だったからです」
「え……」
「他でもない、《孫尚香様が危険だ》という伝令を聞いて、命令に背いた」

彼は、笑みを浮かべていなかった。普段になく真剣で、鋭さのある眼差しが尚香に向けられる。

「貴方が危険だったから。これが甘寧様だったら、救援に向かわなかったでしょう。そういう、真っ当な理由じゃないんですよ。褒美なんてもらえないっていうのは、そういうことなんです。本当なら、牢屋にでもブチ込んでくれても良かった」

の眼差しに、尚香の声がピタリと止まる。あんまりにも驚いて、声が出ない状態だった。
彼の言葉は、まるで……まるで……――――――。

「ただ、それで尚香様の顔が曇っているなら、俺はやっぱり余計なことをしましたね」

そう言って、は気の抜けた笑みを浮かべ、肩を竦めた。
彼に何か言わなければ、けれど尚香の頭は文字通りの白紙の状態で、何も出てこない。
そうして沈黙が訪れた時。
尚香は、から飛び退くように離れ、彼の横を通り過ぎる。逃げるように走る彼女の後ろから、が追ってくることはない。

無意識のうちに飛び込むように戻ってきた自室で、尚香は息を切らしながら自身の顔に触れた。いやに熱く、そして困惑に強張っていた。
それも、彼のせいだと思ったのは、わがままで自分勝手だっただろうか……。



2011.02.01