01

 龍神が守護する、とある美しい国。そこは人とあやかしが共に暮らす土地であった。
 しかし当時、姿形の異なる二つの種族がいきなり同じ空間で過ごすようになり、初めから何事もなく円満にゆくはずはなく。そこで、大昔のあやかしの族長たちは、ある掟を作り出した。

 ――人の里とあやかしの里から、男女を選出し、夫婦(めおと)とさせよ

 かくして、隣り合わせでありながら異なる場所に位置する二つの種族は結びつき、繋がりを強めてきた。
 現在、その掟は絶対的なものではなくなり、強制力など無論ないが、人とあやかしの男女を引き合わせる慣習として残り続けている。

 まあ、何故このような話をするかと言えば。
 私、は、このたび古い慣習のもと――あやかしの男性と、夫婦(めおと)になったからである。





 昼下がりを迎え、しんしんと降っていた雪は止んだ。すっかりと町並みは白い雪化粧を施されていたが、灰色の分厚い雲間から淡い空色が覗き、冬の季節の憂鬱が払われるような心地がした。

 一昔前は、人ならざるもの達のみが暮らしていたという、あやかしの町。今は人間の出入りもあり、暮らす人も多いが、やはり比率としては現在でもあやかし達の方が揺るぎない。そのため建物の外観や町の風景は昔と変わらないらしく、人間の町村や文化にはない妖しく艶やかな情緒がそこかしこから感じられる。
 暮らし始めてそれなりに過ぎたが、今もこの町には見惚れる事が多かった。

 ――が、その情緒溢れる町並みも、近頃はにわかに忙しい雰囲気が漂っている。

(もう少しで、年越しだものね)

 一年が間もなく終わろうとする、大きな節目。それが、すぐそこに控えているのだ。
 多くのひとにとっても大切な境目だが、にとってはもっと大きな意味を伴う。今までとは違う、殊更に重要な意味を。

(本当に不思議……私なんかが、夫婦の縁を結ぶなんて)

 しかも、相手は――。

、帰ったぞ」

 ガララ、と引き戸を開ける音の後、低い声が響いた。
 ぱっと顔を上げ、小走りで玄関口へ向かう。毛皮の外套を羽織った長身の男性が、薄く積もった雪を払っているところだった。

「お帰りなさい、雪綱(ゆきつな)さん」

 出迎えると、男性は被っていた笠の顎紐をほどき、ゆっくりと外した。その下から現れたのは――三角の耳がピンと立つ、黒い柴犬そのものなお顔だった。
 白抜きされた麻呂眉の下の瞳は、キリッと開いていたが、を認めると途端に緩まり、口元もふにゃっと笑う。

「ああ、ただいま」

 可愛い黒柴にのお顔に反し、その顎から飛び出した越えは、落ち着きを払った低い声。そこには年上らしい静けさを感じるけれど、外套を外して現れた彼のくるんと巻いた尻尾はふりふりと揺れていて。

 雪綱さん、今日も可愛い! いつもの事だけど!!

 はこの日も、心の中で壮絶にのたうち回り、荒ぶる叫び声を上げた。




 雪で覆われていた大地に新緑が溢れ、芽吹いた花が一斉に咲いた春頃、大きな転機が訪れた。
 古からの習わしにより、あやかしと婚姻を結ぶ人間の花嫁候補として、は選ばれたのだ。

 習わしの始まりは、人とあやかしが共に暮らすようになり、まだ日も浅い頃。双方の結びつきを強め関係を密にするためのお上からお達しであったそれは、月日を重ねた現在では絶対的な力はなく、ちょっとした縁作りの場を設ける慣習として残った。
 人とあやかしの両族がこれからも良い関係であるようにと名目を立てているが、もちろん、双方の利益となる事はあるという。脆弱な人間にとって不思議な力を持つあやかしは百の加護に匹敵し、現世(うつしよ)の住民でないあやかしにとって人間の血は獣の本性を抑える貴重な薬となるようだ。その他にも、単純にあやかしは昔から人間を好む性質があるので、それも理由の一つだろう。

 適齢期を迎え未だ相手の存在しない男女の、特に若者にはこの声が掛かるのだが――が選ばれたのは、偶然である。
 たまたま近隣の村々で呼びかけがあった時、良縁に恵まれない、端的に言えば売れ残りのの名が、ポロッと出たのである。本人の、知らぬところで。
 望んで売れ残りの貼り紙を付けられたわけではないのに、今思えば、けっこう失礼な話だ。親が猟師を生業としているため、昔から野山を駆け回る活発な子どもで、猟における知識や技術、あとはまあ解体にまつわるそういう風景に慣れているだけの女なのに、同年代の男衆には全くうけず、むしろ引かれてきた。軟弱すぎるだろう。
 それについて両親は、変な奴に持っていかれるよりよっぽどいいと息巻いていた。だが、誰かと結ばれ幸せになる事を望んでいると、さすがのもうっすらと感じ取っていた。だからこの声が掛かった時、せっかく場をあつらえてくれるのだから一度くらいは、という心で即了承した。
 意外にも不安がったのは両親の方だった。いくら共に暮らす存在とはいえ、あやかしは人ならざる存在。人に近い外見の者もいれば、獣であったり、鬼であったり、そもそも生き物ではなく付喪神(つくもがみ)のような者まで居る。本当に大丈夫かと、両親は案じていた。その不安はにも少なからずあったので、要望を一つだけ、仲介役に伝えた。

 私は、見た目に反して大人しくないとよく言われ、力仕事も動物の解体もわりと得意です。
 でも、笑顔や賑やかさには、自信があります。
 お淑やかではない女でもよい、という方のみ、もらって下さい。

 どうせだったら、男衆に引かれた私でも良いと言ってくれる奇特なひとにもらわれたい。
 まあ若干の冗談も混じっていたが、の言葉は仲介役を通してそっくりそのまま相手方に伝えられた。

 これで駄目なら、もう諦めた。私も鉈と弓矢を持って山篭りしよう――決然とした思いと共に、ついに訪れる見合いの吉日。綺麗にめかし込まれて送り出された会場は、隣町の一番大きなお屋敷だった。
 の他にも同年代の娘たちが複数名参加しており、その誰もが綺麗に装っていた。緊張する彼女らに囲まれながら待つ事しばし、あやかしの男衆がやって来た。見合いと言えば一対一だが、参加する全員で顔を合わせて歓談し、その後気に入った者などがいたら一対一で話すそうだ。格式ばっていないし、けっこう和やかな空気じゃない、とは安心していたのだが……。
 挨拶を終えるや否や、の正面へズイッと近付いたあやかしがいた。
 全身にふかふかの黒い毛皮を纏い、白抜きされた麻呂眉毛とぴんと立った三角の耳、そしてくるんと丸く巻かれた尻尾を持つ――黒い柴犬の頭部を持った、狗のあやかしだ。
 見るからに背は高そうで、肩幅もがっしりとした印象を受ける身体つきだったが、が真っ先に思ったのは、大きくて可愛いお犬様だな、であった。

「……この後の時間、良ければ俺にくれませんか」

 しかし、その可愛らしいお犬様から聞こえた声は、もふもふの外見に反し、とても低くて。
 様々な驚きが一緒くたになってへ押し寄せ、呆然としている間に、何故か無意識に頷いていた。その瞬間、黒柴のお犬様は言葉こそ口にしなかったが、嬉しそうに目を輝かせ、お召し物の後ろでくるんと巻いた尻尾を振った。それはもう、千切れんばかりの勢いで、ぶんぶんと。

 その黒柴……もとい、人の身体に狗の頭部を乗せた狗のあやかしの名は、雪綱(ゆきつな)。
 今年、古の習わしのもと夫婦となった、あやかしの夫である。




 一口にあやかしと言っても、人と変わらない生を歩むものがほとんどだ。数百、数千という年月を生きるのは、亀や龍くらいである。
 狗のあやかしである雪綱は、齢二十を越えた盛りの青年。身内にせっつかれていたが気乗りはせず、のらりくらりと躱していたのだが、ついに見合いへ押し込まれたらしい。そんなの出たところで気持ちは変わらん、と思っていたところに飛び込んできたを見初め積極的に近付いてみたと、後に教えてくれた。
 確かに積極的ではあったが……あれは猛烈に懐いてくる可愛い黒柴そのものだったなと、はこっそり思ったものである。

 そんな事で、は雪綱のもとに嫁ぎ、故郷の村から彼が暮らしている現在の町にやって来た。小さな家だがと彼は謙遜していたが、彼の身体の大きさと仕事が所以となり、立派で頑丈そうな家だった。
 初めて見た町は、古くからあやかしの町として栄えてきただけあって、人里とは異なる妖艶な趣が随所で見られた。故郷の村とは比べるべくもない、美しさ。通りを行き交うほとんどはあやかしだったが、意外と人間も多かったので安心したし、隣近所のあやかしのご一家は皆とても優しかった。またあやかしと所帯を持った女性も近くに居たので、先輩と仰いで助言を貰う事も出来た。

 故郷にいた男衆からどん引きされ続けたの、雪綱との夫婦生活は、不安なんてなんのその。実に穏やかで、満ち足りた日々を重ねていった。



 ――あれから、季節を二つ過ぎ、あっという間に冬となった。
 最初の頃よりもは雪綱と親しくなれたし、雪綱の雰囲気も堅さが無くなった。
 そして蛇足だが、寒い季節を迎えた雪綱はさらに魅惑のもこもこ毛皮となり、可愛いお犬様に拍車が掛かっている。

「ああ、それとな。、これを」

 雪綱はそう言って、背負っていたものを差し出した。
 大きな草に包まれたそれは、鹿肉である。
 毛皮や血抜き等の処理を全てされ、切り出された肉の塊は大きく、色もとても綺麗である。

「あぁあぁぁ美味しそう……!」
「あと毛皮もある。これはの方で好きに使ってくれ」

 肉と毛皮を抱えて思わず歓声を上げるに、雪綱は嬉しそうに笑った。

 雪綱の主な仕事は、周辺の環境維持。つまりは、狩猟だ。
 偶然にも、雪綱はの親と同じ生業をしていた。最初は驚いが、幼い頃から身近に感じた仕事なので親近感を抱くし、しかもその腕前は大したものだった。
 手が空いた時なんかは、町の警邏や門番にも駆り出されたりしているようだ。黒柴のお顔を持つ雪綱は、あれでけっこうな武芸達者で、刀剣から弓矢まで自在に扱っている。
 古くから忠誠心が強く、主人のために尽くすという犬。その性質を強く持つあやかしの多くは、そういった場面でとても活躍しているという。

 彼はその仕事ついでに、仕留めた獲物をこうして持ち帰ってくる。命は全て無碍に扱わず大切に頂く、それが猟師の鉄の掟だが、頻繁に肉が食べられるのは凄い事である。
 今日は雪綱の方で処理してくれたが、普段はも手伝っており、実家でしてきた血抜きや解体の技術がめきめきと上達している。いずれ達人の域に到達するだろうと、は内心でほくそ笑んでいた。

は獲物を持って帰ると、いつも目を輝かせてくれるな。解体も、普通の女子(おなご)であれば青ざめるだろうに、進んでしてくれるし」
「私のおとっさんが雪綱さんと同じ猟師ですから。娘として嗜んだまでです」

 そう、猟師のもとに生まれた者の務めとして、知識と技術を学んだのだ。別に恥じてはいないのだが、これが嫁ぎ遅れの張り紙を貼られる要因の一つになるとは思わなかった。
 すると、雪綱はくつくつと笑い、の瞳を穏やかに見つめた。

「人とは分からん生き物だな。そんな事、瑣末なものだというのに。まあ、おかげで俺は良き嫁に恵まれた。それだけは、人間の男(おのこ)の節穴をありがたく思わないとな」

 人とあやかしの違いか。それとも、感情を表に出しやすい犬という本質か。落ち着いたその低い声には、いつも明瞭な好意が乗せられている。
 それが、には恥ずかしい事であり――たまらなく、嬉しい事であった。

「す、すぐに、ご飯の準備をしないと。さっそくこのお肉を使いますね」
「ああ、頼む」

 雪綱は機嫌良く尻尾を振り、着替えをしに奥へと進んでいった。その大きな背中を見送り、はそっと溜め息をこぼした。

 雪綱は、外見こそ狗のあやかしだが、人柄はとても素敵だと思う。
 あのお見合いの時から両親が危惧したような酷い事は一切されていないし、蔑ろに扱われた事もない。まあ、お犬様らしい一面はたくさん見させてもらい、とても楽しませてもらったが。
 一抹の不安のあった、雪綱というあやかしとの夫婦生活。少なくともに不満はなく、当初あった不安も既に消えている。雪綱は、良いあやかしだし、良い男だ。少なくとも、の周囲にいた失礼な男衆が、霞むどころか跡形もなく消え去るくらいには。

 だが、良好そうな関係にも、一つ問題があった。
 と雪綱は、本当の意味で夫婦ではない。
 彼と婚儀を上げ、晴れて夫婦となった半年と数ヶ月のこの間。夫婦らしい……いや、男女らしい事を、まったくしていなかった。

 そもそも、にその心構えだとか、覚悟だとかが、薄かったせいもある。
 あのお見合いの後から雪綱と何度も会い、そのたびに真摯に請われ、朧気にも彼と夫婦になるのかと想像していたのはいいが、二人の時間を育む時間も束の間の事で――やれあやかしの勉強に、やれ婚儀の日取りと準備。あちらへ行って、こちらへ行って、互いの家々にご挨拶の大移動。目を回しているうちに婚儀が始まり、そしていつの間にか終わって――翌日になっていた。
 お互いに緊張しきって婚儀に臨んでいたから、終わるや否や、疲れ果てて爆睡である。初夜なんてもの、なかった。

 おまけに最初の頃、一度ほどそれらしい場面があったのだが、身を任せきるほどの度胸と覚悟が情けない事にその時はなく、雪綱を拒んでしまった。
 後から、酷く後悔した。猟師の娘のくせにみっともないと、優しい雪綱を傷つけてしまったと。
 しかし、雪綱はそれに怒るでもなく、なら怖くないと思えるようになる時まで互いに待とうと言ってくれた。耳はぺったりと垂れて、尻尾も力なく下がっていたのに。余計には罪悪感に打ちのめされた。
 そして以後、彼は本当にへ手を出す事はなく、馬鹿正直に“待て”を守り続けた。手を繋ぐ事さえしようとしない。夫婦になって、もう半年以上経つというのに。

 忠犬ぶりが過ぎるというか! なんていうか! そこまで守る必要ないのでは!

 ……なんて、言えるはずがない。雪綱の方が、よほど出来たひとだ。夫婦になるという事を分からず、わがままを言うような子どもは、紛れもなくの方なのだから。

 これまで、色恋の事など、欠片ほども知らなかった。周囲の陰口と両親の仕事にかこつけて、知ろうとしなかった。しかし雪綱と暮らすようになって、たくさんの事を教わり、たくさんの事を貰った。知ろうとしなかったものが、どういう形をしていて、どういう風に宿って胸の中で息づくのかも、苦しいほどに理解した。

 それらを、今度はが返す番なのだ。

 折しも季節は、一年を終える大切な月。この大きな節目に当たって、新しい年の抱負は既に決まっていた。

(雪綱さんと、本当の夫婦になる――!)

 冬の寒さを忘れさせるほどに、の心は血気に満ち溢れていた。



■黒柴な狗のあやかし×人間の娘

設定はわりとガバガバですが、和モノな人外小説。全4話構成。
季節感とか全部、無視した感じです……冬の気分でお楽しみ下さい。

また、例に漏れずヒーローが【全身まるっと人外】ですので、あらかじめご了承下さいませ。


2018.05.03