ねえ、やっとわかったよ(2)

――――― 戦に勝利してから、数日と経過した。
今日の夜、戦に勝利した宴が開かれることになった。
その前に、各々は最後の片付や報告書をまとめたりと事務に勤しみ、忙しさは続いていた。
けれどは、どうも気が乗らない。事務ではなく、宴にだ。報告書をまとめながら、溜め息が止まらない。筆はなんとか進むが、雰囲気が地味に湿っぽく、それを感じる周りとしてはたまったものでない。
見かねた凌統が、の肩を叩いた。

「さっきから、ずいぶん辛気臭いな。
「……凌統様」
「うわ……ひっどい顔だな。女が見たら、百年の恋も冷めそうだ」
「そりゃすいませんねぇ」

そう言いながらも、の溜め息は止まらない。仕方ない、かれこれ今日までの数日間、見事に尚香に避けられていたのだから。他の面々とは親しく普段通りなのに、の前に来るとあからさまに様子を変えるのだ。結構、彼にはしんどいもので、溜め息は止まらない。
凌統は肩を竦め、近くの椅子を引っ張っての隣に腰掛けると、一つに束ねて結い上げた髪を広い背中に流し、頬杖をつく。

「で、戦の時俺の下から思いっきり離れて勝手に姫さんの救援に向かったは、何をそんなにへこんでるのかな」
「ぐ……っすみませんでした、その時は」

先の戦で、がその時加わった軍は凌統のところであった。彼はそんなに怒っていないようだったが……この言い方はやはり人を良い具合に皮肉ってくれる。が謝れば、泣き黒子のある頬はゆったりと笑みを浮かべる。三根節を扱う身体はしなやかで、にも近い身体つきだ。年も近く、何となく馬が合うというか、凌統とは息が合う。が、この口調にはいつも振り回される。

「いえね、俺のしたことは姫様にはあまり喜ばれていないようで」
「へえ、あの姫さんがねえ」

意外そうな声を出した凌統を、は「へ?」と不思議そうに見た。その表情に、凌統も驚いてしまい、「何でアンタがそんな顔をする」と漏らした。

「いやお前、どう見たって姫さん懐きすぎだろ」
「誰に」
「アンタだっつの!」

ズビシ、と額に手刀が落とされる。は「いた!」と声を漏らし、筆を落とした。

「アンタが大殿や殿たちから下町から引き抜かれてから、ずっと一緒にいたんだろ。そしたら、姫さん懐いても当然だろ」
「そう、ですかね」
「気付いてないのかよ……まあいいや。で、姫さんが喜ばないってのはやっぱアンタが何かしたんだろうな」
「そうなんですかねえ……やっぱり」

は再び、溜め息を漏らした。
凌統はしばし考える。これは何だ、恋愛相談か? それとも、単なる心配事か? どちらにしても、凌統としては無用な面倒には巻き込まれたくないのが正直なところだ。たとえそれが、孫呉の姫と有能な獣使い……もとい副官のことであっても。

( というか、前者だったら、殿が怒りそうだな…… )

そんなことを考えながらも、凌統は立ち上がる。

「ま、アンタの顔の暗さの理由が分かったところで。宴前までに、その報告書気合いで書き直せよ」

そう言われ、は見下ろす。筆を落としたせいで、せっかくの文面が墨で潰されていた。の口から苦い唸り声が響くのは、直後である。




宴が、もう数時間で始まる。
孫家の姫とし参加しないわけにはいかない尚香は、今現在女官に囲まれて支度をしている最中であった。
普段ならば着ないような、淡い桃色の衣装。尚香の細い華奢な身体にゆったりと羽織ったそれを、丁寧な装飾の施された腰紐で結んで床に裾を広げる。その上から、透き通った羽衣を腕に通して、整った顔に化粧をうっすさと施す。
気丈な弓腰姫などそこにはなく、一国の美しい姫そのものだった。
ただ付け加えるなら……彼女のその顔は、ひどく落ち込みかげっているのだ。
女官たちは、不思議そうに尚香を見つめる。普段は絶対に着飾ることをしないのに、女官が断られると思いながらも「お衣装はヒラヒラのものにしましょう」と言えば否定せず頷いたのだ。一体彼女はどうしたのかと、その場にいた皆が思った。
彼女に化粧を施した、気心知れたベテラン女官は、側にいる女官たちへ衣装道具や化粧道具を片づけるよう言い部屋から遠ざけると、尚香の隣からそっと尋ねた。

様と、何かありましたか?」

丁寧な仕草で髪をとかして、飾りを直す。
尚香の表情が、ビクリと強張り、鏡に映る。
女官は、年を重ねた落ち着いた笑みを浮かべ、尚香の肩に触れる。シワがないよう直しながら、彼女は優しく続ける。

「姫様が落ち込む時は、半分は様と何かあった時ですから」
「そ、そんなことはないわ」
「あら、そうなのですか?」

尚香は言葉に詰まり、口を閉ざす。その様子を、女官は楽しそうに見つめていた。

「姫様がそんな風に、年頃の女性と同じようになるのは、様のおかげですね」
「え……?」
「気付いていらっしゃらないかもしれませんが、姫様は、とても良い表情をされているのですよ。様のお話をされる時。
きっと、姫という立場に捕らわれず、生き生きと過ごすことが出来るからなのでしょうね」

彼女の眼差しは、まるで母親のようでもあった。長い付き合いの彼女のその優しい声に、尚香は思わず泣きそうになったがこらえて、ポツリと呟く。

「……前にあった戦の時にね、私ヘマして危なかったの。でもそこにが来てくれて」
「お話は、お伺いしてますわ。様は、殿からの褒美を断られたとか……」
「助けに来てくれたけど、それは本当はに命じられたものを無視しての行動だったの。それでも、十分に褒美をもらう働きだったんだけど、彼はそれを断って」

……違う、本当に言いたいところはそこじゃない。
尚香は首を振った。

「……、私を助ける時に、真正面から敵の、その、返り血を全部浴びて。頭から顔、首、胸、全部真っ赤に染まってて、私、怖いって思っちゃったの」
「姫様」
、私のこと助けてくれたのにその時怖いって……あ、会った時酷いこと言っちゃった」

ボロボロとこぼれ出る言葉は、きっと要領を得ずバラバラだろう。けれど女官は笑みを浮かべたまま、頷きながら耳を傾ける。

、悪くないのに私に謝って。私、馬鹿みたい……子どもみたいで……」

その時、女官の手が尚香の肩にそっと重ねられ、ゆっくり撫でられる。優しい感触に、尚香は顔を上げた。

「姫様は、様をとても心配なさっていたのですね」
「え……」
様が我が身を省みず救援に来て下さったこと、姫様は嬉しく思っていらっしゃる、けれどそれを言葉にすることが出来ずにお困りなのですね」

……さすが、長年の付き合いだ。あのバラバラな言葉からくみ取って、理解している。
尚香はぎこちなく頷き、鏡を見た。綺麗に飾った自分自身……けれどそこにいるのは、今にも泣きそうな少女だった。

「……子どもっぽくて、もっと大人になりたいんだけど。私には、やっぱり似合わないみたい」
「そんなことはありませんわ」

女官の笑みに、尚香は「でも」と言葉を濁す。女官は不意に、「姫様」と声音を新たにする。優しくも、諭すような力強さがあり、尚香の下がっていた肩が跳ねる。

「姫様は、今頷きました」
「え、え」
「それが、姫様のお心の答えになります。さあ、そのような今にもお泣きなお顔はお止めになりましょう? これから宴がおありです、せっかく姫様がお美しくなられたのですから、いつも見せて下さる太陽の笑顔を見せて下さいませ」

大袈裟に詩人のように言うものだから、尚香は思わずふき出した。

「貴方はやっぱり凄い……」
「姫様よりも、年齢を重ねてしまいましたから。姫様、さ、紅を引きますよ」

尚香の唇に、そうっと女官の指先が触れる。鮮やかな、けれどこってりとはしない鮮やかな花の朱色が、尚香の唇を彩る。

様に、お見せしましょう。そして、いつもの姫様でお心を伝えるのです」
「心って……私は……」
「姫様が、何故様を怖いと思われたのか、私にはわかりましたよ」

女官の笑みを、尚香は驚いた表情をし見上げた。女官は、ふっと穏やかに瞳を細めて、尚香の手を取った。

様が、人として恐ろしくなったのではありません。様がどうなってしまうのか、それを恐れたのですよ」

尚香の見開いた瞳に、女官が微笑んで映る。そしてその女官の後ろで、が笑っている気がした。困ったように、切なそうに、眉を下げ力なく。


――――― 後悔はないんですよ、ただ、俺があの時命令に背いたのは……貴方が危険だったからです


( 、私は…… )


――――― 他でもない、《孫尚香様が危険だ》という伝令を聞いて、命令に背いた


女官の手に引かれながら、尚香は立ち上がった。宴の会場である、大広間へ向かい歩き始める。




膳が並べられ、酒も用意され、絢爛に飾られた大広間はすでに宴の盛り上がりがあった。まだ酒には手を付けていないというのに、大広間を満たす熱気には頭がのぼせそうだ。
は副官ゆえに、公の上席につくことはなく、下座に控えていたが、武将らが絡んでくるために半ば強引に引きずり込まれていた。
これが、突撃隊長が売りの呉の良いところだろうが、今のには億劫だった。表情は、普段より明らかに硬い。

( 困ったなあ…… )

肩に腕を回してくる甘寧と、なんか妙に盛り上がってる孫策に囲まれ、浮かべるの笑みは苦い。
それでも、料理と酒を着々と運ぶ女官たちからは視線が熱く向けられていた。宴の席ということもあり、副官であれどきちんとした衣装をまとったは、普段と比べ明らかに雰囲気が異なる。親しみのある悪戯な空気も、軽装ではなく重ね合わせた着物と丈の長い袖と腰巻、それら全てはピンと空気を張りつめさせ副官ではなくまるで一人の武将のようであった。先の戦で姫を守ったという話はすでに広がってしまっていたため、なおそうさせるのだろう。しかしとしては、どうも苦い記憶になってしまった。
尚香を悲しませたり、また怒らせるつもりでしたことではない。ただ純粋に、どうしても、命を落とすなどという事態に遭いたくなかったのだ。そう、尚香が危険だと聞いた時……うろたえたのは言うまでもなく、気付けば仄かに青の滲む白い巨大虎《銀麗虎》の雪斗の背にまたがり、駆けだしていた。凌統の命令を忘れ、尚香のもとへ向かっていた。

……褒美など、もらえる立場じゃねえんだ。俺はあの時、職務を忘れてたんだからな。

何にせよ……彼女の機嫌を損ねたのだ。何と言われても仕方ない。
頭では、わかっているけれど。


――――― それとも貴方は、私の救援に来たことをそんなに後悔しているの?!


……そんなわけ、ないだろうに。
そうと言えれば、どれだけ楽だっただろうか。年は離れ、立場は離れ……いや、そう考えるのは女々しいな。止めよう。
は、やんわりと絡まってくる武将らから離れ、大広間の隅へと寄る。そうしていると、側に凌統が歩み寄ってきた。涼しい顔はしているが、と同じくすでに出来上がっている面々から離れてきたに違いない。

「せっかく宴までに報告書仕上げたっていうのに、相変わらず浮かない顔だねえ」
「気合いで書きましたけど……そりゃあそうですよ、凌統様」
「アンタらしくないねえ」

は、凌統を見た。いつもの皮肉った口調だけれど、この時は神妙であった。

「姫さんも姫さんだが、アンタもアンタだ。何かアンタらそうだと、調子狂うよ」
「アンタらって……尚香様の様子に気付いていたんですか」

呆気に捕らわれた。分かっていながら、わざわざ聞いて来たのか。どちらが一体調子を狂わされるものか。
は肩を落とし、小さく笑うしかない。

「見ていれば、分かってしまうことですかね」
「そりゃあそうだろう。姫さんなりに、思うことがあるんだ、それを聞いた方がいいんじゃないかい」

そこまで言い、凌統はふと言葉を突然止めた。がいぶかしむと、彼は「噂をすれば」との肩を掴み大広間の入口へと身体を向けさせた。一体何かと思っていると……大広間の空気が、静寂するように静まり返っていた。大声も、笑い声も、聞こえない。
不意に凪いだ空間に、シャラリと涼やかな音色が響く。そして、柔らかい衣擦れの音。恭しく現れた女官は、細い誰かの手を握っていた。その人物は……多分、一瞬見ただけでは誰か分からないだろう。
あの孫堅や孫策、孫権ですら言葉を無くしているのだから。

「……尚香様」

の口からも、存外呆けた声が出た。薄い桃色の着物と透き通った羽衣を合わせた彼女は、一国の姫の気品があり、今この場の眼差し全てを独占しても堂々としていて。
華やかに彩っているのに、媚びることもなく、美しさが純粋に表れていた。普段見ることのない、尚香の姿に一動言葉を無くしていたが、それを破ったのはその尚香の明るい声だった。

「ちょっと、やだ、何見てんのよみんなして! ほらほら、さっさと宴を始めちゃいましょ!」

サバサバとした口調は、変わらず。呆けていた孫権らも慌てて時間を取り戻して、尚香のもとへ駆け寄るといやに壊れ物を扱うように手を伸ばして上座へ導く。「見違えたぜえ」や、「今日はどうしたのだ」など、言葉が聞こえる。その間も馴染みの武将らから言葉を受け、尚香はぎこちなく進む。
は、隣に凌統がいることも忘れて尚香の背を目で追いかけてしまった。あの普段のおてんばぶりが、嘘のように見える。
そうしていると、隣からクツクツと噛み殺した笑い声が聞こえ、ようやくハッと我に返り表情を戻す。が、遅かったものだから、やはり凌統は笑っていた。見透かす瞳に、は咳払いをし誤魔化す。

「……姫さん意外だねえ、あんな格好することは珍しいんだけど……こりゃ何かの変化かい?」

凌統の言葉は意味があるかどうか分からないのに、何故かの胸の奥深くを掠めた。再び、尚香の姿を見つめる。すると、彼女もを見ていたようで、互いの瞳がぶつかった。豪奢な明かりが煌いているせいか、時間としては僅かなはずなのに引き延ばされずいぶん長く感じた。すぐに、尚香の瞳はそらされたが……は、しばし彼女を見ていた。そして、各々席についている流れに便乗し、彼も静かに凌統と別れ座った。
君主である孫権、そしてその孫家の面々が挨拶をしたところで、宴は開始された。上座は名だたる武将らで賑やかになり、そのいくらか離れた下座では副官等が集まり杯を交わす。は同僚仲間と集まり談笑に笑みをこぼすが……その時も頭によぎったのは尚香の顔であった。同僚たちからは「孫家の姫様を助けたんだって? やるじゃないか」と背中を叩かれたが……何とも言いがたく複雑な心境であったため、曖昧な返事しか出来なかった。
並々と注がれる酒を飲み干したところで杯を置き、料理に手をつけ始めた。


がそうやっているのと同じく、各々楽しむ武将らの中でも尚香だけが静かであった。華やかな服装だけれど、その表情は何かをためらっているのかモヤモヤと曇ってはっきりとしない。
兄らに「どうかしたのか」と尋ねられても答えられるわけなく、曖昧に笑って杯に口をつける。
まさかと喧嘩しました、なんて言えない。今回の戦である意味活躍した彼とそんなことがあれば、深く突っ込まれるに違いないから。
とはいえ、すでにこんな普段着ないような衣装を着ているために、それだけで人目を集めてしまうが。

「姫さん、浮かない顔だねえ」

ヒョイ、と凌統が顔を覗きこんできた。いつの間にか近くに歩み寄ってきていたらしい。彼の手には酒があり、礼を取ると尚香の杯に注ぐ。

「姫さんもも変な顔してちゃ、せっかく綺麗に飾った両者も霞んじゃうねえ」
「え……」
「俺が無理やりですけど、裏功労者のには普段よりも良い格好させたんですよ。見えます?」

尚香は言われるまま、を探した。そしてすぐに見つけてしまう辺り、の存在は大きいなあと彼女は思う。
普段は簡素な好漢服を着ていたりするが、この時は袖部分や丈など長い着物を着ていて……陸遜の衣装に似ている。気さくな穏やかさも、身なりを変えるとまるで別人のようで。
気にならなかった男性らしさがはっきりと見え、ますます自分の子どもっぽさを感じてしまう。

「……かっこいいね」

ぽつりと漏らした声の小ささに凌統の目が丸くなるが、ふっとおもむろに笑みを浮かべると酒を勧める。

「何でしたっけ、下町の猛獣狩り一家? とてもそれには見えませんね、ああ……ほら、やっぱり女官が寄ってきた」

ズズ、と凌統は自らの杯に口をつける。尚香はギクリと肩を揺らして、遠くの下座を見入った。
オズオズと歩み寄ってきた女官が、に酒を勧めている。ぎこちなく顔を真っ赤にしているけれど、は気付いていないのかそれとも気にしていないのか、ゆったりと注がれていく酒を見つめている。女官は酒を注ぎながら、の横顔に見惚れている。
……腹の立つ光景だ。こっちは思い切り悩んでいるのに。
段々と、尚香の表情が寂しさを遠ざけて不機嫌になる。うわあ分かりやすい、と凌統は苦笑いをこぼし、呂蒙に呼ばれるままソロリとその場を離れた。
良い具合に酔いの回っている孫権のそばを、尚香はバッと立ち上がって下座へ進む。不思議そうな視線を受けたが、尚香が突き進む先にいるのは当然。



ゴフ、とあちこちから酒をふき出す音が上がる。現にからも出た。
そりゃ孫家の姫が現れれば、誰だって慌てよう。の場合は理由が異なるが。どよめきが沸く中、尚香はどっかりとの隣に座った。その瞬間、副官仲間はバババッとスペースを作るように離れ、なんかもうと尚香の空間みたいになってしまっている。酒を注いでいた女官も、尚香から溢れ出る闘気のような気迫に離れてしまった。

( ちょ、おい、あからさま過ぎるだろ。これじゃ孫権様に気付かれて絡まれそうだ )

内心ヒヤヒヤとしたが、そう思うのは恐らく数時間前のことが原因だからだろう。もうこの顔を見る限り、未だ機嫌は直っていないらしい。とは見当違いなことを思っているが、今現在尚香の機嫌が悪いのはのせいである。
とは知らないは、どう言葉をかけようかと珍しく困り果て、首を掻く。尚香も思わず飛んできてしまったが、何の計画も立てていないために硬直していた。
互いに妙に沈黙してしまい、周りまで固唾を飲み込み二人をうかがっている。酒の席が、一瞬でぎこちなくなっていた。

「……まあ、飲みましょうか」

小さく笑ったがそう言って差し出したのは、果実酒だった。見ればもそれを飲んでいたようで、飲みかけの杯がそばにある。尚香は空の杯を手渡され、ぎこちなく注がれた。
二人が動き出したため、副官席もようやくホッと息を吐き出して、再び緩まった空気の中宴が再開した。
ただし、二人は依然として硬い動きである。

「あーと、尚香様、今日は普段と違うものを着てますね」
だってそうじゃない」

予想外に厳しい声が出てしまい、尚香は自己嫌悪に陥る。違う、彼と話したいのはこんなことじゃないのに。
それでもは、表情を変えはしなかった。それが大人の対応なのだろうか……そう思うと、やはり自分は子どもみたいだと感じざるを得ない。

「……凌統様に言われるままこれを着させられましたが、どうも俺は似合いませんね」
「! どうして、そう思うの」
「……功労者なんていわれてますが、ほら、俺が救援に向かった理由っていうのは」

にこりと笑ったけれど、の瞳はひどく真剣で、尚香だけはそれを感じ取って細い肩をすぼめる。彼の声はそこで一旦止まったが、その後どのような言葉が続くのか分かって何も言えなくなる。
宴の熱気のせいだと思いたい、胸が苦しくなるのも、顔が火照るのも。衣装の袖に隠れた尚香の手が、カタカタと震えた。
俯いた尚香の横顔を見て、は不意に苦笑いのようなものをこぼした。

「……いえ、忘れましょう。もうそのことは」

尚香の顔が、バッと上がった。揺れた髪飾りが亜麻色の髪を引き立てて、の視線が一瞬眩しそうに細められたが、彼は普段の笑みで続ける。

「尚香様を困らせるわけじゃないですからね、俺は。孫呉に仕えるものとして命を張った、それだけです。それだけにしましょう、貴方はそう思って下さい」

困惑し震える尚香の手に、酒を注ぐ。らしくもなく、強い酒を持ち替えて。

「貴方と、前のように話せない方がつらいですからね。ならいっそ、忘れて下さい」

その言葉は、尚香の重い胸にふわりと降りた。痛みをその穏やかさで取っていくような、心地良さで。同時に、尚香の脳裏に気心知れたあの女官の言葉が浮かんできた。


様が、人として恐ろしくなったのではありません。様がどうなってしまうのか、それを恐れたのですよ』


――――― ああ、そうかも。
心の中で頷いて、を見上げる。そうしてまた納得して、肩の強張りを解き、杯の中身を飲み干しカタンッと空のそれを置いた。クラリと眩暈がしたが、尚香は急に重くなった頭をそのままにを見上げる。彼は一気に飲んだことを心配しているようだったが、尚香には聞こえない。
彼は優しい、優しいがゆえに簡単に身を削るし、戦の時のように我が身を省みない。気持ちいいはずがないのに、返り血を全身に浴びて笑っているくらいだ。その優しさが危うくて、そして尚香を不安にさせる。今だってそうだ、彼は自らのことよりも尚香を思っている。素直に喜べなかったのは、きっと……―――――。
急に目の前が、ぼんやりしてくる。酔いが今になって来たのだろうか、決して酒に強いわけではないのに一気に飲んだからか。

「しょ、尚香様、大丈夫で……?」

さすがに強すぎたか、とが慌てる。ユラユラする尚香の細い身体へ腕を伸ばした瞬間、それをギュッと掴まれた。女の子の弱々しい力なのに、手のひらの熱さやその柔らかさに思わず固まった。
尚香は身体の向きをに直すと、衣擦れの音を立ててに近寄り、上目での顔を覗く。見上げられることは慣れているのに、今は何故か忙しなく心臓が跳ねる。けれどそれを面に出すわけにもいかず、極力普段通りに努めた。
けれどそんな努力も一瞬で消えそうな、尚香のか細い声が聞こえる。

「……違うの」

身体を傾ける尚香に、は大慌てである。やばい、周りに見られたら。
そんな彼の慌てぶりにも無頓着に、尚香は囁き続ける。

「怖かったの、怖くて仕方なかったの」

尚香の腕が、の胸に触れる。酔ってるのか、と思ったが、の眼差しにぶつかる尚香のそれは真剣で、そして酔いとは違う熱さが浮かんでいた。
宴の声で、掻き消されて欲しい。この、寂しげな声を。はそう思った。

「尚香様」
「あの時、死んじゃうんじゃないかって……!」

ピクリ、とさまよっていたの手が止まる。
溢れ出た彼女の感情は、とても弱々しく、そして今にも泣き出しそうなほどすり減って。
その声音と同じ表情が、純粋なる不安を浮かべていた。

「だって、あんな姿見たら、怖くな、るじゃない……ッ」
「尚香様」
「でも、私、上手く言えなくてひどいこと……ッ子どもっぽくてやだ……」

一度開くと、言葉は止まらない。ぼんやりする思考であっても、切なさが神経を擦って、尚香の感情はどんどん溢れ出る。
ついには声までも震えて、泣き始める予兆すら滲んでしまう。ああ、もう、子どもじみて嫌になる。俯いて、衣装ばかりが大人の自身の身体を睨む。
そう思っていると、不意に尚香の頬に温かい指先が触れた。白い肌とは違い、日に焼けた肌のそれは、のものだった。筋ばった長い指が、尚香の目尻を撫でる。再び顔を起こせば、困った笑みではなく……真剣な、けれど色っぽさすらある笑みを浮かべていた。
そう見えるのは、酒のせいだろうか。尚香の胸が、妙にはやる。

「そうでしたか、尚香様は……怖かったのですか」
「ッだって……」
「泣かないで下さいよ。せっかく今日は、特別に綺麗な姿をされてるんですから」

の指先に、こぼれそうになっていた涙が触れる。そうっとすくい取って、笑って見せる。
遠くで、孫権の「尚香、何処に行った」という何か酔っぱらった声が聞こえる。やばい、とは思ったが、もうさすがに無理だ。視線を外すのは。
無防備に見上げてくる彼女を、は見下ろして悪戯に片目を閉じてみせる。

「俺は死にませんよ、絶対」
「本当……?」
「俺のしつこさは、折り紙つきです。それに」

は声をひそめると、尚香にだけ聞こえるよう囁く。普段の軽すぎる口調からは想像つかないような、低く扇情的に。

「貴方のその綺麗なお姿、もう見ないで死ぬってのは悔やまれる」

細い肩が揺れた瞬間、シャラリと涼しい音色を髪飾りが奏でる。
上座で、孫権や孫策らが尚香の姿を探している。その波紋は他の武将にも広がって、徐々に下座にまで浸透する。ざわつきが聞こえるのに、尚香の瞳はから離せない。離すことなんてしたくなかった。

「死にませんよ、だから不安がらないで下さい」

尚香の感情をなだめるように、ゆったりと囁く。その向こうの見知った副官らから、ざわつきが大きくなる。

「私、子どもっぽくて、でも私……私……ッ」

頬を掠めるの大きな手に寄り掛かると、彼の笑顔が目の前に広がる。数年前から過ごしてきて、いつも尚香を安心させたあの笑顔だ。
強張っていたものが、一瞬で決壊する。こらえていたものが溢れ出て、尚香の表情がくしゃりと歪んだ。
の顔が、ギクリと固まる。取り囲むように離れていた副官仲間が慌てて、上座から聞き慣れた武将らの囃し立てているいるのか定かでない大きな声も聞こえる。いやに慌てる孫権の声も、大笑いする孫策や孫堅の声も。

やばい、ばれた。

は仕方ないという風に立ち上がると、尚香も一緒に立たせて上座へ連れていこうとする。

――――― だがその時、の手を、尚香が強く握り締めた。
細い指が、しっかりとの指を掴む。先ほどとは違うその力の強さに、は一瞬気を抜いて見下ろす。
尚香は、緊張が抜けてこぼれた涙を頬に一滴伝わせて、くしゃくしゃに表情を歪めていた。それが、無垢な少女そのものなのに、妙に……の背筋をゾクリとさせた。

そして。

「ごめんねェ……ッ!」

泣き声の混じった言葉が、尚香の彩られた唇から落ちて。
ふわふわな衣装であることを忘れて。
床を思いきり蹴って、長身なに飛びついた。
その時、気にしないようにしていた尚香の甘い香りと、華奢な身体の温もりと、女特有の柔らかさが、を襲って。一斉に押し寄せる眩暈に、彼はらしくもなくふんばれず、ガッシャーンと盛大な音を立てて仰向けに倒れ込んだ。蹴り飛ばしてしまった膳や杯が、カタカタと揺れる。
その首には、しっかりと、尚香が腕を巻きつけていて。の胸にしっかりと上体を押し付け、柔らかい桃色の衣装と羽衣を広げて、それは一見すれば甘やかな光景ではあるが。
場所が、場所である。

……宴で賑わいでいた大広間が、一瞬静まり返る。
そして次の瞬間には。
歓声だか悲鳴だか分からない、大勢の絶叫が上がり、城すらビリビリと揺らした。

それを、恐らく一身に受けているであろうは、とにかくこの状態に理性が擦り切れる手前であった。豪奢な天井を睨み、どうしようかと普段の笑みを浮かべる余裕もない。
視界の片隅で、酔った孫権が剣を握り締めて駆け寄ろうとしてくるのが見える。そしてそれを、周泰らが止めているのも、本来止めるべきであろう孫策や孫堅が笑っているのも。
だが今のは、孫権のお叱りが欲しい気分だった。
耳元で聞こえる尚香のわんわん響く大泣きと、甘い匂いと、女であることを知らしめる柔らかい四肢を離してくれるのなら。

( ……誰でも良いから、早く来いって )

騒ぎは大きくなるのに、相変わらずと尚香の周りは誰も駆け寄ろうとせず、二人の世界が作られていて。

ああ、くそ、誰も来ないならもう良いさ。

は騒ぎに便乗し、泣きすがる尚香をやけくそに抱きしめる。尚香の腕の力が増して、泣き声も大きくなる。
孫権が飛んでくるまでの数秒間に、二人の間に流れたもの。それが友愛か恋愛かなど、もはや論題にあげることすら不可能なようだ。



そんな二人が、大好きです!

尚香は、多少ワガママなくらいが可愛い。てゆうか尚香は可愛い。
多分このあと、孫権が酔いもあって怒り狂い剣を振り回していればいいと思うよ。
パパと兄は「よし、もっとやれ」と夢主を応援してそう。
そんな孫家が良い。

しかし尚香の話に度々出るベテラン女官が良いキャラ過ぎて使いやすい。これからも頻繁に出ると思われますがお願いします。

2011.02.01