02
年を越す日が目前となり、あやかしの町は忙しさに追われながらも、浮き足立つような賑やかさがそこかしこにあった。彼らと過ごすようになって分かったが、あやかしたちは頻繁に寄り合いなどするくらいに集まる事が大好きで、人間以上に催事や祭りに情熱を掛ける。一年の節目という大切な日も、粛々と厳かに迎えるのではなく、やはり賑やかさで締め括るようだ。
――さて、その日がいよいよ今日となり、町の男性たちは日中、最後の年越し準備と集会をするため集まり、雪綱はそちらへ出掛けた。
残された女性たちはというと、年末年始の料理支度と銘打って、旦那がいないの良い事にここぞとばかりにあちこちで集まる。こういう集まり好きなところが、あやかしらしさというのだろう。
にもそのお声が掛かり、隣近所の奥方たちと共に、余所のお家にお邪魔していた。あやかしの町流の夕飯を用意し、年越しに食べるという蕎麦を分け合う。女性だけという事で、終始楽しく、賑やかに時間は過ぎた。
そして支度と後片付けを終えると、ゆっくりと寛ぎ、歓談に花を咲かせる。むしろこちらが、女性たちの目的である。
「もう一年が終わっちまうんだねえ。年を取ってから、なんだかあっという間だよ」
「本当にね。ちゃんは、この一年、大変だったんじゃない?」
そう言って微笑むのは、あやかしの弓月(ゆみづき)と、人間のお松である。
弓月は艶やかな女性なのだが、その下半身は女郎蜘蛛そのもの。いわゆる蜘蛛のあやかしで、しかもこの妖艶さを誇りながら二桁越えの子を持つ母である(さすがは蜘蛛、多産だ)。お松は、と同じくあやかしに嫁いだひとで、生活の長さからかこのおっとりとした面持ちでありながら強面の鬼にだって怯まない、頼もしい人物だった。
二人とも隣近所に暮らしており、がやって来た当初の頃からとても気に掛けてくれた、優しい優しい先輩たちである。
「慣れるまでは驚く事も多かったんですが、弓月姐さんやお松姐さんに良くしてもらって、困った事なんてなかったです」
「あらやだ! 可愛い事言うねえ」
「本当。何かあったら、いつでもおばさん達のところにおいで」
華やかに笑う二人は、本当に頼もしい。この二人のようにならなくてはと、はそっと思った。
その後、とりとめの無い笑い話から、町の出来事、噂話までと途絶える事なく笑い合っていたが――話題はいつの間にか、互いの旦那の話へと変わっていった。
さすがは人妻の先輩、特に夜の方の話が濃密で、途中からは真っ赤になって、それでも聞き耳はしっかりと立てていた。
「うふふ、ちゃん、真っ赤になっちゃって可愛いわねえ。食べちゃいたい」
うごうごと六本の蜘蛛足を動かす弓月姐さんだと、ちょっとシャレに聞こえないけれど……。
とても二桁越えの子を持つ母とは思えないくらいに、彼女は艶やかだ。呆気に捕らわれるくらいにお胸も豊満だし……これくらいあったら、雪綱も手を出してくれるのだろうか。
「そういえば、雪綱さんとはどう? 仲良くやれてる?」
「ああそれ、あたしも気になっていたんだよ。あいつは変なところで真面目だからね、つまらない思いはしていないかい?」
「え、えと、はい……楽しく過ごしてます」
頬が染まったままこくりと頷くと、弓月とお松は揃ってにんまり顔で笑う。
「雪綱の奴、嫁をちゃんと大事にしてるんだねえ。けっこうけっこう」
「若い夫婦だもの。円満なようで良かったわ」
円満。
円満かあ。
は思わず言葉を詰まらせる。その様子を見て、二人はきょとりと目を丸くした。
「やだ、私、変な事言っちゃったかしら」
「まさかちゃん、雪綱の奴に、妙な事されてんのかい」
打って変わり心配そうに詰め寄ってきた二人に、は慌てて手のひらを振って制した。
「ちが、そうじゃ、ないんです。ないんですけど……その」
膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。
「私は、今まで夫婦になるっていう事の意味とか、重みとか、よく理解していない子どもだったんです。でも、雪綱さんと暮らすようになって、そういうのが分かったというか」
「ちゃん」
「でも、雪綱さんは、そういう私を選んでくれたから……お返し、きちんとしていきたいなって、最近考えてて」
お顔は可愛い黒柴そのものだけど、猟や警備に駆り出される時にはキリリッと凜々しくなる、かっこいい男の人。
己の中にある好意を――胸の中に宿った恋情を、ははっきりと自覚していた。もうずっと、前から。
気恥ずかしさを誤魔化すようにはにかむと、弓月とお松は突然、両手で顔をガバッと覆った。
「ンンンン甘酸っぱい!」
「おばさんたち、そういうの大好きよ!」
「え、あ、あの……?」
そして、荒ぶる二人は唐突に顔を上げると、勢いよくの肩を掴んだ。その美貌に、満面の笑みを咲かせて。
「それなら、おばさんたちがとっておきのを教えてあげようかね」
「雪綱が……殿方が喜ぶ手法をね」
とびきり艶やかな声で告げられた瞬間、の顔はまたも真っ赤に染まるのだった。
◆◇◆
年越し用の料理を詰めた鍋を抱え、そう離れていない自宅へ戻ると、雪綱がちょうど玄関口に佇んでいた。どうやら彼の方も、最後の準備など終わったらしい。
「ああ、、おかえり……? どうした、顔がずいぶんと赤い気が」
「なななな何でもない! 何でもないです!」
紅を塗ったどころか、被ったように真っ赤な顔を、ぶんぶんと横に振る。その勢いに圧された雪綱は「そ、そうか……」と小さく呟き、それ以上尋ねる事はなかった。
もっとも聞かれたところで、けして口では説明出来ないのだが。
(弓月姐さんとお松姐さんから、すごい話を聞いてしまった……!!)
殿方が喜ぶ閨の技法とやらに、顔に集まった熱がまったく引かない。耳元で吹き込まれながらあわあわ言っていたに、二人は「大丈夫、雪綱も喜ぶよ」「気持ちが大事よ」と力強く頷いてくれたが、心配するところはそこではない。技法云々以前に、は一度も雪綱に抱かれた事がない。
「ほ、本当に大丈夫か。そんなに頭を振って……髪が凄いことになっている」
「だ、大丈夫です。ええ、大丈夫です」
「そうか……それなら良いが……。しっかりと、家の中で暖まるんだぞ」
は、はたとして、雪綱を見上げた。
「雪綱さんは、何処かへ行くんですか?」
「ああ、あやかし達が、町の外で羽目を外して騒いでるらしくてな。ついでに、それに呼び寄せられた冬のあやかしまで山から下りてきて、そこだけ猛吹雪になってるらしい」
言いながら、雪綱は狩りの時にいつも身に着ける外套を、バサリと羽織った。黒柴の顔が引き締まり、彼の周りに流れる空気が静かに研ぎ澄まされる。
――この瞬間だ。
魅惑のもこもこ毛皮なお犬様から、武芸達者の人身獣頭の狗のあやかしになるこの瞬間が、勇ましくて見惚れてしまう。
「なに、呼ばれるのも騒ぎが起きるのも、毎年の事だ。少しぶん殴れば落ち着く」
「そうですか……あの、帰りは、どのくらいに」
腕に抱えた鍋を、ぎゅっと抱きしめる。雪綱は考え込むように、顎を撫でながら告げた。
「状況にもよるのだが、今からだと暗くなるまで及ぶかもしれないな」
「そう、ですか」
仕方がない。猟師でありながら、警邏や門番に駆り出されるくらい頼りにされている人なのだ。むしろ、誇らしいではないか。
……でも、やっぱり、寂しい。
やっぱり自分はまだまだ子どもかと、は首を垂れる。
――すると、頭の天辺に、ふかふかの手が置かれた。
「日を跨ぐほどの時間は掛からない。すぐに戻る」
にぱ、と雪綱の裂けた口が笑みを浮かべる。は持ち上げた顔に、笑顔を咲かせた。
「……はい! 待ってます!」
そして雪綱は、最後に笠を被り、雪化粧に染まる町中へ歩き出した。颯爽と翻した外套から覗いた尻尾は、少しだけ、横に振れていた。
は気を取り直し、家の中へ戻る。彼がいつ戻ってきても良いよう、器などの準備は済ませておこう。弓月とお松から教わった料理も温め、ああ、白湯もたくさん用意しておかなければ。浮き足立つ思いを自覚しながら、彼の帰りを楽しみに待った。
――けれど、雪綱の足音は、聞こえなかった。
冬の季節に入り、日の入りはめっきり早くなった。夕方にはもう暗くなり、早々と夜を迎えた。
一年の最後の日という事もあり、あやかしの町はたくさんの明かりが灯り、妖しげな情緒のある風景が照らされている。雪が降り始めても、その凍みるような静けさに全く負けず、浮き足立つ空気が至るところから感じられる。隣近所にある、弓月やお松の家でも、今は賑やかに夕飯を囲んでいるだろう。
は家の外を眺めながら、雪綱を静かに待った。やる事もないので、自分の身体を綺麗に清め、寝床を整え、囲炉裏や火鉢の火を絶やさないよう気を付け、そのうち猟に使う縄や矢の補修作業にまで手が伸びた。
だが、雪綱はまだ戻らない。
いつもの事と言っていたが、思ったよりも面倒な事態になっているのかもしれない。せめて怪我などしていなければ良いが……。
雪綱を思い浮かべながらも、刻々と時間は過ぎ、夜は深まってゆく。遠くから微かに聞こえる笑い声は、のところにはまだなく、しんとした静けさに包まれていた。
囲炉裏の火をつつきながら、だんだんと、瞼が重くなる。頭がうつらうつらとし、眠たさを訴え始める。
雪綱さん、待ってなきゃ……。
しかし眠さには勝てず、は身体を横たえた。炭が燃え、火花が小さく弾ける様子を薄く見ながら、瞼は下がっていった。
――遠くで、ガラガラと、引き戸の開く音が聞こえた気がする。
夢現の物音に身動ぎ、不意に肌寒さを覚えくしゃみを一つこぼす。
すると、大きな足音がだんだんと近付いてきて……。
「!!」
「ふぶわッ?!」
一瞬でまどろみが消え去り、飛び跳ねるように起き上がった。そして見開いた視界に、黒柴のお顔が大きく映り込む。
「あ、雪綱さんだぁ……お帰りなさい」
あんまり遅くて心配したが、良かった。怪我はしてない。
ほっと安心するだったが、対照的に、雪綱は表情を強張らせ、鼻筋に微かなしわを浮かべていた。
「お帰りなさいではない! こんなところで居眠りなど……心の臓が、止まるかと思った」
「ご、ごめんなさい。ちょっと眠くなって」
雪綱は溜め息を吐き出しながら、の小さな肩を撫でる。意外な剣幕にも驚いたが、その手のひらの冷たさにはもっと驚いた。ずうっと、外に居たからだろう。ついと視線を上げれば、雪を被った雪綱の頭が映り込む。は小さく吹き出し、そこへ手を伸ばした。
「雪綱さん、頭、白い」
「む……すまない、落としていなかったな」
雪綱は土間へ急ぐと、頭と身体から雪を落とし始める。もその後ろに近付くと、両手でぱたぱたと払った。
「夜遅くまで、ごくろうさまです。一年最後の大仕事でしたね」
「ああ……その、遅くなってすまなかったな」
ばつが悪そうに告げた彼の耳は、ぺたりと伏せていた。非常に遅くなってしまったという自覚は、あったらしい。は少し意地悪に「本当ですよ」と彼へ返したが、すぐにその面持ちに笑みを乗せ。
「おかえりなさい、雪綱さん」
「……ああ、ただいま」
振り返った黒柴の顔はふにゃりと緩み、ぱたぱたと揺れる巻いた尻尾はの身体を掠めた。
もう数刻で日付が変わるという、夜も更けた頃だが、ようやく二人揃っての夕食となった。日中、弓月とお松に呼ばれて教わりながら作った料理――いくつかの小鉢やちょっと特別な主食――と汁物とご飯は、美味い美味いと掻き込む雪綱の腹へとあっという間に収まってしまった。
これまでずっと、彼は外を走り回っていたらしい。
「冬のあやかし達が、何処からか酒をくすねてきたようで、相当な悪酔いをしていてな。ところ構わず雪の塊を吐くわ、吹雪を起こすわ、酷い有様だった。しかもその状態で逃げ回るから、こちらも早く取っ捕まえなくてはならず、先祖たちのように四つ足で走っていた」
まったく、と文句を漏らしながら、雪綱はもりもりと蕎麦を平らげる。
雪綱さんが、四つ足で……。
外套を翻しさぞやかっこいいのだろうなと想像してみたが、白い雪原を黒柴がわんわん駆け回る光景しか浮かび上がらなかった。の唇から、空気がぷっと吹き出される。
「大変だったんだぞ、こっちは」
「そ、そうですよね……ふふ。お蕎麦、まだありますよ。食べますか?」
「頂く」
そして彼は、が用意した料理を綺麗に食べ尽くし、器も鍋もすっきりと空にした。
「良かったあ、綺麗になくなって」
「今日も美味かった」
「お粗末様です。と言っても、弓月姐さんやお松姐さんのおかげですけどね」
囲炉裏に掛けていたやかんから、湯飲みに白湯を注ぐ。それを雪綱へ差し出し、も自らの湯飲みに口を付けた。
「もう少しで、今年が終わっちゃいますね」
ほっとこぼした溜め息と共に呟くと、雪綱はああと小さく返し、ふと声を潜めた。
「……なあ、」
「はい?」
「お前は、俺などと夫婦(めおと)になって、不満はないか」
は首を傾け、何故と眼差しで問いかける。
「もっと時間を掛けるべきだったのに、急ぎ足で……事を進めた。大切な婚儀までばたついてしまったし、俺が落ち着いていなかったせいだが、お前の本心を……きちんと聞いていない気がしていたんだ」
婚儀を上げてから、半年と少し。けして短くはない時間、寝食を共にしていたのに、大事な事を忘れていた――呟いた黒柴は、傍らで両目を伏せた。その様子が、まるで大罪でも冒したように沈痛であったから、は小さく笑ってしまう。
「えいッ」
指を伸ばし、雪綱の鼻を軽く弾く。彼はビクリッと大きく飛び跳ね、素っ頓狂な面持ちを浮かべた。
「雪綱さんは真面目ね。それに、すごく心配性。ここに居る事が、私の本心なのに」
「」
「私は、毎日が楽しいですよ」
――女子(おなご)のくせに、狩りや解体など。
故郷の村で、物心ついた頃から陰で言われてきた言葉。幼い時にはその意図が読めなかったが、大人になった今なら、本当は少し分かるのだ。
だから、をけして侮らず、馬鹿にもせず、接してくれる雪綱が本当に嬉しい。人間もあやかしも関係なく、純粋に感謝している。
「楽しくて、幸せです」
が微笑むと、強張っていた雪綱の空気が緩まる。彼の後ろに見える巻いた尻尾も、ゆっくりと揺れ始めた。
「雪綱さんは、どうですか?」
良い機会だから、お互いにもっと腹を割ってお話をしよう。
悪戯するような気持ちでが尋ねると、雪綱はふっと笑った。その仕草は、可愛い黒柴ではなく、彼が人ならざるあやかしであり、年上の異性であるという事を思い出させる、静けさが感じられた。
「……幸せ者だと、思っているよ。好いた女子(おなご)を、こうして嫁に貰えて」
好いた、女子。
その言葉に、は瞠目した。
「お前、確か最初、仲介役を通して俺達に言っただろう?」
私は、見た目に反して大人しくないとよく言われ、力仕事も動物の解体もわりと得意です。
でも、笑顔や賑やかさには、自信があります。
お淑やかではない女でもよい、という方のみ、もらって下さい。
半分冗談の交じったあの言葉に、雪綱は興味を抱いたのだと言った。
猟師という勤めにも理解してくれて、かつ免疫のある娘ならばそれだけで非常に貴重である。それにどうせだったら、そういう娘が来てくれた方が、後々も面倒ではない。その程度に思い、さてその貴重な女子はどのような人物かと、ぼんやりと期待し当日を迎えて――呆気なく、一目惚れをしたと、雪綱は笑った。
「お前は、あの場で一番、堂々としていたしな。これは他のあやかしに捕られるかもしれないと思ったものだ。まあ、そのせいで、少し急ぎ足になったが……嫁に来てくれて良かったと思うよ、本当にな」
「雪綱、さん」
「……素面で言うには臭かったな。俺のような見た目では、格好がつかないか」
雪綱は、気恥ずかしさを誤魔化すように首を掻き、忙しなく耳を揺らした。そこは堂々として良いのに、と笑いながらも、の目は熱く潤んだ。久しくこぼしていなかった涙が、歓喜となって込み上げてくる。それを指でぎゅっと拭うと、は雪綱へ向き直り。
「ねえ、雪綱さん」
「ん?」
「隣に、行ってもいい?」
彼が頷くよりも早く、は立ち上がり、雪綱の隣へ移動する。高さの合わない彼の大きな肩に、頭を傾け、こつりともたれ掛かった。
「私、雪綱さんが好きよ」
びくん、と彼の大きな身体が飛び跳ねたのが分かった。
「私と違って、落ち着いてるし、優しいし――かっこいいし」
顔を持ち上げて窺うと、彼はこれでもかと両目を見開いていた。口も半開きの状態で硬直しており、信じられないものを見たと言った風情である。
そんなにおかしな事は言っていないのに、とは笑ったが……よく考えたら彼への慕情を口にしたのはこれが初めてである。
「えっと、ちゃんと言えてなかったと思うんだけど」
「ああ」
「あの、不束者ですが、よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしく頼む」
――末永く。
熱を孕んだ雪綱の低い声は、愛おしげに、の耳を撫でた。
2018.05.03