02

 それは、ごく当たり前の日常における、買い出しの途中で起きた事だった。
 白と黒の二色の毛皮を持つ、三角耳の犬獣人――見慣れたカイルの後ろ姿を、前方に見つけた。また爆速で駆け寄ってくる、なんてが思ったのは束の間だ。遠目で見ても分かるほど、カイルはふらふらと蛇行する歩き方をしていた。

「……カイル?」

 身体の軸はふらふらと左右に揺れ、しまいには建物の外壁に手をつく始末だ。は小走りで駆け出し、その背に声を掛けた。

「カイル!」
「……ッ?! 、ちゃん」

 大きな肩が、あからさまに飛び跳ねた。肩越しに振り返った犬の顔には、らしくもない強張りが見えた。まるで、今しがたの存在に気付いたような、そんな狼狽とも取れる。

「ちょっと、どうしたのよ。ふらふらしてるわよ、あんた」

 近付いた事で、彼の常と異なる様子がはっきりと読み取れた。覚束ない足取りをし、目の動きも、身体の動作も、総じて気怠さに満ち、泥のように重い。そしてなにより、長い尻尾が、垂れ下がったままピクリともしない。
 何処か、身体を悪くしたのだろうか。まだまだ下っ端とはいえ、町の治安を守る警邏隊の隊員がそのような状態にあるのは、良いか悪いかといえば間違いなく後者である。

「……具合、悪いの? 怪我でもした?」
「……平気だよ」
「平気って」

 へらり、と彼は笑うが、あまりにも弱々しい。これの何処か平気なのか。

「下手な嘘なんてつかなくてもいいでしょ。息も荒いし、風邪か何かでも引いたの?」

 思うところはあれども、カイルは可愛い弟分。これまでもそうしたように、は何気なく腕を伸ばす。苦しげな様相を浮かべる、白と黒のツートンカラーな犬の顔が、さらに苦悶を強めた。そして次の瞬間、額に触れようとしたの手を、ばしりと弾いた。
 賑やかな町の通りの空気が、とカイルの周囲でのみ凍り付いたようだった。思わぬ音と、微かな痛みを残したその行動に、何よりも驚いていたのは――であった。

「カイル?」

 フーッ、フーッ、と先ほどにも増して息を乱し、肩を上下させる。けれど、潤む両目には、に対する自責と謝意が入り混じり浮かんでいた。

「ごめ……でも、本当に、大丈夫だから」
「カイル、ちょっと」
「訓練で張り切り過ぎたせいかな。ちょっと休めば、元通りだから」

 呼び止めるへ、カイルは下手な笑みを向ける。これ以上は近付いてくれるなという感情が、そこに滲んでいるような気がした。

「いつもの事だから……ちゃんは、気にしないでいて」

 これから任務だから、もう行くね、じゃあね。掠れた声でもってとの会話を切り上げたカイルは、相変わらずふらふらした足取りのまま、建物の角を曲がって消えてしまった。

 一度も、見なかった。
 カイルの目は、の姿を、一度も見ようとしなかった。

 の心には、手を弾かれた事よりも、その事実の方が何よりも堪えた。真っ直ぐと向けられてきた彼の好意に、気付かないフリをし、真剣に取り合おうとせず、傷つけるばかりの残酷さを重ねてきたのはの方であったくせに。

「……なによ、いつもの事って」

 ――そして、カイルの姿を見たのは、それが最後だった。
 その日以降、あの明るく人懐っこい、白と黒のツートンカラーな犬獣人の姿を、街中で見かける事が無くなった。無論、のもとへ、尻尾を振り駆け寄ってくる事も――。


◆◇◆


 人から伝え聞いた話では、警邏隊は毎日のように町の内外の巡回を行っているものの、数日に跨ぐ遠征など今現在では行っていないらしい。
 突然姿は見えなくなってしまったが、町の何処かにはいるのだろう。ただ、が目撃出来ていないだけで。

 体調不良で任務に当たって、倒れてしまったかもしれないな。昔から妙に意固地で無理を通す節があるから。
 同僚に迷惑を掛けなければ、それでいい。ああ、関係ないのだから。

「――心配するくらいなら、つっけんどんな態度しなければいいのに」

 まったくこの子は、と溜め息をつく母の言葉が、ぐさりと頭に突き刺さるようだ。
 つくづくその通りだと、は痛感する。姉離れしろなんて言っておきながら、弟離れ出来ていないのは、の方である。
 結局、心配のあまり、カイルの両親に話を聞きに走ってしまう始末だった。

 カイルが赤ん坊時代からの付き合いのため、もはや第二の家族と呼んでも過言ではない、カイルとよく似た犬獣人の夫妻は、尋ねに行ったを実娘のように迎えてくれた。けれど、の問いかけに対しては、ただただ微笑むばかりだった。唯一、彼らがへ掛けてくれた言葉は「ちゃんが許してくれるのなら、会いに行ってやってね」という、真意の読み取れない短い言葉だけだった。

 許してくれるのなら? 一体、私が、何を許すというのだろう。
 許されるべきは、いつだって私だったはずだ。

 けれどカイルの両親は、やはり、答えを教えてはくれなかった。



(――ちゃん! ちゃん!)

 ヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃から、すっかり獣人らしい立派な身体つきになった青年へ成長した現在まで、の身辺にはカイルの姿が必ず在った。
 の後ろをついて離れようせず、遠ざけようとしても懲りずに追いかけてきた、あの底抜けに明るい声が聞こえないのは――こんなにも味気なく、日常は色を失うのか。
 思い知らされたの唇からは、溜め息ばかりがこぼれた。



 カイルの姿が見えなくなり、気付けば一週間が経っていた。
 その晩、のもとに来訪者があった。カイルの同僚だという、人身獣頭の獣人の男性だった。カイルと同じ制服で身を包み、その腕には警邏隊所属を示す腕章が付けられている。
 警邏隊の、同僚。つまり、仕事仲間だ。
 のもとにわざわざ訪ねてきたのは、これが初めての事であった。頼れる上司や、気心の知れた同僚などの話は、にも頻繁に聞かせてくれたが……。

「ご連絡もなく、突然の訪問となり申し訳ありません。貴女が、さんでよろしかったでしょうか」
「えっと、はい、そうですが」
「そうですか、良かった……」

 ほんの一瞬、安堵したような溜め息をこぼした後、彼はを真っ直ぐと見下ろし告げた。

「カイルの調子が、すこぶる悪い。どうか、会いにきてくれませんか」



 病気に罹ってしまったのか。
 それとも、何処か怪我をしてしまったのか。
 あいつは昔から、元気があり余った末に怪我を作るタイプの子どもだったから。

 自宅を出る時はさすがのも気が動転していたが、同僚だという獣人の男性に先導される間に、いくらか落ち着いてきた。必死に冷静を装っているだけで、頭の中はカイルの安否で飽和しているような状態だが……。

(前に会った時、すこぶる調子が悪そうだった。きっとあれから悪くなったんだわ)

 何が平気だ、耳を引っ張って診療所に連行すれば良かった。見逃してしまったの責任だ。
 だが……わざわざを名指しで指名する、というところが解せない。ここはまずカイルの両親だと思うのだけれど、呼び出されたのはどうやらのみであるらしい。
 一人呼び出された理由も、カイルの体調不良の理由も、全て明かされないまま、は町の一角に構える警邏部隊の本部へ到着した。

 夜を迎え明かりが灯された建物の景観は、普段よりも奇妙な威圧感を感じる。治安維持に勤める組織のため、敷地内にはおいそれと踏み入れられず、こうしてが訪れるのは初めてであるからだろうか。
 制服を着た隊員達とすれ違いながら、さらには案内を受け、敷地内の奥へと進む。何処となく薄暗く、人の気配や話し声も少ない。これは単なる見舞いではないのだと、はこの時ようやく理解した。

「こちらへどうぞ。隊長がお待ちです」

 え、たい、隊長?!
 全く予想外の人物と引き合わされる事になり、は狼狽する。とはいえ逃げ出せる雰囲気でもないので、否とは言わず応じるしかない。は全身に緊張を感じながら、意を決し案内された建物へと入る。
 その先で、待っていたのは――。

「お初にお目に掛かる、殿。カイルの直属の上司に当たる者だ」

 体格も立派で、上背もある、大柄の虎獣人の男性だった。
 はその姿を視界に納め、なるほどカイルが会わせたくないと駄々をこねた理由はこれかと、静かに察知した。

 は、犬も好きだが、猫も好きだ。

 縞模様が実に勇壮な、凛々しい虎のお顔。差し出された手のひらは超特大で、肉球も立派だ。普段ならばもギラギラと見てしまうところだが、状況が状況のため、浮かれる事はなかった。隊長と名乗る虎獣人の彼の手のひらを握り返し、勢い込んで言葉を放つ。

「あの、私が呼ばれたのは。カイルは、どうかしたんですか」
「その事なんだが……貴女は、カイルの恋人、あるいは将来を誓った関係だと思って良いか」

 ……はい?

「え、こいびと……え? い、いいえ、姉のようなもの、ですけど……」

 すると、虎獣人の男性は、不思議そうに首を傾げる。

「ふむ……? 普段からあいつは、姉貴面をする年上の幼馴染みがいると、よく話していたものだから」

 カイル……この野郎……。
 脳裏に過ぎった、先端が折れた三角耳の、ツートンカラーの巨大ワンコに、は静かな怒りを向けた。

「だが、なるほど……。あれにとって、貴女は姉ではなく、大切な存在だったという事か。譫言で、名を呟くほどに」
「う、譫言って……待って下さい。カイルは、ど、どうしたんですか」

 容態が気に掛かり、の声は震えた。さては大変な大怪我をと狼狽しきるとは正反対に、目の前の虎獣人はというと鷹揚に構えている。

「なに、獣人という種族の、付いて回る本能と言おうか。特に珍しくもない、ただの発情期だ」

 ――はつじょうき?

 告げられた言葉の予期せぬ威力に、の頭の中は一瞬、真っ白になった。
 はつじょうき……発情期?
 え、動物たちによく聞く、あの発情期?

「獣人の方々にも……あるんですか」
「おや、知らなかったのかな。獣人にもそういう時期はあるのだよ」

 知らなかった。齢二十を超えていながら。その種族の生まれの人が、幼い頃からずっと近くにあったというのに、全く聞かなかった。
 の無知を、隊長である虎獣人の男性は非難せず、落ち着いた低い声で続けた。

「獣人には往々にしてある性質だ。さして珍しくもない。だが、あいつの場合は……少々、厄介だったらしい。だが、姉上として来られたのなら、これはけして楽しい話ではないな」

 虎獣人の男性は、大きな手で顎をひと撫でし考え込む。は少しの間呆けていたが、詰め寄るように彼を見上げた。

「――聞かせて下さい。構わないから」

 真っ直ぐと射抜くの両目に、虎獣人は静かに頷いた。

 彼が言うには、獣人という種族は、一定の年齢を超えると発情期というものが男女共に訪れる。
 人間の少年少女が迎える成長と同じ意味合いだろう。
 その発情期は、文字通り、性的欲求と子孫を残す本性が最も高まる時期らしい。春先が多いものの、一概には言えず、年に一度だけ訪れる者もいれば、年に数度訪れる者もいる。
 そんな発情期だが、カイルの場合はというと――ほぼ毎月訪れていた。
 さすがにそれは獣人の中でも稀に見る事象で、本人も振り回され悩まされていた。そして今回、いよいよ職務だけでなく日常生活にも異常をきたし始め、倒れてしまったという。

「……前から?」

 毎月あったなんて、知らなかった。カイルが子犬の頃から過ごしてきて、変わったのは図体ばかりだったかと思うほど、彼はそのような兆しを僅か少しも見せなかった。
 困惑するへ、虎獣人は「隠していたのだろう」と、酷く静かな声で告げた。

「貴女には、けっして、おくびにも出さず」

 ああ、とは小さく声をこぼす。
 が信頼されていないから、などという理由ではない事くらい理解出来た。
 押し倒し、子を孕ませたい衝動など、言えるものではないだろう。まして、身近な存在であった、には。

「……どれくらい、前から」
「私が知る限りでは、少なくとも、警邏隊に加わった時にはもう」

 警邏隊に加わった……カイルが十五歳を迎えた時。つまり、もう、三年も前からか。本当に、よく隠し通したものだ。

「これまでは薬で抑えてきたが、今回ばかりは効きが悪くてな。常飲し過ぎた弊害だろう」
「……カイルは、どう、なっているんですか」

 薬の常飲。ついに倒れた。そして、わざわざが呼ばれた。
 嫌な予感が強くなる。一週間前から姿を見せなくなってしまったカイルは今、どうなってしまったというのだろう。

「……見てみたいと、本当にそう思うかね?」

 の面持ちに、緊張が張り付く。それをじっと見下ろす虎獣人の眼差しは、鋭く、を真っ直ぐと射抜く。

「――取り乱さず、向き合える覚悟があるのなら」



2021.04.04