01

 五歳の時、生まれたてで目も開いていない子犬な彼を、抱っこした事を朧気に覚えている。

 十歳の時には、気付けばほぼ毎日後ろに引っ付き、無邪気に懐いてくれる彼を実の弟のように可愛がった。

 十五歳になり、思春期を迎えたという事もあって、彼との距離を少し意識するようになった。だが、彼はギャンギャンと泣いて寂しがり、余計にくっ付いて回るようになってしまった。
 五つ年下とはいえ、当時すでに獣人らしくスクスクと成長しつつある男が、だ。

 思い返してみると、微笑ましい幼少時代だったと言えよう。可愛らしい獣人の弟分は、日常のほとんどに存在していた。今もそれは変わらず、幼馴染みであり、可愛い弟分だと、はっきり言える。
 だからこそ、あえて厳しく接した場面もあった。いつまでも姉貴分の後ろについて回らず、獣人らしく立派な強い男になれと、女を追いかけず追いかけられるような男になりたまえ、と。

 彼は、パアッと明るい表情をし「分かった!」と頷いていた。よしよし、これで姉離れも出来るだろうと、安心しきっていたのだが……。


ちゃん!」

 ――二十三歳となった、現在。
 相も変わらず、弟分に後ろを追いかけられている。
 抱っこしてあげられた記憶など、もはやとうの昔。健やかな成長期を迎え、身長をグングン抜き去り、すっかり巨大化したドでかいワンコ――犬獣人カイル、十八歳の男に。


「今日は街中の見回りで、乱闘騒ぎを起こしていた男を何人か捕まえてきたよ!」
「そうなんだ」
「うんそう! すごいだろ」
「はいはい、すごいすごい」

 ぶんぶん、ぶんぶん。横に揺れるというより、もはや激しく回転している尻尾が、風を巻き起こす。あまりにも分かりやすい上機嫌なその様子を、は呆れながらも笑ってしまった。
 頭二つ分は伸びた上背で、身体つきも細身ながらしっかりとし、獣人という種族らしい逞しさに溢れているのに。
 警邏部隊の隊服の上に乗っかった犬のお顔は、このニコニコの満面の笑顔。
 ご主人様から褒められたくて仕方ない、可愛さ爆発のワンコそのものだ。まったく、それだけは昔から変わらない。

(こんな可愛いワンコが、町を守る警邏部隊の一人とは)

 やだ、ちゃんといっしょにいる――そんな事を毎日言ってはピーピー泣いていたほぼ子犬な獣人の男の子は、今や町の治安と外の安全確保の任を請け負う警邏部隊所属。膂力と身体能力に極めて優れた持ち前の獣人の特性を、日々発揮し活躍している。
 かつてが、追いかけるのではなく追いかけられるような強い男になりたまえ、と適当に発破をかけた言葉を、馬鹿正直に真に受けた結果である。
 とんでもない行動力で警邏部隊に速攻入隊した彼は、これまた稀に見る速さで雑用から一人前の隊員へ昇級したという。警邏部隊には、他にもゴロゴロと屈強な男達が居ただろうに、十八歳で既に頭角を現すとは、素直に恐れ入る。きっと、獣人という種族の能力や犬という種の特性だけでなく、カイル本人の才気があったからに違いない。

 また、その陽気な性格と人となりの良さから、町の子ども達に人気なお兄ちゃんとなった。当然、女の子達からもたいそう人気があるらしい。

 鼻高々な出来た弟分なのに、カイルときたら……相変わらず、によく懐き、その後ろを追いかけてくる。別にそれが嫌という訳ではないのだが、おかげで女子達はカイルに恋する十秒前で諦め去ってしまっている。果たして、これで良いのだろうか。

 悪者を捕まえてきた時も。野盗の一団が流れてきて一晩戦ってきた時も。血塗れの恰好のまま家にやって来た時も。
 ちゃんの言う通りに頑張ってきた! 褒めて!
 という感情が、あまりにも分かりやすく透けて見えた。せっかく、格好よくなって女の子達から評判になっているというのに。


 ――そして今も、カイルは目の前で満面の笑顔を咲かせ、褒めて褒めてと瞳を輝かせている。

ちゃん、俺、強くなっただろ」

 人目は気にせず尻尾を振るカイルには、往来を行く人々から微笑ましい温かな笑顔を向けられている。無論、に対しても、だ。
 カイル……そういうところだぞ。お姉ちゃんが心配しているのは。
 なんて思いながらも、は彼をすごいすごいと褒めてしまう。長年染み付いた癖が抜けないのは、も同様であった。カイルの毛足の長い豊かな尻尾は、ますます勢いづき高速回転している。

「あー……ところで、カイル」
「何?」
「同僚の人達に、迷惑をかけていない?」
「かけてないよ!」
「本当? こないだおばさんが『カイルったらまた隊長に叱られてねえ』なんて言っていたわ」

 回転するように横に揺れていた長い尻尾が、急に勢いを失い、ぺたんと下がる。顔を覆い「母さん……!」と呟いていた。見た目こそ長身の凛々しい犬獣人だが、やはり可愛い弟である。

「まあ落ち着いて、しっかりやんなよ。じゃないと、私がお菓子を持って挨拶回りしちゃうわよ?」
「――絶対に駄目だ!」

 カイルは前のめり気味に叫んだ。
 真正面から浴びせられたは、一瞬、呆気に囚われてしまう。

「駄目だからな。ちゃんは、絶対に、来たら駄目だ!」
「……冗談よ。そこまで厚かましい事しないわよ」

 ほとんど冗談の言葉ではあったが、予想外に強い否定を返され、の心の片隅にはわだかまりが残った。

「だって、ちゃんと隊長は、会わせたくないんだ」
「え、隊長? なにそれ? なんでよ」

 カイルの所属する部隊の隊長の事を指しているのだろう。腕っ節の強い獣人という事くらいしか知らないのに、会わせたくないとは、可笑しな事を言う。
 そうが笑った瞬間、目の前に佇む犬獣人の両目が、いやに真剣な静けさを帯びた。
 あ、まずい。これは――。
 は人知れず、ぎくりと肩を揺らした。

「俺は、ちゃんが好きだから」

 明るくて人懐っこい声が、急に大人びた声音へ変わる。ゆっくりと紡がれた好意の言葉は、真っ直ぐとに届いた。

 子どもの頃から共に過ごした可愛い弟は、昔からよくそう言ってくれたが――それがもはや違う意味を伴っているという事は、とて、すでに気付いている。

「カイル……」

 濡れた黒い鼻と、すっと伸びた鼻筋。凛々しい面立ちにある二つの黒い瞳は優しげな形をし、先端が少し垂れた三角の耳はピンッと立っている。白と黒の毛皮は長く豊かで、こうして見ると優雅ともいえる佇まいをしている。
 立派な、犬獣人の青年だ。
 の身長を抜き去ったカイルは、頭上からじっと、眼差しを注いでいる。それは何か、切実と言葉を待っているようにも見えた――。


「あら、カイル君! こんにちは」


 背後から響いたの母の声が、カイルとの間に割って入った。
 がビクッと肩を震わせたその時には、既にカイルは普段の朗らかな空気を纏い、の母へとつぶらな瞳を向けていた。

「おばさん、こんにちは。買い物だったの?」
「ええ、そう。と一緒にね。カイル君、これから警邏の仕事?」
「ああ。おっと、そろそろ戻らないと。それじゃあね、おばさん、ちゃん」

 カイルはにっこりと笑うと、手を振り、颯爽と駆け出した。昔から足の速い彼は、あっという間に通りの彼方へ消えてしまった。

「カイル君、すっかり警邏部隊の一員ねえ」

 まるで自らの子どもの成長を喜ぶように、母はほくほくと微笑んでいる。

「昔から足が速い子だったけど、今じゃその足が頼りにされているらしいわよ。伝達役だとか何とか、頑張っているみたい。凄いわねえ」
「そうだね」

 素っ気ない声で返すと、母は僅かに顔を顰めた。

「……ねえ、あんた、カイル君の何が嫌いなの?」

 あんなに好いてくれているのに。
 そんな言葉が、言外で聞こえた気がした。

「嫌いなわけ、ないじゃない」

 は小さく呟き、母が抱えていた荷物を半物ほど受け取った。

「昔からずっと一緒だったんだから。嫌いになんて、なるわけない」

 なるわけがないのだ。
 むしろ、その逆である。

 可愛い、可愛い、五歳年下の弟分。コロコロした子犬の時も、長身で四肢もすんなり伸びた成犬になった今も、一度でも嫌いになった事などない。
 ただ……。

「十八歳だよ。カイルは」

 もう、十八歳に、なったのだ。
 とりわけ獣人族は、身体の成長が目覚ましく、十五歳にもなればほとんど大人と変わらない。古くから人間と共に暮らしてきた犬獣人らしく、人懐っこく明るく、穏やかな気質で、そして人間などよりも遥かに強靭で膂力に恵まれ……――。

 人間の、それも女であるは、力も背丈もとっくの昔に追い越されている。もうカイルは――敵いっこない存在なのだ。

「獣人の女の子は、私よりも力も強いし、それに……たくさんいる」

 この広い町には、他にもたくさんの獣人が暮らしているのだ。カイルによく似合う、素敵な女の子も絶対にいるだろう。
 私は、小さい頃からの姉貴分だが、たったそれだけで邪魔をするような存在にはなりたくない。
 荷物を抱え歩き出したの後ろで、母の溜め息が聞こえる。

「あんまり、捻くれた物言いばかりしちゃいけないよ。人の心を悪戯に傷つけるのも、ね」

 母の言葉が、心の中でズンッと重みを増す。
 分かっている。本当に、そう思う。
 実の姉のように慕ってくれた愛情が、歳月と共にもっと別の愛情へ色が変わったと、すでに知っているくせに。事あるごとに真っ直ぐと向けられる彼の心を、否定する事も、受け入れる事もせず、曖昧に聞き流している。

 こんな残酷な、臆病な年上の女など、なおさらカイルには相応しくないのだ――。



■犬獣人×人間娘

さくっと読める短編風味な読み物です。
ヒーローは、我が家でお馴染み【全身フル毛皮な獣頭の獣人】となっております。
あらかじめご了承下さりますよう。


2021.04.04