拝啓、私の凶獣(1)

 ――瞼の裏に微かな眩しさを感じ、微睡みの中から意識が浮上してゆく。

 ゆっくりと瞼を持ち上げ、身体を起こした途端、冷たい空気が毛布の中に入り込んだ。温かく心地よい眠気が醒め、ぶるりと背中が震えた。
 今朝は、ずいぶんと冷え込んでいるようだ。
 まだ少し重たい瞼を擦りながら、はベッドから出ようとのそのそと動き始める。
 けれど、それを阻むように、毛布の中から茶色の毛皮に包まれた腕が伸び、を再び毛布の中へと引きずり込んだ。

「ちょっと、んぶ、もう」

 巻き付いた腕は、強引にを抱き込み、ふわふわの胸元へと顔を押し付ける。そして、耳元でクウクウと甘えた鳴き声を鳴らした。

「ナハト?」
「ん……」
「起きた? おはよ」
「はよ……」

 顔を起こすと、ショボショボと瞬きをしている彼の瞳があった。イタチそのものな頭部のため、そこにあるのは可愛さのみ。欠伸をすると牙や歯茎など剥き出しになり、だいぶ野性的な外見になってしまうが、慣れてしまえばそれすらもなかなか可愛いと思えてくる。

「ナハト、動けないよ~」
「もう少し……」
「頑張って起きてよ。もう、しょうがないなあ」

 温もりを求めてしがみつくイタチを、は苦笑いと共に撫でた。
 しかし、この頃はめっきりと肌寒くなった。今朝の冷え込み方は一際で、いよいよ冬が訪れたらしい。

(冬かあ。あっという間だったな)

 ――生まれ育った小さな村を離れ、傭兵都市ガルバインと繋がるこの町へやって来た。気付けば、もう二つもの季節が通り過ぎたらしい。

 本当に、あっという間だった。ここでの生活にも、ようやく慣れたと思う。の隣に、“凶獣”という通り名を付けられた獣人の傭兵――ナハトが居るという事実にも。



 絶対に手放さない――あの日、へ告げた言葉を、ナハトは違える事はなかった。
 自らが宣言した通り、共に在る事を願ったを連れ、この町へ移り住んだのだ。傭兵都市ガルバインと繋がる支部を構えた、この大きな町に。

 もともとナハトは、傭兵都市という、その名の通り傭兵達が集まり出来上がった総本山とも言うべき場所に活動拠点を置いていたらしい。自らを見つめ直す旅を終えガルバインへ帰還した彼は、身辺を整理するがてら親しい友人達と手を組み、小さな一党を結成。そしてこの町で生活する準備を整えると、を迎えにやって来た。
 その期間、わずか一、二ヶ月である。
 近年稀に見る凄まじい速さと勢いだったと、ナハトの友人達は今も口を揃えて語るが……その根幹にあったのがの存在だというのだから、恥ずかしいやら何やらである。


 かくして、ナハトに連れられてやって来たこの町だが――驚いた事に、とても平穏であった。
 暮らしていた村や隣町と比べれば、この町の方がずっと大きいけれど、長閑な雰囲気はとてもよく似ている。少ないながら各地に存在するという傭兵のギルドを置きながら、殺伐さのない穏やかな雰囲気。住人と傭兵が喧嘩をしてるわけでもなく、まして深い軋轢が生じているわけでもなく、意外な事に双方共に交流を楽しんでいるようだった。
 雰囲気としては、白花の開花時期を迎えた地元にとても近い。あの辺りも訪れる傭兵とは良好な関係を築いていたし、喧嘩が起きたとしても最終的には笑顔で締め括られていた。

「基本的にこの町は、傭兵都市の喧騒とか頻繁に起こる喧嘩とかを嫌ったり、煩わしく思ったりする連中が流れてくるからだろうね。だから当然、変ないざこざがあればここに活動拠点を置いてる奴らが真っ先にとっちめる」

 というのが、ナハトの言葉である。
 なるほど……と、は静かに面食らった。言い方は悪いが、もっと騒がしく怒鳴り声の飛び交う風景を想像してしまっていただけに、良い意味で拍子抜けした。一口に傭兵と言っても、色んな人達があり、傭兵には傭兵の実情などがあるらしい。
 この町の住人も、それを理解し、やって来る傭兵たちを快く迎え入れているようだ。騒ぎの種にもなり得る傭兵だが、彼らによって成り立つ商売と、守られる平穏というものがある。上手く付き合ってこの町は続いているのだと、町のおば様達が言っていた。
 実際、おば様の逞しさは、傭兵にまったく引けを取らず、ああこれは確かに“上手く付き合える”のだと納得したものである。

 大きな町への不満も無く、同じ屋根の下でナハトと共に過ごす日々も充実し――この町での暮らしは、の身体にも馴染みつつあった。



 朝食後、休憩も兼ねて少し前から作り始めていた生姜の蜂蜜漬けを試飲する。カップの底に蜂蜜と生姜の欠片を垂らし、白湯を注いで掻き混ぜる。そっと口に含むと、身体がぽかぽかと温かくなった。
 うん、美味しい。寒い季節は、やっぱりこれがないと。

「ふうん、人間って面白いのを考えるね。けっこう美味しい」
「そう? 良かった。あの村、冬は本当に寒くって。どの家でもこれを常備してたんだよ」

 また、蜂蜜だけでなく、地元の特産品であるあの万能な白花の蜜に漬け込んだりもした。蜂蜜よりもサラリとした甘さなので、爽やかな風味が飲みやすいと、の家でも人気だった。
 この町にやって来る際、これだけは絶対に外せないと思ったので、地下倉庫へ大量に持ち込んである。ナハトは不思議そうに首を傾げるばかりであったが、本格的な冬になったら、このありがたみを理解してくれるだろう。これがあれば、一冬、暖かくすごせるのだから。

「ナハトの故郷でも、こういう防寒対策は無かったの?」
「うちらは基本、毛皮があるからね。食べるのが変わるくらいかな」
「食べるの?」
「臓物の煮込み料理とか、血ごと入れたスープとか、鍋で大量に作るような料理が多かったかなあ」

 ……さすが、厳しい冬に見舞われる、北方の大地を生きた獣人。野生的で、実に大胆だ。

「……ナハトの冬支度も、ひと段落?」

 は腰を屈め、足元にあったものを指で摘まむ。ホロホロと落ちた、ナハトの毛の塊だ。

「ああ、ごめん。掃除してく端から落ちてくね」
「別に良いよ。獣人さん達は、毎回あるんでしょ?」

 季節の境目を迎えると起きるという、毛の生え変わり。ナハトも現在、まさに冬の毛皮へ変わろうとしているので、動くたびにホロホロと毛が落ちているのだ。

「心なしか、色が濃くなっているような気がする」

 これまではイタチらしい茶色の毛色だったが、ここ最近では、やや黒みを帯びてきたように思える。

「あと少しってところかな。僕、冬になると、けっこう見た目が変わるらしいからね」

 ナハトは、別のイタチの仲間とのハーフで、冬季にのみその外見が変わるのだそうだ。
 どんな見た目になるんだろう。今だってこんなに可愛いんだから、きっと冬は冬で、もこもこに可愛くなるんじゃないかな。
 想像が膨らみ、生え替わりの終わりがとても楽しみだ。は微笑みながら、イタチそのものなナハトの顔を両手でぱふっと挟み、ぐりぐりと頬を捏ねる。くすぐったいのか、はたまた不満を表しているのか、彼はキュウキュウと高い鳴き声を奏でた。

 ……男の人に言う言葉ではないけれど、やっぱり可愛いなあ。


◆◇◆


 日毎に町を漂う空気はつんと冷え、いよいよ冬の訪れを強く感じるようになった、ある日。ナハトに仕事の依頼が突然舞い込んだ。この町から、二つ、三つほど離れた隣町へ向かう商人の一団の、護衛依頼らしい。
 “凶獣”という呼び名が付いたナハトは人気の傭兵らしく、いわゆるお得意様がけっこう存在しているらしいが、それとは別の急遽飛び込んできた依頼のようだ。

 傭兵と言っても、その仕事内容は武器を振り回すだけでなく、旅の護衛や家の警護なんかもあり、なかなか多種多様。ナハト曰く、なんでも屋の雑用係のようなものらしい。

 二つ、三つ離れた町へ向かうとなると……往復で一週間近くは掛かるだろうか。それが短期の仕事なのか、はたまた長期の仕事なのか、にはまだ判断出来ないが大変なのだろうなとは思う。

 差し迫って戦うような場面はないだろうとナハトは言うけれど、何が起きるかは誰にも分からない。怪我だけは絶対にしないよう、は出発する直前にも強く念を押した。彼は少し呆れながら、分かっていると何度も頷く。

「もうヘマはしないようにする。大丈夫だよ。君こそ、分かってると思うけど、僕が居ない間は……」
「困った事があればナハトの友達に相談する、でしょ。大丈夫、私もちゃんと分かってる。そこまで馬鹿じゃないもの」

 心配性だね、とは笑ったが、ナハトは目の前で大きな溜め息を吐き出し、肩をがくっと落とした。

「いや、君の事だから、またのんきに変な虫を増やしていそうで……」
「ええー大丈夫だって。あと、はいこれ、一食分だけどごはん作ったよ。お腹すいたら途中で食べてね」
「うん、いや、毎回助かるけど……この溢れ出るお母さん感……」

 失礼な、まだ母親ではないのに。

 ナハトは苦笑しながらも受け取り、背負い鞄にしっかりと入れる。そして最後に、の身体を目一杯抱きしめると、首筋を柔らかく甘噛みした。小ぶりだが肉食獣である事を示す牙を肌に押し当て、名残惜しそうに小さな舌を這わせる。
 仕事で町を離れる際、決まってに施していく、彼の儀式だ。だがこのこそばゆさだけは未だに慣れず、身を捩りクスクスと笑い声がこぼれてしまう。

「ふふ、くすぐったい」
「他の野郎が、手を出さないように。もしも出したら、地の果てまで追いかけ回してやる」
「呪いの言葉みたいで怖いよー!」

 ナハトはふんと鼻を鳴らし、額をぐりぐりと擦り付けてきた。その強さに背中を仰け反らせながら、足を踏ん張らせて受け止め、彼の首を撫でる。なめらかな肌触りの、茶色の毛皮の向こうから、甘えた鳴き声が漏れ聞こえた。

 こんなに可愛いイタチなのに、付いた渾名が“凶獣”だというのだから、本当に驚きだ。

「絶対、怪我は駄目だからね。絶対に」
「分かってるよ。君のお父さんと、あの町の人達に誓って、ヘマはしない」

 そしてナハトは荷物を背負い、出発した。その足取りは、普段と変わらずとても軽い。
 だから、見送る時はいつも、不安と安心の間を何度も行き来してしまう。

 ナハトと暮らすようになり、より密接に傭兵という職業と係わるようになった。なんでも屋の雑用係だなんて彼は茶化して笑っているが、多種多様な依頼の中には戦闘行為を前提にした危険なものも存在しているのだ。そしてナハトは、その中に踏み込み、戦い抜くだけの実力を持った傭兵である。


 ――渾名付きの傭兵ってのはさ、さん。実力と認知度の証明だけじゃなくて、危険度を示す度合いでもあってさ。


 渾名を付けられる傭兵は、そう呼ばれるだけの“もの”を隠し持っていると、ナハトの友人達は教えてくれた。
 力に恵まれた獣人の中では、小柄で細身の背格好を有する、イタチの種族。一見すると無害そうな外見だが、その身体に流れる獣の血は自らよりも巨大な狼や熊にも怯まず、むしろ時に噛み殺してしまう猛獣のものであるという。
 傭兵達が鎬(しのぎ)を削り合う本拠地、ガルバインに戻ったばかりの頃は、長期間離れていたせいでかなりの同業者から侮られていたらしいが、たった一度の牽制で再び“凶獣”の脅威を知らしめたのだとか。

 ナハトがその細い外見によらずとても強く、名前負けしない人であるという真実は、こそがよく理解している。盗賊騒ぎのあった町村を、たった一夜のうちに、たった一人で、救ってみせたのだから。

 心配なんて、彼には本当に必要ないのかもしれないけれど。


 ――でも今じゃ、わりと真っ当な依頼を取るようになったんだ。さんのおかげだな。

 ――今までの生活が異常過ぎたんだけど……ようやく、気を張らないで休める場所が、あいつに見つかったんだな。


 “凶獣”と呼ばれる強い彼が、その名前から離れて寛げる場所が、私の側にあるのなら。
 色眼鏡で彼を見ずに接して、しつこいくらいに心配して、怪我なんかした日にはビンタして叱ってやろうと決めている。

「無事に、きちんと、帰ってきますように」

 それが私に出来る、唯一の事なのだ。



大切な部分をいきなり色々吹っ飛ばし、二人が一緒に暮らすようになったその後。
季節はついに“冬”になったようです。


2019.01.02